第四話 刃傷前夜
元禄十四年三月十三日、午後。
芝・増上寺の境内は、ただならぬ空気に包まれていた。
人々が行き交い、声が重なり合う。
「片岡殿、山王から十枚、手配出来ました。」
「築地はどうだ。」
「赤坂に人を走らせております。」
畳、障子、調度のひとつひとつ。
どれもが、“勅使饗応”という大仕事の成否を分ける。
この年、播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は、
朝廷より下向する勅使の饗応役を、伊達左京亮宗春と共に命ぜられていた。
三月十五日――
勅使は増上寺を参詣する予定である。
十三日。
赤穂藩江戸家老・安井彦右衛門らを中心に、家臣らは、朝から寺内を奔走していた。
「――吉良上野介様がいらっしゃいました。」
一瞬、空気が張り詰めた。
高家筆頭・吉良上野介吉央。
饗応の一切を取り仕切っている。
「吉良様がお見えだ。片岡殿、殿をお呼びせよ。」
「はっ。」
ほどなくして、浅野内匠頭が姿を現した。
「これは吉良様。」
「……さて、準備の方は万端かな。」
吉良は答えを待たず、広間をぐるりと一巡りした。
畳を見、柱を見、その視線が、ぴたりと床に止まる。
「浅野殿。」
「は。」「この畳……死んでおるな。」
内匠頭の眉が、わずかに動いた。
「吉良様。正月に新調したばかりのものにて、これでよろしいと、先日お言葉を頂いておりますが……。」
吉良は、扇を指先で軽く叩いた。
「――はて。」
その一言が、この日の増上寺に、不穏な影を落とした。
「何をおっしゃる、浅野殿。たとえ正月に替えていたとしても、畳というものは日々歩けば汚れもするし、古くもなる。」
吉良は畳の縁に視線を落としたまま、ゆっくりと言った。
「まさか、このようなものの上へ、勅使をお迎えするおつもりではありますまいな。」
「……では、どうすれば、よろしいのでしょうか。」
浅野の声は、かすかに震えていた。
「すぐに、すべて取り替えるのです。」
「……すべて、ですか。」
「左様。明朝までに。」
「それは……吉良殿、とても間に合いませぬ。」
吉良はようやく浅野を見た。その目には、助ける意思も、怒りもない。
「これはこれは。浅野殿らしからぬお言葉。」
扇を閉じ、ぱち、と掌に打つ。
「聞くところによれば、質素倹約に励み、財もあり、優れた家臣殿それ揃っておるとか。」
「……。」
「であれば、出来ぬはずがないでしょう。」
吉良は踵を返し、歩き出しながら言った。
「では――明朝、また参ります。」
「吉良殿、お待ちください……。」
衣ずれの音だけを残して、吉良は広間を去っていった。
あとに残されたのは、立ち尽くす浅野内匠頭と、顔色を失った家臣たち。
「今宵のうちに、すべての畳を……?」
「江戸中を探しても、数は知れておるぞ。」
安井彦右衛門が歯噛みする。
「片岡殿、どうする。」
「……出来ることは一つ。手分けして、当たれるだけ当たるしかない。」
「いったい畳が何枚必要だというのか……。」
その時、片岡源五右衛門の脇に控えていた若者がおもむろに口を開いた。
瀬尾新之助である。
「……全てではありませぬ。」
一同が新之助の方を見る。
新之助は、広間の畳に視線を走らせた。
「替えるべきは上段と導線のみ。奥の間であれば、返して使えます。」
驚く家臣たち。
「確かに、そうだ。それならばだいぶ少なくて済む。」
「でかしたぞ、新之助。」
「片岡様、私は畳職人の子でございます。少しはお役に立てるかと思います。」
「なるほど、分かった。貴様もすぐに畳屋を回って、畳を手配してまいれ。」
「はっ。」
夜の江戸は、思いのほか冷たかった。
新之助は走った。
日本橋、芝、深川――
灯りの消えた店、戸を閉ざした工房。
「急ぎの御用か。」
「申し訳ありません。今宵のうちに畳を……。」
返ってくるのは決まって同じ言葉だった。
「無理だ。」
「数が足りぬ。」
「人が動かん。」
両国の畳屋で、最後の望みも断たれたとき、
新之助は橋のたもとで立ち尽くした。
――ここまでか。
唇を噛みしめた、その時。
「……そなた、新之助ではないか?」
振り返ると、一人の若者が立っていた。
夜目にも凛々しい顔立ち、
羽織の袖には、二つ引両の紋。
「左兵衛様……。」
「やはり新之助か。どうした浮かぬ顔をして。」
それは吉良左兵衛であった。
事情を聞くと、左兵衛はしばし黙り、
