33.ありふれた「湯治」と「大宴会」と「夜道は怖い」
とりあえず斬ってみたら案の定、別の攻撃手段を持っていた。くそっ。そう甘くないのね。地面のメロン模様根を斬りつけながら中心へ向かうと地中に激しい動きが生じ、地の底から太さ2cmの魔棘が5本単位で3m近く突出した。未来予測と見切りと勘と最後は当てずっぽうまで動員して死に物狂いで身をかわす。ボクもビビも目をつぶってエコーロケーションで周囲をスキャンして動いている。反響音。共鳴音。摩擦音。擦過音。風切音。視覚と違ってエコーロケーションから得られる立体画像はモノクロだし、自分自身の立てる音や周囲の音の伝わり状況によって解像度がブレるため、ときにcm単位の曖昧さが生じる。目の悪い人が眼鏡を外して戦闘してるようなものだ。正確な見切りが難しく、回避にも攻撃にもブレが出てしまう。正確性を増すために一瞬でも脚を止めれば、ゴルゴダの丘のイエス・キリストのように最低3本のロンギヌスの槍ならぬ魔棘で刺し貫かれるだろう。生き続けるには動き続けるしかない。身を捻って1本の魔棘をかわし、そのまま進んだ場合の未来位置に突き出してくる魔棘をステップで方向転換し避けながら斬り払う。魔棘を斬りながら地面のメロン模様も斬り刻む。斬っても斬っても新しい棘が高速で突き出してきた。
「ミナト。卵型に近づけない!」
「ビビ、無理にいこうとしないで。まずは棘の攻撃を斬り崩していく。持久戦だ。ラウリとンガバ副隊長がみんなを救出する時間を稼げればいい」
「わかった」
跳び、かがみ、捻り、飛び退く。遠目には楽しくシャッフルダンスでも踊っているかのように見えるだろうけど、死ぬか生きるかの極限ダンスだった。回避運動で体勢が崩れていなければ魔棘を斬る。体勢が大きく崩れれば魔棘でどこかを切り裂かれた。何本の魔棘を斬ったことか。最低でも50本は斬ったと思う。その間ずっと極限の精神集中を続けていたため、こめかみがビキビキ痛くなってきた。頭痛に気を取られコンマ01秒気が緩んだせいで動きが甘くなり、あと3cm身体を捻らなくてはいけないところで2cmしか動けなかった。幸運にも魔棘の先が手甲の金属片に当たって逸れたので怪我はない。でも革ストラップにざっくり切れ目がついてちぎれ、右の手甲が外れて落ちた。次に避け損なった魔棘が肩口のブラウスをすっぱり裂いて、ついでに皮膚まで深さ2mmほど斬り裂いた。長さ5cmほどの切り傷からぷつぷつと血の玉が滲む。斬っても斬っても魔棘の数や勢いに変化がない。持久戦だと自分でいっておいて、もうめげそうになってる。ブーツにも胴鎧にもかすり傷がいくつも刻まれていく。頭の振りで魔棘の先をかわしたつもりが、頬に長さ4cmの斜め傷が走った。くそ。暴力団になっちゃったぜ。横後ろからビビの「っ!」っていう詰め息が聞こえた。思わず目を開いて見つめそうになったけど、ぎゅっとつぶって耳を向ける。荒い画像でもわかるほど革のパンツの太股部分がざっくり斬られ、血がしぶいていた。
「動きが鈍るようならさがって」
「大丈夫。かすり傷。動ける。そういうミナトのほうが血まみれよ」
浅い傷ばかりだけど、着てきたブラウスが大間違い。白を着てたんで血の飛沫がエコーロケーションのモノクロ画像でも白地に黒く目立つんだよ。
「こっちもかすり傷」
全身ズキズキひりひりチクチク痛いけど。なんかお互い見栄張ってるな。脚を踏ん張って腰を折り、腹に向かってくる2本の魔棘の突出を避ける。地面3箇所と魔棘2本を斬りつける。そろそろ息があがってきたけど間もなくだった。ラウリが根毛に包まれて繭化したシオンの繭を切り開いてる。シオンで最後だ。ボクとビビでコアからの攻撃を引きつけたため、救出の邪魔が入らなかったのがよかった。救出された隊員が気付け薬替わりのポーションで回復し、救出する側に回ったから予想より早い。救けられたシオンがポーションを飲んで「不味いーっ」て叫ぶ。
「全員、地面の模様から離れて林に退避して。魔法を使う」
魔法は効かないんじゃないのって顔でビビが顔を向けてきたけど、ビビはシオンと違い戦場でよけいなおしゃべりはしない。急ブレーキをかけて後ろへ飛びながらビビが2本の魔棘と地面の根を切り刻みメロン模様の範囲外へ出た。ボクひとりにコアの攻撃が集中するようになったけど、魔棘の数が明らかに減ってる。じわじわ効いてるんだ。これならいけるかも。さっきから攻撃しつつ逃げ回りつつ、あちこちの空中に魔法陣を設置していた。総数48個。卵型ミラーボールを中心にして周囲に16個丸く並べた魔法陣はミラーボールに向けて上向き設置。残る32個は真下に向けて中間軌道上に12個、外周軌道上に20個設置した。あちこちの傷の痛みに耐えながら飛んで跳ねて斬って、魔法陣まで設定するのは至難の業だ。偉いぞミナト。だれも褒めてくれないから自分で褒める。脚がもつれそうになると今夜の宴会を思って自分を奮い立たせ、なんとかやり遂げた。メロン模様を切り刻みながら円の外へ跳ぶ。
「発動!」
