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19.ありふれた「黒穴」と「ホログラム」と「負の質量」


脳細胞が活性化したボクはエルキュール・ポアロもかくやというほど灰白質かいはくしつをバキバキ働かせることができるのだが、集中が度外れてしまうため周囲のことが気にならなくなるっていう欠点を持つ。20時に執事が出現して騒然となっても気にならず、22時30分にメイド、23時20分に再度執事が現れたのには気づきもしなかった。あっちの方程式こっちの書き殴りと読み進めるにつれ驚くべき真相が明らかになってきていたけど、21世紀の現代先端科学ですら未解明な理論だけに頭から鵜呑みにできない部分も多い。23時半。切迫したトイレ欲求に否応なく集中を破られ現世に復帰した。


「うー。トイレ行く」


「あ。ウチも。ビビも行くでしょ?」


「あ。私はまだ立哨中だし」


「いや、今のうちにいっておくほうがいいよ。24時になったらコックが出るはずだから、メイドや執事よりちょっと危険だし。いまなら安全なはず。他にも希望者がいればこの機会にいっしょにいきましょう」


とボク。アチバドラフ隊長が質問してきた。


「なにかわかったのか。次の出現時間がわかるのか?」


「あ。はい。幽霊に関してはほぼ解りました。トイレいってきた後に説明します」


「わかった。立哨メンバーもトイレ休憩を許可する。ここには数名残ればいい。途中の階段の立哨も希望があれば休憩してよしとする」


隊長さん、ボクのいうことを全面的に信用してくれる。嬉しいけど責任が増すから鬱陶しさもあったりなかったり。結構な集団でゾロゾロと外へ向かい、トイレテントで順番待ちした。書斎に戻り、待ち構えてたアチバドラフ隊長に早速説明を求められる。応接セットの紙の山が片づけられた。ボクとシオンが窓側の長椅子に、向かいの長椅子にノアとラウリが座り、左右のひとり掛けソファにはアチバドラフ隊長と遅れてやってきたンガバ副隊長が座る。警備隊からは他にも立哨を交代した第1班班長のストラトス曹長、副班長のミツォタキ曹長とオリヴィエ1士もソファの後ろで立ったまま話を聞く体勢。ビビは聞き耳を立てながらも全員分の飲み物を用意してくれてる。ドア前とバルコニーに立哨している隊員たちも聞き耳を立てているだろう。観客が多すぎてコミュ障がでかけたけど、もう2週間近くいっしょに訓練したり行軍したりした間柄だったおかげでなんとか冷静になれた。それにしても相対性理論も知らない人たちにブラックホールを説明することがまず至難の業だ。


「えーとですね。現在23時45分。15分後の0時にはコックが出る予定です。その1分前にノアとラウリには階段バルコニーで戦闘準備してもらいます。立哨の隊員さんたちは玄関外とこの書斎前まで退避ということで。ボクもノアたちといっしょにいきますので説明が中断してしまいます。それでもいいでしょうか?」


アチバドラフ隊長が了承したので話を続ける。


「えー。それではですね。前段階の知識がないと意味不明な話なんで、まずブラックホールの説明をして、それからマイクロブラックホールの話をして、それからホーキング輻射の話を聞いてもらいます。すいません、それでもまだ本題じゃなくて前段階の基礎知識なんです。長くなります」


「それは仕方ないだろう。我々も自分自身の命に関わる話だ。必死で聞く。わからないことはわかるまで質問させてもらう」


「よろしくお願いします。えーと。ブラックホールですね。ブラックホールというのはこの夜空、宇宙の中に存在する巨大な質量を持った星の成れの果てです。私たちが昼間見てる太陽の30倍以上大きな星は最終的に自分の重力でとめどなく潰れていきます。潰れて潰れて、その星の質量から導き出されるシュヴァルツシルト半径と呼ばれる半径よりも小さくなったとき、あまりの重力の大きさに物質はおろか光さえも外にでてこれなくなります。まわりの物をすべて吸い込み、この宇宙で最速の光すらもでてこれない黒い穴だからブラックホールって呼ばれます。一般相対性理論っていうエポックメーキングな理論から予測されていた現象だったんですけど、あちらの世界では特殊な望遠鏡を使ってついに撮影までされてました」


「冒険者がもたらした知識による最近の天文学の革新の話は知っている。太陽は遥か遠くにあるから小さく見えるが、じつは我々のこの大地がケシ粒みたいに思えるほど巨大だって話を聞いたことがある。その30倍か。もはや想像もできんな」


アチバドラフ隊長がいう大地とはテロと発音される。これはラテン語のテラと共通していて地球という意味も併せ持つ。


「で、次にマイクロブラックホールの話なんですが、原理的には太陽の30倍じゃなくても、そこらの砂粒だってリンゴだって無制限に圧縮できればブラックホールになります。いまボクたちがいるこの惑星、大地をぎゅーっと圧縮して、直径17.6mmのブドウとかサクランボくらいの大きさにするとブラックホールになります。マイクロブラックホールっていうのはもっとずっと小さくて、原子や分子サイズのブラックホールです。それでですね、この城の城主と思われる人物はそのマイクロブラックホールを人工的に作りだす研究をしてたようなんです。これはあっちの世界でもまだ可能性の検証段階で、作り出せた人はいないんですけど」


そこまで話したところでビビがホットチョコレートを配ってくれた。ありがたくいただく。


「うーん。甘い。脳に染みるなあ。ありがと、ビビ。あ。すいません。えっと。専門的になるのでめちゃくちゃ簡単に話すと、この城の城主は粒子加速器の代わりに魔法を使ってミニブラックホールを作り出すことに成功したみたいです」


「粒子加速器?」


「あ。すいません。あっちの世界の巨大で強力な機械です。えっと。それでですね。この人、この城の城主って、たぶん元冒険者だったんじゃないかと思うんですよね。それで、あっちの世界では素粒子物理学かなんかの研究者だったんじゃないかな。知識が半端ないんです」


横でシオンがハイハーイと手をあげ、指名される前にしゃべり始める。


「うん。そうだよ。黎・憂炎さん。レイ・ユーエンさんって読むのかな。日記の内表紙に書いてある。中国の人だったみたい。えーとなんだっけ。大学の名前がねー。あ。そうだ。精花大学。っていう大学の物理の教授だったって。第1世代って書いてたから転生第1回目の人なのかな?」


「日記?」


「そ。ウチが読んでた革表紙のやつ。最初、すごく面白いんだ。パーティ組むことになったネイティブアメリカンで女性冒険者のキイラ・ラパヒエさんとふたりで、あちこちのダンジョンを次々に踏破してくの。前衛がラウリと同じ双剣使いのラパヒエさん、後衛が魔法特化のユーエンさん。息ぴったりでね、めちゃくちゃ強かったみたい。その頃の冒険話がめっちゃ面白いの。でさでさ。このふたりがやっぱ恋に落ちるわけね。そのへんもねー。韓流の恋愛ドラマ並みにワクワクドキドキでー。で、ついにゴールインするんだけど、功績が凄かったから結婚を機に男爵位をもらってね。そいでこの山城を割譲してもらってー。凄いよね。そんでそんでラブラブ&研究三昧の日々を送ってたんだけど。日記の書き込みがばったり途絶えるんだ。1ヶ月くらい間が開いて再開したんだけど、なんか変な感じになってて。なんていうか。この世のすべてを呪ってる感じっていうか。キイラさんが、なんか事故なのか事件なのかに遭ったらしくて。そのあたり曖昧で、怪我の具合も不明で。日記の書き方も口調も内容も変な感じになって。なんか読むのが辛くて、そこまでしか読んでないんだけど」


