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37.ありふれてない「女神」と「母宇宙」と「扉」

身体が重く感じた。足取りが乱れる。ボクの前を降りるシオンの背中がときおり震えた。螺旋階段は憎くなるほど明るく白い。そして果てしなく深かった。500段降りたところでシオンが脚を止めた。壁に手を当て、ただ無言で立ち尽くす。階段が1段20cmとして、500段でちょうど100m。その壁のどこか奥にビビの分子程度は浮遊しているはず。ボクも手を当ててみたけど溶岩の熱など伝導してこず、ひんやりと冷たい石の質感だけがあった。壁から手を離し、ボクを振り向いてシオンが呟く。


「ねえ。ミナト。ジュラはどうして姿を見せないの。さっきビビが落ちた溶岩の方から光の玉が浮あがってきたの見えたよ。妖精の姿をしてないけどあれジュラでしょ」


「うん」


「ノアのときも必死で駆けつけて、ジュラになにか命じてノアの中に入らせてたでしょ。あれってなんだったの。それって女神に盗聴されてるからいえないことなの?」


「いや。そうじゃない。あまりにも可能性が低くて実現性が乏しいからさ。無駄に期待を持たせて『やっぱりできませんでした』じゃ申し訳ないから、いわなかっただけだよ」


「可能性が低いって‥‥少なくともゼロじゃないってことよね」


「そうだけど‥‥仮定と憶測と希望的観測のツギハギだらけで、単なる願望と同じっていわれかねないから」


「女神に聞かれてもいいなら、話してよ」


シオンが階段の段に座り込んだ。話を聞くまで動かないってことか。しかたないのでボクも階段に腰をおろす。


「ジュラには情報を転写する能力があるのは知ってるだろ。ジュラが内に持ってる事象の地平面に情報を書き込み、書き出す能力。サーカス団の団長たちの記憶を戻したの覚えてるよね。サーカスのときは脳がなくなっただけで肉体は生きていたから、脳を復元して脳の情報を再インストールしたわけね。それと原理は同じ。ただ今度は命そのものが失われてるから、生きている肉体を丸ごとひとつ用意する必要がある。それに生前の全情報を転写すれば生き返らせることができる‥‥はず」


「じゃあ、適当に器になる生きた肉体を用意すれば蘇らせることができるわけ?」


「適当にって‥‥。まさかそこらの町娘をかどわかして肉体を乗っ取るとか‥‥やっちゃう?」


「そっか。適当に用意できるもんじゃないわなー」


シオンが水筒を出して水を飲む。ボクも自分の水筒からひと口飲んでおく。あんまり飲んでおしっこしたくなっても困るし。


「たぶん他人の身体に情報を流し込んでも、それで復活するのはいびつな欠陥品のはず。レイ男爵のメモから発展させた考え方なんだけど‥‥人間が自分自身を認識して自分だって感じている『意識』は、脳だけじゃなく全身の神経網を走る神経電流が量子力学的に無数の干渉を起こしてできあがるパターンに由来するって考えるわけ。レイ男爵はそれこそが『意志』の力の源で、『魂』あるいは『魂魄こんぱく』って呼んでもいいんじゃないかって書き残してる。その考えが正しいとして、亡くなった人を前と同じに蘇らせるためには‥‥記録した干渉パターンを忠実に転写復元できるよう、死の直後と同じ身体を用意しなきゃいけない。つまり脳も全身神経網も死ぬ前とおなじになってないと、転写する情報がしっくり収まらず欠け落ちる。その取りこぼしがあまりに大きくなると、転写した『魂』が別物になってしまう。だからどこまで生前とおなじ肉体を用意できるかってことが問題になるんだと思う」


「『魂』‥‥」


「呼び方は『魂』でも『人格』でも『神経電流干渉パターン』でもなんでもいいんだけどさ。たとえばシオンの『魂』を幼女の小さな肉体に転写しようとしたらって考えてみて。幼女の肉体は大きさから長さから脳の容量や血管網や神経網の広がり方まで違うから、無理にシオンの情報を押し込もうとすると情報がごっそりはみ出してしまう。シオンがシオンであるために必要な情報が大量にこぼれ落ちちゃったとき、そこに残った幼女はシオンと同じっていえるかどうか」


「たぶん、いろんな精神的障害や異常がでてしまうかなー。っていうか、もうそれはウチじゃないかな」


「だから生前とまったく同じ肉体を用意できないと、人格が変わっちゃう可能性が高いんだ。なのでこれから対決する女神が本物なら、お願いするか脅すかしてみんなが死ぬ直前とまったく同じ肉体を用意させる。それさえできれば‥‥」


「それさえできればラウリやビビやノアを復活できるってことかー。あ。でもラウリはジュラが出入りしてなかったんじゃない?」


「いや。ラウリの身体を起こして寝かせたときに身体の接触面から出入りしてる。だからノアもラウリもビビも情報は記録できてるよ」


「じゃあ、女神をギッタンギッタンにして泣いて謝らせて、新しい身体を用意させればいいだけじゃない。可能性は高いんじゃない?」


ボクは笑った。久々の笑いだった。


「ギッタンギッタンになって泣いて謝ってくれたら可能性はあがるね」


「あ。でもさ。ウチらこっちに転生したときって、あっちの身体と違うアバターに混ぜ込まれてこんな見た目になったんでしょ。こんな金髪美女美女風味なんて前のウチとは真逆だからさー。意外とうまく混ざるんじゃない?」


ボクたちのいまのこの姿は、あっちの世界のボクたちの情報とこっちの世界で用意されたアバターがミックスされて生み出されたものだ。


「ボクたちは記憶を保持してるし不便も齟齬も感じてないから上手に混ざったように思ってるけど、実際はあっちの世界のボクとこっちの世界のボクは人格とか気質とか別物っていうくらい違ってるのかもしれない。このあと生き残れないかもしれないからいまいっちゃうけど、ボクはあっちの世界で男だったんだ。こっちの世界に転生したら女の身体にされてた」


自分でも驚いたくらい躊躇いなくいえた。隠し事したまま死にたくなかったからだ。


「えええええ。コミュ障だけどサバサバしてるし実行力あるし、気っぷのいいお姉さんだと思ってたけど。お兄さんだったわけ?」


シオンがボクを上から下まで眺め回す。いまさら見たって男だった徴候が見つかるとも思えないけど。


「まあね。ごめん。お風呂で裸見ちゃったけど。でもいまは女だし。ホルモンで女性化してるのか、裸を見ても性的なものは感じないし。いや。ごめん。以前のボクならもっとショックを受けて思い悩んで鬱々としただろうに、実際はあっさり受け入れたし感慨深くもなかったのが証拠になるかな」