声をあげた瞬間、48個の魔法陣が発動光を発して髪の毛よりも細いジェット水流を撃ち出した。設定角度内でアトランダムに噴出角度がうねり、地面のメロン模様をずたずたに斬り裂いていく。上を向けた魔法陣から発射したジェット水流は10mの距離で威力は減衰したものの、コアの卵型ミラー面をやすやすと斬り刻んだ。ミラー面が割れ落ちて、奥の空洞に保持されていた目玉がギョロッと現れる。水流はその目玉も斬り裂いていて、どろっとした粘液を溢れさせてふたつに割れた目玉がこぼれ落ちた。コアの内部空間が魔力の湿気る特異空間だとしても、水をジェットにする魔法の仕組みは外部空間に設置されるから湿気りの影響は受けない。コアを斬るのは魔法要素が含まれないただの水だから、問題なく斬れる。生命力の半端ないコアは数本の根が切断されても網目状の迂回ルートを通して回復魔力を送り、切断部を根毛で包んで数分で治してしまう。でもすべての根をほぼ同時に細切れにされてしまうと、回復魔力を送る迂回路がなくなり滅びるしかない。ジェット水流は地中5m近く切断力を保持し、地中の根までズタズタにした。3秒で魔法陣にチャージした魔力が尽きる。ジェットの噴出が止まり魔法陣が霧散した。ウォータージェットの騒音で乱れていたエコーロケーションイメージが、霧が晴れるみたいに再構築される。目をつぶったままズタズタになった根の網目の上に戻った。魔棘が突き出される気配はない。完全に機能停止してるようだけど、油断は禁物。石橋と魔物は壊れるほど叩くがモットー。周囲に石ころひとつ見つけられなかったので、魔棘に引っ掛けられて外れかけてた胴鎧のミスリル板を毟り取ってコアの向こうに投げつけた。涼やかな金属音で鮮明なエコーロケーションイメージが得られる。
「弓持ってる方。卵の根元の方で残ってるミラー部分を射壊してください。手前に3個、向こう側に2個。あと5枚残ってます」
金髪の均整美人ダフネ・パパンドレウ士長、鬼の1班副班長だけど泣き上戸のニケ・ミツォタキ曹長、口髭の紳士3班副班長ロジェ・ドパルデュー士長の3人が弓を持ってた。ボクがいい終わる前に神速で3本の矢が卵の根本に突き刺さり、鏡と目玉を破壊する。パパンドレウ士長とミツォタキ曹長が次矢をつがえながら走り出し、反対側に回って矢を放った。
「除去完了」
ミツォタキ曹長が報告してくれた。歴戦の曹長の威厳が感じられる声。カッコいい。
「ありがとうございます。完全に活動停止してます。もう目を開けても大丈夫ですね。ちょっと失礼して、ポーション飲ませていただきます」
うげぇ。不味い。あちこちの傷が回復していく。その時間を利用して上空のジュラと共有している視覚と重力感知を確認する。周辺に他のコアが突き出してる様子や大怪獣が徘徊してる様子がないことを確認してジュラを呼び戻した。
「退屈だったよぉ。暇でお腹減ったよぉ」
ジュラが舞い降りてボクの肩に座り込んだとき、コアが分解を始める。いっきに240000もの経験値を得て総経験値が4492100となり、レベル110にあがった警備隊の面々がレベルアップ酔いでうずくまってしまう。ボクとシオンとノアとラウリの4人もレベルアップしたけど立ったまま膝に手を突くだけで耐えた。レベル125となり、ビビ以外の全員がレベルアップ酔いで呻くことになった。
「わあ。見てミナト。魔石が凄い大きさ。しかも見たことない色のが2個も出てるよ」
ビビの声が聞こえる。コアのミラーボールがあった地面のくぼみに紫色の巨大魔石が2個転がっていた。そのあたりに魔界と現世をつなぐ穴があったはずだけどそれらしき穴などはない。コアの死滅と同時に塞がってしまったのか。
「わ。見て見て。根のところどころにあった小さい根毛の綿ボール。包んでた綿が消えて中から動物の死骸が出てきてる。なむー」
シオンが手を合わせた。風下だったら死臭とかが酷かったかも。幸い風上にいて助かった。
「パパンドレウ、ミツォタキ副班長。戻りがてら魔石を回収してくれ。全員異常ないな。ガーディスト・デ・ラ・サノに戻るぞ」
森から出たところで二角馬に騎乗したボワヴァン団長率いる第1騎士団と遭遇した。アチバドラフ隊長が端的に経緯を説明。ボクが他の大怪獣やコアが現れても時間を稼げるよう都市の周辺に結界魔導器を仕掛ける案を話す。ついでに連戦で全員疲弊しているので今夜は休養に充てると申告して了承してもらった。コアの魔石をボワヴァン団長付きの騎士に預け、倒した大怪獣たちの魔石回収もお願いして団長一行と別れる。副市の南門まで戻ると大勢の市民や兵士が崩れた南門の瓦礫を片付けようとしていた。かろうじて二角馬が通れる隙間が開通している。中央広場までの道を埋め尽くしていた避難民も随分整理されていた。東西両門の外に大規模なテント群が設営がされ、避難所に充てられているようだ。打ち合わせ通り先に戻った2班のメンバーは教会堂の臨時救護所で負傷した3人に慈療を施してもらった後、警備隊庁舎の待合室で待っててくれた。庁舎に着いたのが17時の数分前。警備隊とシオンたちにはいったん各自の宿舎に戻って鎧を外し普段着に着替えて、30分後に警備隊裏手の屋外修練コートへ集合するようにいった。お風呂はベルダ・ステロに着いたらすぐ温泉に入るから身体を清拭する必要はないし、タオルなどはレンタルするから身ひとつでいいとも伝えてある。みんなが解散した後、ボクはジュラと屋外修練コートに向かった。昨夜ワームホールの狭間から帰還するときに構築した『転移の魔法陣』をコートの真ん中に描く。メインの記述はワームホール空間から帰還するために解析したものと同じだ。違いはワームホールの出口の場所。いまボクがいる所からの方角とか距離とかといった物理量じゃなく、その場の情景というか有り様というか精密な実在イメージを記号化した記述をする必要がある。つまりボクの記憶の中に鮮明にある場所でなければワームホールを繋げない。ベルダ・ステロに滞在中毎日眺めていた『ゆのか』の中庭に出口を設定した。魔法陣を描き終わって魔力を流す。
「どこでもドアー!」
ついあの有名な子供向けマンガ・アニメのセリフを叫んでしまう。くねっと空間が歪む。直径3mのガラス球みたいな玉が現れる。透かし見ると球体によって歪んではいるけど懐かしい『ゆのか』のボクとシオンの部屋の中庭にある築山が見えている。コスモスや彼岸花、月下美人によく似た花が飾られてて綺麗だ。避難民などがふらっと迷い込まないよう結界魔法を仕掛ける。結界魔導器と同じ原理だけど魔法陣魔法なので魔石を必要としない。