シオンが脚をバタバタさせながら、革表紙の手帳を持ちあげてヒラヒラさせてる。10冊分くらいがソファの隅に積みあがっていた。


「なるほど。あとでそっちも読まなくちゃ。ちなみに中国なら最初が姓で後が名前だからユーエンさんじゃなくてレイさんだな」


「あっそーなん」


悪びれる様子もない。さすがJK。んでシオンって韓流恋愛ドラマファンだったんだ。いや。ボクも観てたんだけどさ。


「レイ男爵はマイクロブラックホールを作ることに成功したようです。魔法による裏技みたいなテクニックを使って作ってます。質量があるから空間がたわんで重力が生まれるんですけど、魔法で空間を撓めてやれば質量なしでお手軽に重力が生まれちゃうんですね」


「なんかそれって、好きになってからドキドキするのが普通の筋道なのに、ちょー高い吊り橋の上で怖くてドキドキしてるときに会った人を好きになったって勘違いしちゃうっていうのと同じ感じじゃんね」


はいはい。心理学の『吊り橋効果』ってヤツね。シオンって、バスケ馬鹿とはいいつつも『吊り橋効果』知ってるくらいの乙女だったわけか。


「原因と結果が逆転しても成立しちゃうって意味では同じだけどさ」


「じゃあ好きな相手とダンジョンとか冒険したら、心臓ドキドキして相手もウチを好きになってくれるってこと?」


「まあ。そうだけど。いまは恋バナじゃなくて重力の話だから。どちらも引き合うのはいっしょだけどね」


「あ。ミナト。うまい。座布団1枚」


「あーもう。シオン。少しお口チャック。すいません、隊長さん」


「いや。気にせず続けてくれたまえ」


続けろというのは掛け合い漫才の方じゃないよな。


「えーと。で、重力ってそもそもなんなのかって話なんですけど。さっき話した一般相対性理論の考え方ではですね。よく例えにだされるのがゴムシートの例えなんですよね。ゴムシートの平面に重い物体を置くと、ゴムシートが重みですり鉢状に撓みますよね。その撓んだところに小さなボールをまっすぐ転がしてやると、シートの撓みによってボールの軌道が内側に曲げられます。撓みを無視して、例えば上から見たりすると小さいボールが重い物体に引き寄せられたみたいに見えるんですね。それが重力だって考えるわけです。で。そこからさらに発展させて、シートそのものを魔法で撓ませてやれば見かけ上の重力が作れるってことになります。撓みが垂直になるほど曲げてやればブラックホールができあがります。惑星ほどもある巨大な物体をぎゅーって圧縮して作るにはとてつもないエネルギーが必要になりますが、魔法なら空間の曲率を書き換えるだけなんでそれほど魔力を必要とせず作れちゃいます」


「この大地をサクランボの大きさに圧縮するとブラックホールになるが、大地を圧縮しなくても空間を曲げてやれば圧縮したと同じブラックホールができる。で、そのブラックホールはどういう現象を起こすというんだ?」


さすがアチバドラフ隊長。隊長やってるだけあって頭のキレがいい。ンガバ副隊長とラウリとビビは、いまのところ必死でついてきてる。シオンとノアは途中から興味ないサインを出し始めてるし。


「すいません。もっとストレートに話せる人もいるんでしょうけど、ボクはまだるっこしいってよくいわれるんです。基礎知識がもうひとつ。ホーキング輻射って現象があります。ブラックホールのシュヴァルツシルト半径となる球面を『事象の地平面』って呼ぶんですけど、そこからはなにものも脱出できないとされてました。でも、スティーブン・ホーキング博士っていうイギリスの天才物理学者が構築した理論で、そーじゃないって唱えたんですね。んで。こっからはわかりづらい話をわかりやすくするために簡略化して話すのでざっとで聞いてくれればいいんですが‥‥。真空ってなにもない空っぽじゃないって考えがあるんですね。量子力学では振動を止められないので、なんにもない真空なのに最低エネルギーがゼロじゃないんです。振動数ひとつひとつに最低エネルギーの振動があってエネルギーを持つので、振動の数は無限ですから、つまり無限のエネルギーがあるってことになっちゃいます。なので真空っていうのはなにもないのにエネルギーがめいっぱい詰まってることになるんですけど、このエネルギーは取り出せないのでないことにしちゃってゼロだってことにしちゃうんです。これがゼロ点エネルギーって考えです」


「この部屋の空間にもエネルギーが詰まっているんですね‥‥取りだせたらお湯が一瞬で沸くのにね」


そういったのはビビ。立哨中の隊員にもホットチョコレートを配り終わって応接セットの横に戻ってきたところだ。


「ところが加速度によってつねに加速している場では場の振動数が刻々と変わっていくので、それぞれの振動数にあるゼロ点振動エネルギーも逐次ゼロからずれていくわけで。その差分エネルギーが認識できるんです。この場合、真空からわずかですけど、光が飛びだしてくるのを見ることになります。加速度に比例したエネルギーをもつ光です。一般相対性理論では加速度も重力も同じと考えますから、重力がある場所では真空が光っていることになります。普通だとその光は弱すぎてないも同然なんですけど、マイクロブラックホールみたいにデタラメな重力の場では途轍もないエネルギーになって放射されます。これをスティーブン・ホーキング博士が提唱したので『ホーキング輻射』っていいます。エネルギーが放出されるということはブラックホールのエネルギーが持ち出されるってことになって、ブラックホールの質量が欠損するんですね。巨大質量のブラックホールだと輻射も小さく質量の欠損も誤差レベルの微々たるものですけど、マイクロブラックホールの場合は質量の減少が激しく、放射されるエネルギーも巨大なものになります。そして最後はとんでもないエネルギーを放って消えてしまう。それを『ブラックホールの蒸発』と呼びます。ついてこれてますか?」


「ううむ。とにかくそのマイクロブラックホールってヤツは、凄いエネルギーを発しながら蒸発して消えてしまうってことだな」


「そうです。マイクロブラックホールが魔法で作り出されて、そして蒸発して消えるまでとんでもない量のエネルギーを生み出します。そのエネルギーを使って幽霊を投影したり、魔法を起動するための魔素を収集するシステムを作りあげたようなんです。どういう仕組みかというと、ダンジョンを利用してます。ダンジョンコアにマイクロブラックホールで得られたエネルギーを注入して急速に成長させ、ダンジョンブレイクを起こすほどの魔素を生産させてます。そこで作られた魔素をこの城にフィードバックさせてブラックホールを生成・制御するための魔力として利用してるんです。ダンジョンを3つも使って3個のマイクロブラックホールを一定の周期で作り続けてます。メイドの幽霊を作り出すブラックホールと執事の幽霊を作り出すブラックホール。そして他のふたつよりエネルギーの大きなコックの幽霊を作り出すブラックホールです」


「なんだと。グラボ山脈の向こうでの大規模なダンジョンブレイクは、ここのブラックホールが原因というのか。では、この城からグラボ山脈の向こうまでエネルギーをやり取りする地下洞窟でも続いているのか。そこを通って魔物がくる可能性は?」


