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28.ありふれた「蜘蛛」と「クラインの壺」と「自己嫌悪」


複素平面の生き物だとお。なんだそれは。っていうか複素平面って‥‥ー4・−3・−2・−1・0・1・2・3・4‥‥って続く実数軸を横軸にして、縦軸に‥‥ー4i・−3i・−2i・−1i・0・1i・2i・3i・4i‥‥って続く虚数軸を直行させた平面のこと。この概念がなかったら機械工学、電気工学、電子工学、光学、材料学などなどありとあらゆる分野が困っちゃう。MRI装置も屑鉄になるし、アニメやゲームの3Dキャラの動きがガキガキになっちゃう。でも虚数も複素平面も、現実にはなかなか目にしない。なのにそこに生物が存在して、なおかつボクたちの実次元の世界に侵略してきてるっていうのか。マジですか。リーマン面とか四元数とか‥‥思わずしゃがみ込みアルキメデスばりに地面に数式を書いて虚数生物の存在原理を研究したくなったけど、野太い蛮声で我に返った。


「敵襲。上だ。上からくるぞ。下馬して応戦しろ」


団長の声が響く。ボクとジュラが抉り消した霧の空洞でわずかに上方視界が取れる。顔をあげたとたん、霧を突き抜けて真っ黒な塊が音もなく降ってきた。それはボクたちから10m向こうの騎士団員の横に降りる。めちゃくちゃ気持ち悪い形態をしていた。『人蜘蛛』とでもいおうか‥‥人間の頭部と胴体に8本の細い脚を生やしたようなフォルム。見なきゃよかった。ボクは蜘蛛が苦手なんだ。ゴキブリもムカデも苦手だけどさ。その身体の表面はなんというか‥‥黒い光がチカチカしていた。おかしないい方だけど『キラキラと黒く光り輝いて』いるって表現するしかない。ダイヤモンドの輝きをネガフィルムに反転したみたいな、『黒い燦めき』としかいいようがない現象だった。脚の先には装飾だろうか、金属みたいなガラスみたいなリングがひとつずつ嵌まっている。リングから先、爪と思える部分には『黒い燦めき』がなく青黒いぬめりがあった。そいつは頭の天辺から細く白い糸を出し身体を吊っている。顔にあたる造作の部分に口はなく、ツルッと赤い眼球が3個ギョロギョロと勝手な向きに動いていた。


地面すれすれまで降りたそいつは下側4本の脚で地面に立ち、クイッと下腹部を曲げる。人なら肛門にあたる部分に、巨大なイボ痔みたいな瘤が6個重なり合っていた。ギャー気持ち悪い。昔、公共放送の『生き物の不思議』って番組で蜘蛛が糸を出す器官のクローズアップ映像を見てしまい、トラウマになりかけた。記憶力がいいっていうのが仇になって、目を逸らしたのに瞬間の記憶が残っちゃってる。『出糸突起しゅっしとっき』っていう器官だ。その突起から1mほどの長さの糸束を紡ぎ出し、前に立つ騎士に投げかけた。騎士は慌てて避けたけど、糸の揺れが騎士の腕に触れてしまう。触れた瞬間、糸が収縮して丸まり騎士の腕から背中に回って一周した。孫悟空の頭を締めつける緊箍児きんこじみたいに両腕をバインドする。物凄い力だった。メキッとプレートアーマーがひしゃげる。人蜘蛛がガサササと騎士に走り寄り、倒れかけた騎士の身体を前4本の脚で抱え込む。抱え込んだ騎士ごと人蜘蛛がクンと宙に浮いた。地面から離れて自由になった8本の脚がカチャカチャとせわしなく動いて、尻から紡がれた何本もの糸で騎士の身体をがんじがらめに拘束していく。そこまでわずか3秒の出来事だった。ステータスアゲアゲのボクらですら残像が見えるほど速い動き。騎士の人たちは人蜘蛛の動きを捉えきれていない。それでもかろうじての反応で、まわりにいた3人の騎士団員が裂帛の気合を込めて斬りつける。人蜘蛛の背と脚と頭に刀が当たった。けど、斬撃音も打撃音も響かない。まったくの無音で剣が滑り、横の仲間に当たってガシャっと音を立てる。


「なんだ」「滑る」「斬れない」


同時に声があがる中、白い蓑虫みたいになった騎士を抱えて人蜘蛛が登っていく。連れ去られる騎士の喚き声は、顔を覆うバシネットの空気穴や目穴まで塞がれくぐもっていた。


「駄目だ」「刃が滑るぞ」「気をつけろ。自分を斬ってしまうぞ」「なんだこいつ」「化け物め!」「た。助けて」「うわ。くっつく」「糸は切れる」「垂直に当てろ」「剣に糸がくっつく」「上だ。上だ!」「また降りてくる」「ゴティエ。逃げろ!」「蜘蛛だ」「うわあ」「誰か。取ってくれ。この糸強い」


あちこちから悲鳴と怒号。霧が払われたところだけざっと見て、3匹の人蜘蛛が糸を手繰たぐって上下していた。霧で覆われた部分はその倍以上の広さがある。いったい何匹の人蜘蛛が襲撃しているのだろう。


「みんな気をつけろ。剣じゃ斬れないみたいだ」


剣が滑るってどういうことだ‥‥刃が食い込まないのか。摩擦がないのかもしれない。なんかのバリヤーか。仲間に警告を発したあと、ボクは必死で考えた。こんな生物なんて見たことも聞いたこともないけど、力押しで殺せないなら殺せる方法を考えなくちゃならない。刃が滑るなら打撃はどうだ。でももし人蜘蛛の体表面が摩擦ゼロなら、打撃だってミクロの角度のズレで滑ってしまうだろう。砂でもかけて摩擦を出すか。なんて一瞬だけど考え込んで周囲の警戒を忘れたボクは、思いっきりビビに突き飛ばされていた。


「ミナト。上!」


吹っ飛びながら反射で見あげると、ボクがさっきまでいた位置の真上に黒い塊が降りてこようとしていた。いまその位置にはビビが片膝立ちでうずくまり、かろうじて剣で受けようとしてる。ボクを突き飛ばした反動で体勢が崩れ、とっさに動けないのだ。間に合わないとわかっていても声をかけずにいられなかった。