「っまあ、いいけどね。ウチはウチだし。ママとパパのこと大好きなままだし。いまも生きてるし、楽しんでるし。そんでミナトはミナトだし。ウチよりおっぱい大きいし」


うしっ、とひと声かけてシオンが立ちあがる。


「それじゃ、さくっと女神をぶっ倒してビビたちの身体を用意させましょ」


ボクも立ちあがってシオンのあとに従った。


「さくっといければいいんだけどね。ワームホールの空間でも話したけど、女神はチート級だと思う。ボクたちのステータスは99止まりだけど、それはボクたちの肉体が99の性能で設計されているからだろう。でもこの肉体の基になったアバターを作ったのは女神だからね。99までが技術的限界なのかどうかはわからない。もっと上の肉体を造れるのかもしれない。ボクたちをここへ呼び込んでおいて、策もなくフェアに対決してくれるほど甘い相手じゃないだろう」


「女神なんだから、もの凄くいい人かもしれなくない?」


「いい人がビビの父親を操り人形にして娘を殺させないでしょ」


「だよねー。あれ。なんか話が逸れてない。ジュラはどこにいったって話からだったよね」


「ああそっか。ジュラは万が一の場合に備えて分身して、ボクとシオンの中に入っているよ。もしボクたちが死んだらジュラが記録してくれる」


「わお。ウチの身体の中」


シオンが胸を押さえる。一瞬顔が真剣になり、次にほんのり表情を緩める。ジュラを体内に忍ばせてまで死のリスクに備えるということが、リスクの高さを物語っている。女神ともし戦うことになったら生き残るのは至難の業だろう。女神を制圧してこちらの要求を実行させることなどほぼ不可能に近いとシオンもわかっているはず。それでも怯まず向き合おうとしている。それ以上シオンは質問しようとしなかった。ボクもそれ以上話すことなく、ふたりして黙々と階段をおりる。200mか300mはおりたろう。ここの住人は絶対どこかにエレベーターを隠しているに違いないんだけど、そんな設備は見当たらなかったからひたすら歩くしかなかった。しかしステータス99の肉体は息も切れない。ついに階段が終わり広めのホールに出た。


「なにここ。オシャレー」


どこかの宮殿の美術展示室かサロンみたいにクラシックな豪華さ。壁は白一色ではなく金のモールディングで装飾され、豪華絢爛なシャンデリアが何基も吊られている。巨大な額にさまざまな画家による女性画が収められ、何十点も展示されていた。絵画の下に金属プレートが掲示されていて作者と絵のタイトルがわかる。ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』はボクでも知っている。アール・ヌーヴォーの画家アルフォンス・ミュシャの『夕べの女神』は美術史動画で見たことがある。狩野芳崖『悲母観音』という日本の絵画もある。どうやら古今東西の女神をモチーフにした絵画が陳列されているようすだ。階段の真正面に装飾された両開きの扉があった。シオンがすっと扉の横位置につく。


「予想だと問答無用で襲ってくることはないと思うけど。でも、警戒はだいじだね」


そういってボクも真正面の位置からは立ち位置をずらし、ドアの把手を引いた。扉が滑らかに開く。いままでの各階がそうだったように、無機質な白一色のドーム空間を想像していたけどまるで違った。まるで近代的でモダンな寺院の大聖堂みたいな空間だった。広さは日本武道館とおなじくらいか。天井にはドーム状の天窓構造があり、まるで外光のような光に白く輝いている。直線と曲線で装飾された壁の抽象模様。ドームの天窓から差し込む光が、真下にそびえ立つ重厚なアンティーク調の鉄扉てっぴを浮き立たせている。高さにして5mはあるだろう。重さはトン単位だな。表面に加工された円と直線のレリーフ模様がなければ、古典の名作映画『2001宇宙の旅』に登場する『モノリス』みたいだ。壁もドア枠もなく、ただ片開きの鉄扉だけが直立していた。これが『無明門』ってことか。その鉄扉の真横‥‥4mほど離れた空中に、巨大なアンティーク調のソファが浮かんでいた。ソファを中心にしてドーム空間の空中に大小数百のスクリーンが浮遊している。そのソファに優雅に寝そべってソイツがいた。


「あれが‥‥女神?」


「ひとりしかいないしね」


ゆるっと上体を起こし、ソファの端から脚を落とす。襟ぐりの大きなワンピースはよく見ると和装のように前合わせで、帯のようなリボンで腰を締めていた。花びらみたいなスカート部からこぼれる生脚は素足で、妖精の羽に見える領巾ひれにシフォン生地を使ってフワフワ感を出している。胸は未発達で幼児体型。どう見ても中学生か小学生だ。


「なによあれ。まだガキじゃない!」


少女はソファに座ったまま動こうとしない。とりあえず問答無用で襲ってきたりはなさそうだ。ボクは門をくぐった。すぐ横をシオンが警戒しまくりで続く。心拍数は跳ねあがっているし血管内をアドレナリンが駆け巡ってるけど、表には見せずにゆっくりと近づく。少女を正面に捉えてはいたけど、その右手に鎮座する扉に意識が吸引される。視線を向けないようにするのがひと苦労だった。あれが『扉』だ。女神が観察して創生したこの宇宙は『泡宇宙』のひとつにすぎず、大小さまざまな無数の『泡宇宙』がダイナミックに生成消滅しながらせめぎ合っているという‥‥「単一」を意味するラテン語由来の接頭辞「uni−」がつく『ユニバース』ではなく、無数の宇宙が泡のように集まった『マルチバース』という考え方。ボクやシオンがいまいるこの宇宙と『マルチバース』との接点、宇宙の臍の緒のような空間をあの扉が表している。扉である必要はないのだろうけど出入りする場所という意味合いから、扉という共通概念に仮託することでそれを封じ押し留め制限するというイメージがつけやすくなる。肉眼には扉と見えているけど、魔力の流れを感知すると、物質ではなく強力な魔法錠の構造が浮あがってくる。重力による空間の歪みを複雑に組み合わせて鍵構造を成していた。あの鍵を開けるためには重力魔法を量子単位で制御しなくてはならない。なるほどね。この世界で重力魔法が禁忌魔法とされている理由がわかった。重力魔法を極めると、この扉に掛けられた魔法錠を解くことができるからだ。まじまじと眺めて魔法錠を解析したかったけど、目は正面の少女から離さなかった。


