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「検体の採取をしたいんですが」
病院の医者だという身分証明書をみせて、――明るい黒瞳で無邪気に話し掛ける神尾に。
現場保存の為に残されていた警察官。
つい先程御遺体が運び出されたばかりで、さらにいうと。
緊急配備で逃亡した医者と名乗る人物が手配されたばかりの横浜音楽堂。
規制線が張られた前に警備を担当していた警察官は、その神尾を前に動けずに、思わず反応が止まってしまっていた。
「あの、聞こえてますか?僕は、そこの、滝岡総合病院で感染症を診ている医者で神尾といいます。先程、運ばれた死体から、細菌感染の兆候があったときいてきたんですが?―――?」
にっこり、笑顔で話し掛ける神尾に、無言で警察官が仲間の――近くで警備している警察官を手招きで呼ぶ。
「どうした、…――どうしました?」
「あ、中に入れてくれますか?」
にこにこと笑顔でいう神尾に、呼ばれた警官も固まる。
「滝岡総合病院の医師です。先程搬送された患者さんに感染症の兆候があったと伺ったので、できれば環境条件の保存と、検体の採取をお願いしたいのですが」
「…―――確保!」
「え?」
かくして、神尾は捕まった訳だが。
「…請け出しにいくのが大変でしたよ、…。」
「すまん」
院長にしみじみという関に、隣に立つ滝岡が天を仰いで謝る。
それに、きょとんとした表情で二人をみる神尾。
院長がそのかれらをみて神尾に質問を。
「でも、どうして検体を採取したいと思ったんです?もう御遺体は運ばれた後でしょうし、検体といいましてもね。それに、情報は何処から入りましたの?」
「…―――」
滝岡が院長、橿原の疑問に微妙に視線を逸らす。
関があきれた溜息を吐いて視線を逸らして。
「おや、二人とも原因を知っているんですか?」
「…―――横浜市と、――市と県合わせての広域医療制度システム検証をしてるのは、ご存じかと思うんですが、…」
「あら、もしかして、神尾くんは、その検証中の市内及び県内での感染症発症データ一元化マップに基づいて、情報を得て向かったとかいいませんよね?」
「…――――丁寧にご説明ありがとうございます、…院長」
システムのことは記憶してたんですね、と背を半ば向けたまま小声でいう滝岡に、橿原が首を傾げる。
「一応、僕は院長ですからね?許可を出した案件については一応記憶はしていますよ」
「…本当ですか?都合良く忘れてることの方が多くないですか?」
思わずその言葉に振り向いて院長をまじまじとみて抗議する滝岡に橿原が嘆息する。
「あら、いつからそんな不満を持つ子に育てたのかしら。僕の院長代理として業務に厳しく育てている方針は、ご不満かしら?」
「不満です。別に方針がどうでも構いませんが、あなたが院長として決済しなくてはならない案件がすべておれにくるんです。業務に支障を来します。少しは、院長室にいて仕事をしてください」
強面とまではいかないまでも、強気でいると迫力がないではない滝岡に正面から見つめられて抗議されても、橿原にはまったく堪える様子がないが。
「そうかしらねえ、…。まあでも、あなたの決済で問題なく組織は回っているんですから、いいでしょう」
「よくないです。…――と、いまはそんな話をしている場合ではありません。…ええと、院長、おじさん、あなたの立場としては、つまり、神尾がデータの何をつかんで検体を採取しにいったのかが気になる訳ですね?」
「それはあなたも気になるでしょう?神尾くんが興味をもって出かけていく感染症なんて、先日のテロとか、輸入感染症とか、鳥インフルエンザとか、物騒なものばかりじゃありませんか。この事件とからんでいたら大変なことでしょう?」
「…―――つまりは、そちらのお立場で考えておられるんですね?わかりました、―――神尾、それで、どうなんだ?」
「はい、どうとは、―――…ああ、どうして検体を採取しにいったかですか?」
院長と滝岡の会話を聞きながら、どうやら何か連絡が来たのかタブレットを開いてみていた神尾が、問い掛けに顔をむける。
