I should have known better
「よくもこんな三文小説を持ってこられたね」
タバコの籠もった玄関ロビーで出版社の人に冷たく怒鳴られた。
「悪いけど君、才能無いよ。君が思ってる程この世界は簡単じゃないんだ」
ネガティブな返答を予期していた僕にとって、その台詞は胸中に怒りよりもむしろ安堵の念を広げた。 (やっぱり駄目か・・・)
相変わらず説教を捲し立てる出版社の人を尻目に、僕は自分の不甲斐なさが可笑しかった。思えば何故こんなところに来たのだろう、今になってやっと酔いが醒めたようだ。
「四流の大学生じゃ、何処にも相手にされないから。とにかく、こっちは忙しいんだから帰ってくれ」
そう突き飛ばすように吐き捨てると、足早にその人は僕の前から消えた。
学生寮に戻って一段落した後、軽く原稿を読み返してみた。確かに自分でもひどい出来というのがわかった。僕は読むのに嫌気が差してそのままベットに倒れ込み目を閉じた。出来ることならこのまま眠りたかった。 暫く中途半端な睡眠を続けていると不思議な事が起きた。突然天井のライトがまるで落雷のように瞼を突き抜けて脳内を刺激したのだ。そしてその刹那、奈津美の顔が鮮明に網膜に蘇った。
「ああ・・・」
僕はこの突然の出来事に驚愕した。しかしそれ以上に驚愕したのは彼女の顔が全く笑っていない事だった。
「そうだ、あの頃から俺は何も変わっちゃいないんだ・・・」
脱水症状に似た脱力感が体中を支配しながらも僕は必死に彼女の笑顔を探した。
「わかってる・・・、わかってるよ。・・
・ごめん。ごめん─ 」
僕は恐怖心を静めるように枕の下に顔を沈めた。
(今思い出すから・・・)
僕は失くし物を探すかのように記憶の断片を拾い始めた。
自信家だったあの頃、全て思い通りにいくと思っていた。だから彼女が犠牲になった。 思い出した、高校三年の秋だ。奈津美の最後の笑顔を見たのは。
放課後、僕と奈津美は専ら学校の図書館で待ち合わせた。奈津美は内向的で人目を気にするタイプだったし、僕もよく本を借りていたので図書館はうってつけの場所だった。
僕が図書館に入ると必ず奈津美は僕よりも先に待っていてくれた。
「奈津美帰ろー」
「あ、うん」
僕が遅れていっても彼女は僕を責めたりせずに、いつも笑顔だった。
「テスト出来た?」
最初の会話は大概僕から始まった。 「今回はちょっと自信ないなぁ」
奈津美は小さな声で─ 僕と目を合わす事
さえ恥ずかしがった─ 答えた。
「大丈夫だよ。奈津美は頭いいんだから」 「そんなことないよ」
「まったく、謙虚なんだから」
本当に奈津美は謙虚だった。だから彼女が好きだった。
「実は、今小説書いてるところなんだ。もうすぐで書き上がるから、その時は読者第一号にしてやるよ」
僕は得意気に語った。 「へぇー、すごいね。どういう話?」
「それは読んでからのお楽しみ」
僕は奈津美の尊敬の眼差しを胸にしまうと、周囲に誰もいない事を確認して奈津美を抱き寄せた。
「なあ、キスしていい?」
「うん・・・」
奈津美は力無く僕に唇を向けた。彼女のことを愛していた。
それから一週間後。僕はいつものように奈津美と帰るつもりで図書館に向かった。しかし、当たり前のように置かれていた彼女の姿がそこになかった。それでも僕は全く奈津美を疑ったりしなかった。何故なら、彼女は僕のことを愛している、と強く思っていたからだった。
それから暫く待っていると案の定彼女がやって来た。いつもと変わらず笑顔だった。
「遅いよー」
「ごめん」
奈津美は少し唇を噛みながら謝ると、申し訳なさそうに続けた。
「実は美加ちゃんと帰ることになっちゃって、一緒に帰れなくなったの・・・。悪いけど今日は一人で帰ってくれない?」
僕は少し面食らった。 「なんだよ急に。何かあったの?」
「別に何もないけど、断り切れなくて」
「しょうがねえなー、わかったよ」
僕は渋々承諾した。
「本当にごめん・・・」
「もうわかったから、ちょっとこっち来いよ」
そう言って僕は奈津美を引き寄せ、何気なくキスをしようとした。
「ちょっと待って、人に見られるからやめて」
「えっ、ああ」
僕は奈津美が極度の恥ずかしがり屋だということをうっかり忘れていた。
「美加ちゃんが待ってるから、もう行かないと・・・」
「そっか・・・。じゃあな」
「うん、じゃあね」