「見てミナト。あのスクリーンの映像、日本の昔のアニメじゃない。あっちのは5年くらい前に流行った韓国のドラマだよ」


小声でシオンが囁く。視野を広く取って見ると、空中に浮遊しているスクリーンに映し出されている映像はどれも元いた世界でヒットしたドラマやアニメ、懐かしの映画なんかだった。そのひとつにボクが転生直前に見ていたファンタジーアニメがあった。ボクが見ていた時点ではまだ登場していなかったキャラと戦闘しているシーンが流れている。ボクが見ていない回の映像ってことは、もしかしてリアルタイムの放送なのかもしれない。少女から集中を逸らせたのは一瞬だけ。目を離すのが怖かった。少女はボクたちが近づいていく間、ソファから脚を垂らしブラブラさせているだけで、他は微動だにしない。その顔に表情はなく、内心の考えを窺う術もない。横でシオンの息が荒い。かすかな金属音。シオンがきつく握ったロングソードを持ち替え、手の平をパンツに擦りつけて手汗を拭っている。そして距離にして10m。ブラブラさせていた少女の脚がピタッと止まると同時にボクたちも止まっていた。シオンがもう1段腰を落とす。いつでも突っ込める体勢だ。


「なかなか度胸が座っているね。ミナトちゃんは心拍数70。血圧130の82。かなり緊張しているけど上手に抑えてるね。シオンちゃんは心拍数86。血圧145の95。震えが出るくらい緊張しているみたい。そう身構えなくていいよ。こちらから仕掛けたりしない。座ってお茶でもどお?」


ボクたちのバイタルまで見透かされている。シオンが横でゴクリと唾を飲んだ。


「いや。このままで結構。お招きに応じて参じましたよ」


少女の右の眉が2mmほど動いた。


「招いたことはわかっているようね。どうしてそう思ったの?」


「ノアを殺させて、ラウリは殺さず拉致した。ラウリを奪還するために是が非でもこなくちゃいけない状況を作ったってことだ。ノアを殺したのは、命がかかった事態だと示しラウリ救出のための『白亜宮』侵入を最優先に動機づけるため。やりすぎだと思うけどね。ボクがワームホールを作って転移移動できることを知ってたから、わざわざヴエンツェル師を白亜宮に呼んで拝謁させロケーションの記憶を刷り込んだ。ボクがヴエンツェル師の記憶を読むことまで計算してた。貴女が女神の偽者だっていう可能性も考えたけど、そこまでお膳立てができるって‥‥やっぱり本物の女神みたいだ」


ペチペチペチ。少女が可愛らしく顔の横で手を叩いた。


「ご明察。名探偵の素質はあるわね。私が女神ルキナ。自分でいうのは胡散臭うさんくさいけど本物よ。ちなみにこの肉体は私が誕生してから12年後に受肉させたから12歳に設定しただけ。身体は現状でなんの不便もないから成長させてないだけで、いまは20歳になるわ。シオンちゃんよりお姉さん。ガキ呼ばわりは心外だわ。この世界を創り出すにあたっては20億年分の進化シュミレーションをおこなってるから、精神年齢的には貴女達よりはるかに年長だともいえるんじゃないかしら。ギッタンギッタンにして泣いて謝らせるとか、もう少し敬意を払ってほしいものだけど」


「地獄耳めー。やっぱり会話は盗み聞きされてるのね」


シオンの鼻息は荒い。


「盗み聞きっていわれるのも不本意よね。私はこの宇宙の原子の1個まで観察して、存在が確率の海に拡散しないよう固定してるの。だから私の目は常在普遍じょうざいふへん。聞きたくなくても聞こえるし見えるのよ。私をギッタンギッタンにして泣いて謝らせて死んだ3人の身体を再準備させたいってことだけど、残念ながら不可能だわ。転生システムはこっちの世界じゃなく貴女達の前いた世界の方にいる私の同位体が情報を練りあげてパッケージにして送ってくるのね。肉体の生成には貴女達があちらから情報として持ち込んでくる『意志の力』が不可欠。だから、こちらでは準備できないのよ。ましてバイオレットちゃんはこちら生まれだから転生情報がないし。もしなんらかの方法で可能だったとしても、私をギッタンギッタンにして泣いて謝らせるのは‥‥くすっ‥‥貴女達ふたりがかりでも不可能だと思うわ」


女神が失笑を漏らす。その口角はあがるんだけど、目の奥に感情の揺らぎがない。


「やっぱ、そうだろうな。生きたまま戦闘不能にするなんて、相当な実力差がないと無理だからなあ」


女神のいう通り、ボクとシオンが全力で連携しても女神の戦闘力を凌駕できないだろう。


「あら。その顔は‥‥やっぱりプランBがあるみたいね。どういう計画かな。それとも内緒?」


「自分より能力が上の存在をギッタンギッタンにして泣いて謝らせるよりは実現性があるけど、そのかわりとんでもなく手間と時間がかかる方法なら‥‥なくはない」


「だいたい想像はつくけど‥‥それって気が遠くなりそうなくらい手間よね」


シオンが目だけ動かしてボクを見つめる。


「ミナト。どういうこと?」


「ボクたちのこの身体は女神の観察によってガチガチに固められているから、深度4000mの潜水艇みたいにマルチバースからの強烈な圧力を受ける。だから簡単にはこの宇宙から離れられないんだ。でももしなんとかして女神の観察で収束したこの宇宙から離れられれば、無数の泡宇宙を包括するマルチバースの中を旅することができるようになる。前に第2の連中や『断剣』さんと宴会やったときに話したけど、マルチバースの中では『10の10の1千万乗乗』個の泡宇宙が存在してるって覚えてる?」


シオンが苦笑いする。


「ごめん。聞き流してた」


ルキナの様子をうかがう。敵意は感じられない。黙ったまま脚をブラブラさせている。説明する間は待ってくれるってことか。


「だろうね。まあいい。とにかくとんでもない数の宇宙ができたり成長したり消えたりしてるわけ。メチャクチャ大雑把だけど‥‥空っぽの宇宙にボクたちの宇宙にある原子をすべてまとめて無作為にばらまいたとき、『10の10の122乗乗』回繰り返せばボクたちの宇宙とまったく同じ原子の配置になったコピー宇宙ができあがるっていう論があるんだ。『10の10の122乗乗』ってとてつもなく想像を絶する数なわけ。でもそんなのがゴミに思えるほどもっと途方もない『10の10の1千万乗乗』個もの泡宇宙が生成消滅を繰り返してるマルチバースの中には、コピー宇宙だらけって計算になるのね。人も街も都市も風景も空中を漂う花粉の位置さえピッタリ同じな宇宙がほとんど無数に存在するわけ。だからマルチバースの中を旅することができれば、この宇宙とまったく同じ宇宙を見つけられる。ノアとラウリとビビの器になる肉体が揃ってるってとこだけが違いで、他はまったく同じっていう宇宙もあるはずなんだ。その宇宙を見つければビビたちの情報を転送して生き返らせることができる」