「ビビ。逃げろ。剣じゃ斬れない」


地面に手を突きながら叫んだボクの視界に慈天使みたいな金髪の笑顔が入り込み、智天使のお告げみたいな柔らかな声が神の恵みのように降り注いだ。


「んにゃ。斬れるよ」


シオンの残像が金色の流れとなり、鋭角で天へ舞いあがる。落下してくる人蜘蛛が抱きかかえようと下に垂らした前脚を、シオンの手にした短剣が青い筋と化して薙ぎ払った。糸を保持した前脚の半分が斬り飛ばされて宙を舞う。斬り口から噴き出した緑色の液体が白い霧を纏いながら地面に落ちると、滴のままツツツと滑っていく。シャボン玉が弾けるように人蜘蛛の体躯を覆っていた『黒い燦めき』が消える。痙攣した人蜘蛛がビビの横の地面に落ちた。バキッボギッと折れる音。グジュッとなにかが潰れる音。頭から伸びた糸が苦痛で噴き出したのか、たるんで地面に折り重なっていた。ギシギシとぎこちない動きで人蜘蛛は伸びすぎた糸を手繰り寄せようとあがいている。


「いっちょうあがりー。魔剣で斬って表面のチカチカが消えたら刃が通るようになるよ」


なんですとぉ。シオンは神。シオン偉い。


「愛してるぜ、相棒。みんな、他の班に散って。そんで襲ってきた人蜘蛛を魔剣で斬って。こいつら体表面を摩擦が生じないバリヤーみたいな膜で覆っていて、剣とかじゃ横滑りして斬れないけど魔剣で斬ればバリヤーが消える。そしたら普通の剣でも斬れるようになる。剣が効くようになれば、あとは騎士の人達に任せて次の敵に備えるってやり方で」


めっちゃ早口で叫ぶ。コミュ障状態じゃなければ精緻の誤差ステータス38の高性能が、アナウンサー並みの発音を可能にしてくれる。近くにいた4班の騎士たちにもしっかり聞こえたみたいで、シオンが落とした人蜘蛛を数人で切り刻んでくれた。あたりの空気が数度低くなった感じ。人蜘蛛の体温っていったい何度なんだろう。めちゃくちゃ低温みたいだ。体液が染み出すけど人間の血のように噴き出したりしない。『妖精と牙』のメンバーが前後に散る。ボクも戦闘に参加したかったけど、今後のために試しておかなくちゃいけないことがあった。


「ジュラ。できるだけ広範囲に魔力が尽きるまで霧を消してくれるか。とびきり美味しい重力ディナーご馳走するからさ」


「ディナーァ。ジュラちゃんにぃ、まっかせっなさいぃ!」


ジュラがブーンと飛んでいき、あちこちで霧をぼっこんぼっこん消し始めた。これで騎士たちも少しは視界が取れるだろう。そうして霧が消されてみると頭上に巨大な蜘蛛の巣が浮びあがってきた。数匹の黒い人蜘蛛が糸を伝って移動している。この頭上の蜘蛛の巣をなんとかしないとおちおち道も歩けない。まずは火魔法を試す。威力は弱くていいのでまずは魔法陣じゃなくイメージ魔法でやってみた。


瞋恚しんいの焔。顛動てんどうする赤光。灼熱の軋轢あつれき。浄化の凝縮。焦熱の拡散」


火の玉が飛んで糸に当たる。ジュッと音がして火の玉が突き抜けた。糸はうっすら色づいただけ。続いてウォータージェットを当ててみる。当て続けるのは至難の業で非効率過ぎる。重力球で包んで圧縮してみたけどびくともしなかった。雷は魔力消費量が馬鹿にならないから保留。火魔法を魔法陣で温度をあげて試してみる。イメージ魔法の火球はだいたい800度。ライターの温度くらい。魔法陣の温度設定を1200度にする。金が溶け出すのが1064度だからそこそこ高熱だけど、糸を焼き切りたいんじゃなく燃やしたいのでどちらかといえばこれでも低く抑えてる。今度はうまくいったみたいだ。メラメラってほどじゃないけどジリジリって感じで火が入った。蚊取り線香がじっくり燃えていくみたいに糸に沿って炎が広がっていく。外側からじわじわ燃えて最後に芯が燃えて焼け落ちる感じになるだろう。何匹かの人蜘蛛が燃焼した糸を切り離しに寄ってきたけど、切り離しなんか間に合わないほどあちこちに着火してやる。30カ所ほど放火してやると人蜘蛛は消火を諦めて散っていった。退路の糸が燃え落ちて落下した人蜘蛛が1匹。待ち構えていたノアと騎士たちにめった斬りにされる。体を覆う『黒い燦めき』が消えると下から青黒い地肌が現れるんだけど、空気に触れると真っ白く霜が覆う。その状態でロングソードを斬り込めば硬いチェダーチーズみたいな手応えでぬるっと斬れるようだ。そして死ぬと脚を丸め、ゆっくり常温に戻っていく。低温のおかげで内臓臭やらの臭いがないのが幸いだ。


「全隊、指揮車まで戻れ。立て直す」


ボワヴァン団長の命令一下。橋を渡った1班と、渡りかけてた3班4班が引きあげてきた。前方向に向かったシオンとラウリが殿しんがりを務めながら戻る。


「損害報告!」


1班からふたり、3班からひとり、4班からふたり、5班からひとり。合計6名が人蜘蛛に拉致されていた。行方不明の2班7名も入れると、すでに13名の戦力が削がれている。


「なんということだ。あんな化け物。聞いたこともない。いったいどう戦えというんだ。ミナト殿。なにか考えがあれば教えてくれないだろうか」


ボワヴァン団長がぎりぎりと奥歯を噛み締めながらボクを振り返る。普通の軍事行動なら民間人のボクに意見を求めるなんてありえないだろうけど、なにせ相手は人ならぬ巨大蜘蛛だ。騎士団という組織は他国との戦争に対処するための軍隊であり、必然的に人間相手の戦闘が中心となる。騎士団が魔物と戦う状況って、そうしょっちゅうないはず。大規模なダンジョンブレイクで溢れ出た魔物が多過ぎて警備隊や冒険者たちだけでは手が足りず、城塞まで魔物が押し寄せたときくらいなものか。ダンジョンブレイクの起きる頻度は数年に一度っていうし、小規模なら警備隊と冒険者たちで制圧できてしまう。ゆえに騎士団が魔物と戦った経験なんて数えるほどしかないだろう。都市の頭上に超巨大な巣を張って集団で襲ってくる相手なんて、ボクらだって初めての相手だけどね。


「ちょっと時間をください。わかることとわからないことを整理します。その間にここに陣を設けてはいかがでしょう。ここの頭上の蜘蛛の巣はかなり広範囲に焼き払いましたから、ここなら上から襲われることはないと思います。糸を張り直そうと地面を這ってくる奴がいるかもしれません。柵を設けて防御したほうがいいかも。ボクたちが所有している魔剣なら、あの怪物の体表面のバリヤーを斬り裂いて戦えるようになります。班を編成し直してもらってそこにボクたちがひとりずつ混ざって初太刀を担当すればいいんでしょうけど、だからっていま全軍で城塞の中に入るには危険が大きすぎます。中の状況がまるでわからないし、霧を払い続けるのも厄介ですし、建物が密集している中だとどこから襲われるかわからないし。大勢だとどうしても目立つから絶好の的になりかねません。‥‥うーん。でも、攫われた人たち、殺されず生きたまま連れ去られてるんだよなあ。てことはどこかに拘禁されてる可能性が高いし。助け出すなら早いほうがいい。となるとやっぱ、偵察が必要かなあ」