「なんじゃその掛け声ぇ。ってぇ。あぁ。ミナトの記憶にあるねぇ。1969年から連載された児童向け漫画でぇ、ミナトの転生した2052年でも毎年新作アニメ動画がリリースされてるってぇ、大名作かぁ。世代を超えてぇ、みんなに愛されてるんだねぇ」
「ボクも子供の頃熱狂したからなあ。さていくよ」
1歩踏み出し球体に入る。踏み出した足裏が踏んだのはベルダ・ステロの『ゆのか』の玉砂利だった。さすがにズタボロで血塗れの服のまま『ゆのか』の中をふらふら歩けないから、部屋に入って防具を外しブラウスを着替えた。ヒップバッグに剣だけ背負って『ゆのか』の厨房へ入る。
「こんばんわー」「こんばんわぁ」
厨房には6人の調理スタッフがいて、走り回っていた。豊饒祭関連で満室が続いてるようで、大忙しなのだろう。全員顔見知りなのでコミュ障は出ない。
「あ。ミナトさん。お帰りですか?」
ボクの声を聞いて奥の調理台から顔をあげたのが、『ゆのか』の料理長兼オーナーでもあるキャン・ハクさん。カタカナ表記だと日本人と思えない名前だけど、漢字で書くと喜屋武・白さんとなる。沖縄出身で2001年生まれの喜屋武さん。お母さんがその年に大ヒットしたスタジオ・ジブリの『千と千尋の神隠し』ってアニメ映画の副主人公に惚れてしまいついた名だという。
「一時帰還です。で、お願いがあってきたんですが、ガーディスト・デ・ラ・サノで生きるか死ぬかの戦闘がありまして、活躍してくれた第2外周警備隊の隊員たちの慰労のために温泉に入れてあげたいんですけど、今晩これから大浴場を貸し切りにさせてもらえないでしょうか。ボクたち5人を入れて25名です。女性10名、男性15名。17時30分から19時までの1時間30分で。もちろん対価はお支払いします」
高いか安いかわからないけど対価として金貨2枚をお支払いする。オーナーが納得してくれたので安くはなかったと思うけど。今晩宿泊されてる他のお客さんには迷惑料として豪華刺身盛り合わせを贈る話もして快くオーケーしてもらえた。その料金は別途毎月の宿代精算時に乗せて請求してもらう。ジュラとふたりで「ありあとございますぅ」と頭をさげ、破損した防具を袋に詰めて宿を出る。『ビストロ・ブタリー』へ向かう途中で『バイルシュミット魔法具&武器店』へ赴き、破損防具の下取りと新品防具のサイズ引き継ぎ調整をお願いしておく。『ビストロ・ブタリー』では22時までの延長営業と貸し切りを金貨の威力でお願いした。4日分の稼ぎを1回の宴会で払うっていう上客だし、なんたって泣く子も黙る警備隊には優しくしておくに越したことはないのであっさり了承してもらえる。25人の大食漢&酒豪を満足させる料理と酒の用意が難しいというので他の店からの出前も取ることにして、『ゆのか』へ戻るついでにステーキの店、『断剣』さんたちと入った韓国料理店、酒店に前払いで出前を頼み集合時間5分前に『ゆのか』の自室へ戻る。フロントが25人分のタオルセットと湯上がりの浴衣を用意してくれてた。ワームホールは部屋の装飾かってくらい変哲もなくポッカリと開いたままだ。ぴょんとひと跨ぎで80kmを跳び、屋外修練コートに出た。結界を外して戻ってきたメンバーが心理的抵抗なく集まれるようにしておいて魔法陣の点検で時間を潰す。魔法陣は強固でかつ柔軟で、書き込んだ定数に揺らぎはないし外圧によって潰れる気配もない。負の質量の生成も安定しているしワームホールが繋ぐ世界の不確定性は最小のままだ。ワームホール空間の悪天候みたいな特異事象は感知パラメーターを動揺させるはずだけどいまのところ異常なし。宇宙の端から端までの780億光年を繋ぐワームホールなら、ありとあらゆる時空の干渉を受けるだろうけど80km足らずじゃ次元の風も受けないって感じかな。最初にノアとラウリが悠々と現れ、時間ぴったりに警備隊の全員が集合した。3分遅れてビビに襟首をつままれるみたいにしてシオンが連れてこられる。ドライヤーの魔石がどうのとぼやいていたけど、キャプテンが遅刻していいのかって活を入れるとぶちぶちいいながらもシュンとしている。
「えと。この球体が見えてますよね。これってワームホールなんです。わかりやすくいったら空間を飛び越える魔法の門です。門の先はベルダ・ステロの温泉旅館『ゆのか』のボクとシオンが定宿してる部屋の中庭に繋がってます。普通に歩いて球の中にぽいっと入ると一瞬であっち側に出ます。普通にドアをくぐるのとなんにも変わりません。なのでビビらないで通ってみてください。ボク自身が脳蜘蛛の転移に巻き込まれて虚数空間に運ばれそうになったとき、脳蜘蛛の記憶を取り出して解析して作りあげた魔法陣です。おかげで帰ってこれました。蜘蛛たちは侵略するのに何百回もこの魔法陣を使ってましたし、ボクも使ってみて安全性は確認してます。で。お願いなんですけど。教会が禁忌魔法に指定してる『黒穴魔法』とは規模も種類も違うんですけど重力を使った魔法陣っていう共通点があって、教会にバレると文句いわれそうなんですよね。もし教会が不問にしてくれたとしても便利だからってお国のお偉いさんたちにお抱え使役されたくもないんで、この魔法のことは内密にお願いします。じゃ。ほら。シオン。いってまた帰ってきてみて」
えーウチがやるのとか、なんでウチがとか文句たれてたけど、留守番させるぞのひと言でひえーとかいいながら球体に飛び込んだ。一呼吸置いてぴょんと飛び出してくる。
「うわー。すごー。ほんとに『ゆのか』の中庭だよ」
「部屋の方に全員分のタオルや浴衣のセットがあるから、シオンとビビで先にあっちいって配って」