アチバドラフ隊長はあくまでも実務派だ。


「それに関しては大丈夫です。物理的なトンネルを通してのやり取りじゃありません。もっととんでもない量子テレポーテーションっていう現象を使ってます。概要としてはわかるんですけど実際の原理や魔法陣の仕組みなど、ボクにはまるでわかりません」


「ブラックホールとかいうものとあの半透明の敵性現象が関係しているというのはわかった。じゃあ、あの敵性現象の正体はわかったのか?」


「すいません『てきせいげんしょう』っていおうとすると舌噛みそうなので幽霊って呼ばせてください。で、正体ですよね。たぶん。あの幽霊の正体は、ブラックホールに記録された人間の情報が、指向性を高められたホーキング輻射のビームによって外部投影された立体映像です。ホログラムの一種です」


「人間の情報?」


「たぶん。ここで働いていた使用人たちをブラックホールへ投げ込んで実験したんだと思います。ブラックホールに投げ込まれた人間は強烈な潮汐力によって引き千切られ、バラバラのグチャグチャにされて最終的には『質量』と『電荷』と『角運動量』だけになってブラックホールの『事象の地平面』の手前にある平面に記録されるんですが、レイ男爵は人間の情報丸ごとを分解されずブラックホールに保存する方法を見つけてます。その結果、充分な魔力が魔法陣システムに貯まりマイクロブラックホールが生成されるや、外側魔法球面からマイクロブラックホールに情報が転写されます。そしてマイクロブラックホールが消滅するまでの60秒間、人間の立体映像を投影し続けるんです」


「映像‥‥ということは、あれは実在しない虚像ということか」


「虚像というより『負』の像かな。レイ男爵の目的は負の像じゃなく実像を作ることでした。情報が保存される面は『事象の地平面』との間にわずかな隙間を持ちます。2020年の理化学研究所の研究で、情報は『事象の地平面』に落ちる直前で内からの強烈な輻射と重力が釣り合い『事象の地平面』の直前に面をなすという研究が発表されてます。輻射の指向性ビームが外側から情報面に反射して像を結ぶんじゃなく、その隙間の内側から外向きにビームが照射されてるんです。それにより情報の裏側からの像‥‥鏡像が投影されます。ここからはボクの推測で実証するには10年くらいかかる研究が必要になるんですが、レイ男爵はすべてを緻密に構築しながら1点だけミスを犯したんだと思います。鏡像だからか別の要因からなのか、投影情報が『負』の情報になってるんです。ボクたちの精神や肉体を構築している情報はすべて『正』です。で。『正』と『負』が重なり合うとどうなるか。『無』になります。なんのエネルギーも生じず、ただ無になるだけ。それを男爵は『無化』って呼んでました。そのミスを修正するためなのかはわかりませんけど、何人ものメイドや執事を投げ入れて実験・調整してたのでしょう」


珍しくラウリが苛ついた声を発した。


「生きた人間をブラックホールに落として、それで幽霊を作る研究だと。虫唾が走る」


義憤ってヤツだな。いい奴だなラウリ。ラーメン食う奴に悪人はいないっていうし。いわないか。そのとき口を真一文字にしたシオンが手をあげ、ふんす、ふんすと鼻息で訴えてきた。やれやれ。律儀に口チャックしてたわけね。


「はい。シオン君」


「日記の、読んだところの最後の方なんだけどね。支離滅裂ではっきりわからないんだけどー。『キイラを戻す。必要なのは肉体と魂』って書き込みがあって、別のところに『情報こそ生命。情報こそ魂』って書いてあったの。この実験ってキイラさんを復活させるためなんじゃないかな?」


『情報こそ生命。情報こそ魂』か。確かにボクたち冒険者はこちらで用意された肉体に、精神や記憶や肉体的特徴なんかの情報を混ぜ込まれて誕生してる。あちらの世界の情報理論では情報をエネルギーに変換できるとしたり質量があるとしたり、かなり革新的な研究がなされていたんだよね。レイ男爵は情報こそが生命だと断言してる。ってことは繰り返し出現してる使用人たちの幽霊はまさしく魂そのもので、幽霊って呼ぶのは正解だったってことか。


「ミナト。1分前だ」


ノアがいってラウリと共に立ちあがる。ボクも立ってみんなで廊下にでた。真後ろとかに出現されたら対処のしようもないため、階段の中央バルコニーでボクを挟み込むようにノアとラウリが背中合わせで前後に立ち全周囲を警戒する。ブンッ、ブンッと唸りをあげてふたりの腕シールドも展開された。3人丸ごと包み込んで、ボクの球形魔法シールドが展開される。これで安全確保。さて実験その1。ボクはノアに抜剣してもらい、バスタードソードに魔力を注入した。シールド魔法の原理を応用してノアのバスタードソード表面をシールドの膜面で包むイメージを想起する。その膜に包まれた鋼鉄の中に魔力をどぷどぷと流し込む。充電するイメージだな。時間が足りなくて充魔力率70%くらいだけど、それでもノアのバスタードソードはほんのり青く光る。0時まで後5秒。ボクは用意しておいた魔法陣魔法を起動する。そんでジャスト0時。階段の中段近く、手すりよりも外側の空中に大柄のコックが出現した。ふわふわと空中に浮き、ボコボコと形を変えている。何人もの男たちが鬼の形相で混ざり合い浮きあがる。庭師や馬丁、下男や御者らしき服装の使用人もいた。一瞬だったが全身を覆うマントの髭の男の姿になる。それもすぐにグズグズと崩れて、まだ若い庭師見習い(ヤードボーイ)に変わった。子供まで、実験台にされたのだ。


「浮かんでくる。同じ高さになったら実験その2から先にいくね」


そう宣言して起動した魔法陣で小さく作りあげたシールドボールを飛ばす。野球のボールくらいで設計したので野球のボール並みの速さで飛んでいき、幽霊の肩口に着弾した。


「効果絶大じゃないか」


ノアが吠える。幽霊の肩口を中心に直径30cmほどの渦が生じ、霊体の肩を霧散させた。幽霊に痛覚はないみたいだ。抉れた部分をブクブクと泡立たせるように修復しながら幽霊がこっちを向く。ボクたちは球形のシールドに包まれているため幽霊に探知されにくかったのだろう。だが、あからさまな攻撃をしたことで認知されたようだ。空中で向きを変えボクたちに接近してきた。ボクは幽霊に向かって火魔法と水魔法を試した。部分的に崩しはするもののシールドボールほどの効果が出ない。


「普通の攻撃魔法はあんまり効果ないや。じゃあ実験その1。いくよ。」


幽霊が着実に近づいてた。その前にノアが進みでる。


「ノア。1撃離脱ね」


「おう。まかせろ」


幽霊が庭師に変形しながらノアに掴みかかる。それを直前でステップして避け、庭師が振り向こうとしたところをノアの剣が脳天から真っぷたつにした。刃の侵入とともに接触面から衝撃波が生じて幽霊の腰までが弾けて消える。下半身だけがモゾモゾと動こうとしていた。


「下半身だけなのに復活しようとしてる。魔力フル充電なら消し飛ばせてた感じかな。オッケー。実験終了。ラウリ、完全に消滅させて」


フンッとラウリが気合一閃、魔法シールドを叩きつける。幽霊の残った下半身が霧散した。ボクはフウッと息を吐いてシールド魔法を解除する。腕の魔法シールドを消し収めながらノアが聞いてきた。