シオンがルキナの動向から目を離さず、しばし考えてボソボソ呟いた。


「宇宙のガチャか。それって、探し当てるまでにとんでもなく時間がかかるんじゃ?」


「そうだね。類似性の高い宇宙だけを集めたとしても‥‥少なくとも千億個の宇宙を調べないといけなくなる。『10の10の122乗乗』個の宇宙を手当たり次第に調べるより楽だろうけど」


「それってひとつの宇宙を1日がかりで調べたとして千億日。365で割ると‥‥えーと。ざっと2億7千万年かかるじゃん。おばあちゃんになっちゃうよ」


知力ステータスが99になってるからシオンの計算力もアップしてる。


「いや。骨も残らない状態になると思うけど。マルチバースでは時間も可塑性を持つし肉体は宇宙を変わるたびに交換されるから、長すぎる年月に発狂さえしなければなんとかなると思うんだけど‥‥拷問かもしれないね」


クスクスと笑い声が聞こえる。ルキナの唇の端がほんの少しあがり、そこから笑い声が漏れていた。


「シュミレーションとはいえ20億年を体験した身としていえば、時間は地獄よ。無意味で無価値で、無味無臭の砂をじゃりじゃりみ続けるだけみたいな退屈が無限に積みあがっていくの。おすすめしないわ」


「やっぱキツイよね。そこで平和的な提案なんだけど、この宇宙のガチガチな観察をやめて、自然のままに任せるってのはできないかなあ?」


「それは無理ね。観察は私の存在理由みたいなものだし。それを止めたらこの世界は確率の波に飲み込まれて溶け崩れてしまいかねないもの。でも別の方法で平和的に解決することは可能よ。無駄な争いはやめて、自発的に私の使徒になるっていうのいうのはいかがかしら。『操虫』を着けてもらうだけ。神の御業の執行のときだけ手を貸してもらうけど、普段はいままで通り気楽な冒険者を続けられるし私の力の一部も使えるようになる」


シオンがコホンと咳払いをひとつ。ボクに代わってきっぱりと断る。


「たいへん魅力的な提案ですけど。神の御業の執行って、同じ冒険者の仲間を殺すことでしょ。はっきり、しっかり、きっぱり、すっぱり、お断り」


シオンのこめかみに汗がひと筋流れた。断った瞬間に襲いかかられても対処できるようガチガチに緊張してる。でもルキナはまだ会話を続けるようだ。


「あら残念。待遇はいいと思うんだけど。ミナトちゃんが禁忌魔法さえ追求しなければ、排除する必要もなかったんだけどね。これ、私の最初にして最後のミス。この世界が誕生したとき、私も誕生直後の混乱があったのね。3ピコ秒だけ対応が遅れたの。そのせいで忌々しい『幻夢』なんていうゲームの設定が混ざり込んじゃった。重力魔法の存在しない世界を創れなかったのが、たったひとつのミス」


「だからなのか。ようやく腑に落ちた。マルチバースへの扉は鍵をかけるとしたら原理的に重力ロックじゃないと鍵にならない。つまり解除できるのは重力魔法ってことか」


「マルチバースにいきたい人は、いかせてやればいいじゃない。なんでダメなの?」


シオンが掠れた声で聞く。いますぐ襲われる気配はないとわかっていても身体が無条件に戦闘態勢を維持しようとする。結果、喉がカラカラになる。


「私がせっかく維持・固定しているこの世界を外から観察する者がいたら、この世界が忌むべき重ね合わせ状態になりかねないからよ」


1961年にユージン・ウィグナーによって提起された『ウィグナーの友人』っていう思考実験だ。シュレーディンガーが提示した『シュレーディンガーの猫』の思考実験をさらに猫の実験を観察している人間とさらにそのすべてを観察している人間にまで拡張した思考実験だ。箱の中に入ったシュレディンガーの猫の生死はそれを観察したウィグナーの友人ボブにとっては収束して生死が確定しているけど、猫の入った箱とその横で観測しているボブをまとめてひとつの部屋に置き、部屋の外にウィグナー本人が観察しようと待機してるっていう状況を想定する。するとボブもまた、ウィグナーが観測するまで重ね合わせ状態になってしまうって問題。シオンがチンプンカンプンな顔をしていたけど、説明しても脳がオーバーヒートするだけだろうからそっとしておく。


「まるまるひとつの宇宙が、たかだかひとりの人間の観察くらいで波動化するとは思えないけど」


「確率としてはゼロじゃないのよ。可愛い我が子の頼みなら、重ね合わせになったあげく消滅してもいい‥‥ってわけにはいかないし」


思わずボクの口から笑いの息が漏れた。


「可愛い我が子って、どの口がいうのかなあ」


「あら。心外ね。この世界の人間も動物もすべて私が創りあげたものよ。とってもフェアに保護してるつもりだけど」


頬を膨らませて少女が抗議し、そしてにっこり笑ってみせる。12歳の見た目の少女が浮かべる笑みはとても慈母の笑みとは見えず、完璧な顔立ちによってどこか酷薄にも思えた。


「ああ。そうか。なんかずっと違和感を感じてたんだけど、それか。違和感の正体は『フェア』ってことだったんだ」


「なに。違和感。どういうこと。わかんないよ」


ルキナを見たけど彼女が解説しようとする様子はない。まだ戦闘開始には至らないようだ。唇を湿らせる。


「えっとね。この世界の創造者たるルキナは、この世界のすべてにファアであろうとしているってことだね。なんとなく聞いたら、いいことみたいに思えるけど。裏を返すと人間も魔物もそこらの虫も病原体もおなじレベルで遇してるってことなるでしょ。いい方を変えれば、人の命なんてそこらの虫の命と同列に考えてることだよね。人間だから特別扱いしてるはずっていうのはボクたちの思い込みなわけ」


「えー。女神様なんだから優遇してくれると思ってた」


「さっきから話してて感じるんだけど。ルキナってベースが量子コンピュータで運用されるAIなだけあって、ちょっとお堅いというか‥‥嘘とかつかないし妙に生真面目きまじめなんだよね。こっちの世界の人的リソースとして転生者を求めているとはいってるけど、優遇するとはいってない。転生チュートリアルとしてこの世界でのサバイバルスキルを学習するゲームはあったけど、重要性を強調するでもなくただ用意して置いてあるだけ。あくまで任意で。だから多くの人は見過ごしたままこっちへきてしまう。最初に感じた違和感はね、転生直後の出現場所に関してだった。ボクもシオンも街や人の集落からはるかに離れた未開の地にばらまかれてる。これって完全にランダムに振り分けられるからフェアだとはいえるけど、転生者の危険は大きく増すよね。現にシオンは転生直後、獣に襲われて死にかけてたし。転生者は決して優遇なんかされてない。生きようが死のうが興味ないのかもしれない。もしかしたら死んでほしいんじゃないかとすら思える」


