第二話 山鹿流の教え
元禄九年十二月――
春まだ遠い赤穂の空に、うす雲が流れていた。
山裾の松をなでる風は冷たく、屋根の雪を巻き上げて舞わせる。
その座敷に、藩士の子弟がずらりと並び、正面には一人の老学者が端然と座していた。
近藤源八――山鹿流の軍学者。
二十年の昔、赤穂に流された山鹿素行の流れを汲み、いまは筆頭家老・大石内蔵助の師となっている。
「――武士の道とは、弓馬の技にあらず。」
静かに語り出す声が、座の空気をぴんと張り詰めさせた。
「心を正すこと、これすなわち“義”なり。己が心の秤を曲げず、真っ直ぐに保つこと――これぞ、武士の本分ぞ。」
子弟たちの背後には、それぞれの従人らが控えていた。
その中には十二歳となった新之助の姿もあった。
いまや大石家の小者として仕え、松之丞の身の回りを助けている。
士分ではないため、講義に加わることはできなかったが、隙あらば学ぼうと、講義に耳を傾けている。
子弟たちの最後尾――新之助のすぐ前に座る松之丞が少しそわそわと膝を動かした。
源八がふと目を上げる。
「大石松之丞殿。そなたに問おう。――義とは何をさす?」
松之丞はぎょっとして背を伸ばしたが、言葉が出ない。
新之助は、そっと袖の陰で唇を動かした。
――“己を正す”のこと、と。
松之丞がそれを読み取り、小さく息を吸う。
「……義とは、己を正すことにございます。」
源八の眉がひらりと上がった。
「ふむ。よう心得た答えじゃ。」
そして背後の従人の列へ目をやる。
新之助と視線が合った。
「そこの小者。いま、そなたが教えたな。」
新之助は畳に額をつけた。
「も、申し訳ございません。お若殿に恥をかかせまいと……。」
「いや、良い。」
源八の口元に笑みが浮かぶ。
「わしの師・山鹿先生も申された。『義とは己が心を欺かぬこと』と。
そなたの申した“己を正す”も、まさしくその道に通ずる。」
その場がどよめき、奥の間からそっと微笑む男がいた。
筆頭家老・大石内蔵助良雄である。
彼がこの少年を目に留めたのは、このときからであった。
講義が終わると、少年たちは外へ駆け出した。
学者の裏手にある小さな広場は、いつも子供たちの遊び場となっていた。
だが最近、その広場をめぐって妙な火花が散っている。
藩政では、筆頭家老の大石内蔵助と末席家老の大野九郎兵衛知房の意見が合わず、家中は2つに割れていた。
その影響が子どもたちにも及んでいたのだ。
――大石派、松之丞を頭とする年少組の一団。
――大野派、九郎兵衛の息子・群右衛門を中心とする年長組の一団。
群右衛門はこのとき十五。
体躯もよく、腕っぷしも強い。
今日も十人ほどを従えて、広場の真ん中で雪合戦に興じていた。
「この場所は俺たちのものだ。年少組はあっちで遊べ。」
松之丞は黙っていたが、一人の少年が前へ出た。
矢頭右衛門七。
勘定方・矢頭長助の長男で、十二歳になる。
「この広場は皆の場所だ。順番を譲り合うのが筋だろう。」
「筋ぃ? 餓鬼に言われたくはねえな。」
群右衛門が鼻で笑うと、その傍らに控えていた一人の少年が口を開いた。
橋本平左衛門、十三歳。
群右衛門の二歳下ながら、すでに元服を間近に控えたような落ち着きを払い、涼やかな目元に不敵な笑みを浮かべている。
「群右衛門様、相手になさいますな。理屈で雪は解けませぬゆえ。」
平左衛門が扇子を弄ぶようにそう言うと、群右衛門の取り巻きたちも一斉に叫んだ。
「そうだ、そうだ、餓鬼は帰れ!」
「何を!」
すると突然、雪玉が飛んできて、右衛門七の胸に当たった。
それを合図に次々と雪玉が飛んでくる。
