07.ありふれた「殺生」と「魔剣」と「事象の地平」
少な目の割り振りとはいえ筋力も8になった。平均的な女性筋力の1.4倍。女子プロレス選手と喧嘩しても力で勝てるかもしれない。敏捷は13だから約1.9倍。普通の人の倍近く俊敏に動ける。思考速度は16もあるし動体視力も12になってる。自分以外が半分のスピードになったみたいに思えるはず。この時点でいくつかの能力は人間の限界を超えているような気がする。ヒップバッグからリュックへ金貨を移し終えたシオンが水浴びしたいといった。見張りとして付き添わなくてももう大丈夫な気がしてたしお腹も減っていたので、シオンには結界魔導器を持たせてひとりで行かせる。シオンを見て思い出しボクも金貨を移してから昼食の用意をした。ケトル鍋をふたつ並べサイコロに切った鼻猪の肉に火を通す。肉を取り出した後、出た肉汁に卵蕗を2個ずつ割り落とし目玉焼きにする。最後に水を入れ羊歯茸と卵蕗の茎と葉を煮てスープにする。水浴びを終えたシオンと一緒にいただきますの合掌をしてお上品さのカケラもなく食べた。サイコロステーキは極上の舌溶け具合。目玉焼きはたっぷりのバターで焼いたみたいに濃厚。茸出汁のスープはコクがもの凄く、蕗のほろ苦さによく沁みて泣けるほど美味かった。片付けはシオンがやるというのでボクは水浴びをする。着ていた衣類を洗って、干しておいた着替えと交換した。パリッと乾いた衣類を身につけて気分もサッパリする。壊された杖の代わりになる落ち枝を探しがてら薪も拾って補充する。干し肉の具合を確認したがまだ時間がかかりそうだった。あとやることは食材探しくらいだが肉はまだ十分残っているし気が乗らない。片付けを終えたシオンが横に座る。
「まだ日は高いし、もうちょっと食休みしたらもう一度行く?」
シオンの方からいい出すとは思わず、びっくりして見つめ返してしまう。
「シオンは魔物を殺すことに躊躇いはなくなった?」
「うーん。殺したいとは思わないけど。でも、この世界にはあんな魔物や獣や、もしかしたらそれよりもっと厄介な人間もいるんだって思うと」
「厄介な人間か。なんかいい得てる。多分いるだろうね。チュートリアルの世界ですら独善的な人いたからね」
「厄介な人間が押しつけてくる厄介事から逃げ続けてもいつか逃げきれないときがくるだろうし、弱いことで嫌な思いしたくない。なら、できるだけ強くなっておかないとって思う。魔物さんには悪いけど。他に方法ないなら」
ボクたちは再びダンジョンに潜った。中断したヒトデ部屋まで戻ることにする。ヒトデと宝箱の部屋は手前から数えて3つ目だったが、用心のため最初の部屋から順番になにもないことを確認してヒトデ部屋まで進む。ヒトデ部屋を再度チェックしたが新たな変化はない。天井にはなにもいないし宝箱は空。通路はまだ奥に伸びていて並んだドアがまだ3つ見える。4つ目のドアを開けるがなにもなかった。そして5つ目のドア。エコーロケーションで動きが感知された。なにかが激しく動き回っている。シオンとタイミングを合わせ、ドアを開けると同時に光球を投げ入れた。部屋の奥の隅。ざっと10匹近い連結蟲が鎌を振り回す鼠のような20匹ほどの魔物に襲われていた。連結した体の中程を鎌で断ち切られた蟲が連結を解いて逃げ出そうとする。それを捕食しようと鼠が飛びつく。蟲は追い詰められると反撃するため鼠も無傷ではいられないようだ。
「大混戦だよ。これ、無理じゃない?」
シオンが声を潜めていう。剣を振り回して突入したら、いまは互いに争っている蟲と鼠が一斉にこちらを襲うかもしれない。そうなったら怪我じゃ済まないかも。