「おっけっけー」
シオンがぴょんと消えた。ビビは一瞬不安そうにボクを見たけど、目で大丈夫って伝えると固唾をのんでからエイって飛び込む。警備隊の面々もやや不安そうにして眺めていた。
「あちらで『ゆのか』の露天大浴場を貸し切りにしてます。温泉の入浴マナーを男性陣にはラウリが、女性陣にはボクが教えますのでよろしくです。1時間したら全員で『ビストロ・ブタリー』へ移動します。『ビストロ・ブタリー』は知ってますよね。ちょっと高めですけど絶品のフランス料理店です。今回は貸し切りで無礼講の宴会なので、コース料理じゃなくバイキング形式で大皿料理を山盛りで用意してもらってます。ほかにも近所のステーキ店と韓国料理店から、とにかくどっさり美味いものが届きますし、酒店1軒空にする勢いでいろんな酒を用意してます。で、22時にはお店が閉まるので全員で帰ってきます。その後飲み足りない人はガーディスト・デ・ラ・サノのガッツのある居酒屋で2次会をどうぞ」
「酒があるところなら、どこへでもいくぞ。クセナキス。飲み比べ勝負は6勝6敗だったよな」
そういって真っ先に飛び込んでいったのがファビアン・ボーヴォワール士長。その呼びかけに応えて続いたのがオリーブ色の肌のアマゾネス、デスピナ・クセナキス1士。ふたりが消えたあとンガバ副隊長が悠然と転移する。大食いが特技のリュシエンヌ・オリヴィエ1士が「肉だ肉だ」と笑いながら続き、以下全員が転移していった。全員の転移を見届け最後に結界魔法陣を再展開してゲートを隠し、ボクもベルダ・ステロへ跳んだ。『ゆのか』の中庭に飛び出すと、打ち合わせ通りラウリが男性陣をロビーに誘導してくれていた。そこで日本の温泉入浴時の最低限のマナーを教えているはず。あっちの世界での日本人はダンジョンに2週間潜りっぱなしになるとか、頭から血や体液や粘液を浴びるとか、泥や沼の水の中で転げ回るとかなど普段はしないから、ざっとかけ湯だけして温泉に浸かっても問題ないんだけどね。さすがにこっちの世界で怪物相手に血みどろの戦いを終えたばかりの兵士をそのまま湯船に入れると温泉が泥沼になりかねない。なので身体と頭をしっかり洗ってから温泉に入るように伝えてもらう手筈になってる。洗い場は5つしかないので5人ずつ少し時間をずらして入ってもらう。貸し切りなので少々騒いでも大丈夫だけどリラックス効果を得るために基本静かに入ったほうがいいこと、湯を汚さないが原則なのでタオルや髪を湯に浸けないことも説明してるはず。女性陣には『ゆのか』から購入したクレンジングクリームと化粧水と乳液のアメニティを手渡す。この世界では女神の祝福を受けないと生理が始まらないからそのへんの説明が省けてボクとしては助かった。んで、心ゆくまで温泉に浸る。溶けてスライムみたいになるまで浸かった。周り中ビーナスとアマゾネスが全裸で闊歩する桃源郷みたいな状況だったけどなんか最近慣れて、そんなのより温泉のくつろぎのほうが快感だった。温泉のあとはロビーで宴会時間までうだうだしてもいいようにソフトドリンクレベルの飲み物の手配はしてあったんだけど、半数以上の隊員がいったん隊舎の自室に戻って『ビストロ・ブタリー』で再集合を選んだようだ。スライムになって『ゆのか』ロビーのカウチに溶け込んでいたところをビビに引き剥がされた。ボクの前に引き剥がされたシオンは立っているのが精一杯で、気を緩めると床に溶け崩れそうだ。緩みきった気分に活を入れてくれたのはビビじゃなく腹の虫だった。はらへったー。背中にロングソードだけ背負ってフロントの支配人に感謝を告げ『ビストロ・ブタリー』に向かって歩き出す。中央広場を抜けて西区に入り路地に入ったところで驚きの声がかかり、振り向くと『断剣』さんのメンバーが立っていた。
「あら。ミナトさん。遠征にいかれたと聞いてましたけど」
ジユンさんが話しかけてくる。『断剣』のみんなもボクたちと同じように普段着の装いだった。
「あ。はい。遠征でいろいろたいへんで、あとから救援にきてくれた外周警備隊のメンバーも交えて慰労会をしようという話になって。この先の『ビストロ・ブタリー』を貸し切ってあるんです」
「あら。『ブタリー』貸し切りなんだ。明後日からダンジョン探索に出るので、ちょっと奮発して『ブタリー』で壮行会するつもりだったんだけど」
バチスタさんが残念そうにつぶやいた。『ビストロ・ブタリー』は居酒屋の位置づけではあるけど、荒くれ冒険者が集う大衆居酒屋よりちょっとだけ格がありお値段も高めだ。収穫祭の影響もあって人出が多いけど『ビストロ・ブタリー』なら高めな分、席に空きがあると思ってきたようだった。いまから他の店に行っても席が空いているかどうか。
「あの。どうせなんで、ボクたちの慰労会に混ざっちゃいませんか?」
「え。いや。だって。警備隊の方たちはご迷惑なんじゃ?」
ジユンさんが心配したけど、シオンが笑って打ち消す。
「そんなこと気にする連中じゃないのよー。肉食えて酒飲めればなんでもいいって連中だし、ウチらが主催でスポンサーなんだから遠慮いらないよ。警備隊と面識作っておくとなにかと便利だしー」
「私の元いた古巣ですけど悪い人いませんし、気にする人がいないのも保証します」
ビビも口を添えて『断剣』さんも参加となった。ぞろぞろと路地を進みすぐに『ビストロ・ブタリー』へ到着する。警備隊メンバーは全員揃っていた。畏まった挨拶ができないボクに代わってシオンが声を張りあげる。
「お待たせしましたみなさん。これより『怪獣討伐お疲れさん会』を開催したいと思いますが、その前にこちらのみなさんをご紹介します。ウチらの前のクエストでいっしょに戦った『断剣』さんのメンバーでーす。こちらからリーダーのマキシモ・バスタマンテさん。ニコレ・バチスタさん。セナ・ヒロトさん。そしてイム・ジユンさん。そこの道で偶然いっしょになったんでお誘いしちゃいましたー。参加してもらっても構わないでしょうか?」
