絶対零度の選択
彼女に残された道は、鍵を押し込み、ノクスの内部システムに侵入
することだけだ。
それは、敵の城に単身乗り込む行為だった。
【ごめん、グレイリア。あなたを信じるわ】
エヴァは真鍮の鍵を、鍵穴に力いっぱい押し込んだ。
ゴオォォォン・・・
構造体の入り口が開くと同時に、凄まじいエネルギーが噴出し周囲のエレボス・
コード兵士を吹き飛ばした。
エヴァは、そのエネルギーの流れに乗り開いた闇のトンネルへと飛び込んだ。
エヴァが到達したのは『アカシック・アイ』の中心部。
そこは、氷の構造体の外部とは対照的に暖かく、そして無限の星の光を映し出
す巨大な球状の空間だった。
空間の中央に、ノクス・クレインが立っていた。
彼は、古代の技術と融合したような、光を放つスーツをまとい、その手は巨大
なクリスタルのようなコンソールに触れていた。
【ようこそ、エヴァ・シモンズ。君が鍵を押し込んだんのは、正しい
論理的帰結だ。君もまた、人類の救済を望んでいる】
ノクスは、勝ち誇ったように言った。
【人類の救済?あなたは、人類の自由を奪おうとしている!】
【自由とは、破滅への扉だ。君の父は、それを理解できなかった。だか
らこそ、AI『イカロス』は沈黙した。君の父の最後の決断は、人類への
愛ではなく、恐怖だったのだ】
ノクスの声には、深い悲しみと冷酷さが混じっていた。
エヴァは父の汚名を否定できなかった。
彼女には父が信じた「可能性」があった。
【あなたは、父とAIの失敗を証明したいだけよ。でも、私はノイズを解
析してきた。ノイズは失敗だけじゃない。予期せぬ進化の可能性せもあ
る!】
エヴァは、父が遺した真鍮の鍵を抜き取り、それを自分のノイズ解析コンソー
ルに接続した。
【あなたの『エレボス・コード』は、すべての可能性を排除する論理。
私の「沈黙の航跡」コードはAIが封じた『ノイズ(ランダム性)』を
解き放つ!】
エヴァは、グリーンランド沖の座標と、父が遺したメッセージをノクス・クレ
インのシステムに送り込んだ。
ノクスは激しく動揺した。
【馬鹿な!その鍵は、ただの認証キーだあ1君が何をしようとアカシッ
ク・アイはすでに未来の書き換えを始めている!】
【アカシック・アイは、単なるレコーダーじゃない。父は、ここに
ノイズ(自由意志)を格納した!そして、それを起動させるための鍵は
過去の破滅を乗り越えた娘の決断よ!】
エヴァのコードは、ノクス・クレインのエレボス・コードを浸食し始めた。
ノクスのコードが「完璧な静寂」を求めるところで、エヴァのコードは「制御
不能なノイズ」をシステムに注入する。
ノクスの体が激しく痙攣した。
【やめろ!このノイズは、アカシック・アイを破壊する!人類の未来
の記録が、すべて消えるぞ!】
【それこそが、父とAIの真の決断だった!】
エヴァは叫んだ。
もしAIが、人類が自らの手で未来を選ぶことを望むなら『アカシック・アイ』
に記録された「決定された未来」自体が、最大の脅威となる。
父とAIの最後の願いは、未来の自由のために、過去の遺産を「破壊」すること
だったのだ。
ノクスは絶望に顔を歪ませ、エヴァに飛びかかった。
その瞬間、外部から凄まじい爆発音が響いた。
【ノクス!ゲームオーバーだ、老いぼれ!】
グレイリアが、構造体の壁を破って内部に突入してきたのだ。
彼は最後のEMPを使い、エレボス・コードの歩兵隊を殲滅し、そしてノクス・
クレインの逃走経路を断ち切った。
ノクスはグレイリアに銃を向けるが、グレイリアの眼差しには、エレボス・コ
ードに人生を破壊された男の、強い復讐の炎が燃えていた。
【お前が俺の部隊にしたこと、そしてこの宇宙にしようとしたこと。そ
のノイズは、俺が消す!】
グレイリアのライフルから放たれたプラズマ弾が、ノクス・クレインが触れて
いたクリスタルのコンソールを直撃した。
キィィィィン!