「復活したり、別のがでたりしないか?」


「99%ないといえるけど。例外的事態が起こってほしくないときに限って例外的事態が起きる、っていうマーフィさんの法則があるから慎重に戻ろう」


マーフィを喜ばせることなく、ボクたちは書斎に戻ることができた。さっきまでの定位置に座る。


「えーと。次はちょっと開いて2時15分にメイドで2時40分に執事です。そこから飛んで明け方6時の出現なんですが、これが問題です。でもそれまで少し余裕があります」


「ミナト君、ノア君、ラウリ君。ご苦労だった。ミナト君の出現時間予想はすべて的中してる。どういう仕組みなんだね?」


「あ。単純です。コックが6時間置き。メイドが3時間45分間隔。で。執事が3時間20分置きに現れてるだけです。そのスパンで出現してると30時間に1度、コックとメイドと執事が全部揃うことになります。幽霊が3体でるのかなにか違うことが起きるのか、まだ分析ができてません。でも、明け方6時までは出現範囲の狭いメイドと執事だけですので距離を置いていれば問題ありません。いまのうちに食事や仮眠や休憩など取っておくといいと思います。ボクはシオンの読んでた城主の日記を読みます。他の情報がありそうなので」


「わかった。隊員には休憩を取らせよう。夜食と飲み物の用意もさせよう。君も可能な限り休息してくれ」


「ありがとうございます。そんなわけでノアもラウリもシオンも休憩していいみたいだよ」


「ウチはビビを手伝ってくるね。その後ビビといっしょに隊員のみんなに魔力の練り方を教えてみる」


確かに目玉トカゲの大量討伐で現世人の隊員たちが能力アップしてた。ビビは初期に無条件で支給される覚値ポイントこそ半分の20だったが、その後はボクたちと同じ経験値や覚値をゲットしている。冒険者の血を引かない現世人は冒険者ほど経験値をゲットできないとはいえ、ボクたちの半分程度は覚値ポイントをゲットしてるだろう。ステータスパネルを開けない現世人の場合、獲得した覚値は6つのステータスに均等分配されるように思う。すると各ステータスに5ポイントって感じか。能力約1.3倍増し。初歩的な魔法ならいけるかもしれない。


「俺はいちおうこのまま警戒しておこう。ラウリと交代で仮眠するよ。ソファは仮眠に使わせてもらっていいですかね?」


隊長が頷き。その途端ラウリがソファに横になり、秒で眠りに入った。軍隊時代の特技かな。ボクはデスク前のいちばん座り心地のいい椅子に陣取り、積みあげた城主の日記を速読モードで読み始めた。


********

秋穂月23日

グレードEXを取りに金庫まで戻る時間はなかった。グレードIのポーションは脳の傷も修復するが破壊された部位に構成されていた情報までは戻してくれない。脳を破壊されたキイラの、肉体は修復できても魂と記憶は戻らない。私はキイラを戻す。私はキイラを戻す。私はキイラを戻す。必要なのは肉体と魂。だがそのためには愛しいキイラを情報に切り刻み、ブラックホールの地平へ貼りつけなくてはならない。永劫の苦痛を与えることになる。それでも私にはキイラが必要だ。やるしかない。この世の何よりも愛する者を、この世の何よりも残酷な地獄に堕とす。それでもキイラは私を許してくれるだろうか。私を愛してくれるだろうか。憎むべきはこんな運命を押しつけてきた女神だ。破壊してやる。女神も、女神の作ったこの世界も。

********


ここで毎日欠かさず書かれていた日記の書き込みが途絶え、次の書き込みは27日後の紅世月20日になる。


********

紅世月20日

嗚呼。凍てついてたキイラの魂。痛いだろう。苦しいだろう。だが情報こそ生命。情報こそ魂なのだ。もう少しだ。もう少しの辛抱だ。アイツらは殺す。重力に嬲られ輻射に炙られ業火に焼かれるキイラの肉体。可哀想なキイラ。アイツらは滅ぼす。キイラの味わっている永遠の苦痛と同じものをアイツらに。ははははははははは。聖都からの使者が来た。この期に及んで。私を司教に取り立てるだと。虫ケラが。これから滅ぼすと決めている聖都で司教になることに何の意味がある。間もなくだ。聖都に重力の花束を送ろう。殺せ。殺せ。殺せ。保護魔法なしで重力井戸に投げ込んだ使者が潮汐力に引き裂かれ肉のスパゲティとなって吸い込まれる様は久々の見ものだった。聖都の虫ケラどもももうすぐ同じスパゲティになる。啜ればさぞや美味いだろう。殺せ。殺せ。そうだ魔法ギルドの糞どもも忘れてはいけない。皆殺しだ。重力魔法は禁忌魔法だと云う。何を云っているのか。何ひとつ分かっていない。私が研究しているのは完全なる蘇生の魔法だ。おおおお。呪われし魔法ギルドよ。魔法ギルドの使者を追い返したのが悔やまれる。殺せばよかった。何故何故何故、何故私は襲撃を予知できなかった。愚か者だ。嗚呼。キイラ。何の罪もないキイラが何故害されなくてはならない。女神め。アイツも殺さなくては。殺せ。殺せ。殺せ。キイラの復活を邪魔するものはすべて殺せ。待ち遠しい。だが今は傷つけられたキイラの復活が先。復讐はその後だ。キイラと共にこの世の終わりを観劇しよう。

********


これが日記の最後の記述。もっと判読困難でぐちゃぐちゃな文章だったけど、繋ぎ合わせて読めるようにしたのがこれ。秋穂月23日の記述から中断し、再開したのは紅世月20日。そしてその1回だけの書き込みで日記は途絶えている。確かにシオンのいう不可解な中断の後では文章そのものが奇異になって、精神障害を疑わせるような誇大な殺意が溢れている。シオンや他の隊員にとっては虚言に見えるかもしれないが、ボクにとってはあながち誇大妄想ともいいきれない恐ろしい内容だった。なぜならこのレイ男爵にはその狂気を実現するだけの能力があったのだ。シオンと違い日記の純愛パートを読むのは苦行でしかなかったが我慢して読んでみる。日記帳9冊を読んで気になったのはわずか3箇所。ひとつ目はこの山城に来る前の話だ。冒険者としてSランクまで登り詰めたレイの元に魔法ギルドからの特使が訪れた、という記述がまずひとつ。話の内容までは書かれていなかったが、文章の雰囲気からかなり不愉快な会談だったとわかる。『禁忌魔法』という言葉が見受けられ、狂気に侵された後の記述と読み合わせると重力魔法のことだろうと見当がつく。ふたつ目は山城に移り住んですぐの頃。教会からの使者が来たと記述があった。聖都で聖騎士団の要職に就き女神の使徒として民衆を救済して欲しい、という教皇直々の要請だったようだ。レイ男爵自身はまるで興味がなかったようだが、冒険者時代に剣士だった奥さんのキイラさんの気持ちに配慮して即答できなかったみたいだ。結局キイラさんは聖騎士団よりふたりの生活を優先したようで、翌日の日記には喜びが溢れている。