「ええと、そうですね、…―――。これが法医学教室のデータですね?院長が解剖されて剖検から培養に依頼されたデータが出ていますが」
「…―――滝岡くん。…きみは、神尾くんに業務上以外のデータにもアクセスを許しているの?」
神尾が無邪気にタブレットを示していう言葉に、橿原が多少冷えた視線で滝岡を見あげる。
それに、思わずも緊張、というより責任を感じてのものだろうか、――強張った面持ちで滝岡が返す。
「すみません。許可はしていませんが、私の責任です」
「そうですか。部下の管理はきちんとするように。もしかして、神尾くんのアクセス権限は、きみと同じものがあるのじゃないの?」
橿原の冷淡にみえる眸に滝岡が返そうとしたとき、神尾がくちを挟む。
「違いますよ?西野さんが僕が興味があるデータにアクセスできる感染症関連専門のゲートを作ってくれたそうなんです。ここに入ってくるのは、感染症に関する異常や、異常死、検疫、その他の興味のあるデータだけなんですよ」
「…―――西野、…」
「こまったものですねえ、…」
滝岡が西野――かれの医療秘書であり、滝岡総合病院全体のシステム管理及びにいま実験的に始まっている横浜市と県全体をテストケースとしたシステムを作成し管理している一人――の名を呟いて天を仰ぐ。
それに、橿原が淡々と呟いて。
「どうかしました?」
「いえ、セキュリティとか、情報漏洩とか個人情報保護とか、色々と法律的に問題があるだけで。神尾先生」
「…関さん?」
不思議そうに見返す神尾に、解説した関が肩を落とす。
「…いえ、そのですね、一応、司法解剖した御遺体のデータとかはですね、本来許可を得た一部の人間にしか開示してはいけないというか、…。まあ、異常死が感染症絡みだとしたら、はやく解析してもらうに越したことはないんでしょうがね?」
肩を落としながら続けてくれる関に、神尾が不思議そうに首をかしげる。
「そうなんですか?まあでも、今回は、この培養の結果次第ですが、創の様子からすると、感染症によるものとは思えませんから、大丈夫かと思いますが。唯、やはり現場から、微物の採取は行いたいですね。亡くなられた方が最後に触れた手すりとか、何か残っているといいんですが」
「―――滝岡、翻訳してくれ」
真面目にしばし神尾の顔を見つめてから、関が振り向かずに滝岡に依頼する。
興味深げにそのようすを橿原が見守る中、滝岡が淡々とくちにする。
「つまり、本来なら解剖した結果を神尾がみるのはまずいんだが、―――。それはともかく、その御遺体にあったんだろう創の外観と、感染症の疑いで、どういった感染症にかかっていたのか調べる検査に出した部分のようすもあわせて、特に問題になるような感染症が原因ではないようだと神尾はいってる。それと、創は感染症が原因のものではないとも。後は、――――」
滝岡が言葉を切り、神尾に問う。
「神尾、おまえは、どうして残された微物を採取したいんだ?」
「ええ、それなんですが、…―――。おそらく、死因は感染症からきたものではありませんが、どこから亡くなられた方が来たのか、一度調べてみたいと思いまして」
明るい黒瞳で滝岡を見あげていう神尾に、関が顔に大きく疑問符を浮かべて滝岡を振り返る。
「おまえ、これ意味がわかるのか?」
「関、―――。大体はわかるが、…推測になるからな。…神尾、だが、微生物を分析してわかるほど、特徴のあるデータがとれるか?」
「とれると思いますよ?この患者さん、――ではないですね、なんといえばいいんでしょう?――この方からとれる情報は沢山ありますが、体表面から採取したデータと付き合わせれば、まだ現場でも、他の方が使ったり清掃してしまっていなければ、データはとれるでしょう」
「…関、まだ現場保存とかいうのはやっているのか?」
「もう少ししたら解かれるはずだが、…―――。いや、もう終わってるか?」
「そうか、――しかし、もう随分と時間が経っているぞ?」
「それは混ざってしまっているでしょうが、その分増殖もするでしょうからね。ああでも、乾燥していますかね、―――空調装置から、清掃が終わっていても採取はできるかもしれませんね」