右衛門七もこれには退散するほかなかった。
その様子を見ていた松之丞がこぶしを握り締め、前へ進もうとしたが、新之助がその肩を軽く押さえた。
「若、ここは策で勝ちましょう。」
その一言で主税は踏みとどまった。
右衛門七が新之助に向かって言う。
「正しさだけじゃ通らねえ。どうする。」
新之助は静かに空を見上げた。
春の雪がちらりと舞っている。
新之助は仲間を呼ぶと円陣を組んだ。
「我々武士には譲ってはいけない義がある。……私に少し考えがあります。」
その眼は、すでに広場の地形と雪の硬さを測っていた。
やがて、円陣が解けると、少年たちはみな広場を去っていった。
その場に残ったのは右衛門七ひとり。
しばらくして、右衛門七は群右衛門たちの前に飛び出した。
右衛門七が雪玉を投げつけて挑発すると、群右衛門たちは怒号を上げて追いかけてきた。
堀端へと差し掛かった――。
彼らの右手から松之丞らが現れ、一斉に雪玉を投げかけてきた。
群右衛門らがひるむと、左手からも新之助らが雪玉を投げかける。
逃げたはずの右衛門七も、戻ってきて雪玉を投げる。
群右衛門ら年長組は混乱。
数人が足を取られて転倒した。
「ここまでだ!」
その時、少年たちの背後から声がした。
少年たちが振り返ると、いつの間にか筆頭家老の大石内蔵助が立っていた。
「争いは無益である。双方そこまで。
広場は半々に分ける。それで良かろう。」
少年たちは息を荒げながらも、沈黙していた……。
「なるほど、理を説くは悪くない。」
内蔵助の背後から、低い咳払いが聞こえた。
近藤源八が杖を手に立っている。
老学者の眼が光る。
「だが、理は血をもって汚すな。いまおぬしたちが示した“義”は、争いにあらず。
力を合わせなければならぬ。……よく覚えておけ。」
そして、新之助の方を向きなおった。
「おぬしの策であったが、見事であった。
よく精進すれば、赤穂の未来も明るかろう。」
源八はそう言い残し、ゆるゆると立ち去った。
松之丞は深く息を吐き、新之助を振り返った。
「やっぱりお前の考えはすごいな。」
「いえ、皆が一つに動いたからです。」
右衛門七が笑い、肩を叩く。
「お前、ほんとに頭が切れるな。いっそ武士になれよ……。」
その様子を静かに眺める内蔵助であった。
その夜。
瀬尾孫左衛門が新之助を呼び、静かに告げた。
「近藤先生もお褒めだった。……内蔵助様のお言葉だ。『新之助は赤穂の義を継ぐ器なり』と。
うちに子はない。もしよければ、我が養子となれ。」
新之助は息をのんだ。
畳職人の父の顔が脳裏に浮かぶ。
夜更け、家に帰って告げると、父は長いこと黙っていた。
囲炉裏の火がぱちりと鳴る。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「お前が支えたいと思う主があるなら、支えてこい。
だが、忘れるな。畳の目は真っ直ぐだ。曲げれば足を取る。」
翌朝。
瀬尾家の座敷で筆が走る。
――「瀬尾新之助」。
その名が書き加えられたとき、少年の運命は大きく舵を切った。
――その運命が、のちに「白き夜」へと続くことを、まだ誰も知らなかった。
【次回予告】
藩主の江戸召しの出しに先立ち、内蔵助らと江戸へ向かうことになった新之助。
道中の島田宿にて、一行は米沢藩家臣・千坂兵部一行と行き会う。
賑わう宿の片隅で、新之助は一人の若侍と夜空を見上げ、語り合う。
その男の名は、吉良左兵衛吉周――。
運命の「白き夜」で相対することになる二人の、あまりにも純粋で、あまりにも残酷な邂逅。
「第三話 江戸下向」