最後に気になったのは日常の書き込みのほぼ最後。キイラさんが重傷を負う前日。秋穂月21日。魔法ギルドから再度使者が訪れたという記事だった。ベルダ・ステロのギルドではなく聖都にある公国中央魔法ギルドからの使者だったようだ。この訪問はレイ男爵を激怒させたようで、その夜の日記は意味不明な書き殴りと罵詈雑言の嵐になっていた。かろうじて読み取れたのは『虫ケラども』『禁忌魔法』『邪法』『除名』『最後通告』『脅迫』という単語くらい。それでもなんとなく意味が汲める。おそらく以前からの重力魔法研究差し止めに対する違反と、それに関する最後通告を伝えにきた使者。そして聞き入れなかった男爵。その拒否に対する脅迫じみた宣告がおこなわれたのだろう。使者が帰り興奮と怒りが冷めやらぬままに日記を書いていたその夜、なにかが起きた。そして秋穂月23日の書き込みへと飛ぶ。おそらく襲撃を受けた。誰に。この話の流れだと魔法ギルドにってことになる。だけど、なんでギルドが。中央魔法ギルドなんていう国家機関にも匹敵する大ギルドが、引退した市井の個人をなぜ襲わなくてはいけないのか。たかが重力を操るだけの魔法。ダンジョンの魔物ですら使う魔法が、邪法とまでいわしめる禁忌なのかまるでわからない。わかっているのはその襲撃でキイラさんが重傷を負ったということだ。


どう考えても、レイ男爵は脳を損傷したキイラさんを記憶ごと回復させるためにその身体をブラックホールへ投げ込み、事象の地平線に情報ビットとして貼りつけたのだとしか思えない。だけど、脳を損傷した身体をいくら複製しても脳を損傷したコピーができるだけ。なにかがおかしい。どんなに嘆き狂っても、そんなことがわからなくなる人ではないはず。そしてキイラさんを投げ込んだ当人の姿がない。マイナスの情報投影体となったメイドに侵食されて消滅したのか。マイナスの情報。マイナスの質量。マイナスの肉体。マイナスの精神。マイナスの‥‥時間。ボクはいままで見てきたレイ男爵の書いた計算式を脳裏に思い描き、猛烈に精査していった。脳が熱くなる。ボクごときの脳みそではステータスで強化されていてさえ完全な式を導出できなかった。なんていったってボクはまだ学生。相手は天才な上にプロフェッショナル。しかも長年の冒険者暮らしで獲得した覚値ポイントで知力を極振りアップしてる。それでもボクは頑張った。偉いぞボク。誰も褒めてくれないから自分で褒めつつ数式を辿っていったが、どう考えても重要なパラメータとそれを導く方程式が足りない。書き散らかされた紙束の山を探ってもでもそれらしき手がかりは得られなかった。でもなんとか、ぼんやりとだけど男爵の狙いがわかった気がする。


「ミナト。寝てるのか?」


肩が軽く突かれた。黙考の深い淵から意識が浮きあがる。寝てたわけじゃないんだけど。ノアが覗き込んでいた。


「ん。いや。大丈夫だよ」


「もうすぐ6時だ。全員戦闘態勢完了してる。他になにかあるか。どうすればいい」


どうしよう。周期一致。幽霊が3人出るだけじゃ済まないのはわかった。ステータスパネルを開く。15分前だ。ふとデスクの横が目に入った。最後の記述がある日記帳が、開いたページを下にして床に落ちていた。椅子を降りて拾いあげる。落ちた拍子に記述のある最後のページよりかなり後ろのページが開いていた。ページを見て目が飛び出しそうになる。みっしりと数式が書き込んであった。さっきまで解けなかったパズルのピースが揃ってしまった。ボクの人生で、これほど焦ったことはない。余命半年を宣告されたときだって、まだ半年もあるじゃんと焦りはしなかった。でも今回は15分しかない。脳のあちこちが焼け切れたような気がするくらい脳を酷使した。5分06秒で解がでた。


「半径5km。残り10分じゃ逃げるのは無理だ」


「どうした。なにかわかったのか?」


「アチバドラフ隊長。全員呼び集めてください。全員で下におります。あの階段を使って。解は出ました。ただどこまで正確に計算できたかわかりません。レイ男爵は天才です、彼が書いた数式や魔法陣を読み解いて筋道を辿るくらいはできますけど、その原理までは10年くらい研究させてもらわないと理解できません。ボクにはレイ男爵の狙いとそのための方法を推測するので精一杯です。でもこのままレイ男爵を放置したら、まず間違いなくボクたち全滅します。っていうか、この山と周囲5kmが丸ごと蒸発します。それと聖都ってここから何キロくらい離れてますか?」


「なに。聖都。あー。だいたい1000kmだな。なんで聖都が?」


「レイ男爵はおそらく2回襲撃を受けています。1回目ではキイラさんが瀕死の重症になりました。レイ男爵はキイラさんを復活させるためにブラックホールのエネルギーと特性を利用し、そのための準備に必死で取り組んでいたと思われます。その最中に2度目の襲撃を受けて、システムは完成直前で放置されることになりました。2回目の襲撃には、おそらく聖都の教会か魔法ギルドか聖騎士団かその全部かが関与してると思います。『聖都に重力の花束を贈ろう』って書き込みがありました。ブラックホールを転移させるつもりのようです。その計算式がありました。距離からしてレイ男爵は聖都を狙っています。そんなことしたら聖都は壊滅します。衝撃で大陸の半分くらい噴き飛ぶかもしれません。その過程でここにも超高熱の数%が漏れだします。ここの下にはその暴走エネルギーからシステムや生成されたブラックホールを保護するためのシールドがあるはず。最悪、男爵を阻止できなくとも、ボクたちの安全は確保できます。なので全員で降ります」


アチバドラフ隊長が命令を発する。ンガバ副隊長が外の隊員を集めるために書斎を飛び出していった。


「男爵は下にいるのかね?」


「いえ。いまはまだ。えと。男爵は2回目の襲撃を予期していました。このシステムを守るために、男爵はあえてブラックホールに身を投げたんです。そしてあの幽霊、投影された負の情報となって襲撃者を迎え撃ったのでしょう。3つのマイクロブラックホールがそろうときレイ男爵が投影されます。あと9分30秒で現れます。システムは魔法陣の集合体で構成されてますから、情報体になったレイ男爵でも修正や構築が可能なはず。この1年、男爵は実体化するたびにシステムの未完成部分を構築してきたのでしょう。システムが今回の投影による実体化で完成するのか、まだ何回も実体化を繰り返した後なのかはわかりません。でも完成する前になんとしてもレイ男爵を止めないと聖都が消滅します」


ボクは話しながら背後のドアへ向かった。


「マイクロブラックホールを生成して保持するためのシステムと制御のための魔法陣システムがこの下にあります。ブラックホールは生まれてすぐ蒸発する3つだけじゃなくて、蒸発にこの宇宙の年齢よりも時間のかかる4つ目のブラックホールがあるってわかりました。キイラさんの情報を保存しているブラックホールです」