「もちろん歓迎するよ。ギルドで聞いたが、目玉トカゲの上位種と細い橋の上で1対1の勝ち抜き戦を戦ったそうじゃないか。その武勇伝には大いに興味がある」
隊長が1本橋の決闘を知っているなんて。地獄耳だな。『断剣』さんを紹介して同席を了承してもらったあと、湯気を立てる大量の肉料理とキンキンに冷えたエールやらなにやらがホールに運び込まれる。
「飲み物全員にいき渡ったねー。じゃあ。無礼講ね。かんぱーい!」
いっせいにグラスが掲げられる。ブラックホール級の飢えた胃袋にひたすら物質を流し込む作業が始まった。かくいうボクもブラックホール級の胃袋の持ち主だ。ひとりひとりの前にサーブされた500gのステーキは幻のように瞬間で消える。続いて運び込まれた10kgの焼き肉も砂の城が崩れるように大波に飲まれた。エールのジョッキがひと飲みで空く。そこでようやくそれ以外の料理に目が向くようになる。8人のホール係がつむじ風を起こしながら酒と料理を運び、空いた皿やジョッキをさげていく。今日を生きのびられたことに満足した者だけが見せる全開の笑顔と歓声に、陰キャのボクもしみじみ生の喜びを謳歌できた。
「おまえ、あそこで飛竜の咆哮を目の前で喰らってちびってただろう」
シャルリー・コルビエール2士が、隣で焼き肉のタレをぼたぼたテーブルに落としながら頬張ってるフォルミオン・ガヴラス2士をからかう。
「ぬかせ。そういう自分も尻尾で払われて吹っ飛んだとき、情けない悲鳴あげてたじゃないか」
フォルミオン・ガヴラス2士がいい返す。ビビが抜けて下っ端の2士がふたりだけになり、なにかと大変な分仲がいいようだ。その横では3班副班長のロジェ・ドパルデュー士長が同じ弓持ちのダフネ・パパンドレウ士長と話している。
「あの飛竜の飛膜が暴竜に破られてなかったら勝てたかどうか」
「そうね。飛膜には弓が効かなかった。飛ばれて鉤爪で上から襲われたら見切れたかどうか」
やっぱり初めて直接戦った飛竜戦の印象が強いようで、パパンドレウ士長の横ではお兄ちゃんの方のミハイル・カヴラス1士と超絶ハンサムなアルキダモス・カサヴェテス1士という脳筋ぞろいの警備隊では珍しく頭脳派なふたりが分析を披露している。
「尻尾を振るときは必ず右回りで後ろを向いてたぞ」
「ほう。あの短時間でよく気づけたな。あのオドントグリフスとかいう空中を滑る怪獣もほとんど方向転換時に右回りだったな」
その向かい側ではレベッカ・ボワヴァン士長が焼き肉を同時に3枚まとめて口に放り込んでいた。濃い栗色の髪。青い目。優しい目鼻立ちでじっとしてたらメチャクチャおしとやかな美人顔なんだけど、口を開くとアマゾネス全開なんだよね。
「この焼き肉って、薄くて食べやすいな」
横に座ったジユンさんがくすくす笑って教えてあげてた。
「それ横の皿に盛られてる葉でタレを絡めた肉とキムチを一緒に巻いて食べると美味しいですよ」
その言葉に従って周囲の脳筋族がサンチュ風葉っぱ巻を食べて感歎の呻きを発している。
「うああ。こんなに美味いものがこの世にあるんだな」
「この鼻猪のステーキもいい肉使ってる。じつに美味い」
もうひとりのアマゾネス、ヴァランティール・フォレ士長がおかわり2枚目のステーキを飲み込みながらいった。ボクの向かいにはピリッポス・カラマンリス曹長が座って横のリュシエンヌ・オリヴィエ1士にアドバイスしていた。
「お前は見切りが甘いんだ。飛竜が爪を横に薙いできたとき、お前は一歩さがって後ろに反ってかわしてただろう。それじゃあ反撃ができん。利き足を半歩さげて膝を軽く折る。膝のクッションを使って重心を移動させ鼻先1cmでかわすんだ。そこからなら斬りあげができる」
ボクの左側の奥にはセレイコス・カポディストリアス曹長が座りノアと話している。
「構えの姿勢が翼の風圧でよろめかされる戦いなんて初めて経験したよ。対人戦ではありえない経験だった」
その向こうに座る笑わない女ニケ・ミツォタキ曹長がグラスを差しあげて感心している。
「この酒、美味い。甘いけど甘すぎなくてスッキリしてる」
これもジユンさんがフォローしてた。
「それ韓国の焼酎で『ソジュ』ですね」
ボクの右横に座るシオンにビビが話しかけた。
「シオン。なに飲んでるの?」
「オレンジー」
そういいながらオレンジ色のボトルを持ちあげる。
「それオレンジジュースじゃなくてオレンジキュラソーだぞ。けっこう度数高いぞ」
「だいじょうぶらろー」
いやちっとも大丈夫じゃなさそうなんですが‥‥。まあ、痛くなるのはボクの頭じゃないからいいか。
「ミナトはなに飲んでる?」
ビビが聞いてきたのでグラスを差し出す。
「え。ウイスキー‥‥じゃないわよね?」
「ん。お茶だよ。麦茶。このあとみんなをガーディスト・デ・ラ・サノへ魔法陣を通して送らなきゃならないから。酔っぱらい運転は事故の元だからね」
「そうか。そうよね。なんか私たちだけ飲んじゃってごめんね。あのワームホールとかって危険なの?」
「いや。魔法陣は最初に描いちゃったし保存してあるから起動時に魔力を流すだけだし、魔法陣としての安定性は抜群なんだけどさ。『うまくいかなくなる可能性のあるものは、その可能性がどんなにわずかでも必ずうまくいかなくなる。しかも最悪のタイミングで』というマーフィーの法則があるし、それを気にしながら飲んでも気持ちよく酔えないしね。でもみんなの楽しそうな顔見てるだけでほろ酔い気分だよ」