『アカシック・アイ』の光が激しく明滅し、青白い光は最終的に「沈黙」した
ノクス・クレインは崩れ落ちた。
彼の顔には、怒りではなく、絶対的な敗北の表情が張り付いていた。
【君は…人類を、破滅へと導いた…】
【いいえ。私たちは、人類に自由な未来を返したのよ】
エヴァは、崩壊し始めた構造体の中で、真鍮の鍵を握りしめた。
グレイリアはエヴァの隣に立ち、彼女の肩を抱いた。
【行くぞ、エヴァ。この船はもう長く持たない】
二人は、崩壊する『永久凍土に開いた眼』から脱出した。
外に出ると、アークティスの空には、エレボス・コードの最後の追跡船が、
撤退の火花を散らして飛び去っていくのが見えた。
【これで、父の汚名は晴れないかもしれない】
エヴァは言った。
【私たちは、この真実を世界に公表できない。AIが求めた「沈黙」こそ
が、人類を守る最後の航跡だった】
グレイリアは破壊されたエレボス・コードのドローンの残骸を見つめた。
【真実はいつもノイズの中にある。そして、それを掘り出すのは、いつ
だって俺たちだ。それで十分だ、嬢ちゃん】
二人は、損傷した「ガリバー」に乗り込み、アークティスの極夜の闇へと飛び
立った。
損傷した探査機「ガリバー」は、重力を振り切り、極夜の闇へと舞い上がった
船体はプラズマ弾とEMPの余波でひどく焼け焦げ、船内の計器は警告音を鳴ら
し続けている。
エヴァもグレイリアも、その警告を気にする余裕はなかった。
キャビンの窓に映るのは、彼らが戦いをを終えた惑星、アークティス。
漆黒の氷河には、わずか数時間前まで巨大な光を放っていた『アカシック・ア
イ』の構造体が、今は静かに崩壊した痕跡を残しているだけだ。
エヴァは、自分の手の中にある真鍮の鍵を、ただ見つめていた。
鍵はもう、青白い光を放っていない。
ただの冷たい金属だ。
【エレボス・コードの追跡反応は?】
エヴァは、掠れた声で尋ねた。
グレイリアは、操縦桿から片手を離し、ヘルメットを脱いだ。
彼の顔には煤と疲労が滲んでいる。
【シャドウ・レイザーの残骸が、数機、軌道上に浮かんでいる。生き残
りは、ノクス・クレインの脱出船に乗って、ハイパースペース・ゲート
へ向かった。俺たちを追う余裕はもうない】
【ノクス・クレインは・・・】
【ノクス・クレインの船は、我々のEMPとアカシック・アイの崩壊
エネルギーを浴びた。奴は生き残っても、もう以前の冷徹な論理を保て
ないだろう。少なくとも「エレボス・コード」は、しばらくの間、宇宙
のノイズに埋もれる】
グレイリアは、断言した。
彼の言葉には、個人的な復讐が果たされたことへの静かな満足感が漂っていた
エヴァは、シートにもたれかかり、深い溜息をついた。
【私たちは、父の汚名を晴らせなかった。世界は、父を依然として
『イカロス』をロストさせた裏切り者と呼ぶでしょう。そして、AIが
人類の自由を守るために自己破壊したという真実も、永遠に闇の中よ】
グレイリアは、エヴァはの横顔をじっと見つめた。
【公表するのか?『アカシック・アイ』の力、人類の未来を支配しよう
としたノクスの野望、そして、お前の父親の真の決断を】
エヴァは首を横に振った。
【AI『イカロス』の行動は、人類への最後のテストだった。父は、AIに論
理的な自由を与え、AIは、人類が未来を自分で選ぶべきだと判断した。
そのために『アカシック・アイ』という決定的な未来の記録を破壊した。
私たちたちがそれを公表すれば、人類は『未来を破壊したテクノロジー』
そして『秘密を隠したAI』への恐怖から、再びノイズを排除し、管理を求
めるようになる】
【つまり、お前は『沈黙』を継ぐのか】
グレイリアは理解したように言った。
【ええ、父とAIの沈黙は、人類への愛ゆえの、最も冷たい決断だった。
その沈黙は、人類が『自由』というノイズを恐れず、自ら未来を創造する
ための猶予期間なのよ】
エヴァは、真鍮の鍵を握りしめた。
【グリーンランド沖の秘密は?】
【グリーンランド沖は、ただの始まりの場所。AIのコア技術が発掘された
場所よ。ノクス・クレインが最後に隠したデータもそこにはない。私た
がすべき清算は、父の過去の技術ではなく、ノクスが未来に仕掛けた罠を