めちゃくちゃ早口だったけど、敏捷性と精緻性が高くなってたのでクリアに聞こえたはず。廊下側が騒がしくなる。散らばっていた隊員たちが集まってきたようだ。ボクはテラス窓左横の扉の前に立ち、魔法陣に手をあてて魔力のパルスを送り込んだ。6方向に飛び出してドアを固定していたデッドボルトが軟化して収縮しドアロックが外れる。ドアを引き開けると自動的に壁の魔法ランプが点灯し螺旋階段が浮かびあがった。右横の扉も同じ要領で開放する。右は滑車とロープで上下させる原始的な荷物用エレベーターになっていた。こっちを人が降りるのは無理だな。残り4分18秒。カンカンカンカンカンカンカン。金属の螺旋階段に無数の足音が響く。ボクが先頭。後ろにノア。シオン。ラウリ。アチバドラフ隊長と2班の隊員たち。1班、3班と続き最後がンガバ副隊長。


「ねー。ミナト。どうやってキイラさんを復活させるのかわかったの?」


後ろからシオンが声をかけてくる。息も切らしてない。


「実際の動作原理は魔法陣を見てみないと想像もつかないんだけど、恐らくブラックホールの事象の地平面に転写した情報の時間をマイナスに書き換えるんだと思う。アインシュタインの相対論では、質量とエネルギーは同じものだから質量をエネルギーに変換できるしエネルギーを質量に変換することもできるってなった。同じように時間と空間もまた同じもので、空間軸を時間軸に変えちゃうこともできるし、時間軸を空間軸に変えることもできるわけ。キイラさんは空間的に負の情報になってるからちょいっと負の空間軸を時間軸に書き換えてやるんだ。負の時間軸ってことは時間が過去に進むってこと。そしたら怪我する前に戻せる。めちゃくちゃなエネルギーがいるけどね。だからマイクロブラックホールなんだ。ホーキング放射で10けい度なんて数字がでてくる」


「10軽度?」


「京。京王線の京。億の次の単位が兆。兆の次の単位が京。まあ、実際は10億度を超えると電子が電磁波になっちゃっうんでエネルギーを失って冷えるからそこまでいかないとはいわれてるけどさ。とにかくこの辺一帯が蒸発して消えるくらいの高温。そのエネルギーを使ってる」


「そんな数字、想像したこともないや。なんか目が回りそうね」


いや、それは螺旋階段をぐるぐる回ってるからだろう。それにしても深い。100m、いや200mは降りただろうか。確かに目が回りそうだ。建物の1階分が大体4mっていうから50階建ビルを降りた感じ。ゆっくり歩いて降りると1階分降りるのに10秒くらいっていわれる。命懸けで駆け降りたら4秒で降りられる。3分20秒後、ようやく階段から狭い部屋の床に降り立つ。残り58秒。念のためエコーロケーション使って罠なんかがないかと調べたのでロスが12秒。目の前に荘厳な鉄扉。魔法陣入りだけど10秒で開ける。残り36秒。20mくらいの短い通路があってエコーロケーションでチェックと駆け抜けるのに15秒。奥にミスリルっぽい銀色の観音開き金属扉。こっちの魔法陣錠も10秒で開けた。蹴飛ばす勢いでドアを開ける。残り11秒。ドアの向こうは眩いばかりに白く輝く巨大なドーム空間になっていた。東京ドームとほぼ同じ大きさの直径200m。天井まで100mの半球状空間。中心を挟んで向こう側の壁に、船の舷窓みたいな丸窓が横一列に開いている。その舷窓から差し込む朝の光と壁一面に星の数ほどある魔法照明の光がひとつになって、無影灯で照らされた手術台みたいにどこもかしこも真っ白。1歩足を踏み入れると滑って転びそうになった。床も壁もツルッツルの白濁ガラスみたいになってる。


「床。滑る」


大きく声を出してフロアの中心にダッシュ。中心までの100mを8秒で走った。現在ボクの脚力は18。平均的17歳女子の脚力の2.4倍。100m走平均タイムが14秒前半だというから条件さえよければ6秒で走れるはずなんだけど、床がツルツルだとこんなもん。広大な床の中心から針のように細い円錐形が突き立っている。その尖った先端からわずか数mm離れて、直径30cmほどの魔法球が虹色に輝いて浮いていた。接近したところで魔力を霧状に振り撒いてみる。球体の周囲に大小100個近い魔法陣が浮かびあがった。大きいもので直径3m。小さいものでも60cmはある。残り3秒だよ。全部の魔法陣を解除してる暇なんかない。探している魔法陣は書斎で殴り書きスケッチを目にしていたからすぐにわかった。3つのブラックホールが合を成すときに生じる重力エネルギーの一部をブラックホール化して保護魔法なしに聖都へ送りつけるための魔法陣だ。時間設定を解読したら、恐れていた通り今日の6時にセットされていた。やっばー。床に膝と手を突きブレーキとしながら中心に滑り込む。勢いが止まったところで立ちあがる。空中に浮く魔法陣の真ん中に腕を突っ込み、解除の魔法パルスを送りつけた。残り1秒。やったぜ。魔法陣が解体する。間に合った。構成要素に分解した魔法陣が床に落ちる前に霧散した。うふう。ギリギリセーフ。と詰めていた息を吐いた刹那、強烈な衝撃波を脇腹に受けてボクは跳ね飛ばされた。ぐげほ。胎児のように丸まって回転しながら、ボクは走ってきた道の半分近くを滑り戻る。回転が止まって、ボクは床に手をつき顔をあげた。涙で滲む目をしばたく。中心の魔法球を挟んでさらに向こう、窓を背にレイ男爵の情報投影体、略して幽霊が立っていた。っていうか浮いていた。この世界の写真技術はまだ銀版写真レベル。超贅沢品のようだけどキイラさんとレイ男爵の2ショット写真なら書斎のデスクに飾ってあった。なんで顔は知っている。長身痩躯。アジア風味の切れ長の目。ボクはなんでもできちゃうAIのバーチャル俳優じゃなく、生身の人間が身体能力の極限まで駆使して撮影する2000年代初期の古典アクション映画が好きだ。そんな時代に一世を風靡したキアヌ・リーブスって映画俳優に似てる。超絶ハンサムで微笑まれたらボクでも惚れちゃいそうだったけど、いまは憎悪と狂気で悪鬼の形相になってる。めっちゃ怖い。男爵が何やら顔の前で指を回す。口の前に小さな魔法陣が生じた。レイ男爵の口が動く。


『ジャ・マ‥‥ヲ・ス・ル・ナ』


魔法による合成音だ。邪魔をするなっていわれてもねえ。罪もない何万人もの人々が虐殺されるのを邪魔しないで見てられるほど、人間嫌いには成りきれてない。左脇腹がずくんと痛い。防具のおかげで打撲で済んだようだけど、なかったら肋骨粉砕されてたかも。重力魔法の一種でぶっ飛ばされたのかな。脇腹を庇いつつ身を起こしたところへノアとラウリが追いついた。


「大丈夫か、ミナト」


「うん。打撲。あれが男爵だよ。聖都を蒸発させる企みは妨害できたけど、それってついでの片手間みたいなもん。本命はこれからみたい」


男爵はボクのことなど忘れたかのように魔法陣の中心に入り込み、呪文と手の操作でシステムを起動し始めた。宙に浮いてる魔法球が眩く輝き始める。そこから床の尖った円錐針を通して光の棒が床に突き刺さる。魔法球の3mほど上、なにもない空間を包み込むように展開した魔法陣が青や赤や緑に輝き始めた。つい見惚れてしまう。なにもなかった空間になにやらぶくぶくと泡が生じ、それが集まって塊になっていく。