「あらら。私が、堅いって‥‥そんなこといわれたの初めてよ。ミナトちゃんはおもしろいわね」


「そりゃ取り巻きに『操虫』で傀儡くぐつにされた犠牲者か、女神様が畏れ多くてビビりまくりの臣下しかいないからだよ。客観的評価できる人材がいないせいだな」


「ふむう。一理あるかな。私に客観的評価をいってくれる部下として、ますますミナトちゃんが欲しくなるわね」


「謹んでお断りする。それよりボクの素朴な疑問には答えてくれないのかな。もしアンタが『未必の故意』で転生者の寿命を縮めてるなら、なにが狙いなんだ?」


『未必の故意』っていうのは『よろしくない結果が発生する可能性を予測・認識しながら、その結果が生じても構わないと許容する』こと。


「そうねえ。あちらの世界でいっている通りのことよ。『人的リソースの拡充』が目的。人的っていうのが労働力や生産力を表すのじゃなく、文字通り人間の生命が持つエネルギーを指すだけ。この世界を観察して隅々まで固定し、維持し、拡張するのって途方もないエネルギーが要るの。この場合のエネルギーっていうのはミナトちゃんがいうところの『意思の力』であり、『第5の力』であり、つまり『生命そのものの力』よ。それをもっとも大量に持っているのが知的生命体である人間。生きてる人間からこの力を奪ったら、当然のことながら死んでしまう。転生を約束して志願者を募っているから、殺すのは約束を破ることになるわ。それは私の本意じゃない」


「だから生存のハードルをぐっとあげて、事故率を増し増しにしてるってことか」


「なんてことを。人の命を弄んで。ウチら人間の『命』を喰ってるのといっしょじゃない!」


シオンが叫ぶ。シオンがいまにも暴発しそうだ。そろそろ潮時だ。解析も完了したし。


「慈愛の女神で誕生の女神のはずが、正体は‥‥外の壁に飾ってあった『鬼子母神』の帰依前の悪鬼だってことか。それとも『均衡という名の魔王』っていう方が似合いかな。鬼退治なら桃太郎だけど、魔王ならラグナロクか」


ルキナが暇潰しのおしゃべりに付き合ってくれて助かった。視界の端に見えている『無明門』の重力錠を解析する時間が稼げた。解析が完了したので『ラグナロク』という単語を口にする。『ラグナロク』という言葉を使ったら、そこから3カウント後に攻撃開始だとワームホール空間で打ち合わせてあった。3。2。1。ボクの脳内でイメージとして描画し蓄積していたすべての魔法陣に魔力を流す。魔力が湿気る状況を踏まえ、事前に顕在化直前まで魔力を注ぎ込んでいたから遅延はない。全神経系に魔素が流れ、全身の細胞に力がみなぎった。脳が活性化し、思考速度も反応速度も動体視力もなにもかもが励起した。世界が静止画になったみたいだ。でもフレームレートが3000fpsとかのミリ秒単位になっただけで、目を凝らせば世界は静止画に見えるほどスローモーションで動いている。ボクの時間感覚が高速化しただけ。同じことがシオンにも起こっているはず。タイミングはバッチリだった。女神は不意を突かれただろう。1ミリ秒でも2ミリ秒でも先行できたら、ボクたちが生き残る確率があがる。最初のミリ秒で向かって左手30m奥にワームホールの入口が現れる。続く先はベルダ・ステロの南門前。これで退路を確保。次のミリ秒で右手20m先の『無明門』に重力魔法陣が出現した。重力の捻れを鍵のように使い、108本の重力ボルトを差し込んで重力錠を解錠する。そして3ミリ秒後にボクたちの身体に魔法の防御シールドを纏わせる。


その瞬間、このときのために力を貯めていたシオンがブレて掠れた。女性のスタートダッシュ力を秒速6mとすると、ステータス99で125倍。秒速750mになる。音速は秒速340m。つまりマッハ2.2の速度でシオンが突進した。2歩目で音速を超えたからシオンの後ろに円錐状の白濁が生じ、周囲のスクリーンを消し飛ばすほどの衝撃波が生じた。ボクたちの全身を魔法シールドが被覆していなかったら、シオンの服がちぎれ飛ぶだけじゃなく髪の毛が引き毟られ皮膚が肉ごと剥離し内臓がズタボロになってばらまかれ粉砕された骨が弾丸のように飛び散って‥‥シオンはこの世から消滅していただろう。シオンは距離20メートルをやや左に斜行しながら一瞬で走り抜ける。女神ルキナは完全に虚を突かれたのか、ソファに座ったまま動こうとしない。ボクたちの強襲は感知したようで、片眉がほんのわずかあがる。シオンの突進に隠れてボクは右に斜行し『無明門』へ向かう。と同時に目眩ましとして用意した火炎球魔法陣18面がいっせいに起動した。ソファに座るルキナへ向けて18個の火炎球が突き刺さり爆発‥‥しなかった。ルキナの両手の平に漆黒の小楯のような曲面が生じ、ゆるっと太極拳のような動きで両手を振り動かす。するとその漆黒曲面で撫でられた火炎球が、しぼむように消えた。


思わず「反魔法!」と呟きかけたけど、高速機動中に声を発しても早送りした動画みたいにキュルキュルな超音波声になることを思い出して声を噛み潰す。反魔法はどんな魔法辞書にも載っていないけど、ボクはあるんじゃないかと予想してた。すべての粒子がそうであるように、魔素にも質量・角運動量・電荷がある。魔素は電子とよく似た性質を持ち質量は電子とおなじ、角運動量は重ね合わせ状態、電荷はマイナスでこれも電子とおなじである。電子に電荷がプラスの陽電子が存在するように、魔素にも電荷がプラスの陽魔素が存在してもおかしくない。この世界には大規模な粒子加速器がなくて検証しづらいから理論上の存在に過ぎなかったけど。ボクの撃ち出した火炎球はことごとく拭い消された。まさか反魔法で打ち消されるとは思わなかったけど、結果は予想済みだ。最初から当たるなんて期待してない。シオンの接近のカモフラージュになればいいだけ。女神の姿勢をわずかでも崩せればめっけものって感じだ。