「‥‥さすがダムディン叔父が見込んだだけあるな君は。よくこんな訳のわからない状況下で平然と筋道立てて考えられるものだ。よし。私も唖然としているばかりではいけないな。みな、聞け。班を再編するぞ。2班は全員あの怪物に連れ去られたと考える。8班を解体し各班の欠員に充てる。今後騎馬での戦闘はないと考える。全員下馬して徒歩で行動しろ。1班、3班は警戒即応部隊とする。間もなく日没だ。ここに陣を張る。4班、5班で防護柵と二角馬用の柵を設営。6班、7班でテントを設営しろ。魔石照明を上向きで設置。ありったけを出せ」


団長さんが指示を飛ばす。どこか呆然としていた騎士たちが生き返ったように動き出した。


「ミナトォ。腹ペコでもう霧を消せないよぉ」


よたよたした軌道を飛んでジュラが戻ってきた。顔をあげて周囲を見ると城塞橋向こうの小広場まで見渡せる。東京ドーム3個分くらいの霧がごっそり消えていた。


「わお。よく消しまくったね。オケ。じゃあ特上重力握り一丁」


約束は守る。中性子星レベルの重力球を作るとジュラが墜落するように飛び込んでいった。


「ふっかーつぅ」


腕を突きあげたスーパーヒーローポーズで飛び出してくる。他のメンバーを呼び集め、まっ先に設営されたトイレテントを優先的に使わせてもらった。そして団長さんに指揮車後部にあるミニラウンジを使う許可を得て、小休止させてもらう。ラウンジで温かい飲み物を用意した。


「ジュラ。複素生物の話。どういうことかちゃんと聞かせて」


はちみつレモネードで胃のあたりがほっこりする。


「うん。ジュラちゃんたちの世界の話ってぇ、こっちの概念と違いすぎて翻訳がめっちゃ難しいんだけどねぇ。ジュラちゃんたちは丸まった次元っていう次元軸から次元軸へぇ、トンネル効果みたいな現象を利用して渡っていくんだけどぉ。ときどきそれが複素平面に繋がっちゃうときがあってねぇ。ジュラちゃんたちは複素平面でもかなりな長期間活動できるからぁ、そこに滞在だってできるんだけどぉ。なんてったってそこに棲む生き物たちがあんまりにもクッサイからぁ、だいたいさっさと逃げ出すんだよねぇ。クッサイっていうのはぁ、ヤツラが発する振動なんだけどねぇ。メッチャクチャ音痴な脂ギッシュオヤジがぁ、濁声でガナリまくる猛毒みたいな歌にぃ、体臭と口臭とワキガ臭を混ぜてガラガラべーした痰といっしょに鼻の穴と耳の穴に流し込まれたみたいな感じなのさぁ。ヤツラの女王蜘蛛がぁ、また恐ろしく気持ち悪い振動でさぁ。なのでぇ、普通はだいたいさっさと逃げ出すんだよぉ。逆位相の高周波重力を瞬間的に計算して生成してぶつけてやってぇ、不快振動を打ち消すってやり方もあるけどぉ、めんどくさいしお腹減るからジュラちゃんはやんないんだぁ」


臭い振動っていうのは実感が難しいけど、脂ギッシュオヤジの歌とともに流れてくる体臭口臭のダブルパンチっていうイメージはわかりやすい。さすがボクの言語機能。


「ジュラは特に繊細で敏感なんで長居しないからぁ、仲間の物好きから聞いた話なんだけどぉ。ヤツラの好物っていうのが魔界の魔物なんだってぇ。複素世界にも獲物はいっぱいいるのにぃ、複素界からわざわざ魔界にまで穴を開けて侵略して魔物を捕まえてるらしいのぉ。女王蜘蛛と兵隊蜘蛛と働き蜘蛛以外にぃ、脳蜘蛛ってのがいてぇ、こいつがとんでもなく頭よくて魔法で空間を変質させたりできるらしいのねぇ。ジュラがこっちへ流されて、いったん戻ったときに他の者がいってたんだけどぉ。蜘蛛が獲物を捕まえてた魔界の漁場が自然災害かなにかで焼き払われちゃったみたいでぇ、蜘蛛たちが大慌てしてたっていうからぁ、魔界の裏っ側にあたるこの世界へ侵攻してきたんじゃないかなぁ」


げ。魔界が焼き払われたですとぉ。それってつまり‥‥自然災害ってボクのことじゃん。ボクがレイ男爵の山城から吹き飛ばしたマイクロブラックホールのホーキング輻射だよね。これもボクの責任なのか。いや、だって、なんていうか。


「そ。そうなんだー。自然災害かー。自然災害だよねー。自然災害なら、しょーがないなー」


なんかジュラがいぶかしむような顔をしたけど押し通す。平静を装い『妖精と牙』メンバーに注目してもらった。ジュラから聞いた話を伝え、攫われた騎士たちだけでなくもしかしたら都市の住人も生きている可能性があるから偵察が必要だという話をする。


「で、ウチらが先陣切っていくわけね」


シオンはいうほど嫌そうな顔をしてはいない。とはいえ不満は芽のうちに潰すに限る。聴力があがっていても聞こえないくらいの囁きでジュラに伝言を頼むと、ジュラがシオンの耳元まで飛んでいき伝言を伝えてくれた。


「偵察隊はシオンとラウリで1ユニット組むからぁ、危険を共にした間柄ってことで『吊り橋効果』が出てぇ、親密度バクアゲだってミナトがいってるよぉ」


シオンが悪巧みのお代官様みたいな顔になる。


「『吊り橋効果』ってなに?」


あら。ビビに聞こえちゃったみたいだ。


「あっちの世界でおこなわれた心理学の実験だよ。あっちの世界の年号で西暦1947年に、カナダの心理学者ダットンとアロンが『生理・認知説の吊り橋実験』っていう実験をおこなったわけね。簡単にいうと、恐怖や不安をいっしょに体験した相手に恋愛感情を抱きやすくなるっていう心理効果のこと。18歳から35歳までの独身男性を2グループに分け、揺れる吊り橋と揺れない橋を渡ってもらう。それぞれ橋の真ん中には同一の女性が立ってアンケート協力を求める。その際『結果などに関心があるなら後日電話をください』と電話番号を教えると、揺れない吊り橋を渡った男性から電話がきたのは16人中2人だったのに対し、揺れる吊り橋を渡った男性からは18人中9人が電話をしてきたという結果になった。通常なら『魅力的な相手に会う』→『相手を好きだと意識する』→『ドキドキする』という流れになるのだけど、『怖かったりしてドキドキする』→『相手を好きだからドキドキすると錯覚する』→『相手に魅力を感じる』みたいに逆の筋道で勘違い認識が生じてしまうってこと」