「なにやってるんだアイツは?」


とノア。


「たぶん、キイラさんの新しい肉体を作ってる。そこに情報体となったキイラさんの精神を融合させて復活させようとしてるんだろうけど、キイラさんは時間逆行のために負の情報になってるし、負の情報を受け入れられるのは負の質量で。負の質量なんて誰も観察したことないから、なにが起きるか想像がつかない。それだけならいいんだけど、レイ男爵、憎悪や復讐心が基本情報に焼き付いてるみたいで、ああ、また聖都の破壊魔法陣を書き直ししてるし。止めなきゃ」


「どうする?」


「ボクがシールドボールを撃ち込んで牽制するから、ふたりはシールドで叩いて。メイドや執事と違って出力ハンパないから消し飛ばせないと思うけど、動きを止めるくらいはできると思う。その間にボクが魔法陣をなんとかする」


そうはいったけどまったく自信なかった。話しているうちにも空中の白い塊は大きく育ち、人体らしきフォルムを形造り始める。胸が膨らみ腰がくびれ始めているから女性形態だろう。キイラさんの復活を妨害したいわけじゃないけど、狂気と憎悪に凝り固まったレイ男爵は周囲や環境への配慮なんてまるでなかった。自分と自分の使う装置を守るための最低限の防御を施してはいたけど、扱うエネルギーが桁外れすぎて火花ひとつ漏れ飛んだ程度で山脈ひとつ融解するレベルなんだよ。傍観するには危険すぎる。ボクは自分の周囲にシールドボールを12個作り出し、時間差でレイ男爵へぶつけながら近づいていく。シールド球の当たった部位が渦巻くように消失しすぐにザザザっと復活していくんだけど、その間は動きが止まる。両側に回り込んだノアとラウリが同時にシールドを叩きつけた。レイ男爵の頭と左半身が消失し、窓方向へ弾け飛んだ。ボクはその隙に魔法陣の中心へ入り込み、システムのいちばん脆弱な部位を集中操作しようと試みる。


「あとどれくらいだ。魔力がもう保たない」


ノアとラウリは吹き飛んだレイ男爵を追いかけ何度もシールドを叩きつけているが、完全に破壊できずザザッザザッと幽体が再構成されてしまう。


「もうちょっと。50秒、いや、40秒あれば‥‥合を成してエネルギーを供給しているマイクロブラックホールのひとつを、合から‥‥外せるん‥‥だけ‥‥ども」


背後からシオンやビビのシールド球が飛んできたり、念をこめた矢が突き刺さったりして援護してもらってさえ、その40秒が得られなかった。


『ウ・ル・サイ‥‥ハ・エ・ドモ』


ノアとラウリが掻き集めた精神力を込めたシールドを叩きつけ、原型を留めないほど叩き潰したというのに数秒で復活してしまう。ふらりと立ちあがった男爵が呪文を唱える。男爵の情報体がその場から消えた。と思った途端、ドーム状の空間に100体を超える男爵の分身が浮かびあがる。それから阿鼻叫喚の大混乱が始まった。


「なんだありゃ?」


そう叫んだのは2班のファビアン・ボーヴォワール士長。25歳独身でかなりな醜男だけど豪放磊落な性格が功を奏して女性にモテまくってる。


「みんな離れるな。固まりすぎるな。互いを視野に入れろ」


そんな喝を入れたのが第3班班長のセレイコス・カポディストリアス曹長。顔も身体もゴリラ。28歳で隊員の中では最年長。頭頂部が薄くなりつつあり、髪を伸ばして後ろでポニーテールに結っている。空中に浮いた男爵の分身像がゆらゆらと降りてくる。


「触るな。触られるな。侵食されるぞ」


凛とした声が響く。第1班副班長のニケ・ミツォタキ曹長の声だ。27歳。切長の目と薄い唇。笑わない女で有名。なのだが酒に酔うと泣き上戸になるというかわいいギャップを持ち合わせている。酔ってないいまは鬼の副班長で、慌てて後ずさったカミーユ・コンスタン1士の背中をどやしつけていた。


「みんな、練習したシールド魔法を試すときよ。ボールを作れる人は撃ち込んで。弓手の人は鏃に念を込めて。それ以外は剣に魔力を通して」


ビビが隊長を差し置いて指示してる。魔法に関してはアチバドラフ隊長もンガバ副隊長も新兵みたいなもん。


「まわりをよく見ろ。くるぞ。撃ち込め!」


新兵とはいえ実戦指揮はさすが隊長。怯んでいた隊員にも喝が入る。幸い空中の分身はスピードがない。まず6本の矢が飛んだ。金髪のビーナス、ダフネ・パパンドレウ士長。クールビューティ、ニケ・ミツォタキ曹長。鋼鉄アマゾネス、ヴァランティール・フォレ士長。スリムマッスルレディ、トリュファイナ・デュカキス曹長。口髭紳士、ロジェ・ドパルデュ士長。鷲鼻のロビンフッド、バスティアン・ガシェ曹長。以上6人の弓兵の技量は圧倒的だった。青く輝く鏃が分身の胸のど真ん中に命中する。分身が内側から爆発したみたいに消滅した。


「ラウリ。シールドまだいけるか?」


ノアの声で振り向くと、ふたりがボクのまわりで奮闘してくれていた。


「なんとかなる。分身なら1撃で負担少なく消える」


「ラウリ。ノア。頭を低くしてて。ウチがシールドボールで援護する」


警備隊の集まりの端近くにシオンとビビが見えた。


「私がシオンちゃんをカヴァーする」


ビビがシオンと背中を合わせている。ボールが飛ぶごとに分身体が1体消えていく。警備隊ではビビを除いておっとり狸顔のリュシエンヌ・オリヴィエ1士、アポロ像に似たファウロス・ストラトス曹長、新人隊員で垂れ目のシャルリー・コルビエール2士、ガヴラス兄弟の兄でチェスの名人のミハイル・カヴラス1士、長身で沈思黙考のニコラ・ギャバン士長の5人がシールドボールを撃てるようだ。ただまだ魔力のチャージに時間がかかり、弓隊が6射の一斉射撃をした後後列にさがり、代わってシールドボール隊が前にでて5つのシールドボールを撃つローテーションになってしまう。60体からの分身が殺到している中で11体を消し去っても全然攻撃力が足りない。


「剣に魔力を込めても1撃だけだ。魔力が相殺される。斬ったらすぐ身を引け」


ンガバ副隊長が声を張る。アチバドラフ隊長とンガバ副隊長を筆頭に、お調子者カミーユ・コンスタン1士、超絶ハンサムでモテまくるがゲイであるアルキダモス・カサヴェテス1士、優しい目鼻立ちなのに筋肉がミシミシアマゾネスのレベッカ・ボワヴァン士長、ギネス級醜男だけど豪放磊落で女性にモテるファビアン・ボーヴォワール士長、鋼の肉体と顎髭のスパルタンなピリッポス・カラマンリス曹長、ゴツい体型でおっちょこちょいでガヴラス弟のフォルミオン・ガヴラス2士、シャープな眉と目で女豹なデスピナ・クセナキス1士、小柄だが素早い動きが特徴の親孝行娘エウフロシネ・ラリス1士、顔も身体もゴリラで頭頂部が薄いセレイコス・カポディストリアス曹長の計11名が剣を振るう。最初の時間見積はやや甘かった。レイ男爵の組む魔法陣は癖が強く修正や解除が厄介だ。それでも魔法陣のうち小さい方の60個は修正が終わった。でもまだ大物が30個以上残ってる。ボクの指も頭も全力で働いているけどまだ時間がかかる。見ていることしかできないボクは泣きたいほどもどかしい。