「シオン。魔法を試そう。ファイヤーボールはもう撃てるだろ。それを重力魔法で目潰し光球みたいに圧縮して撃つ。何かに触れたら圧縮が解けるようにイメージして。スピードより爆発力優先でイメージしよう。いけそう?」
「うん。試してみる」
「じゃ、最初に火魔法の呪文。続いて圧縮魔法の呪文ね」
「わかった」
「3。2。1。瞋恚の焔。顛動する赤光。灼熱の軋轢。浄化の凝縮。焦熱の拡散。繋がりの力。握り包む暗黒の渦。点への回帰。特異への歪み。内破する崩壊。狂える重力の収斂。玉響の凝縮の果てに弾けよ」
ふたりの声がユニゾンとなり、中空に現れた野球ボールくらいの火の玉がパチンコ玉ほどに圧縮される。そしてふたつ同時に部屋の中空を飛ぶ。ギーギーと声なのか歯軋りなのかわからない闘争音を立ててもつれる蟲と鼠の位置まで坂をくだる自転車ほどのスピードで接近した。ボクが放った方の火球が伸びあがった連結蟲の先端部に着弾。直径1m近い火球が膨れあがり蟲と鼠を飲み込んだ。シオンの火球は蟲を抱え込んで貪り食っている鼠のお尻に遅れて当たり、そこで爆ぜた。ズズンズズンっと内臓に響く衝撃波が戻ってくる。
「シオン。もう1回。瞋恚の焔。顛動する赤光。灼熱の軋轢。浄化の凝縮。焦熱の拡散。繋がりの力。握り包む暗黒の渦。点への回帰。特異への歪み。内破する崩壊。狂える重力の収斂。玉響の凝縮の果てに弾けよ」
さっきの倍の早口で唱える。シオンも躊躇いなく早口詠唱に追従した。再び火球が飛び、ドズズンっと重い連続爆発音。オレンジの火球が2個花開く。部屋奥から熱風が吹き戻され、入り口の壁に当たって渦を巻いた。喉が焼けそうな熱気に息を詰めて部屋へ入る。最初に部屋に投げ入れた光球は爆発に吹き払われて入り口の天井近くに張り付いていた。もう1個新たな光球を作り奥へ送る。光に照らされた部屋の奥は何もかも黒焦げになっていた。動く物はない。
「ちょっと‥‥びっくり」
剣を構えボクの横に並んで進むシオンが独り言のように呟く。ボクも同感だ。圧縮火魔法の威力が予想外に凄かった。密閉された部屋で火災が起きたとき、部屋内の酸素が消費され酸素不足で火の勢いが抑制された状態になることがある。そこへドアを開けたり窓のガラスを破ったりして新鮮な酸素を供給してしまうと爆発的な燃焼が起きる。『バックドラフト』と呼ばれる現象だが、それに似た現象が起きたのかもしれない。
「全部‥‥死んでると思う」
うわ。黒焦げ死体に触らないといけないのか。左手を伸ばして指先の先の先の範囲1mmくらいで鼠の尻にちょんと触れる。
『rikoltilo muso。鎌鼠。ひょうたん型の胴体に短い四肢の魔物。鈍重に見えるが動きは俊敏。頭の脇にある鎌を腕のように振り回して獲物を切断し、鋭い齧歯で切り裂いて食べる。また鎌による穴掘りも得意。雑食性』
印象通り鼠だったか。炭化した肉か何かで汚れた指先を焦げてない床で拭く。5分後、黒焦げの蟲と鼠が気化し身体の芯が震えた。小さな魔石と床の焦げ跡だけが残る。前回までの蓄積経験値は42000と推定していた。ステータスを開くと覚値が新たに7ポイント増えている。連結蟲は10匹ほど。1匹につき10の個体が連結していたとして100個体。1個体当たり200ポイントだろうと見当をつけていたので合計20000ポイント。それだと覚値5ポイント獲得になる計算だ。余計に増えている2ポイント分が鼠を倒したことによる経験値ということになる。床の焼け焦げに数字を書いて補助とし逆算して鼠の経験値は1匹につき400ポイント、20匹で8000ポイントだろうと推定する。ボクたちの現在の総獲得ポイントは70000ポイントに達しているはず。念のために結界魔導器を作動させ、魔石を集め終わってから小休止にする。
