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白き夜の義〜真説・忠臣蔵〜  作者: 智沢蛸
第一章 忠義の胎動

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第三話 江戸下向

元禄十二年、初春――

東海道を、十数名の侍たちが東へと進んでいた。

寒風が笠の縁を鳴らし、草鞋(わらじ)の底が霜を踏んで鳴る。

道の両脇には松並木がつづき、遠くには雪をいただく富士の姿が白々と浮かんでいた。


「――大石(おおいし)殿、ここはどのあたりでござろうか。」


中でも最も年かさの男が声をかけた。


「まもなく大井川が見えますな、大野(おおの)殿。」


恰幅の良い男が答えた。

大石と呼ばれたのは、播州赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助(くらのすけ)良雄(よしたか)

そして、大野とは同じく赤穂藩家老・大野九郎兵衛(くろべえ)知房(ともふさ)

随行するのは、側用人・片岡(かたおか)源五右衛門(げんごえもん)をはじめ、若侍数名。

彼らは、主君浅野(あさの)内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)の江戸召し出しに先立ち、その支度を整えるための江戸下向であった。


「ということは、そろそろ駿河国ということですな。」


大野が笑みを浮かべた。


「片岡、渡しの様子はどうだ?」

「ただいま、様子を見に行かせております。」


片岡源五右衛門がそう答えると、前方から駆けてくる若者の姿があった。

笠の下から見える額にはうっすら汗がにじんでいる。


「大石様、報告いたします。」

「おお、新之助(しんのすけ)。どうであった。」


大石の家臣の瀬尾(せお)新之助。

数えで十四という若さながら、その精悍な面構えと落ち着いた物腰は、誰の目にも立派な若侍へと成長を遂げていた。

幼くして大石家に仕え、いまは瀬尾孫左衛門(まござえもん)の養子となっているが、

今や大石家でもなくてはならない存在であり、今回の大石らの江戸下向にも従っていることからもその信任の厚さが分かるというもの。


「昨晩までの雨で水かさは多少増しておりますが、船頭たちは問題ないと申しております。」

「そうか……天が味方したか。」


内蔵助が静かにうなずく。

その横顔には、旅の疲れよりも、使命を帯びた緊張の影があった。


まもなく一行は大井川を渡り、

夕暮れが迫るころ、ようやく島田宿へたどり着いた。



夕餉のとき。


「お客様、誠に申し訳ございません。」


仲居が申し訳なさそうに膝をつく。


「今宵は川止めの旅人が多く、他のお客様と相席をお願いしたく――」

「なんと! そんな無礼があるものか。」


顔をしかめたのは大野九郎兵衛。


「我ら赤穂藩家中ぞ。宿ごときが上下を(わきま)えぬとは。」


その横で、大石内蔵助はふっと笑みを漏らした。


「まあまあ、大野殿。旅は道連れと申します。これも縁というもの。」

「拙者は部屋でいただかせてもらう。」


ぷいと立ち上がり、大野は部屋を出ていった。


内蔵助は苦笑しながらも広間へと向かった。

広間の奥では、すでに数名の侍たちが酒を酌み交わしている。

その中の一人と大石の目が合った。

男はやや驚いたように目を見開き、やがて口元に笑みを浮かべた。


「――もしや、大石内蔵助殿ではござらぬか?」

「おお、これは……千坂(ちさか)兵部(ひょうぶ)殿で。」


二人は互いに膝を進め、軽く頭を下げ合う。


「いやはや、実に久しい。山鹿素行先生の門を出て以来であろう。

さては、こちらは赤穂藩のご家中か。」

「左様にございます。では、そちらは米沢の。」

「うむ。我らは三州吉良(きら)へ向かう途中でな。大井川の増水で三日も足止めを食っていたが、ようやく明日には渡れそうだ。」


内蔵助は頷き、酒を受け取った。


「我らもつい先ほど渡って参ったばかり。……奇遇にございますな。」

「まこと、川の流れが結ぶ縁とは面白い。」


兵部は盃を取ったが、口をつけるだけで、すぐに置いた。

それに気づいた内蔵助が、さりげなく声をかける。


「……ご無理はなされますな。」

「はは……旅は久しいが、この身には、少々応える年になってな。」


兵部はそう言って、肩をすくめた。

兵部はあらためて盃を掲げ、隣の壮年の侍を手招いた。


「大石殿に紹介したい。上杉家家臣、色部(いろべ)又四郎(またしろう)だ。」


「色部でござる。」


温厚な笑みをたたえた男が深く頭を下げた。


「大石殿のご高名、かねてより耳にしております。」「いやいや、こちらこそ恐れ入る。」


そのとき、内蔵助は色部の目に光る静かな光を、ほんの一瞬だけ見た。

柔らかな物腰とは裏腹に、その奥にある静かな光――

それは、主を守るためならば、ためらいなく刃を抜く者の眼であった。


(……ただ者ではないな。)