と奈津美は歯切れ良く笑顔で言うと僕の前から姿を消した。僕は少し口が侘びしく、心が満たされない気がした。
一週間後、夏休みに入った。進学校とあってか、殆どの三年生は受験勉強に勤しんでいた。僕も奈津美も勿論例外ではなく、時間と人に流されるように勉強していた。いや、本当の事を言えば勉強なんて上辺だけで、僕は密かに一芸で大学進学を考えていた。その為に小説を書いていたのだ。 僕は受講した補習が始まるまで教室で本を読んでいた。不意に教室のドアが開く音で顔を上げると、美加が物憂げな様子で僕を見ていた。
「ねぇ、ちょっと」
美加は顔を引き締め、唇に力を入れながら喋った。
「奈津美は弱い子だから、大切にしなよ」 「え・・・」
僕は突然の美加の話にどう返答すればいいのか分からず黙ってしまった。それから美加は僕に構う様子も見せず、あっという間に何事もなかったように消えてしまった。もしかしたら美加は僕に気があるんじゃないかと思わせるような、そんな素振りだった。
学校の補習が終わると、小説が書き上がった事を奈津美に告げ、そのまま彼女を家に誘った。彼女は二つ返事で付いてきた。
「はい。ちゃんと咀嚼して読めよ」
僕が奈津美に、やっとの思いで書き上げた原稿を手渡すと彼女は子供のように目を輝かせ、それを受け取った。奈津美が真剣に原稿を読んでいる間、僕は彼女の顔色ばかり窺っていた。
二十分程して奈津美は原稿を読み終えると、僕の目を覗き込みたった一言「すごいね」と感慨深げに言った。いつも瞳を逸らす彼女がこの時だけは僕の目を捉えていた。その前兆は僕に確かな自信をもたらした。
「頑張った甲斐があったよ。自分で言うのもなんだけど、かなりいい出来だと思うんだ。これなら賞獲れそうな気がするんだ」
僕は奈津美の冷たい手を強く握った。 「うん。絶対獲れるよ」
奈津美は最高の笑顔を振る舞うと、優しく僕の手を握り返した。
それから僕と奈津美は雑誌に載っている新人小説募集の広告を頼りに、原稿の清書と応募封筒を作成した。結果は合否に関係無く二人で見よう、ということもその時決めた。
その後の夏休みは彼女との間に、これといって大した事は起きなかった。毎日がコンスタントに決められたサイクルのように、二人で一緒に勉強し、遊び、そして当たり前のように抱き合った。
休みが明けると、受験の疲れやプレッシャーから半ノイローゼの生徒が多く見られた。そして、人一倍頑張り屋で神経質の奈津美も多少不安定な状態に陥っていた。僕はそんな彼女を心配して、前にも増して明るく振る舞うように努めた。
「もし俺が将来売れっ子の作家になったら、海の見える高台に家を建てて、一緒にそこで暮らそうよ」
僕はひたすら奈津美に喋り続けた。彼女は楽しそうに「うん、うん」と頷いてくれた。どんなに僕が嫌な気分の時でも、僕は決して彼女の前ではそんな顔を見せず、いつも明るいフリを続けた。
十月の後半、さすがに奈津美を励ます事に疲れと限界を感じだした頃、それを見計らったかのように、夏に出した新人小説の結果の封筒が返ってきた。それは彼女を最大に勇気付ける最後の切り札だった。
「今から家に寄らないか?」
秋らしい独特の侘びしい風が、まるで奈津美の顔を傷つけるように過ぎていった。
「うん、いいよ・・・」
昔のように語尾に優しい余韻の無い返答は、僕を少し不安にさせた。
「実は、見せたいものがあるんだ。きっと奈津美は喜ぶよ」
僕はいつものように明るいフリをした。
家に着いて早速例の封筒を奈津美に見せると、「わー、返事来たんだ」と、さすがにその時は彼女らしい笑顔が窺えた。
「賞獲れてるといいね」 奈津美は僕の前に座りながら言った。 「ああ。じゃあ、開けるよ」
僕の心の中に色々な思惑が循環して、その時思わず封筒を破る手が震えた。緊張した空気が僕等を包んでいた。僕は中に入っている三角折りの紙を指に挟みながら抜き出し、そのまますっと開いた。紙の擦れる不気味な音と共に、紙上に載った結果が眼前に現れた
時、僕は言葉を─ 呼吸さえも─ 失った。
「どうだった?」
そう聞く彼女の言葉も聞き取れない程、僕の神経は硬直していた。再び時間が流れ出した時、彼女は身を乗り出して紙の中を覗いていた。
「あ・・・」
奈津美は結果を見るなり、分が悪そうに俯いた。僕は屈辱的な思いに駆られた。あれだけ大口を叩いていた自分が格好悪かった。