「覚値が7ポイント増えてる。振り分けちゃおう」
「はーい。7ポイントか。全部に1ポイントずつ振って余った1ポイントをどこに乗せるかだね」
「だね。ボクは精緻に乗せるよ。精緻は数値をあげればあげるほど誤差がなくなる。今の数値ではまだ誤差が多いように感じるから」
「ウチはー。なんか魔法がちょっと弱いような感じがするから知力にしとく。さっきのファイヤーボールでもウチの投げた火球の飛ぶ速さがミナトのより少し遅い感じだったし。ボンって弾けたときもミナトのより小さかった」
************3日目
名前:シオン
【ステータス覚値:0/30】
筋力:7+1 敏捷:13+1
知力:11+2 精緻:12+1
生命:8+1 感覚:12+1
***************
************5日目
名前:ミナト
【ステータス覚値:0/30】
筋力:8+1 敏捷:13+1
知力:13+1 精緻:9+2
生命:8+1 感覚:12+1
***************
水を飲んで少し座って振り分け。結界魔導器を切り、光球を飛ばして部屋の奥を確認した。あれだけの鼠や蟲がいたからには、どこか奥にも出入り口があるはず。通路の出入り口は頑丈なドアが閉まっていて蟲や鼠には開けられない。確認すると奥の石壁のほぼ全面が崩れて土砂が流れ込んでいた。土から無数の木の根が伸び出している。根のもつれに紛れていくつもの穴が開いていた。鼠が掘った穴だろう。いまにも大量の鼠や蟲が溢れ出してきそうで落ち着かない。シオンも同じ感想だったらしく、ボクたちはさっさと次のドアへ向かう。次のドアが最後のドアだ。通路はまだ奥へ続くので、光球を飛ばして敵が潜んでいないか確認した。エコーロケーションも併用したが通路に魔物の姿はなく、仕掛けらしい構造も感知できない。がらんとした無機質な通路が10m程先に伸びて観音開きの大扉に行き当たっている。当座の安全確認はできた。最後の扉に集中する。壁に耳をつけ木の棒で叩く。天井の不規則なデコボコ。奥の床に石の箱。
「ヒトデだ」
「経験値稼げるね」
シオンが壁や天井から脱落した石を集め始める。
「この通路におびき出して1匹づつ倒していくのは同じだけど、慣れたときこそミスを起こしやすいっていうし。油断しないでいこう。通路の前後から別の魔物がやってくるかもしれないから、周囲にも注意していこうね」
「天井にファイヤーボール撃つってダメかな?」
「何匹も張り付いているヒトデを網羅できる大火球を撃てたとして、そんな威力の爆発を起こしたら天井や通路が崩落するかもしれない」
「天井に張り付いてるときは石みたいになってるから火が効かない可能性もあるね。1匹づつのやり方の方が安全確実か」
そうしてボクたちはじっくり時間をかけ、周囲にも警戒を怠らずやり遂げた。前の部屋より多い8匹のヒトデを切り倒し無事32000ポイントの経験値を獲得する。最初のより大きな宝箱の中は金貨ではなくふた振りの短剣だった。いまボクたちがヒップバッグにつけているナイフとほぼ同サイズ。革鞘に細工された意匠は緻密で芸術作品みたいだ。抜くと刀身が青っぽい輝きに包まれているように見える。
「これ、たぶん‥‥魔剣だ」
「マケン?」
「魔法の魔。んでツルギって書いて魔剣。ダンジョンみたいな魔素の濃い環境に長い年月置かれることで魔素が染み込んだ剣だよ」
「わお。お宝じゃ!」