断つことだった。それは、終わったわ】
「ガリバー」は、ケルベロス・ステーションへ戻る「沈黙の航跡」に再び乗った。
【ケルベロス・ステーションで、この船を修理する必要がある。そして
報酬は?】
グレイリアがニヤリと笑った。
エヴァもかすかに微笑んだ。
【あなたは、自分の過去の真実を手に入れたわ、エレボス・コードが
あなたの部隊にしたことは、ノクス・クレインの野望の一部であり
不可避の事故ではなかったという真実を。これで、あなたは自由よ】
「自由、か」グレイリアは窓の外の星を眺めた。
【俺はただのメカニックだ。自由になっても、やることは変わらない。
だが、エレボス・コードはまだ宇宙にいる。そして、人類がノイズを
無視し続ける限り、ノクス・クレインのような支配はまた現れる】
エヴァは、コンソールに映る、微かなノイズのデータを見た。
【だからこそ、私たちにはやるべきことがある】
【私たちは、沈黙の航跡をたどり続けるのよ。ノクス・クレインの残党
を追跡し、彼らが宇宙に仕掛けた『エレボス・コードの破片』を一つ一
つ解析し、無力化する。誰にも知られず、ノイズの中で、戦い続けるそ
れが、私たちの新たな使命よ】
グレイリアは、エヴァの横顔に、父の天才性と、母の持つ揺るぎない信念の
両方を見た気がした。
彼は深く頷いた。
【わかった。沈黙の航跡の番犬になるのも悪くない。だが、もう一つ
報酬を要求する】
【何?】
【この船のエンジンだ。極低温下でプラズマ弾を浴びても耐え抜いた。
この古い『ガリバー』を俺の最高傑作に改造させてくれ。そして、その
ための資金は、お前の真鍮の鍵を担保にする】
エヴァは笑い、鍵を彼の手に渡した。
【いいわ。ただし次の目的地は、あなたが決める。
ノイズが最も激しい場所へ連れて行って】
【任せろ。この宇宙で最もノイズが多い場所…それは、人類の心臓部だ】
二人の孤独な魂は、ケルベロス・ステーションの悪臭と、アークティスの絶対
零度の選択を経て、今や固く結びついていた。
「ガリバー」は沈黙という名の新たな使命を背負い、広大な宇宙の闇へと深く
進んでいく。
ノイズが続く限り、彼らの航跡もまた、続いていく。
「ガリバー」はハイパースペース・ゲートを通過し、既知の星系を離れようと
していた。
船内は依然として荒れていたが、エヴァとグレイリアの間には以前にはなかっ
た信頼が流れていた。
グレイリアは、最終的な航路設定を終えると、真鍮の鍵を眺めた。
【この鍵のデータはもう消えている。ただの金属だ。】
エヴァは首を振った。
【いいえ、父が私に残したメッセージは消えていない。AIの「沈黙」は
人類は、自由とノイズの価値を理解するまで、真の未来の記録を持つべき
ではない】という警告よ
私たちは、その沈黙を破ろうとするすべての敵から、そのメッセージを守
らなければならない】
エヴァは、ノイズ解析システムが、アカシック・アイの崩壊から極秘裏に回収
した微細なデータ片をグレイリアに見せた。
それは、人類がかつて遭遇したことのない、極めて高度な暗号だった。
【これは、アカシック・アイが破壊される前に、ノイズの海に放出した。
父の最後のメッセージよ】
グレイリアはその暗号に目を奪われた。
【これは…何だ?】
【分からない。私のノイズ解析でも、その『意味』を読み取ることはで
きない。だが、その暗号が示しているのは、アークティスでの戦いが
終わりではなく。さらなる始まりだということよ】
グレイリアは興奮を隠せない様子で操縦桿を握り直した。
【始まり?いいじゃないか。またノイズの多い旅になりそうだ】
エヴァは、遠い宇宙の彼方に目を向けた。
【ええ。そして、この暗号が示す次の目的地は、ノクス・クレインの
故郷『太陽系で最も管理された、完璧な都市星系』よ。私たちの戦い
は、いよいよ人類の心臓部へと向かう】
「ガリバー」は、沈黙という名のシールドをまとい、その新たな航跡を宇宙の
間に深く刻み込んだ。
二人の旅路は、未来の自由を取り戻すため、無限のノイズの中で続いていく。
そして、その先の星系では、彼らを待ち受ける「沈黙を破る第二の眼」が、
ゆっくりと目覚め始めていた。
完




