ミスタードーナツ
一九八七年二月、高校三年生だった僕は、卒業までの残された時間をただ消化するように過ごしていた。
春からは、京成電鉄の国府台駅のすぐ近くにある千葉商科大学に進学することが決まっていた。
そこに通うべき特別な目的があったわけでも、情熱があったわけでもない。
ただなんとなく、大学くらいは出ておいたほうが後々都合がいいだろうという、実に短絡的な考えによるものだった。
本音を言えば、「日東駒専」あたりの中堅大学に籍を置きたいと願っていた。
しかし、第一志望として臨んだ専修大学の入試には、あっさりと撥ねつけられた。
千葉商科大学は、自分の学力を照らし合わせればまず間違いなく受かるだろうという、いわゆる滑り止めとして受験した場所だった。
僕はそれほど不満だったわけではないが、かといって満足していたわけでもなかった。
僕はただ、決められたレールの上を、冬の終わりのぼんやりとした光の中で、歩き続けていただけだった。
ある日、仲の良かった同級生が「一緒にアルバイトを始めないか」と僕を誘った。
僕たちは当時創刊されたばかりの『フロム・エー』という求人雑誌を捲り、ミスタードーナツの募集広告を見つけ出した。
電話で面接の約束を取り付け、僕たちは連れ立ってその店へと向かった。
実を言うと、それまでの人生で僕は一度もミスタードーナツに入ったことがなかった。
店舗に入ると、そこには巨大なガラスのショーケースが置いてあり、色とりどりな形状のドーナツが何種類も並べられていた。
ショーケースの奥には洒落たカウンター席が並び、その奥には温かみのある木製のテーブルと椅子が、何席か置かれていた。
それまで僕が抱いていた「ハンバーガー・ショップ」の、あのプラスチック的なイメージとは違い、落ち着いた内装だった。
店内のBGMには、ザ・ビーチ・ボーイズなどのオールディーズが流れており、それがお店の持つ少し古風でアメリカンな雰囲気と調和していた。
カウンターの中にいた女性スタッフに面接の件を告げると、彼女は僕たちを店舗の一番奥にある「スタッフ専用」と記された扉へと案内してくれた。
その扉の向こう側には、表の穏やかな空気とは隔絶された、別の世界が広がっていた。
そこは厨房になっており、所狭しと業務用の巨大な冷蔵庫や専用のフライヤー、それに無機質なオーブンが、まるで工場のように配置されていた。
数人のスタッフが忙しそうに、粉の状態から一つひとつドーナツを形作っていた。
甘く、逃げ場のないほど濃密な匂いが、部屋の隅々にまで漂っていた。
事務所はその厨房のさらに奥にある倉庫の一角にポツンとあった。
僕たちは倉庫に置かれたパイプ椅子に腰かけ、面接を受けた。
店長のオザワさんは、四十歳前後の、どこか事務的な響きを持つ声をした男性だった。
僕たちはあらかじめ用意してきた履歴書を差し出し、彼はそれを手際よく改めた。
採用はあっけないほどスムーズに、何かの事務手続きのように決まった。
店長から受けた仕事内容の説明は、驚くほどシステマチックなものだった。
あらゆる動作、あらゆる工程がミスタードーナツ本部によって作成されたマニュアルによって規定されており、僕たちはその中から新人アルバイトが覚えるべき最低限の項目が記された数枚の紙を渡された。
「次の週から来られるかな?」と店長は言った。
僕たちは頷き、そのマニュアルを抱えて店を出た。
僕たちのミスタードーナツでのアルバイトが始まった。
といっても、僕と同級生の彼が同じ時間帯にシフトに入ることは一度もなかった。
仕事の要領も掴めていない新人を二人同時に投入するのは、店舗の業務効率という観点からすれば、あまりに非合理的なことだったからだ。
勤務は「ナイト」と呼ばれる夜勤で、夜の八時から翌朝の八時までという、時計の針をちょうど半周させるような長丁場だった。
店は深夜の十二時まで営業しており、閉店後は店内の清掃や明日のための準備に追われた。
一時間ほどですべての作業を終えると、早朝七時の開店までは、ある種の空白のような休憩時間が僕たちに与えられた。
そして深夜一時、僕たちアルバイトスタッフだけの密やかな「小さなパーティー」が幕を開けた。
閉店時間が近づくと、その日にシフトに入っていない連中までもがどこからともなく集まり、多いときには十人ほどの顔ぶれになることもあった。
僕たちは売れ残ったドーナツやパイをテーブルに並べ、自販機の缶コーラを喉に流し込んだ。
そうして、夜が明けるまでとりとめのない、どうでもいいような話を延々と続けた。
しかし、午前三時を回る頃には誰の身体も限界を迎え、客席の椅子の上や、あるいは倉庫の床に段ボールを敷き、泥のような深い仮眠を貪ることになった。
このアルバイトで最初に親しくなったのは、一つ年上のキノシタさんだった。
彼はとても面倒見の良い性格で、右も左もわからない新人アルバイトの僕に、仕事の手順をひとつひとつ丁寧に叩き込んでくれた。
ある夜、いつものように僕たちの「小さなパーティー」の最中にとりとめもない話をしていたら、意外な事実が判明した。
彼もまた、この春から千葉商科大学に入学することになっていたのだ。
僕はそれを、どこか暗示的で面白い偶然だと感じた。
大学という新しい門を潜る前に、僕たちはドーナツの甘い匂いに囲まれた深夜の店内で、既にこうして出会ってしまっていたわけだ。
その日を境に、僕たちはそれまで以上に多くの言葉を交わすようになった。