「お試しは外に出てからにしよう。シオンも疲れただろ」
ヒトデ狩りは単純作業だが命懸けの単純作業だ。神経のすり減り方が尋常じゃない。ボクはヘロヘロだったがシオンはボクよりタフだったようだ。突き当たりの扉の向こうを確認だけしておこうとシオンがいい出す。現役JKの若さエネルギーは侮れない。精神的には疲れていたが激しい戦闘をしたわけではないので肉体的には消耗していない。気力を掻き集めて立ちあがり奥へ進む。扉や扉向こうの状況などエコーロケーションで慎重に探り、ほぼ安全そうなので扉を開けた。古代遺跡なのにすべてのドアが軋みもせずスルッと動く。魔法なのか魔物がメンテしているからなのか。開けた先は狂乱の植物園だった。巨木と低木と草と苔が絡み合うように大繁殖して溢れ返っている。ドーム状の高い天井に輝く球体が固定され眩い光が降り注いでいる。中央には水と水草に満ちた円形のプール。光と水に恵まれて熱帯雨林のように苔と植物が無秩序に繁茂していた。植物の間を動き回る黒い塊が見える。ボーリングの玉ほどの大きさ。ざっと見ただけで数十匹はいる。サイズは違うが黒光り感とカクカクした動きは蟻のようだ。
「ここは入れない」
「そうね。あんなのにいっぺんに襲いかかられたら死ねるわ」
「キャンプに戻ろう」
ボクたちはそっと扉を閉め、足音を潜ませて帰路についた。キャンプに戻り排泄と水浴びでさっぱりする。薪集めして十分な燃料を確保した後、火のそばにあぐらをかいて剣の研ぎに没我する。シュッシュッと刃が鳴る音が耳に気持ちいい。精神的にリラックスできた。身体的な疲労はほぼなかったため、なんとなく習慣になった素振りと立木の間をすり抜けながらの精密斬りつけの修練で程よく身体を使う。干し肉にしないで残しておいた最後の生肉を使ってシオンが夕食を作り始めたのでお任せして再度、今度はのんびり水に入ってゆらゆら浮かぶ。水は最初冷たいが芯が凍えるほどではない。サイコロステーキに水葉芋と羊歯茸のスープ。携帯食スティックを4分の1食す。シオンが水浴びに行き、ボクは食器洗い。干し肉の様子を見る。まだ芯まで水分が抜けてない。シオンが水浴びから戻ったので一緒にステータスパネルを開いた。
************3日目
名前:シオン
【ステータス覚値:0/37】
筋力:8+1 敏捷:14+1
知力:13+2 精緻:13+1
生命:9+1 感覚:13+1
***************
************5日目
名前:ミナト
【ステータス覚値:0/37】
筋力:9+1 敏捷:14+1
知力:14+1 精緻:11+2
生命:9+1 感覚:13+1
***************
「ウチかなり強くなってる気がする。剣も軽く振れるようになったし、身体の動きがキレよくて嬉しい。ヒトデの経験値はほんとうにオイシイ。1体ずつ撃破のやり方を見つけたおかげでリスクが少ないのも最高」
シオンは転生前からのパーソナルアビリティボーナスで瞬発力と反射神経の初期値が底あげされていたから瞬発力が18にもなってる。一般的な17歳女性の平均値の2.4倍も素早く動ける。ボクだって瞬発15あって、2.1倍は早いけど、ふたりで剣技の試合したら圧倒的に負けそう。
「そうだね。でも注意しないといけないのが通路で戦うってことかな。どうしても注意がヒトデに向いちゃう。もしトカゲやネズミの大群が通路をやってきたら、後ろから不意打ちされたり多数相手にしなくちゃいけなくなる。前にヒトデ後にトカゲで挟まれたら確実に死ねるし。ヒトデだけだとしても気を抜いて抱きつかれでもしたら全身麻痺。美味しい経験値稼ぎどころか自分が美味しい餌になっちゃう」