「仕方ないよ、今回は偶々運が悪かっただけだよ」
奈津美は重たい空気を察してか、笑顔で僕を慰めようとした。しかし僕の気は収まらなかった。それどころか、奈津美の笑顔にいやに演技めいた違和感を感じ、僕は苛立ちさえ感じだしたのだ。
「そんな社交辞令みたいな事言うの止めろよ。こっちがどんな思いでお前に接してやってたか知りもしないで。いつまでもそうやってヘラヘラしてんなよ!」
僕はストレスの捌け口を求めて、感情の赴くままに奈津美を叱責した。事実、僕の言っていることは正しかった。
「ご、ごめん・・・」
奈津美はまた俯いた。
「・・・もう、帰ってくれ」
「えっ、でも─ 」
「いいから、出てげよ!」
僕がひどい剣幕で怒鳴ると、奈津美は一瞬
身を震わせ涙ぐんだ。僕は何もかもが嫌にな
り、ソファに仰むけで寝転ぶと投げやりに目
を閉じた。暫くして彼女が玄関のドアを開け
て出ていく音が聞こえた。僕には彼女の「涙
ぐむ」という行為さえくだらない科白のように思えて、さらに苛立ちを募らせた。絶対に賞獲れるよ、と笑う無責任な彼女が脳裏をよぎった。
黄昏時も過ぎた頃、僕はツンとした秋の冷
気でふて寝から覚めた。頭はボーッとして熱
く、皮膚は氷のように冷たかった。時計を見
ると眠りに就いてから既に一時間も経ってい
た。僕は怠い体に鞭を入れ、適当に上着を羽
織って外に出た。少しでも彼女と小説の事を忘れたかった。
外は真っ暗だった。それに、思っていたよりもずっと寒かった。僕は頭を空にして、足の赴くままに歩いた。そしてそのまま街灯を伝って歩き、最終的にコンビニに入った。 暫く僕が雑誌を立ち読みしていると、店内のBGMに紛れて、背後から僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「よお、」
僕が振り返ると、同じクラスの森下が立っていた。彼とはただのクラスメイトでしかなかった。森下は僕が黙しているのを見越してか、話を続けた。
「奈津美ちゃんとケンカでもしたのか?」
「えっ」
僕は驚いた。「どうして、知ってんだよ?」
彼は当惑した顔で続けた。
「実はさっき、そこの公園で奈津美ちゃんが泣いてるのを見かけたからさ、お前と何かあったのかと思って」
それを聞いて、僕は背中が熱く発汗するのを感じた。
「それっていつのことだ?」
「そうだな、二十分位前かな」
「そうか、わかった」
僕はそれを聞くと、森下に礼も言わずに急いでコンビニを飛び出した。別に彼女に会って何をする訳でもなかった。ただ、寒空の中、ぽつんと一人泣いている奈津美を想像すると心がわだかまり、彼女に会わずにはいられなかった。
無我夢中でその公園に辿り着いた時、奈津美の姿は何処にも見当たらなかった。
次の日、最初の授業が始まる前に僕は何事もなかったように奈津美に会いに行こうとした。平然と奈津美に会うことで、昨日のギクシャクした関係を婉曲に元に戻そうとしたのだ。ただ間違っても真剣に謝る事だけは避けたかった。
(あれ・・・)
嫌な予感がした。奈津美の姿は何処にも無かった。クラスの奴に聞いても、彼女が何故休んだかは誰一人知らなかった。
奈津美の心は薄い硝子のように脆かったという事を改めて実感した。それから彼女は一週間経っても学校に現れず、連絡さえ取る事も出来なかった。その原因は自分にある、ということはわかっていた。ただ、自分が犯した行為が時間が経つにつれて罪として次第に膨脹しつつある事を認めたくなかった。
帰り際、冷たい隙間風の吹く玄関で美加とすれ違った。美加は僕を見るなり嫌悪な顔をして視線を外したが、僕は奈津美の事を聞こうと構わず話しかけた。出来る事なら自分から奈津美に対して気を遣う素振りを露骨に表したくなかったが、そうも言っていられなかった。
「ねぇ、奈津美最近学校来てないけど、どうしたの?」
僕は何気ないフリをして聞いた。その様はいかにも彼女を構っていない、といった風だった。
「あなた何自惚れてんのよ!」
思いもよらない美加の怒声が玄関に響いた。
「ふざけるのもいい加減にしなよ。奈津美がどんなに傷ついたか分かってるの」
僕は美加の気迫にたじろいだ。そこまで奈津美の事で熱くなるとは考えていなかった。
「そんな事言ったって、俺だって奈津美に尽くしたつもりだよ。確かにちょっと言い過ぎたけど、奈津美に原因があるという事実には変わりないし、ああやっていつまでも沈んでる奈津美にも責任はあるよ」