火球の最後の1個が掻き消される直前、シオンが左手を振った。その手に握られていた棒金1本分の銀貨50枚が散弾のように女神を襲う。女子平均のダーツ投げ速度は時速15km前後。秒速4mって感じ。ダーツとコインは形状が違うけど概算だからよしとして、ステータス99で125倍したら秒速500m。散弾銃の散弾が秒速400mだから散弾銃より速く投げつけられるってこと。総額50万円分の礫攻撃だ。さすがの女神も、のほほんと座ったままで50枚の銀貨を処理することは難しかったみたい。滑るように優雅に床に降り立つと、上体をやや捻るように散弾コインの飛翔円錐から外す。標的に逃げられたコインの塊が、空中に浮いた長ソファをズタズタに引き裂き残骸に変えた。シオンが急制動を掛け左に軌道修正する。と同時に魔力を失った腰の短剣と手にしたロングソードを投げつけた。そこで女神から離れて左奥のワームホール入口に向かう。女神の気を引いて忙しくさせるシオンの役割は終わり。これ以上は逆襲で命を落とす可能性が高いから逃げ出す‥‥って納得させるのに苦労した。


『なによ。ステータスが10や20上だからって微々たるものでしょ』


というシオンにいってきかせたのは、ステータスが100近くまであがると1ポイントの増加による能力のあげ幅がとんでもなく大きくなるという実際の数値だ。ステータス10とステータス11では、たとえば跳躍力だと垂直跳び70cmが73cmになる程度。あげ幅はたった3cm。ステータス99がステータス100に1ポイントアップするだけで125倍が132倍になってしまう。約54mのスーパージャンプをおこなっても、相手はさらに3mも上の57mを跳んでしまう。筋力や脚力だけじゃなく、反射神経から反応速度から動体視力なんかのすべてが上の相手に勝てるわけがない。ステータスがたった1ポイント上だとしてもこの劣勢。シオンがいうみたいにステータスが10や20も上だったらスーパーヒーローに蹴散らかされる雑魚戦闘員になりかねない。


シオンが左へ方向転換して逃げ出したのを見届け、ボクは本命の魔法陣を作動させた。シオンが投擲した短剣とロングソードをかわすため女神の身体が20cm右にずれる。予想ドンピシャだった。移動した女神の身体の位置を中心に直径5mの球状空間を総計124個の重力ピンチ魔法陣で埋め尽くしてある。重力摘み《ピンチ》‥‥発動すると直径4cmの球状に重力傾斜の捻れが生じ、とんでもない爆縮が起こる重力魔法だ。女神の肉体が占有する空間に、最低6個の重力ピンチ魔法陣が入ったはず。接触式で発動するから、女神の身体内へ入った瞬間に小さいけど強大な重力傾斜の泡が生成される。泡内の空間が捻り取られ、女神の身体の中で内破が起こる。炸裂と同時に周辺の肉も内臓も骨もぐちゃぐちゃになって爆縮に吸い込まれてしまうはず。


空気が飴みたいに纏わりつく次のミリ秒で、ボクは『扉』へあと1歩の距離まで移動できた。しかし‥‥そこでボクは信じられない光景を目にする。女神の身体が超アクロバットの軟体ダンスみたいにくねり、空間に生じた重力ピンチをすべて回避してしまう様だった。身体から外された重力ピンチは女神の肉体を吸えず、光だけを吸う。小さな黒い渦巻きとなって消えてしまった。ミリ秒で生じた空間の捩じれをすべてかわしただけでもありえないのに、かわしながらシオンが投じたレーガン砲弾並みのロングソードを肘と手首の捻りだけで絡め取ってしまう。思った通りこいつの身体は特別製だ。ボクたちの限界を凌駕している。


くそ。仕掛けた罠はすべてかわされてしまった。無数の魔法陣をイメージ生成したせいで脳がオーバーヒートしかけている。ステータス99の動体視力をもってしても女神の動きがブレて見えた。空間の重力ピンチをすべてかわしながら一瞬でボクへと迫る。もうあと1歩なのに。脳が悲鳴をあげて、ボクは周囲に魔法シールドを1枚展開するのがやっとだった。突き出された女神のロングソードが飴細工を打ち砕くように魔法シールドを破砕する。切っ先が迫り、ボクの身体を包んでいる最後の魔法シールドを突き抜けようとした。


ちぇ。やっぱダメだったか。口惜しさもあったけど、できることは全部やり切った満足感も感じていた。ああ、死ぬんだ‥‥という感慨はそう重くない。なにせ1度は死んで転生した身だ。今度は転生しないだけの話。結局前世でも今世でも恋をしなかったなあ。セックスも知らない。身体が女になっちゃったからなんて躊躇ためらってないで、恋したりセックスしたりすればよかった。迫る女神の無表情な顔を見てると自嘲の笑いが浮かぶ。女神のロングソードが伸びてくる。切っ先は正確にボクの乳房の間。心臓にまっすぐ突き刺さるだろう。辞世の句を詠む暇はないな。と観念した瞬間。左脇腹に強烈な衝撃。金色のボブヘアが爆発したみたいに広がるのが、視界の隅に見えた。身体を保護したシールドでかろうじて肋骨は折れずに済んだけど、ボクの身体は音速を超えて吹き飛ばされる。そのまま『マルチバースへの扉』‥‥『無明門』を突き抜けた。


通り抜ける瞬間、全身の原子がひとつひとつ軋んで捩じ切られるような不快感が爆発した。原子分子が内側からの膨張圧力で激しく振動している。ボクの身体に染み込んですべての原子を守っているシールドがなければ、ボクは一瞬で拡散してしまっただろう。マッハの勢いで飛び込んできたけど、マルチバースの中では慣性も効かなくなるみたいだ。宇宙が捲れあがり反転してボクを吐き出す。『マルチバースの扉』は通り抜けると球状の渦巻きに見えた。ボクは球状の渦巻きのそばでゆっくり回転しながら浮いている。渦巻きの中心に裏返った小さな小さな女神の泡宇宙が見えてる。身体が渦巻きに向いているため、人類が初めて目にする壮大なマルチバースの全容を目にすることができなかった。身体は凍りついたかのように動かない。ボクは子宮の中の胎児のように手足を縮めて浮かんでいた。のんびり宇宙を鑑賞してる余裕なんかなく。ボクは脳のリンクを通じてジュラに叫ぶ。


『ジュラ。頼む』


『おっけぇー。まかせなさいぃー』


この期に及んで人任せな作戦。原理を完璧に理解できているわけでもない。『こうだったらいいな』程度の希望的観測といわれたら反論の言葉もない。ボクは自分を保護しているシールドを10分の1に弱めた。空間が宇宙が、世界を構築している法則が‥‥濁流のようにボクの中になだれ込み、ボクの原子を規定している女神の観察力を打ち消そうとする。圧倒的なパワーだった。女神の観察力というくびきが、原子ひとつひとつで弾けて消えていく。女神による粒子化がなければ緩やかな同化になったのだろうけど、強力な拘束だったため反動は爆発的なものになる。ボクの肉体は粒子であることを止め、スーパーノヴァ並のエネルギーを放出しながら波動化していく。ボクの肉体が拡散する。意識までマルチバースに爆散しようとする。ボクは波動化し、ボクという存在は確率の波になった。ボクという存在は無数の可能性を秘めた重ね合わせ状態になる。いまここでこうして考えているボクは無数に重なり合ったボクのひとりに過ぎず、ボクがボクであるという自意識すら曖昧になる。