「あはは。うまいこというね。笑い事じゃないけど笑える」
「それだけ注意して慎重に対応しないとってことだね。今夜は早めに寝るようにして、明日は残った直進の通路を探索しよう」
「わかった。でもまだ夕方だよ。スマホもネットもないと時間を持て余すね。あ。そーだ。拾った魔剣のこと忘れてた」
「ボクもすっかり忘れてた。見てみよう」
外して置いてあったヒップバッグに突っ込んで握りが飛び出ている短剣を取り出す。カマドの前に座り、革鞘から抜いてかざしてみるがカマドの火と夕日の赤に照らされて青い輝きは見えなかった。カマドの横に積みあげてある薪の1本を取り地面に置いて上からゆっくり切りつけてみる。刃が当たるがまるで切れ込む感じがしない。引いてみた。まるで切れない。なんなら刃が滑る。
「なんか、刃がない。なまくらっていうより研ぐ前の刃のない状態って感じ」
「えええ。魔剣なのに?」
シオンも自分のナイフを鞘から抜き、刃の部分を自分に向けてまじまじと目を近づける。危なっかしいったらない。
「刃には直接触れちゃダメだよ。生物だけに反応して切れる魔道具なのかもしれない」
「そんな武器あるんだ?」
「いや。聞いたことはないけどさ」
シオンが軽くずっこける真似をした。関西人かおまえ。
「なんだそれ。ちぇー。使えないのか。じゃあ、さっさと売っちゃおう」
「そうだね‥‥あれ?」
柄を握っている指がひやっと冷える感覚。密着した部分なのに流れを感じる。
「どした?」
「なんか。あ。いや。うん。もしかして魔力吸われてるのか」
「え。吸血ナイフとかだったらヤバいんじゃない?」
シオンが地面にナイフを置いた。手の平をながめている。
「血じゃなくて魔力だし。それもごく微量。冷え切った金属が体温吸う感じ」
「魔力のバッテリー切れってやつ?」
「かもね。チャージしてみるか」
体内でマナを回し右手からナイフに送り込む。夕焼けの赤い光の中でもはっきりわかるくらい刀身が青白く光を帯びた。
「光った。それで切ってみたら?」
答えずに薪に向かって刃を落とす。さっきとは違い、なんの抵抗もなくスルッと刃が沈む。あまりの抵抗のなさに腕が止まらず刃が地面にまで落ちた。カツっと音がして下にあった平たい石までが真っぷたつになっていた。ちょっとだけ頭の芯がツンと重くなる。急激な魔力消費時の感覚だ。刃がなにかを切るときに魔力消費がスパイク状に跳ねあがるようだ。
「すっご。ウチにもできるかな?」
シオンが立ちあがり、ナイフを手に寄ってきて薪をつかむ。
「気をつけて。自分を切ったら洒落にならないくらい大怪我するよ」
シオンが自分のナイフに魔力を流す。刀身が青く光る。薪を2cm間隔でスパスパ輪切りにしていく。
「すっご。すっご。メチャ切れる。あ。でも。うふぁ。クラクラしてきた」
シオンが薪を離し、頭を抑えてドスンと座った。ナイフを慎重に鞘に戻す。
「魔力ハンパなく使うよコレ。頭の芯が重い。もっと使ったら頭痛になりそう」
「だね。でも、強力だ。売るのはやめ。ナイフだから短すぎて一刀両断ってわけにはいかないけど、この切れ味は得難い。とんでもなく固い魔物が来てもこの魔剣なら切れるし、コレ多分鉄も切れそう。だとしたら剣を持った敵でも相手の剣を切り飛ばせる」
「じゃあ、いままでのナイフと交換しておこう」
シオンがヒップバッグに固定してあった初期装備ナイフを外し魔剣に付け替える。外したナイフは予備としてリュックのサイドに設けられた止め革に固定した。太陽がほぼ沈もうとしていた。夕焼けは日没直前がいちばん赤い。世界が赤一色に染まるみたいだ。ボクたちは夕焼けを眺めながらしばらく息も忘れて見惚れていた。何度見ても飽きない荘厳な光景。長い沈黙が続く。空が藍色から紺色へ移ろい星が瞬き出す。