「えっえー。そうなの。そんなに人間って単純なの?」


「思った以上に騙されやすいみたいだね」


「覚えておくわ。で、偵察任務の話よね。確かに私たちがいかないと犠牲が多くなりそう。さっきの襲撃で騎士さんたちの動きを初めて目にしたけど、警備隊の新兵よりもたついてた」


実戦と血反吐混じりの訓練で鍛錬してきたビビは、戦闘に対してストイックだ。騎士たちの狼狽ぶりが情けなく目に写ったのだろう。歯にきぬ着せないいい方してた。騎士たちは指揮車の後ろで再編中で、指揮車の装甲壁ごしには聞こえない。指揮車の運転席にも目を向けたけど、運転してた副団長も慈療師のおふたりもトイレいってる。よかった。


「騎馬での戦いに主眼を置いた訓練を積んでいるのだろう」


ノアが騎士たちをフォローする。ノアはいい奴なんだ。


「で、ノアにはここに残って騎士さんたちのお守りをお願いしたい。彼らだけにしてまた人蜘蛛の襲撃があったら対処できないだろうから。ボクとシオンの魔剣ロングソードを団長と副団長に預けていくから、魔剣3本で人蜘蛛のバリヤー外しはなんとかしてもらうしかない。ボクとシオンはナイフも魔剣だから大丈夫。狭い街中だとそっちのほうが取り回しいいし。ノア。もし余裕があったら、魔法シールドで叩いて魔剣と同じバリヤー消し効果があるか試して」


「わかった」「了解」「よろしくねミナト」「ぐふふふふ」


最後の変な返事はシオンだ。ボクはシオンの肩に座ってるジュラを呼び戻して聞いた。


「ジュラ。あの人蜘蛛はどうやって互いに連絡しあってるのかな?」


「重力波だよぉ」


「重力なんだ。なるほど。そいでさ。ジュラ。さっきいってた逆位相の波をぶつけて消臭っていうか通信妨害ってできないかな?」


「できるよぉ。でもぉ、めっちゃエネルギー使うから補給頼むよぉ。歌ってる間はその場を動けないからぁ、ジュラちゃんはミナトについていけないからねぇ。ミナトを守れなくなるからぁ、気をつけてねぇ。重力波を増幅してミナトたちの鼓膜を振動させるからぁ、歌が聞こえている間は通信妨害範囲にいるってことだってわかるよぉ。そのほうが便利でしょぉ」


歌なんだ。歌えるのかジュラ。重力の歌ってどんなんだろ。重力波だって空間を媒介する振動なんだから増幅できたら聴こえるだろうけど、増幅率とんでもないと思うんだけど。人間の聴こえる音の大きさは音の波の高さ低さで決まるんだけど、重力の波ってとんでもなく低い。20デシベルくらいで木々の葉擦れの音、30デシベルくらいで囁き声、普通の会話で60デシベルっていう。2015年に初観測された重力の波は重力波望遠鏡LIGOの長さ4kmもある検出器の腕を陽子1個の大きさの1000分の1だけ伸縮させた。こんな小さな重力波による歪みを人間が聴こえるレベルに増幅するなんて、水素原子ほどの大きさの波を地球と太陽の距離くらいに大大大大大増幅しなくちゃいけない。エネルギーはどれほどのものだろう。ジュラができるっていうんだから天文学的エネルギーを使わずできる方法があるんだろうけど、山に籠もって3年くらい計算しないと想像もつかない。


「これほど使える妖精さんだったとは。それじゃさ、通信妨害された人蜘蛛はどうなるのかな?」


「ジュラちゃんは見たことないからわからないけどぉ、聞いた話によるとほとんどが麻痺したようにひっくり返るらしいよぉ。でも、兵隊蜘蛛なのかなぁ、よたよただけど動ける個体もいるみたいぃ」


「そっか。それは助かるなあ。よしシオン、ラウリ聞いて。ジュラが広範囲の妨害をしてくれる。ただ妨害してる間は霧消しできないし日没なので、視界はじわじわ悪くなってく。完全に霧が閉じた夜間に歩き回るのは危険が増すから、今回の偵察は1時間をタイムリミットにしようと思う。時間が限られてるから、2チームに分ける。シオンとラウリ、ボクとビビがペアで先行偵察に出る。シオンとラウリは東門を入ってまっすぐ進んだ街の中央広場を見てきて。地図は見たよね。広場の周りはベルダ・ステロと同じでギルドや市庁舎、大きい建物だと公会堂があるでしょ。状況によってだけど、中を探れたら生存者とか探してほしい。ただし今回はあくまでも状況確認の偵察だからこっそり隠密にね。派手な騒ぎはナシ。都市の住人や拉致された騎士団員の安否を確認するのが最優先。ボクとビビは東門から坂を登って途中にある、いちばん大きな建物の教会堂を中心に偵察してくる。なんらかのアクシデントでジュラの通信妨害が途切れたりしたら、人蜘蛛が麻痺から醒める。そんで背後から襲われるのはゾッとしないから、経路上で遭遇した人蜘蛛はできるだけ静かに駆除して。ジュラの話だと魔法を操って複素‥‥虚数っていったほうがわかりやすいかな。虚数の世界からボクたちの世界へ侵攻できるほどの知能を持っている知的生物だけど、対話や交渉は現時点では危険性が高すぎる。ボクたちに対する問答無用の奇襲と拉致。都市ひとつを丸ごと沈黙させちゃってる時点で敵対侵略だって断定できる。いいかな。じゃあ行動開始」


指揮車を降り、団長さんに断って魔剣のロングソードを預ける。


「よし、ジュラ。エネルギー補給用の重力球を作るよ。放置しないといけないし暴走したら危険だから、1時間で自動的に消滅するように作るからね。どのくらいのエネルギー量が必要かな」


「いつも御馳走としてもらうスイートなやつをぉ、念のため予備に1個として全部で4個ぉ。城門の橋を渡った小広場の上空100mのところに用意してぇ」


地面上の距離と高さから直線距離と角度を決定し魔法陣に書き込む。全部で4個か。重力球同士が重なって干渉し合ったらワームホールができてこの辺一帯とんでもない場所へ飛ばされてしまいかねないので、それぞれ厳密に6m離して正四面体の頂点位置に置く。