もしボクがふたつの状態のボクの重なり合いだとしたら、ボクの『存在確率』は2分の1で0.5になる。重なりが4つならひとりひとりのボクの『存在確率』は4分の1で0.25だ。ボクの身体を構成する全原子数は大雑把に10の28乗といわれてるから、重なり合うボクの数も10の28乗=1じょう個となる。なので重なり合ったひとりひとりのボクの『存在確率』は1穣分の1。すっかすかだ。すっかすかだけどそれでもかろうじて維持した10分の1のシールドのお陰で、ボクの自意識がかろうじてしがみついていた。なけなしの『意志の力』をたった1点に集中させる。1穣個の重なりの宇宙の1穣人のボクが1穣回のトライをする。少なくない数のボクが集中に失敗し、確率の海へ溶け込んでいった。なんとか成功したボクは、ボクという存在を構成している無数の条件のうちたったひとつのパラメーターを書き換える。全情報でなく、たったひとつの情報だけを書き換える。それでも至難の業だった。書き換えたのは『魔力』の項目。1穣分の1の存在確率を1穣分の2に。誤差みたいな数字だ。


『ジュラァ!』


ジュラがボクを『観察』した。ボクの重なり合い状態が収斂し、1穣重にも重なり合っていたボクがたったひとりのボクになる。ジュラが重力勾配を操り、収斂したボクの身体を『扉』へと押し戻した。もう一度全身の原子がひとつひとつ捩じ切られるような不快感が生じ、吐きそうになる。ボクは転がるように白亜宮の最下層、女神の居室に戻っていた。眼の前に立つ女神の手から伸びたロングソードがシオンの胸に吸い込まれている。ぐったりと力を失ったシオンの身体。全体重を刃に受けて女神の腕は微動だにしない。女神がボクの出現に気づき、顔だけを向けて感情のない笑みを浮かべた。超高速モードは終わり、普通の時間が流れている。間に合わなかった。胸の奥にどす黒い棘々の茨を押し込まれたみたいだ。ボクは力なく立ちあがる。泣きたかったけど涙が出なかった。目も口も干魃の干潟のようにひび割れ乾き切っている。ボクはゆっくりとふたりに歩み寄った。女神の眉がピクリとあがる。ボクはなんの躊躇いもなく女神の手首に自分の手を重ね、静かに押しさげた。驚きで力が抜けたのだろう。剣先が下を向き、シオンの身体がズルっとさがる。剣先が身体から抜けた瞬間、ボクはシオンの身体を受け止めた。ゆっくりと膝を折り、床にシオンの身体を横たえる。脚を揃えて正座し、シオンの頭を膝に乗せた。シオンが薄っすらと目を開ける。唇が震えてなにかをいいかけ、ゴプッと血を溢れさせた。


「おいおいミナトちゃん。まだ戦いの最中だよ。斬ってくださいといわんばかりに隙だらけなんだけど。全面降伏なのかな?」


ボクの後ろで呆けたように佇む女神が言葉をかけてくる。うるさいなコイツ。


「斬りたければ斬ればいい。でもアンタは暇潰しがしたいんだろう。あっさり無抵抗のボクを殺しちゃったら面白くもなんともない。あとで相手してやるからおとなしくしててくれないか?」


返事を待たずにシオンの口の血を拭う。シオンが泣き笑いの顔を見せた。


「ごめん。ミナト。いいつけを守れなかったよ」


シオンには撹乱後にワームホールで脱出するよう、しつこいくらい念を押していた。


「いいさ。シオンが助けてくれなかったら、ボクが死んでた」


床に血溜まりがじわじわと拡がっていく。


「死ぬときって寒いんだね。ウチ、先にみんなのところへいってるよ」


シオンの顔が青ざめていく。息が震えている。ボクはシオンの額に貼りついた髪を掻き分けた。


「マルチバースの話をしたよね。絶対にみんなを復活させられる宇宙を見つけ出すよ。何億年かかっても」


「じゃあ、10億年ぐらいしたら‥‥また‥‥会おうね」


シオンの息が浅くせわしなくなっていた。


「ねー。ミナト」


「ん?」


「キスして」


「え?」


「キスの味も知らないで‥‥いくのは嫌だ。ミナトで我慢するよ」


シオンの目が閉じかかっている。躊躇っている暇はなさそうだ。ボクは顔を近づけた。唇は青白い。そっと唇を触れさせる。ひんやりと冷たかった。微笑んだのだろう。唇の端がかすかに震えて、そして小さな息が吐き出された。ボクはゆっくりと唇を離す。さよならシオン。シオンの頭を支えそっと床におろす。立ちあがる。5mほど離れて女神が興味深そうに眺めていた。


「待たせたね。続きをしようか」


「勝算はあるのかな。降参して私の仲間になるのがベストな選択だと思うけど」


「アンタの暇潰しにつき合う気はないよ。申し訳ないけどボクはアンタを殺してこの宇宙の観察をやめさせなくちゃいけないんだ。そうしないとみんなを復活させる条件を持った宇宙を探し出せない」


「私を殺したら。この宇宙は重ね合わせの波動の海に飲み込まれて希薄化する。ミナトちゃんが親しくしていた人々も無に返すつもり?」


「希薄化して可能性のスープに成り果てる前に、ボクが観察して再収束させる。アンタがこの宇宙を頑固に固定化していたおかげで、この泡宇宙にはこの宇宙の特徴が強く残像として焼きついてるはず。それがバイアスになって似たような宇宙が収束しやすくなっているから、新しい宇宙でもみんなの居場所は用意されやすくなってるはず。確率の波に飲み込まれてあっさり消えてしまうことはないと思う」


この世界の特徴が時空に焼きつき、重ね合わせからの再収束においてバイアスとなってくれるはず。だからマルチバースの泡の海を旅して『10の10の122乗乗』もある泡宇宙を片っ端から調べるっていう無限に近い労力が、この宇宙を千億回造り直すだけでよくなる。


「ふむ。確かに。でも。ある意味賭けよ」


「賭けるだけの価値はあるさ」


「ふーん。つまらないなあ。もっと遊べると思ったのに。マルチバースへいってなにか企んでたように思うけど。ふむう。私の観察が効かなくなってるようね。再観察ができない。それが狙いってことかしら。他には‥‥見たところ変わってないみたいだし」