山のような料理がテーブルに運ばれては食欲という大波にさらわれていく。店の奥側でひときわ大きな歓声があがり、なにか金色に光る楽器らしきものを首にかけつつトリュファイナ・デュカキス曹長とロジェ・ドパルデュー士長が声援に応えながら店の奥にある小さなステージにあがった。
「あ。曹長たちわざわざ宿舎から持ってきてたのね」
ビビが拍手しながらいった。
「あれ、にゃに?」
シオンが聞く。目が座ってるぞ。大丈夫かなあ。
「あれは私たちの国に古くからある『シエラーカ・ヴォコ』っていう魔法楽器よ。声をいろんな音に変換して重ね合わせて音楽を演奏するの」
シエラーカ・ヴォコ。虹音って意味だ。色んな音に変換するのか。シンセサイザーやビートボックスみたいな感じかな。形態はサックスに似てるけど。マウスピースにあたるところに円盤状の金属ネットが付いていて、そこに声を吹き込むようだ。ふたりが舞台に運んだ椅子に腰掛け、チューニングするみたいに「あー」とか「いー」とか声を吹き込む。するとラッパ状に開いた筒先から拍子木のような乾いた音が響き渡った。キー操作でその音を録音しリピート再生させる。ドラムのような音やコントラバスのような低音のビートが重なって流れ出す。デュカキス曹長がハープの音色のように変換されたハミングで歌い出す。うわあ。めっちゃ美しい音色だ。口元と本体の中に魔法陣が組み込まれているようで、変換した音や声を記憶しリフレインして重ねていくので驚くほど深い荘厳な調べになる。たったふたりが魔法楽器2台だけでオーケストラみたいな音の厚みを作っていた。1曲終わると大歓声が起きる。演奏途中から店の従業員まで厨房から出て聞き惚れていたほど。3曲演奏して大喝采と乾杯の嵐が起きる。下っ端シャルリー・コルビエール2士とフォルミオン・ガヴラス2士が壇上のふたりにエールを差し入れてる。ボクたちの前の世界では見たこともない楽器にシオンとセナさんが食いついた。壇上に寄っていって曹長たちに仕組みを聞いていた。
「いいものを聞かせてもらった。感動した」
ビビにそう話すとまるで自分が褒められたかのように満面の笑みを見せる。
「でしょう。特にデュカキス曹長は演奏家としても食べていけるくらいの腕前なんだ」
そんなことを話していたら舞台方面からシオンの酔っ払ったキャハ声が響き渡る。
「負けてられないのよー。冒険者代表、世界の歌姫イム・ジユン。ナウオンステージ!」
「え。いや。シオンちゃん‥‥」
「いや。ここで引いたら女が廃る。姉さんならできるー」
酔っ払ったシオンに勝てる相手はほぼいない。警備隊連中を盛りあげて拍手でジユンさんを強引にステージにあげてしまった。困った顔していたジユンさんだったけどステージにあがったとたん顔が引き締まる。
「みんなー。はくしゅー。いぇい」
拍手がどっと起き、すっと静まる。一瞬の静寂。ジユンさんが話し始めたかと思ったら、アカペラの歌だった。聞いたことがある。っていうかあまりに有名な歌だ。ホイットニー・ヒューストンの『I will always love you』だった。心に染みるような透き通った歌声が『ビストロ・ブタリー』に満ち満ちる。覗き見にきている従業員も倍になった。歌の2番から、デュカキス曹長が音を重ねる。ベースが付き、流れるような弦の旋律が重なる。初めて聞く歌にきっちり合わせて伴奏を入れてくるデュカキス曹長の技量の高さが更に感動をブーストした。警備隊の面々も店の人達もホイットニー・ヒューストンの歌など知らないはず。ジユンさんの歌は英語で歌われていて、意味が伝わっているかどうかは疑問だ。けど何人もの屈強な兵士たちが涙を流していた。もともとは1973年にドリー・パートンが作って歌ったカントリーミュージック。それを1991年の『ボディーガード』っていう映画の主題歌として主演もしたホイットニー・ヒューストンがバラード調にカヴァーして大ヒットした曲だ。名曲過ぎて半世紀たったボクの世代でもカヴァーされ続けてる。歌い終わってしばらくは静まり返ってた。それから店の壁が倒壊するかと思うほどの大喝采が生じる。ジユンさんがデュカキス曹長に感謝し打ち解けていく。シオンの煽りとみんなのアンコール要望もあり、ジユンさんは『バトルエンジェル』時代の『ソルジャーズ・レクイエム』を始めとする歌をデュカキス曹長の即興伴奏付きで歌い始めた。今度はずいぶんリラックスして歌ってる。盛りあがりは最高潮。宴もたけなわってやつだ。あっちでは腕相撲してる脳筋がいるし、こっちでは火酒レベルのキッツい酒を飲み比べしてる輩もいる。魔法談義に剣の極意談義。微笑ましく眺めていたらほっぺがだいぶ赤くなったビビがボクの肩を引き寄せ、酒臭い息を漏らしながら聞いてきた。
「なんて才能と魅力に溢れた人たちなの。冒険者って。そんな人達がいっぱい住んでる世界って。ミナトたちの元の世界にいってみたい。どこにあるの?」
「そんなに素晴らしいことばかりの世界じゃなかったけどねえ。どこにあるかあ。難しい問題だよね。そうだなあ。女神ルキナがなーんにも教えてくれないから推論でしかないんだけど‥‥マルチバースっていう概念のうちのひとつで、泡宇宙の中に無数の小さな泡宇宙がボコボコ生まれては消えている‥‥そんな泡のひとつがボクたちがいた宇宙じゃないかっていわれてる。ボクがこっちへくる時点では主流になりつつある概念だった。ボクたちが前いた地球のある宇宙も泡宇宙のひとつ。ボクたちがいまいるこの宇宙も泡宇宙のひとつ。隣り合ってるのかもしれないし無限の距離が間にあるかもしれないし、どっちかの泡宇宙の中にどっちかがさらに小さな泡として生じてるのかもしれない。ルキナが量子もつれで繋いでるから距離や位置は問題じゃないんだ」
「泡宇宙ってなに?」