「おっしゃぁ。じゃあ、ジュラちゃんオンステージはっじまっるよーぉ」


バビュンとジュラが飛んでく。さてさて、どんな歌なんだか。とんでもなく臭い波動を消すための逆位相の波って、波長の山と谷を半分ずらして打ち消し干渉を利用するんだとしたら、結局波長がズレただけでとんでもなく臭い波動は同じなんじゃないだろうか。だとしたらそれを1時間聞かされ続けるって拷問に等しいような気がする。なんか丸めて耳栓作ったほうがいいかなあなんて考えているうちにジュラの歌が始まった。転生したら身体が女になっていたときの驚きと同じくらい驚かされる。スキャットだ。あ。入院してた病院でよく流れてた『エンヤ』って人の曲によく似てる気がする。重なり合って荘厳な層をなす祈りの声。エンヤの歌が神々しいものだとしたら、ジュラの歌にはそれに加えてギリシャ神話のセイレーンの歌声みたいな超絶美しいのにどこか生々しく邪悪な響きも感じられる。入院になって病室の窓から切り取られた中庭を見おろしたときの寂寥感と孤独が励起されたみたいに蘇り、不覚にも涙が零れそうになった。


「よし。いこう」


鼻をひとつ啜ってビビに合図し、ノアの背中をどやしつける。シオンとは突き出した拳を合わせた。石畳を早足で進む。橋を渡って東門をくぐり小広場でシオンたちと別れる。北方向の分岐道に入ったところで道に人蜘蛛が丸まっていた。脚を腹に畳み込みひっくり返っている。ボクが横を駆け抜けざまにナイフで斬りつける。バターみたいにぬるっと刃が入り、表面を覆った『黒い煌めき』が瞬間で消えた。続くビビのロングソードが蜘蛛を真っぷたつに割る。一瞬の冷気。白く覆うのは霜か。とんでもなく低体温な生物だ。冷凍庫レベルの低体温でどうやって代謝してるんだろう。死骸はそのままに先を急ぐ。教会堂へは登り坂になっている。これも侵攻対策のひとつだろう。登り坂で疲弊させ、かつ速度を落とさせ狙いやすくする。姿勢を低く足音を殺して石畳を登る。歩くことで頭に血が巡り脳が活性化したのかもしれない。レイ男爵が残した殴り書きメモとあっちの世界で読んだある学術記事がふと思い浮かんだ。2013年、『サイエンス』という権威ある学術雑誌に掲載された記事だ。絶対零度を下回る温度を創生したという内容だった。ドイツの『ルードヴィッヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン』っていう長い名前の大学の物理学者ウルリッヒ・シュナイダーさんが絶対零度よりわずかに高い温度だったカリウム原子からなる超低温量子気体を、磁気とレーザーを使って絶対零度より10億分の数度だけ低い温度にしたと報告してた。温度というのは原子分子の振動のことである。強いエネルギーの粒子は激しく振動し、温度がさがるに従って振動が減っていく。絶対零度でエネルギーゼロ、つまり振動のない状態になる。実際は不確定性原理によってわずかに振動しているんだけどね。それ以下の状態などないはずだったけど、実際に発見されたのだとしたらその振る舞いはダークエネルギーの振る舞いと似るんじゃないかといわれていた。


それ以上はあっちの先端物理学でもまだ黎明期以前の状態でよくわからないのが実情だったけど、天才レイ男爵のメモには絶対零度を通り越した物質は複素領域への振動を始める可能性への言及があった。最初に読んだときは荒唐無稽なアイデアだと読み飛ばしてしまったんだけどね。もしそれが正しいのなら、それこそ人蜘蛛が複素世界からこちら側に来るために使った方法なのかもしれない。魔法のないあっちの世界ではレーザーやら磁気やらとんでもない高エネルギーを使って発現させなきゃいけない現象も、こっちの世界なら魔法陣に虚数を書き込むことでスラッと達成できてしまう。マイナス273度の絶対零度点を超えて粒子が複素平面で虚数方向へ振動を始めたら、それは温度を再獲得するということだ。魔法陣の作用を強力にすれば、温度をさげて絶対零度を通り越し虚数軸で温度を取り戻すまでの時間をマイクロ秒でおこなえてしまう。あまりにも短い時間過ぎて人間を虚数世界に送り込むために瞬間冷凍したとしても、死んでいる暇もなく体温が戻る。人蜘蛛族はその逆の手続でこちらの実数世界へ転移してきたのかもしれない。こっちの世界には強力な粒子加速器施設もレーザー機器もないから、検証しようもないのが残念。なんてブツブツつぶやきながら坂道を登っていたボクの横を、ビビが風を巻いて駆け抜けていった。


左手にある建物と建物の隙間路地からギクシャクと人蜘蛛が這い出してくる。腹部が転生前世界の蜘蛛のように丸く膨らんで、重そうに歩いていた。石畳の道に出て、爪がギャリっと舗装を抉る。ビビの足音にも反応がない。まるで聞こえていないかのようなヨタヨタ具合だ。これが兵隊蜘蛛か。ビビが間合いに入る直前、兵隊蜘蛛がビビの接近に気がついたように身体の向きを変えた。3つの目玉がビビを向いたから、視覚で捉えたのだろう。ずいぶん近眼だ。ジュラの歌で広域感知ができなくなっているってことは、視覚を補助としておもに重力で周辺感知をおこなっているのかもしれない。ビビが人蜘蛛と接敵した瞬間、横の路地の壁を伝ってさらに2匹の人蜘蛛が頭を出した。ボクも腰後ろから魔剣ナイフを抜いて走り出す。けど、ビビの戦闘技術はボクの想像のはるか上をいってた。1匹目の中脚を撫でるように薙ぎ払い、バリヤーを消す。前脚を振りあげて爪先を落とそうとする蜘蛛の懐に、華麗なステップで滑り込んだビビの剣が脳天から垂直に走る。人蜘蛛が真っぷたつになった。その勢いを落とすことなく斬り捨てた人蜘蛛を横に避け、壁から地面に降りようと背中を向けている人蜘蛛の中心に剣を突き刺し、自分の身体を回転させて人蜘蛛の腹を斬り裂いた。この人蜘蛛の腹は膨らんでいず、人の胴体のように引き締まっていた。剣の入りが浅いと思ったのか、さらにふた太刀浴びせて首と胴を斬り飛ばす。斬り口から白い靄をたなびかせながら残骸が地面に落ちた。そして残る一匹がまだ壁に張りついている状態で下をくぐり抜け、腹の下を斬ってバリヤーを消す。駆け抜けて壁を2回蹴って飛あがり、空中で身を捻った。全体重をかけて蜘蛛の身体を袈裟懸けに斬り落とす。