思いついた、というように顔を明るくしていう神尾に、滝岡が考え込む。
「おい!おい!滝岡!おまえまで、意味不明の世界に行くな!解説しろ!」
それに関があわてていうのに、橿原がそっとささやく。
「ぼくも解説できますよ、関くん」
「…―――ききたくないです、―――いえ、すみません、きかせてください…」
どうやら、神尾と一緒に学術的なのか医療に関することなのか、何かは不明だが、神尾の求める調査を行うかどうかについて脳内で検討に入ってしまった滝岡が解説の役に立たないことを悟って、関が背に腹は替えられずに橿原にいう。
関が複雑な表情で橿原を見るのに。
「そんな複雑なお顔をなさらなくても。――…簡単にいうとね、関くん。あなたがたが警察で被害者の行動や何かを調査するのを、神尾くんはウイルスや細菌という微生物を使ってやろうとしているのですよ」
「――――信じられないくらいわかりやすいですが、そんなことができるんですか?」
「難しいですが、できないことはないですね。但し、やはり掃除なんてされてしまうと菌が拭き取られてしまいますから、追跡するのは難しくなりますけど」
「…―――だとして、それをする意味がありますか?」
関の問い掛けに橿原が無言で滝岡を見る。
それをする意味があるのか。
おそらくそれに対して検討に入っている滝岡が、関と院長の視線に気付かず、一つ肯く。
「わかった、やってみろ。…だが、今日おまえは確かに非番だが、緊急呼び出しや、明日以降の業務に支障を来してもらっては困る。それは理解しているか?」
「はい、滝岡さん!」
実にうれしそうに決断をした滝岡に対して神尾が笑顔で応える。
「―――…おい、まて、滝岡、いまおまえ何の許可を出した?」
「関、頼む、神尾を現場に入れて、好きなように採取させてやってくれ。おそらく、現場というのか?亡くなられた方のいた付近と、空調装置をみられればいいんだが」
「おまえだから、何処の世界に行ってるんだ!だから、…―――許可?何の?一度容疑者扱いされてようやく出してきた神尾先生を現場に入れろっていうのか?」
「そういうことだな」
あっさりと表情を変えずに関をみていう滝岡に唸る。
「あのな?…院長、解説してください!」
「――あら、そんな自棄にならなくても。まあねえ、法医学の見地からみれば興味深い事例ですし、…――神尾くんが何をみるつもりなのかも興味がありますからね。僕から権堂くんにはいって、神尾くんを現場に通すようにいっておきましょう。まだ現場保存はしてるのですよね?関くん」
「おれは知りません、…!先は、課長におれが現場に出るのは頼めないとかいってませんでしたか?」
怒って振り向く関はかなりの迫力だが、まったく動じず橿原が応える。
「頼めないとはいっていませんよ。…まあ、これであなたも神尾くん達のお守りで一緒に現場に行けるじゃありませんか」
「…―――お守り、――――…ちょっとまってください、達?」
「おれも非番だからな。手術は終わったから、後はスタッフが見ていてくれてる。だが、神尾が検体を採取するには人手があった方がいいだろうからな。おまえ、手伝うか?」
「と、いうことだそうですよ?」
橿原の言葉に気付いて滝岡を振り向く関に、追い打ちをかけるようなその台詞に。
関が、気力が抜け落ちていくような心地をなんとか支えようと、少しよろめいてデスクに後ろ手をついて支える。
「そんなに動揺することか?」
「…おまえ、神尾先生だけならともかく、おまえが、―――いや、いい、忘れろ」
「関?」
神尾と同じように無邪気にさえみえる視線で滝岡が不思議そうに関を見る。それを見たくなくて関が視線を遠く何処かに逃している。
神尾は、もう既に我関せずで、タブレットに必要な採取装備の発注をして準備をしていたり。
不思議そうな滝岡と、疲れ果てている関に橿原が。
「かわいそうにねえ。自覚がないものね、滝岡くんには」
かくして、意味があるのか、捜査に関連するのかどうかも不明な微生物の採取というよくわからない行動のお供として、滝岡と神尾についていくことになった関だが。
はたして刑事としての仕事が出来るのだろうか?