「直感的に把握しやすくいうと、巨大な寸胴鍋いっぱいのお湯を考えてみて。そのお湯を沸騰させると、中のお湯に小さな泡ができ始めるよね。ブクブク泡ができては成長してくみたいに、母宇宙の中で無数の宇宙が生まれたり拡大したり衝突したり吸収されたりしてる感じのイメージ。母宇宙の中に無数の子宇宙ができて、子宇宙の中にも孫宇宙・ひ孫宇宙ができたりって感じ。とにかく大忙しでてんやわんやなダイナミック宇宙っていう考え方。そんで、ボクたちの宇宙はその泡の中の一個ってことになる。母宇宙の中に『10の10の1千万乗乗』個の泡宇宙があるってスタンフォード大学っていうところの研究チームが概算を発表してたけど」
「10の1千万乗個もあるのかー」
シオンも話に混じってきた。手には2杯目のオレンジキュラソー。膝の上に抱えているのはメイクバッグだ。宿からここまで持ち運んできたんだな。最近シオンはメイクの腕をあげている。ジユンさんの声にいつの間にかハーモニーがついてた。ちらっと目をやるとジュラがジユンさんの肩にとまってハモっていた。多次元生物なだけに才能も多才だ。
「違うよ。10の『10の1千万乗』乗だよ。10を1千万乗した数で10を累乗するんだ。10の1千万乗だってとんでもなく大きい数字なんだけどね。10の10の1千万乗乗は無限とほとんど変わらないくらい無茶苦茶に大きな数字なわけ。1千万なんて極端な数字じゃなくてもっと小さな『2』って数字でも大きさが比べられるよ。10の2乗は100だよね。10の10の2乗乗は‥‥10を2乗した数で10を累乗するから、10の100乗ってことになる。1の後に0を100個書いた数だね。10の100乗ってとんでもない数で、そこまでいくと数の単位がないんだ。1・十・百・千・万・億・兆・京・垓・杼・穣・溝・澗・正・載・極・恒河沙・阿僧祇・那由他・不可思議・無量大数‥‥っていうのが数字の単位なんだけど、最大の無量大数でも10の68乗だからそれ以上の数を表す単位がないわけ。10の10の2乗乗ですら単位を超えちゃうわけで、10の10の1千万乗乗なんて1の後ろに何個0を書けばいいのか‥‥」
シオンが指折り数えてるけど、指を折って数え切れる数じゃないんだけどなあ。
「そんないっぱい宇宙があるなら領土問題も資源問題も解決ね」
ビビがソジュを飲み干した。
「うーん。そうともいえるけど、そうともいえないんだなあ」
「どゆこと?」
数えるのを放棄したシオンが聞く。
「えっと。他の泡宇宙はね、ボクたちがいまいるこの宇宙や前いた宇宙と、根本の物理法則や基本定数がぜんぜん違ったりするっていわれてる。いろんな物理パラメータが剃刀の刃も入らないくらい狭い範囲に奇跡的なバランスでピッタリ収まってくれないと、空間が誕生しても存在を維持できなくて潰れちゃったり、光子や電子が作れなかったり、物質が集まれなかったり‥‥。そんなダメダメな状況で、星も銀河も生命もなにも生まれない宇宙ばっかなんだと。物質が集まれて銀河や恒星や惑星が作れてそこに生命が誕生して知性が芽生えるなんて、奇跡を千億回重ねて生じる異常事態みたいなものなんだそうな」
「そんなに稀有な条件なの?」
ジョッキを持って横に流れてきたバチスタさんが話に参加する。元ブラジル海軍CIC要員でオペレーション・スペシャリストなだけに科学話に拒否反応がない。
「計算したわけじゃないけど‥‥ショベルカーで適当な原子や分子をザックリすくってバーってばら撒いたら、偶然シオンと同じ形にくっついて「アタチ、シオンちゃん。やらかしてから考える元気な子。よろしくね」って、いけしゃーしゃーといい出すくらいの可能性かな。ぐえっ」
シオンの肘が脇腹に減り込む。胴鎧は外してきたからモロに入った。シオンが「ざーま」とかいって唐揚げを2個同時に頬張ってた。ビビとバチスタさんがケラケラ笑う。
「まったくー。へらず口しか叩かない口はお化粧して可愛くしちゃうぞ!」
そういってボクの顔を挟みグキッと自分の方向へ曲げた。
「新しい泡宇宙。でも、できてもできても‥‥毒の沼ってこと?」
ビビが呟いたけど、シオンに顔面を保持され頷くこともできなかった。光より速くボクの頭にヘアバンドが嵌まり込み、前髪があげられてしまう。ボクもシオンの化粧の練習台になることに慣れてきてたので、酔っ払ったシオンに対して無駄な抵抗はしない程度の知恵はついてきてた。
「でもミナトは、そうともいえるっていったわよね」
「あ。うん。えーとね。クローン宇宙って考え方があってね。どういう考え方かっていうと、前にボクたちがいた宇宙は誕生して138億年しか経ってないから、138億光年先までの宇宙しか見ることができないわけ。宇宙は加速膨張してるから観測可能な宇宙ももっと広がるって話もあるけど、わかり易く簡単にして話すね。なのでこの半径138億光年、直径276億光年の球空間をボクたちの宇宙とする。見える範囲の宇宙がその大きさってだけで、その範囲の外にも無限の宇宙が拡がってて別の宇宙が無数にあるって考えられるんだ。んで見える範囲の宇宙っていうのもとんでもない巨大な空間だけど、その空間を原子1個がきっちり入るだけの小さな小さなグリットに区分するのね。宇宙全体なんていう広大な空間が10のマイナス13乗cmっていう極小の立方体に分割されるわけ。とんでもない数になるんだけど有限の数ではあるんだよね。その立方体の中に原子が『ある・ない』という組み合わせを決めていって、その配列がボクたちの宇宙とぴったり同じ組み合わせになる確率を計算すると‥‥ざっくり10の10の122乗乗になるって計算結果になるんだって。つまり10の10の122乗乗回宇宙を創り直せばボクたちの宇宙とまったく同じ原子の配列、人も街も都市も風景も空中を漂う花粉の位置さえピッタリ同じな宇宙ができるんだそう。10の10の122乗乗分の1回なんてガチャポンだとしたらとんでもない低確率だと思うだろうけど、これもモノは考えようで泡宇宙の数からしたら10の10の1千万乗乗もあるから、10の10の122乗乗で割ればピッタリ宇宙の数を求められるよね。指数の割り算は指数部分の引き算になるから10の(10の1千万乗ー10の122乗)乗もの数だけボクたちの宇宙と同じ宇宙があるって計算になる。10の1千万乗があまりにも大きい数だから10の122乗くらい引いたところで誤差みたいなもの。つまりこの宇宙にはボクたちの宇宙とまったく同じ宇宙で溢れているともいえるんだな」