ボクは3歩くらいしか動けなかった。鬼強よだ。実践経験と修練による本物の強さだ。ビビは怒らせないようにしようと心に誓う。人蜘蛛の切断面から漏れた冷気が地を這って流れ消えたあと、最初に真っぷたつにされた人蜘蛛が半身ずつキシキシと脚を丸めて切断面を上に向けた。こいつだけ異様に膨らんだ胴体だったから、あまり気色のよい見物みものじゃなかったけど切断面を覗き込む。薄く貼った氷が割れるピシピシした音とともになにかガスが漏れるみたいなプシューって音が聴こえる。そして腹の中に詰まっていた肉色の物体がプジュ、クピュと泡を吹きながらズルリと押し出されてきた。なんだろ。内蔵かな。っと見ているうちにあるものに目が止まった。はっきりと人の手の形がうかがえる。その奥に足首から先みたいな肌色の物体が見えていた。じっと見ていると頭の中で目にしている物の意味が形を成してくる。足の指のまわりに栗色の人の髪の毛が詰まっていた。目を逸らして地面に手を突き、えずいてしまう。胃液がちょっとだけ石畳にこぼれた。


「ミナト。どうしたの。大丈夫?」


ビビはまだ気がついていないようだ。


「ビビ。こいつら人間を食ってる。人ひとり腹の中に収めてゆっくりゆっくり食っているんだ。その内臓みたいな押し出された物の中に人間の残骸みたいなパーツが見える」


驚いたビビが人蜘蛛の残骸を見直した。ようやく形が意味をなしたのだろう、口を抑えて息を漏らす。


「‥‥知的生物だろうがなんだろうが、これで迷いなく斬り捨てられるわね」


敵の女王蜘蛛や脳蜘蛛は丘上のお城にいるだろうって考えるのが真っ当だろう。城はゆるい丘の頂にある。坂を登るということは敵の本丸に近づくということだ。ボクたちはこれまで以上に警戒を強めて商店街の坂道を進んでいった。あまり考えに没入しないように注意しながらざっとの試算をしてみる。ガーディスト・デ・ラ・サノの城塞内面積はざっと200万平方m。さっきジュラが霧を消した範囲がだいたい東京ドーム3個分でざっくり135000平方m。200万平方m割る135000平方mで14.8倍。霧の消えた範囲に浮かんだ巨大蜘蛛の巣の上を這っていた人蜘蛛の数は目視で8匹だったから、それを働き蜘蛛の平均と考える。すると8匹✕14.8で118となる。城塞都市全体で平均118匹の蜘蛛が這い回っている計算になり、働き蜘蛛が概算で120匹。兵隊蜘蛛や拠点に集まって働く個体なんかも加味したら最低でも200匹の蜘蛛がいるって感じか。遠征軍の3倍以上だ。


「見て。教会が。あれ教会堂よね?」


丘の中腹、坂を登りきった広場に面して、とんがり屋根の荘厳な建物が正面を向けて建っているはずだった。けど、いまそこに見えているのはビル4階分の高さがある琥珀の飴でできた奇妙に捻れた巨大な壺だった。教会をライトアップするために設置された魔石照明がまだ生きていて、夕闇を払っている。霧の層を抜けたみたいで教会からさらに上のお城まで、丘と空を塞いだ雲の様子がはっきり見えた。おかげで教会堂に粘りついた異物がはっきりと見える。大量の飴を練りあげて作った涙滴型の壺。ぼってりと太くなった地面近くに漏斗状の穴が開いている。上部は溶かしたみたいに細く引き伸ばされ、180度曲がって下に向かい自分自身に繋がっている。繋がっているんだけど、なにか壺の形状を目で追うと途中で脳が揉まれるみたいな違和感が生じた。騙し絵を見ているみたいな不安定な感じだ。曲部の上に教会堂の屋根と鐘楼がかろうじて見えていた。教会堂前広場の端に放置されていた樽を積んだ荷車の陰に隠れて奇妙な構造物を眺める。鐘楼の尖った屋根には蜘蛛の巣の糸が結びつけられ八方に伸びていた。糸の上を数十匹の蜘蛛が這い回っている。地面上には、なんだろう、穴の前にマンホールの蓋くらいの大きさの白い円盾を背負った人蜘蛛が3匹整列していた。先頭の人蜘蛛が背中から円盾を外して、壺穴の前に置く。


「何なのあれ。蜂の巣みたいな物?」


「うーん。下の穴から人蜘蛛が出入りしてる様子がないんだよなあ」


人蜘蛛が音波を聞いているわけじゃないってわかってきてたけど、動き回る人蜘蛛の爪音しか音のない静寂の中ではつい声を顰めてしまう。その静寂を破る人の悲鳴が聞こえた。上だ。見あげると麓の街並みから続く1本の縦糸を伝って、人蜘蛛が教会堂の鐘楼に登ってきていた。中脚で両手足をひと括りに縛られた裸の女性をぶらさげている。その女性の顔は糸に巻かれてよくわからない。口の部分を封じていた糸の粘着が剥がれたのだろう。女性は泣き叫び、哀願し、命乞いをし続けた。人蜘蛛はまったく無頓着に教会堂の鐘楼へと乗り移る。カツカツと屋根を歩き飴壺の上部の曲がった部分に近づく。下からはなにをしているかわからなかったけど、なにかの操作をしてから屋根にくっつけて置いておいた女性を前4本の脚で高く持ちあげた。悲鳴が轟く。蜘蛛糸で目が塞がれていたのは幸いだったかもしれない。無造作に人蜘蛛は女性の身体を投げ捨てた。立ちあがって駆け出そうとしたボクの腕をビビが抑え込む。