内蔵助は胸中でそう呟き、あえてそれ以上、色部を見るのをやめた。


盃が重なり、やがて両家中は打ち解けて笑い声が広間を満たした。

その賑わいの中で、新之助はそっと席を外した。


縁側へ向かうその背を、色部又四郎がふと目で追った。


「……大石殿。」


盃を置きながら、色部が静かに言った。


「先ほどの若者。あれは、ただの供ではありますまいな。」


内蔵助はわずかに眉を動かした。


「ほう。」


千坂兵部も、興味深そうに目を細める。


「拙者も同じことを思った。

あの若さで、あの物腰――人の懐に入るのが、実に巧い。」


色部がうなずく。


「ええ。あの手合いは侮れませぬ。敵に回れば厄介な男になる。」


内蔵助は盃を口に運び、少しだけ酒を含んだ。

そして、いつもの柔らかな笑みを浮かべる。


「はは……ただの若造にございますよ。」


だが、色部の視線は動かない。


「そうであれば良いのですが。」


内蔵助は肩をすくめた。


「まだ十四。少しばかり世渡りが上手いだけの、小僧にございます。」


しかしその胸中では、別の言葉が浮かんでいた。


(……さすがは上杉の家臣。

 目のつけどころが鋭い。)


内蔵助はあえて話題を変え、盃を掲げた。


「それより兵部殿、旅の労をねぎらって、もう一献。」


やがて再び、何事もなかったかのように笑い声が広間に満ちた。



新之助が縁側に出ると、夜風が冷たく頬を打った。

行灯の明かりが障子越しに漏れ、雪解けのような川の匂いがする。

そこに、ひとりの若侍が欄干にもたれて夜空を見上げていた。


「まったく、年寄りどもは話が長くてかなわん。」


若侍は笑いながら新之助に声をかけた。


「国を憂えているような顔をして、その実、自分の利ばかりを数えておる。」


「しかし、そうした方々が国を動かしておられるのでございます。我々若輩は、うまく操られぬよう、心を鍛えるしかございません。」

「お主、ずいぶん大人びた口を利くな。自分で国を動かしてみたいとは思わんのか。」

「拙者のような者には到底無理。されど、志ある方が動かれるならば、それを支えるのが我らの務めでございましょう。」


若侍はふっと笑った。


「……赤穂にも、そなたのような者がいるのか。」

「ええ。いくらでも、陰で支える者はおります。」


そのとき、新之助は相手の羽織に縫い取られた紋に目を留めた。二つ引両(ひきりょう)――吉良家の家紋である。


「……ひょっとして、あなたは吉良家の御曹司様で?」

「はは、察しが早いな。吉良上野介(こうずけのすけ)の子、左兵衛(さひょうえ)と申す。」


「左兵衛様……。

吉良様のお噂は赤穂からも伺っております。」


「そうか。私は父のやり方は好きではない。」  吉良左兵衛は苦笑を浮かべた。


「世の中を正す者は、義の名を掲げて剣を振るう。だが、真の義とは人を斬ることか、それとも守ることか。……お主はどう思う?」


新之助は一瞬、言葉を探した。


「義とは、己を欺かぬこと。……山鹿素行先生の教えにございます。」

「なるほど、赤穂の者はやはり義を重んずるな。」


左兵衛は満足げにうなずき、星明かりを仰いだ。


「赤穂と吉良――道は違えど、同じ空の下におる。いずれまた、どこかで語り合える日が来よう。」


その夜、二人はしばし語らい、やがて別れた。


翌朝、大石一行は江戸へと発ち、千坂・吉良一行は西へと向かった。

川霧の中、二つの影が逆の流れをゆく。

それが、のちに“白き夜”を導く運命の分かれ道であった。

【次回予告】


元禄十四年、江戸。

勅使饗応役に任ぜられた浅野内匠頭は、吉良上野介による冷酷な差配に追い詰められていく。

絶体絶命の増上寺・畳替え。

新之助は、かつて島田宿で結んだ「あの友情」に、一縷の望みをかける。


運命の「三月十四日」の鐘が、鳴り響こうとしていた。

 

「第四章 刃傷前夜」

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