「ミナトって星座は詳しい?」
ポツリとシオンが呟いた。池に投げ込んだ小石が波紋を広げるように、凪いでいた意識を揺り起こす。
「いや。子供時代からネットにどっぷりでゲームばかり。発病してからは病院暮らしで病室の窓からしか見えなかったし、そもそも興味なかった」
「そっか。ウチもぜんぜん詳しくないけど、それでも北斗七星や北極星くらいは知ってた。ここの空、北斗七星も見当たらないし南半球なら見えるはずの南十字も見つからないんだよね。月や太陽は前と同じに見えるのに」
広げた外套の上に寝転び、シオンは夜空を見あげた。
「うーん。ここはそもそもボクたちがいた宇宙じゃないって思った方がよさそうだよ。別の宇宙なんだろうと思う。太陽と月が同じに見えるのは、そうしないとこの惑星の気象条件が変わっちゃって人間の住めない環境になるからかな。女神が意図して同じに設定したんだろう。太陽がちょっと大きいとか小さいとか、表面温度が高いとか低いとかで地球は灼熱惑星になるか氷の星になっちゃう。昔なにかで読んだけど、もし月がなかったら地球の自転速度が超高速になって1日8時間になるらしい。つねに暴風雨が吹き荒れて人類は絶滅しちゃうね」
「げ。それは困る。そっか。月見団子が食べられなくなるだけじゃないのね」
「月見バーガーも食べられないね」
「それも悲しい。そっか‥‥宇宙そのものが違うのか」
「たぶんね。ボクたちが女神ルキナの量子的な脳内でバーチャルな宇宙の地平面に書き込まれた情報のホログラフ投影って考えもあるけど、違う宇宙って考えた方がわかりやすいよね」
「な。ちょっと。ウチ、ナンチャッテ女子高生で意識があるのは中3までだよ。2次方程式とか因数分解とかが精一杯で、自慢じゃないけどそれすら赤点寄りだったんだから。宇宙の地平線だのホログラフだのってナニ?」
「ごめんごめん。大学でボクの研究テーマだったんだ。2022年にシカゴ大学の研究チームが発表した論文が発端で研究がスタートして‥‥ってこんな話チンプンカンプンで面白くないだろ?」
「いや。続けて。ちょうどいい感じの睡眠薬になる」
「睡眠薬ですか‥‥睡眠薬でもいいけどさ。シオンにわかりやすく話すと、前に話したシュレーディンガーの猫って話、覚えてる?」
「猫ちゃん殺す悪い怪人の話よね」
「悪い怪人かどうかは置いといて、要するに観測されない箱の中にいる猫は死んでいるとも生きているともいえる『重ね合わせ』の状態になってるわけ。その確率の雲みたいなふわふわした曖昧状態は、『観測』されることでどれかひとつの状態に確定しちゃう。収束ともいうんだけどね。シュレーディンガーの猫の場合の観測って、つまり箱を開けて中を覗くってことなんだけど、たったひとつだけ箱を開けないで猫ちゃんの生死を確定、つまり観測できる方法がシカゴ大学の論文にあるんだ。それが箱の中にブラックホールを入れておくこと。ブラックホールの事象の地平線っていうこの世の果てみたいな領域が量子の情報を投影的に記録しちゃうことが計算されて、つまり記録することで量子の重ね合わせを収束させて観測しちゃうって示されたんだ。ボクが所属してた大学のチームはその観測がナノ秒単位で蒸発してしまうマイクロブラックホールでも起きるかどうかの理論構築をしてた。今年の秋頃には論文が発表されて‥‥って。シオン。寝てるし」
そうやって5日目の夜は更けていった。