「なにする。助けなきゃ」


「ミナト。お願い。冷静になって。いま飛び出したらあたり中の蜘蛛が押し寄せてくる。簡単に死ねるよ」


「だって‥‥」


教会堂を見あげる。投げ捨てられた女性の悲鳴はくぐもっていたけどまだ続いている。でもその姿は見えなかった。どうやら壺の中をカーブした曲面に沿って落ちているみたいだ。悲鳴が尾を引き、ある一瞬でぷつんと断ち切られたかのように消える。声が消えると同時に壺の側面の小孔が生き物のようにヌチャっと開き、シュウシュウと霧を噴き出した。噴き出した霧は地面を這って坂を流れくだっていく。巨大なナメクジのゲップみたいなおぞましい音がして、壺の下部の穴から肉色の物体が吐き出された。粘液みたいな糸を引いて置かれた円盾にドチャっと落ちる。用途からしたら円盾じゃなくて受け皿のようだ。肉色の物体はセメント袋くらいの大きさ。ヌルヌルした感じで超巨大な突起のないナマコみたいだ。先端の穴から後端の穴まで白っぽい縞模様が何重にも続いていた。乳白色の大きな袋がふたつ、肉塊の手前の穴から押し出されている。小さな方の袋からときおりブシュッと水みたいな液体が噴き出す。奥の穴の近くには、左右1対でブツブツが密集した赤黒いカリフラワーみたいな器官がもにゅもにゅと蠢いていた。得体が知れないけど生物であることだけは間違いない。巨大な壺に人間が投げ込まれ、下から異形の生き物がひり出される。まったく別物と考えるには無理があるよな。考えたくなかった。けど無念無想の境地になんか達せられない凡人なんだボクは。それがなんであるか思い当たってしまうと、全身から血の気が引く感じがした。軽い脳貧血だ。


「あれ、なに?」


ビビも蒼白な顔でボクに聞いてきた。聞くまでもなく答えがわかっているような顔をしている。答えが正しいと認めたくないから、あえてボクに聞いているのだ。いま、皿の上でプクプクぴゅるぴゅる弱々しく震えている生き物が元は人間だったなんて、頭で認めても感情が拒否ってくる。なんだか急になにもかも投げ出して『ゆのか』に帰り、布団に潜り込みたくなった。皿をまたぐように人蜘蛛が動く。メキメキっと胸から会陰までの胴部分が縦に裂け開いて、巨大な空洞が現れた。人蜘蛛が脚を曲げて巨大ナマコに覆いかぶさる。胴体の空洞に巨大ナマコがすっぽりと収まって割れ目が閉じると、人蜘蛛の胴部分がぷっくりと丸く膨らんでいた。


「ク、クラインの壺かも‥‥」


「なにそれ?」


「後で説明するよ。戻ろう。これ以上見てたら自殺とわかってても飛び出しちゃいそうだ」


目の前が赤黒く狭まるほど自己嫌悪の怒りが脳を焼く。なにもできない自分の不甲斐なさに胃がキリキリする。背を向ける瞬間、次の犠牲者を運んできた人蜘蛛が鐘楼の屋根に降りるのが見えた。まるでコンベアのように人間が運ばれてくる。人蜘蛛の餌に加工されるために。クラインの壺が噴き出す霧のお陰ですぐに鐘楼も見えなくなる。見えなくなっただけでぐっと楽になった。あまりの自分の単純さに情けなくなる。戻る道すがらに接敵はなかった。人蜘蛛を斬り刻んでこの苛立ちを解消する機会も与えられずボクたちは騎士団の張った陣へと戻る。ノアがいつもの明るい笑顔で迎えてくれた。陣地を襲う人蜘蛛はいなかったようだ。糸を張り直す役の働き蜘蛛は女王との通信を阻害されて丸まってるし。


「シオンたちは?」


「まだ戻らない。間もなく1時間だからおいおい戻るだろう」


ジュラの歌が終わる前に薄っすらと漂い始めた霧のベールを透かして、シオンたちが帰ってくるのが見えた。見殺しにせざるを得なかった自己嫌悪で萎れていたボクたちよりも、もっととんでもない目にあったような疲労困憊の表情をしている。ボクたちとボワヴァン団長、クロエ・テシエ副団長、慈療師のおふたりトマさんとヴィダルさんが入ると指揮車のラウンジは過密になり、ノアとラウリは壁に貼りついて立っていなければならなかった。シオンは押し潰された青菜みたいな顔色をして俯いている。かなり堪えているみたいだ。沈黙するシオンに代わってラウリが報告を始める。


「途中丸まっていた人蜘蛛を12匹始末できた。魔法シールドで叩けばバリヤーが消えるのは確認した。それで、中央広場まで問題なく進んだ。最初に公会堂に向かったんだが‥‥公会堂の中は、地獄だったよ。この世のものとは思えない光景だった。天井から千人を超える人たちが人蜘蛛の糸にぶらさげられて宙吊りにされてる。生きたままだ。でも糞尿は垂れ流し。建物の外にまで臭いが溢れてる。床には扱いに耐えきれなくて亡くなった人だろう遺体が落とされて、そのまま腐敗しているから死臭も強い。なによりおぞましいのが‥‥100の単位で人蜘蛛が這い回り、宙吊りにされた人たちの口に尻の穴から伸ばした管を突っ込んで給餌していたことだ。水分と最低限の栄養補給だと思う。泣くことも声を出す気力すらもなくなったんだろう、呻き声だけが無数に重なって基底音みたいに響いてた。悪夢だよ。他の建物はギルドの入口ホールしか確認できなかったんだが、そっちにも100人単位でぶらさげられていた。おぞましいが、でもまだ人々は生きている」


「よくシオンが暴走しなかったわね」


ビビがシオンの背に手を回し、優しくさすりながらいった。ラウリは悲壮な顔にかろうじて笑顔を浮かべる。


「したよ。シオンも自分もね。でも、公会堂の中の情景と臭いでふたりして吐いて、吐きすぎで力が抜けて動けなくなった。それで事なきを得た」


横に立つノアが、それで突っ込んでいたらいまごろお前たちもぶらさげられていただろうって、慰めになるのかわからない慰めの言葉をかけていた。


「ボクたちが見たのは‥‥丘の中腹にある教会堂に粘りつくように作られた建物4階分もの巨大な壺だった。琥珀色の飴みたいな成分で作られていて、そこらをほじくり返して材料を精製してた様子がないからおそらく人蜘蛛の分泌物だろう。昔の映画の『エイリアン』みたいな。その壺は『クラインの壺』って呼ばれる特殊な曲面構造をしているんだろうと思う。生きたまま裸に剥かれた人間が投げ込まれると壺の内側を滑って落ちるんだけど、特殊な形状の壺で内側も外側もないから滑り落ちながら内側が外側になる。ちょうどそこで壺の下から吐き出されるんだ。空間が捻じ曲げられて内側が外側になるから、人体も内側が外側にひっくり返されていた。構造的に無理な状態だけど空間が歪んでるだけだから本人にその自覚はないかもしれない。ただ、壺から吐き出されたところで歪んだ空間が固定されるから、骨も血管も神経もとんでもない変形や引き伸ばしのまま固定されるはずで、激痛なんてもんじゃないショックが襲うと思うんだ。なんだけどショック死はしないみたいで。それが幸いとはいえない状態だ。そしてそんな姿にされても生きている人々を、人蜘蛛は食料にしてる。クラインの壺はその構造上部分的に上の次元へはみ出すんだけど、その次元がおそらく虚数軸の次元なんだと思う。人間の肉体をそのままでは食べられないから、クラインの壺でいったん虚数次元を通過させ虚数物質に変えているんじゃないかな。あくまでも推論だけど」