「へー。じゃあ、こうして大いに飲んで食べてる私があっちにもこっちにも無数にいるってことなのね。会えたら面白いのにね」
ビビは現地の人間で、義務教育すら受けていないけど聡明さは並外れている。転生者の血を引いているからか。
「レイ男爵の解釈は、ボクたちが前にいた地球の最新物理学より先に行っている可能性があると思ってるんだ。彼の解釈によれば‥‥あっちにもこっちにもともいえるし、すべてが重なり合って存在してるともいえる。距離とか時間とかが意味をなさない世界で、蜃気楼みたいに儚い可能性の幻として重なり合っているみたいなんだよね。ボクたちのいまいるこの世界は、女神ルキナがきっちり観察することで存在確率を収束させているから儚い幻じゃないけどね。ボクたちが前いた世界も収束して存在してるはずだけど、ふたつの世界は物質的には行来できないんだ。ボクたち転生者は『情報』としてこっちの世界に伝達され、こっちの世界で肉体を得ている」
「『情報』?」
「ボクがボクであるために必要なすべての情報だよ。身体的情報や物理的精神的情報。記憶や性格や個性も情報に置き換えられてる」
「そうなのね。あ。でもミナトの作った魔法のゲートなら物質のまま行来できるよね」
それに対する返事はシオンがボクの唇を塗り始めたのでできなかった。そこへ歌い終わったジユンさんが戻ってきて、久々の歌とステージがどれほど楽しかったかを話し出し乾杯に次ぐ乾杯になりさらにうやむやになる。巨大ダンジョンコアとの一連の戦闘の話をバチスタさんが聞きたがり、潰れたシオンに代わってビビが説明をする。『シエラーカ・ヴォコ』の演奏が再び始まり、今度はピリッポス・カラマンリス曹長がステージに登って現地の民族音楽を歌い出した。壁際のスペースで歌に合わせて踊る奴も出てきて大騒ぎとなる。やや上品めとはいえ冒険者の街の酒場であるから壁や床や家具の作りはとんでもなく頑丈で、備品の破損代を支払う心配はなさそうだった。シオンは寝たし、ビビも目がトロンとしてきてる。時刻もいいお時間となった夜の10時。シオンに化粧をされた顔で壇上に出ていくと期せずして感嘆の声があがり、「惚れた」だの「ミナトちゃんは俺が口説く」だの「結婚してください」だの雑音が響いたけど酔漢の戯言など片端から無視する。
「みなさん。お疲れ様です。これにて『怪獣討伐お疲れさん会』は時間となりました。『断剣』さんもこれで帰られるとのことです。ありがとうございました」
『断剣』メンバーが立ちあがり盛大な拍手に見送られて店を出ていく。ここの払いはボクたちが持つことで話はついていた。なにせ人の頭ほどもある巨大魔石をゲットしたことを話してあるから了承も早かった。警備隊メンバーには潰れたメンバーを担いでもらい、いったん警備隊詰め所に寄って宿舎に荷物を置き『ゆのか』へ向かう。『ゆのか』には話を通してあるので、フロントに支配人だけがいてボクたちの部屋へ入っていった警備隊員がそこから出てこないというミステリーには目をつぶってもらった。遠慮されたけど支配人には口止め料として金貨を贈っておく。なんやかんやで片付けや支払いなんかを済ませて、ボクとビビとシオンが最後にゲートを潜る。ガーディスト・デ・ラ・サノに戻ったのが夜中の11時を過ぎていた。シオンが気持ち悪いとか吐きそうとか頭痛いとか泣言を呟いていたけど、ビビの肩を借りて歩けるまでに回復してたからボクと同じ高性能な肝臓を備えているんだろう。ボクもせっかくの打ちあげで素面なまんまっていうのも寂しいので、ガーディスト・デ・ラ・サノに戻ってワームホールを解除したところでヒップバッグに入れておいたジンに似た桃色のお酒ボトルの口を切ってごくっと呷る。喉が焼け、ふわっと頬が上気した。夜風はまだ涼しいレベルで酔った肌には快い。ジユンさんの歌った歌を口ずさみながら宿への夜道を歩く。いやまったく警戒してませんでした。強盗追い剥ぎの類なんて、襲われたところで人差し指1本で追い払えるので気にもせず歩く。なにやら不穏な気配を感じて脚を止めたのは、宿への近道になる裏道の途中にある小広場に入ったときだった。シュリン。と間違えようもない抜刀の音。
「ミナトさんとお見受けする。お命頂戴つかまつる」
わわわ。時代劇みたいだ。いや、頂戴っていわれても。あげないけどね。
astronoteさん:宇宙には果てがあるのか
https://note.com/astron/n/n6242474b9b25
※「この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとはちょっとだけしか関係ありません。できるだけ新しい宇宙論や量子力学解釈を参考にしていますが、超最先端の理論や科学界の動向などは反映されていません。また解釈は作者のご都合主義と希望的観測と好みで行われていますので、理論とそぐわないトンデモ解釈になっている可能性もあります。ご容赦ください。