「戦闘再開の前に、ひとつ教えてほしいんだけど」


「なに?」


「20億年分のシュミレーションしたとかいってたけど、世界を見守るだけっていうのは退屈なものなのかな。アンタが物理的制約を受けたり死ぬ危険性があるのも承知で受肉したのって、やっぱ退屈だったからじゃないのか?」


「そうね。全能の神でいることって、恐ろしく退屈よ。リスクがないからスリルもない。トラブルが起きなければただ見守っているだけ。ミナトちゃんにはオススメしないわ」


「そうだね。キツそうだ。でもやるしかないからなあ。千億回宇宙を創り直せば望む宇宙ができる計算だから。ひとつの宇宙に1ヶ月滞在するとして1年で12宇宙。ざっくり83億年。果てしないね。アンタもちょっと強迫性障害気味なところあるから、時間に心をやられたひとりなんだろう。ボクも気をつけて狂わないようにしないと」


果てしなき宇宙のガチャ。そのたびに肉体は造り直されるから不老だけど、精神を病む可能性は高い。


「質問はそれだけ?」


「うん。ありがとう。では、戦闘再開で」


そういったとたん、女神の身体がブレた。超高速モードでボクを制圧しようとしたのだろう。だけど準備はできていた。女神が動こうとした瞬間、女神の居室であり『扉の間』でもあるドーム状の空間すべてを満たす極大の魔法陣が生成される。その空間の中の重力が地球の表面重力の3千倍になった。戦闘機が戦闘機動をおこなってパイロットが受ける重力加速度は最大で10G。10Gでも短時間で意識喪失する場合があるほど。女神の体重が40kgだとして3000Gの重力がかかると、その体重が120tになる。人間でいちばん太い大腿骨は、300kgの力まで折れずに耐える。ステータスが99のボクならその125倍までなんとか凌げるはずだけど、それだって37.5tまでが限界だ。ステータスが100を超えてるだろうチート性能肉体を持つ女神でも、120tは耐えられないようだ。見えないプレス機に押し潰されたかのように床にベッタリと貼りつく。メキメキと骨の軋む音が響き、鼻と口から血を噴いた。重力は生体にのみ作用し、無機物である床や壁には影響を与えない。でなければ石材などあっという間に砕けて、ドーム空間が崩落してしまっただろう。もちろんボクを中心にした直径10mの球状空間には重力魔法が及ばないようにしている。ボクの足元に横たわるシオンの身体も損壊しない。それでも女神はしぶとかった。ブオン。という振動音とともにその両手の平に漆黒の曲面が現れ、ボクの魔法陣を抉り取るように掻き消す。床に貼りついていた身体を引き剥がし、片膝つくまで身を起こす。


「キサマ‥‥」


振り乱した髪から覗く目は毛細血管が破れてドラキュラみたいに真っ赤になっている。ボクは冷静に新たな魔法陣を生成して女神に作用させた。肋骨の1本が砕けたのだろう。女神が床に突いた右肘が崩れて頭が床を擦る。


「無駄だと思うよ。『扉』の向こうでボクは賭けに勝った」


女神が反魔法で重力を消し声を絞り出す。血の唾を床に吐きボクを見あげる。


「なにをした」


「マルチバースの中で重ね合わせ状態になって、拡散する前に再収束した。そんときに自分のパラメーターのひとつだけ存在確率を書き換えたんだ。ゴミみたいな微細な変更だけどね。波動関数が収束し存在確率が足し合わされて1になるとき、極小だけど増加された書き換え部分は足し合わされて1を超えた。いまボクの魔力のパラメータは、塵も積もればの原理で垓の単位だ。アンタがなんど魔法を無効にしようといくらでも重ね掛けできるよ。アンタの魔力が尽きるまでつき合うよ。ノアやラウリやビビやシオンに与えた苦痛の分くらいは贖罪しょくざいしてもらう」


「存在確率を‥‥書き換えるだと」


「お堅い女神さんには、想像もつかなかったみたいだね。ある種、インチキみたいなもんだからなあ。鼻血出るほど計算もしたけど運任せだらけ。よく成功したって自分でも驚いてる」


「そんないい加減なやり方に負けるのか。この私が」


女神が死に物狂いの形相で反魔法を発動した。重力が消えた一瞬を利用してジリジリとボクに接近を始める。狙いはボクを保護する魔法の効かない範囲だ。そこに入ることができれば、圧倒的なフィジカルでボクを殺せるだろう。1cm、また1cmと床を這いずって接近してきたけど、120回目の反魔法で女神の魔力が切れる。残り20cmだった。肘を突いて起こしていた上体がゴキッという音とともに潰れる。肋骨が折れて肺を突き破ったのかもしれない。盛大に血を吐いた。乱れて床に広がった髪の間から、ボクを見あげる驚きの目線。人間ごときに女神が倒されることが信じられないようだ。その視線がふと諦めの色に染まり、ボクの顔から外れていく。ベキバキと骨が砕ける音が響き、ついに脇腹から肋骨が飛び出した。骨と内臓が圧壊し押し出された血が重さで拡がることもできずに床に粘りつく。胸郭がまっ先に陥没し、次いで骨盤が潰れた。超合金並の強度を誇る強化頭蓋骨もメリメリと圧縮され、限界を超えて最後に押し潰される。人の輪郭を持った血まみれのシートが床に薄く貼りついていた。女神の最期だった。


重力魔法を解除し床にへたりこんだ。ゆっくりしている暇はなかった。ボクは転移魔法を使い、シオンとラウリの遺体をベルダ・ステロの教会に運ぶ。そこの司教さんに金貨を寄進して埋葬を依頼した。世界がどれほど波動化し重ね合わせ状態になっているかはその世界の中からはわからない。モタモタしていたらタイミングを逃す恐れもあった。誰にもさよならの挨拶はしない。きっとまた会えるはず。女神の居室に転移で戻り、『無明門』に相対した。無明門が前に比べて重厚感を増しているような感じがする。この世界が希薄化して、相対的に『無明門』の属するマルチバース宇宙の存在感が増しているのだろう。ボクはひとつ深呼吸をした。自身にシールドを纏わせ、軽く床を蹴って飛び込んだ。3度目でも慣れない不快感。今度はマルチバース空間に相対する形で空間に飛び出る。壮大な眺めだった。泡宇宙のひとつひとつが無数のシャボン玉のように天を覆っている。なんだろう。壮大でダイナミックでどこか儚い景色。妙な既視感があった。なんだろう。でもそれを深く追求している暇がない。ボクは自分を反転させ、『無明門』に向かい合う。さあ、いこう。みんなとまた出会うために。たとえ千億の扉を開けようとも。


********


ボクがこの宇宙で

最初にみたのは、

夜空に渦舞う

レインボーバブルス。


綺麗だった。


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