「おれは、刑事だ」
「知ってる。隙間がないようにしろよ」
白い粉をはたいたような薄いビニールかプラスチックで出来た半透明の白い手袋――どちらか、関には不明だったが――を付けさせられながらいう関に、滝岡があっさりと注意を告げる。
「おまえな、…何でおれが、」
「検体の採取を手伝うのかって?それは誰もが自分の担当ではありませんといわずに、できることを少しでもやれば、却って全体の仕事がはかどって、それが自分自身にも帰ってくるということの実践だな」
「しれっとした顔で、要は神尾先生とおまえだけじゃ手が足りないから、手伝えってことだろ!なんでおれが!」
「だから、自分の仕事を限定するのは損だぞ?」
「そのおまえの病院での妙な何か?仕事のやり方とかそういうのを広めようとするのはやめろ!」
「いいじゃないか。誰もが目の前にあることを我がこととして捉えるようになると、垣根が取り払われていい職場環境になるぞ?職務を限定しないことで、スタッフ同士の垣根がとれて、良い雰囲気にもなるしな」
「おまえ、だから労働環境についておまえの病院を良くしようという心意気は買うが、おれに押しつけるな」
「お役所なんて、一番縦割りとか担当ではないとたらい回しにして評判の良くない処だろう」
「おれは、警察官だ!刑事だぞ?ったく、―――」
「警察も一応役所だろう」
「おまえのおおざっぱな理解はな?」
「違ったかな?」
「しるか!」
いいながら準備をして、滝岡が神尾の求める基準で己と関の装備が出来ているかを目視で確認する。
「おまえな、…――」
そこに、にこやかに完全装備の神尾がやってきて。
「ありがとうございます。関さんも、今日はお手伝いいただいて」
「――――…いえ、…。それにしたって、この採取が何の役に立つんです?」
苦虫を噛み潰したような顔でいう関に、明るく神尾が見あげて。
「はい、お手数をお掛けします。では、あちらのブロックからお願いします。事前に説明したように、―――」
検体を採取する為に、微生物を手すり等から拭き取り、密閉する容器に入れていく手順を軽く再度説明して、それぞれが担当するブロックを指示する神尾に。
「―――…おまえは、これに意味があると思って賛成したんだよな?」
隣に立つ滝岡に関が虚ろな顔で確認するが。
「じゃあ、いくぞ」
無言で応えず、作業に入る為に別のブロックに行くのを見送って。
「おまえな?」
くそ、といいながら、関が指示された作業に入る為に動き出す。
「関さんって、律儀ですねえ」
「おまえな、作業をさせておいてそれをいうか?」
神尾が関が採取してきた検体をみながらいうのに、滝岡があきれた声でみていう。
横浜音楽堂の控え室で、採取した検体を箱に収めていきながらいう神尾に、たが滝岡も同意する。
「確かにな、…。あれだけいやがっていた割には、律儀だ」
綺麗に指示されたとおり、細かな作業をしてきちんと整頓されてあがってきた検体に滝岡がしみじみという。
「いいですね、やっぱり関さんは几帳面ですよね。お料理もそうですし。また手伝ってもらえたらいいですね」
「…料理と関係するか?するのか、…――」
本職の日本料理人といってもいいくらいの腕を持つ関の作る実にうまい料理を思い浮かべて滝岡が考えてから。確かに、料理の手順や材料を計る様子は端からみていても細部を大事にしているのがわかるものだが。
――おれに解るのは、関の料理がうまいということだけだな。
まったく理解できない料理について考えるのをやめて、滝岡が傍を振り向く。
あっさり、にこにこと笑顔で関にまたこうした作業を依頼できるといいですね、といっている神尾を見やって。
「…―――――」
本来、この作業を頼んだ幼なじみが実に忙しい身であることと、殺人事件を捜査する刑事であることをふと考えて。
それ以上神尾に何かいうことをやめておいた滝岡は、突然背後に現れた関に驚いていた。
「関?すまん、その、…――――?」
様子がおかしい関に気付いて、滝岡が言葉を止める。
「おい?―――」
神尾が、関に気付いて振り向いて何か云おうとするのを止める。
「…――――」
関が、無言で控え室を凝視して立ち尽くしている。
「…関さん?」
「しっ、…黙ってみててくれ」
神尾が発言するのを止めて、滝岡が関が進むのに合わせて横に退き、神尾を腕で庇うようにして背後に行かせる。
神尾が、滝岡に庇われるようにして、興味深げに無言で控え室に進んできた関の背中を見つめる。
何をみているのか、―――。
息の詰まるような関の背にある緊張感に。
滝岡が落ち着いた表情でそれを見守り、神尾が好奇心が隠せない顔で見つめていると。
控え室全体を見回すようにしていた関が。
突然。
無言で踵を返し、滝岡達に視線も向けずに歩いて出ていった関を神尾が目を丸くして見送る。
「…どうしたんですか?関さん」
少しくちをあけて見送ってしまう神尾の肩に滝岡が軽く手を置く。
「もう検体は全部採取出来たんだろう?この控え室の分も」
「はい、最後になりましたけどね。…関さんは?」
「おまえでいう処の、追跡モードに入っただけだ。放っておこう」
「…怒られませんか?」
確か監視がお仕事とかいってませんでしたか?と訊く神尾に、滝岡がうなずいて。
「るだろうな、まあいい、子供じゃないんだ。はやく運ばないといけないんだろう?」
「そうですね。急ぎましょう」
神尾が理解はできないまでも、滝岡が促す採取した微生物を分析する為に関を放置して戻ることを選択して。
そして、放置された関は。