やがて低く、吐き捨てるように言った。
「――父上は、またやったか。」
新之助は言葉を選んだが、左兵衛はそれを制した。
「いい。聞かずとも分かる。あの人は、そういう人だ。」
拳を握り締める。
「だが……国に恥をかかせるやり方ではない。あれでは、誰かが壊れる。」
そして、はっと顔を上げた。
「そうだ。今、尾張藩の畳奉行が江戸におる。」
「尾張の……?」
「朝日文左衛門。父とは違う。話の分かる男だ。」
朝日文左衛門重章は左兵衛から事情を聞くと、即座に動いた。
「事情は分かった。これは、赤穂だけの問題ではない。」
夜半、使いが走り、職人たちが集まり始める。
「十枚なら、うちで。」
「いや、五枚なら何とか。」
畳が、畳が、畳が――
人の手から人の手へと集まっていく。
増上寺境内は篝火が焚かれ、昼間のような賑わいを見せていた。
やがて、東の空が白み始めた。
新之助は、ようやく息をついた。
「これで……間に合う。」
夜明け前、新之助は松坂町の吉良邸を訪ねた。
門を通され、薄暗い広間に通されると、
ひとりの老人がそっと姿を現した。
「……おや。」
細い目が、ぬらりと光った。
「これは、これは……赤穂の若者か。」
吉良上野介吉央であった。
顔には笑みが貼り付いているが、その視線は礼を受ける者のそれではない。
上から、
横から、
まるで品定めをするかのように、
じろり、と新之助の顔から身体へと流れる。
「近う寄れ。」
声は妙に柔らかかった。
新之助が一歩進むと、上野介は満足そうにうなずいた。
「ほう……噂に違わぬな。顔立ちも、背の伸び具合も、悪くない。」
指先で、新之助の袖口から手首へとなぞるように触れる。
「近頃の若者は、軟な者だらけでいかんと思っておったが……。そなたは、目が澄んでおる。」
新之助は背筋に、ひやりとしたものを覚えた。
――この視線は、
増上寺で人をいたぶる男のそれとは、まるで違う。
「畳の件、左兵衛から聞いた。なかなかに機転の利く働きであったそうじゃな。」
にっと、口元が歪む。
「その才、赤穂だけに埋もれさせるのは惜しい。
……江戸に来ることがあれば、また顔を見せよ。」
呼吸の音までが、粘りつくように耳元に届く。
「若いというのは--それだけで、価値があるのだ。」
新之助は思わず、目を伏せた。
「……お褒めに預かり、恐悦至極に存じます。」
一礼し、速やかに退いた。
背後で、上野介の含み笑いが聞こえた。
門を出た瞬間、
新之助は無意識に肩で息をした。
――あの人は、
ただの意地の悪い老人ではない。
増上寺で見せた冷酷な策謀家。
そして今、若者を値踏みするような眼差し。
「……左兵衛様は、こんな父を、毎日見ておられるのか。」
その胸に、言いようのない不安が沈殿する。
翌朝。
畳はすべて替えられ、
増上寺は何事もなかったかのように整えられていた。
浅野内匠頭は、新之助に声をかけた。
「……よくやってくれた。
そなたの働き、決して忘れぬ。」
その言葉に、新之助は深く頭を下げた。
しかし――
この安堵は、ほんの一時に過ぎない。
元禄十四年三月十四日。
運命の時が、静かに近づいていた。
元禄十五年十二月十四日――夜。
新之助は、ひとり、芝の辻に立っていた。
新之助は、視線を落とした。
あの夜、
増上寺の広間で見た主君の横顔が、胸に浮かぶ。
畳の縁を見つめ、言葉を探し、声を震わせながらも、
決して頭を下げなかった人――浅野内匠頭長矩。
「……殿は、弱い方ではなかった。」
それを、誰よりも知っているのは、あの場に立っていた者たちだ。
殿は、曲げなかった。
新之助は踵を返し、白い道を歩き出した。
雪の上に残る足跡は、やがて消える。
だが、消してはならぬものがあ
新之助は、義士たちの後を追った――
泉岳寺へ。
「白き夜の義~真説・忠臣蔵~」お読みいただきありがとうございます。
子供の頃から大好きだった「忠臣蔵」の物語を、今の時代に蘇らせたい。
そういう想いから生まれたのが「白き夜の義」である。
運命に翻弄される新之助。
彼の目を通して描かれる赤穂義士たちの姿は、まだ始まったばかりである。
今回の「序章:忠義の胎動」は、明日、運命の三月十四日をもって一つの区切りを迎える。
新之助が四十七士と共に「白き夜」をどう見届けるのか。全四十七話からなる壮大な物語の幕開けを、ぜひ最後までお見守りください。