僕は冷静に僕と奈津美の尺度を答えた。
「あなた全然分かってないわね」
美加は半ば呆れ、僕を睨んだ。「あなた」と高飛車に言う台詞がひどく鼻に付いた。
「奈津美はね、あなたの事をずっと耐えてきたんだから」
「えっ?」
僕は一瞬、語順の聞き間違えかと耳を疑った。
「何言ってんだよ・・・」
僕は自分の足元に、ちらっと底の見えない崖があるような恐怖を感じた。
「奈津美が元気ないから俺は必死で明るいフリしてたんだぜ。耐えてたのは俺の方だよ」
僕は自分を肯定するようにそう付け足した。
「なに自分勝手な事言ってるのよ。奈津美が元気を無くしたのは全部あなたのせいじゃない。好きでもないあなたに束縛されて振り回されてたのよ」
「ちょっと待てよ。好きでもないって何だよ」
僕には訳がわからなかった。
「じゃあ奈津美は好きでもない俺と付き合ってた、って事か?」
そう言って、僕はとんでも無い思い違いをしている事に気付き始めた。 「当たり前でしょ。奈津美はね、夏休みに入る前から、あなたと別れたいって私に相談してきたんだから。それでも奈津美はあなたを可哀想に思ってずっーと我慢してきたのよ。『初めて私を好きになってくれた人だから』って言って」 「そんな、嘘だろ」
僕は思わず狼狽え、ひどいめまいを感じた。今聞かされている話を信じられる筈は無かった。しかし僕の意識は崖から突き落とされながらもハッと思いだしたのだ。夏休み前に奈津美が急に美加と一緒に帰った日、僕は奈津美にキスをしようとしてかわされていた。
「それに奈津美はあなたのうんざりするようなお喋りにもずっと我慢して聞いてあげてたのよ」
僕は、それは違う、奈津美を元気付ける為にした事だ、と心の中で叫んだ。しかし不思議と声にならなかった。 美加は目を伏せ、一呼吸置いてから、言いずらそうに続けた。
「それから・・・あたし、奈津美にアドバイスしたの。もし小説の結果が駄目だったら、もう踏ん切りつけて別れた方がいい。受験で大事な時期を無駄に出来ないよ、って」
「・・・」
僕はもう何も言い返せなかった。絶対賞獲れるよ、と笑う奈津美の顔が浮かんで消えた。彼女が僕の小説を読んでくれた時に、僕の目を捉えたという彼女の行為は、きっと小説を書く才能のない僕への最後の優しさだったんだろう。
美加は暫く僕を憐れむように眺め、最後に「もうどうにもならないわね」と吐き捨てた。僕に止めを刺した彼女の台詞は、救いの見えない崖の底に落ちた僕の脳内を暫く反芻した。今まで僕は奈津美に愛されていると思い込んでいた。しかし全てが打ち崩された。今まで奈津美に尽くしてきたお喋りや明るいフリが全て空回りであり、逆効果だったと思うと、途轍もない空虚感が込み上げてきた。そして何よりも、彼女の優しさが(彼女はその優しさ故、僕に体さえ投げ出したのだ)結果的に僕を裏切り、苦しめる行為に繋がったという事が口惜しくて堪らなかった。 風が泣き叫ぶように響いている音に気付いたとき、目の前にいたはずの美加の姿は消えていた。
あれから僕は一度も奈津美に顔を会わせる事なく高校を卒業した。殆どの恋がぐだぐだした状態で終わりを迎えるように、僕等の関係も明確になるものが何一つないまま終わってしまった。今思えば、奈津美は僕の事を好きではなかったのか疑わしい。しかしその事実を知る術は何もなかった。
東京の大学に進学してから二年半振りに地元に帰郷した。当初は逃げるようにここを出ていったが、今この地に立ってみるとやはり懐かしさが込み上げてきた。僕はバスが来るまで停留所のベンチに腰掛け、暫く故郷の空気を味わった。ぼんやり遠くを眺めていると、向こうの住宅街の上に虹が架かっている事に気付いた。その虹はとても綺麗だったのに、僕の隣に座っている女子高生はそんなものに見向きもせず、必死で携帯のメールを打っていた。彼女の履く真っ白いスニーカーが僕の気を滅入らせた。 バスの窓から通り過ぎていく街路樹を眺めると、ふと奈津美の笑顔が蘇った。あれだけ苦しみながらも見つからなかった彼女の笑顔は、ふと頭を過ぎるメロディのように簡単に思い出す事が出来た。よくよく考えてみると、この街路樹はいつも奈津美と二人で帰った道だった。やっと蘇ってきた彼女の笑顔は僕を混乱させた。結局、犠牲者は僕だったのかもしれない。