いいながらウプウプしだした胃をなだめるのでせいいっぱいだった。ボクが言葉を切ると静かなざわめきが広がる。


「クラインの壺か。聞いたことはあるが‥‥」


と呟くラウリ。それに対してシオンが顔をあげる。


「ウチは知らない。もっと説明してよミナト」


答える前にジュラが指揮車の壁を通り抜けて戻ってきた。


「ジュラちゃん帰還んー。ねぇー。どーだったぁ、ジュラちゃんの歌ぁ」


「ジュラはよくやった。素敵な歌だった。ありがとう。シオンはちょっと待って。後でじっくり説明する。その前に考えさせて」


「うふふぅー。もっと褒めてもいいよぉ」


とジュラは空中で3回転する。シオンは素直に頷いた。


「わかった」


「ラウリの話で住民の人たちが生きているってわかったからには、一刻も早く救出しなくちゃいけない。でも、いまのボクらの戦力では人蜘蛛が総力をあげて襲いかかってきたら‥‥。真っ向勝負したら、単純に数で太刀打ちできないと思う。人蜘蛛は見えた範囲から推測してざっと120匹。これは働き蜘蛛の数字で、兵隊蜘蛛は含んでいないと考える。だから人蜘蛛の総数は少なく見積もっても200匹はいると仮定したほうがいい。ボクたちの戦力は‥‥炊事班と慈療師の方たちは戦力には数えないとして、ボクたち冒険者が5名で騎士団の方たちが団長と副団長を入れて58名。だけど2班の7名と最初の接敵時に6名が拉致され、現状の騎士団戦力は45名。襲いかかってくる自分より大きな人蜘蛛を、ひとりひとりが最悪4匹同時に相手しなくちゃいけなくなる計算だ。とにかく戦力が足りない‥‥団長さん、人蜘蛛を倒すだけじゃなく拘束されてる人達を助けなくちゃならない。この人数じゃ絶対無理です。ベルダ・ステロに援軍を要請してください。とにかく大至急きてもらうよう。一刻を争います。こうしている間にも次々と人が食糧に変えられてます」


「わかった。しかし、装備を全部外した二角馬を早馬として全速力で走らせても、ここからベルダ・ステロまで最短で3時間。夜だし、おそらく5時間はかかる。救援が到着するのは10時間後だ」


ボクは無意識に曲げた人差し指を噛んでいた。10時間。遠征隊が2日かけて進んできた道を10時間で往復できるなら早いほうだろう。でも、その10時間で何人の市民が餌に変えられてしまうことか。ここには大勢の子どもがいたはず。人蜘蛛は子どもも大人も区別しないだろう。どうにかしないと。自分自身の無力さが歯痒い。


「うーえっぷぅ。予備の重力球はほとんどいらなかったねぇ。でももったいないから食べちゃったよぉ。なんかカロリー消化しないと重力もたれしちゃうぜぇ。ミナトさぁ。警備隊でいいのかなぁ。ジュラちゃんがおつかいにいってこようかぁ?」


「ジュラの飛行速度は二角馬より遅いだろ」


「1回ぃ、ジュラの5次元界に戻ってぇ、そこでベルダ・ステロの警備隊隊長さんの目の前に出るように角度を変えてこっちの次元に戻ればぁ、10のマイナス10乗秒で行って帰ってこれるよぉ。帰ってきたらガス欠だけどぉ」


「そっか。それで行こう。重力球なら精神力の続く限り作るよ。でも伝える相手を間違えるなよ。第2外周警備隊のダムディン・アチバドラフ隊長さんに伝えるんだ。伝える内容は‥‥とにかく集められるだけ人を集めて、特に第2外周警備隊のメンバーは鬼強おにつよだから必須で参加してもらって。そのときレイ男爵の宝物で警備隊に寄贈した10個の腕装着式魔法シールドは絶対持ってきてもらって。そんで無理ならしかたないけど来れるだけの慈療師さんも同行させて。すべての二角馬1頭につき2本ずつグレードIIIポーションを領主権限で買ってもらって、途中へばった二角馬に飲ませて。回復させながらなら時速60km以上で走れるはず。とにかく1秒でも惜しんできてもらって」


ジュラに指示をしていたら、慈療師さんのひとりヴィダルさんが声をかけてきた。


「この街で拉致されている人々を治療するにはもっと多くの慈療師が必要です。慈療院に人を派遣してもらえるよう、慈療長宛のメッセージを託したいのですが」


ボクが答える前にジュラが答えた。


「小さなものならぁ、ジュラちゃんの事象の地平面に情報にして貼りつけてぇ、向こうで実体化もできるよぉ」


「小さければ大丈夫なんですね。じゃあ、このペンダントは運べますか?」


ヴィダルさんが首にさげている慈療師のシンボル、太陽をかたどったペンダントを外して持ちあげた。


「ギリギリ大丈夫かなぁ。鎖を外してくれればぁ」


ヴィダルさんがペンダントを手で包み込み、短い祈りを捧げる。指の隙間から白い光が溢れ出した。手を開くと飾りの中央に嵌め込まれたダイアモンドに似た宝石が虹色に輝いている。慈の念が込められたのだろう。ジュラがパタパタと飛んでいってペンダントの石を覗き込む。


「慈療長にこのペンダントを手渡してもらえば、ペンダントが共鳴して私の慈念が慈療長に伝わります。なので説明は不要です」


「わかったぁ。じゃあ、いってくるねぇー」


言葉より先にペンダントとジュラが消えた。ボクはじわじわと昂ってくる怒りに身を任せる。


「これなら遅くとも2時間で援軍が着くでしょう。援軍の到着と同時に行動を開始します。騎士団の皆さんと第2外周警備隊の腕装着式魔法シールドを持った隊員がペアになって中央広場を制圧してもらいます。ジュラにもう一度歌ってもらいますが、今回は最初から歌って人蜘蛛を麻痺させるんじゃなく、騒ぎを起こしてある程度人蜘蛛が集まった段階で歌って麻痺させ駆除してもらおうと思います。ただ、兵隊蜘蛛は歌の圏内でもかろうじて自律行動できるので戦闘は避けられません。それと、もうひとつ。ボクはその作戦に参加しません。中央広場で戦闘が起きれば人蜘蛛たちはそっちに集まるはず。なのでその隙にクラインの壷をぶち壊しにいきます。壺を魔法で爆破するだけなのでボクひとりでも大丈夫ですから」


冷静を装っていたけど、ボクは自分の不甲斐なさに自己破壊衝動が生まれるほど怒っていた。


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