「コイツら、薄い。数多いけど1体1体は薄いぞ」


たぶん女豹のデスピナ・クセナキス1士の声だ。


「剣で斬ると消える。消せるぞ」「注意しろ。魔力の込め方が弱いと一撃じゃ消せない」「斬ったらすぐさがれ」


声が重なって誰の声か判別できない。


「数多すぎる」


ガヴラス弟の悲鳴のような声。


「ガヴラス後ろだ」


不備な体制で剣を振ったガヴラス弟が体制を崩してたたらを踏む。その隙に分身体の1体がガヴラス弟の後ろに降り立った。声に振り返ったガヴラス弟だったが体勢が崩れていてとっさに回避できない。


「うわ。うわわ」


両手を前に伸ばした分身体がガヴラス弟の胸を貫こうと迫る。


「危ない!」


弓手のバスティアン・ガシェ曹長がガヴラス弟を突き飛ばした。そして分身体の腕だけじゃなく全身がガシェ曹長の身体を貫通して消えた。


「ガシェ曹長!」


鷲鼻のロビンフッドといわれるほど弓の達人ガシェ曹長は26歳。2年前に結婚して美しい奥さんがいる。その記憶も弓の技術も、鷲鼻という情報も褐色の肌という色の情報もすべてが無に還っていく。おそらく遺伝子の情報もアミノ酸分子の結合情報すら消えるのだろう。もしかすると陽子や中性子や電子っていう情報まで消えるのかもしれない。願わくば痛みや苦しみという神経情報すら侵食されて、なにも感じず逝ければいいのだけど。


「ダメだ。触るな。もう手遅れだ」


アチバドラフ隊長の無念の声がした。歯軋りの音がここまで聞こえてきそうだ。ガヴラス弟の悲嘆の絶叫が響く。


「うわあ。俺のせいで。俺のせいだ」


「嘆いてる暇なんてない!」


3班の班長、セレイコス・カポディストリアス曹長が怒鳴りつける。長年の戦友が失われた苦鳴を噛み殺しながらの声だった。その声に被って女性の絶叫が途中で途切れる。人垣の隙間から小柄なエウフロシネ・ラリス1士が黒い煤となって消えていくのが見えた。先日の盗賊団壊滅の報奨金で近郊の開拓村に住む両親に新しい納屋を建てたと喜んでいた親孝行娘。二角馬の世話が好きで警備隊引退後は牧場を開きたいと夢を語っていた。その希望も未来もが消えていく。


「うわあ。腕が」


殉職を嘆く暇などない。まだ死闘の真っ最中だ。思わず立ち竦んで絶好の的になったカサヴェテス1士を引き倒しながらカラマンリス曹長が叫ぶ。


「カサヴェテスが侵食された!」


ボクの援護をしてくれていたシオンが敏感に反応した。


「ウチが斬る」


腰の魔剣ナイフを抜くのが見えた。決断早くて格好いいんだけど、抜く時に魔力を込めちゃったもんだから鞘ごとヒップバッグが切れて中身のお化粧道具やらなにやらをばら撒いてる。


「うわ。わあああ。うううう!」


自分の腕を自分の『死』が這いのぼってくるのを見るのはなかなかに肝が冷える光景だろう。ましてこれから腕を切り落とされるなんて人生最大の災難だろうな。


「我慢して。誰かカバーして」


シオンが躊躇なくカサヴェテスの腕を切り落とした。カサヴェテス1士の苦鳴が聞こえる。叫ばないだけ兵士の鑑だ。


「ビビ。ポーション」


ビビがポーションを振りかけてる。


「負傷者は後ろへ退避させろ」


アチバドラフ隊長の指示。まだ沈痛な表情のガヴラス弟とクセナキス1士がカサヴェテス1士を引きずって背後のドア前に連れていく。その間にも弓が飛び、シールドボールが撃ちだされ魔力を纏った剣が振られる。


「キリがない。いや。少し減ったか」


この声は誰だろう。


「おう。あと5体だ。精神力の限りまで撃ちまくれ」


この声は2班の班長カラマンリス曹長の声だ。背中で隊のみんなの声を聞きながらボクは1点を凝視し、魔法陣の変更操作を続けた。残り3個。目の前に透け透けに薄いレイ男爵の立像が見えていた。真昼の行燈ってくらい薄かったが、背後で分裂体が消されるたび徐々に濃くなってくる。「やったぞ」の声と共に最後の分裂体が消去された。と同時に目の前の立像が動きだす。


『コ・ザカ・シ・イ‥‥ム・シ・ケラ・ド・モ」


男爵の呟きが聞こえる。動きだした立像がストップボタンを押したかのように停止し、その場で無数の立方体に分解した。分解した立方体がさらに細かな立方体に分裂し、最終的には黒っぽい霧状になって立ち昇る。宙空で形作られようとしていた白い女体像に流れ込んでいく。女体像が動いた。手が動き、呼吸するかのように胸が膨らみ、ゴーゴンのように髪の毛の束がくねる。羽毛のようにフワフワと揺れながら降りてきた。床に足裏がつく。足首まで床に埋まった。いや、床が抉れ女体像の足首も消失する。女体像が止まり、消失した足首を不思議そうに見おろした。数センチ浮きあがり、消失した足首が再生される。また1歩踏み出し、今度はふくらはぎの中ほどまで床と反応して消える。バランスを崩して突いた手も消失し、そしてたちまち復活する。カタツムリのように鈍い動きながら、着実に近づいてくる。どこに。ボクのところに。この魔法陣群の制御ポイントに。


「シオーン。男爵の向こうに爆発魔法連発して。爆風で背中押して。いますぐ。頼む」


背中押すって、えーなんでーとかいいながらシオンが火魔法を唱えた。直径3mもの火球が花開く。シオンの魔力もレベルアップしてる。爆風が女体像を押し、ボクにまで噴きつけてくる。熱いけど、熱いなんていってらんない。ボクは爆風で押され後ろへよろけそうになるが、レイ男爵は爆風に背中を押されて押された方へズレている。これが負の質量の特徴だ。普通の質量は押された方向へと動く。負の質量は押されたのと逆の方向へ動く。わずかでも時間を稼げればいい。分身との戦いで魔力を擦り減らしたノアとラウリもわずかに回復できたようだ。再展開したシールドを掲げて女体像を押し留めようとする。女体像が大きく腕を振り、右腕を消失させるもののノアとラウリは10m近く跳ね飛ばされてしまった。真っ白い負の彫像と、遮る防壁のなくなったボクとの距離わずか5m。シオンの火球も発射ペースが落ちている。魔力の限界が近い。女体像が1歩前に進んだ。残り4m。修正のできてない魔法陣があと2個。女体像がもう1歩前にずり寄ってくる。残り3m。女体像に憑依してから言語翻訳魔法を使っていないため、無言かつ無表情でひたすら近づいてくるのが怖い。もうちょっとで修正が終わる。それまで逃げたくても逃げられない。まるで無表情な女体像の白いだけの目に見つめられると、自分自身の死を覗き込んでいるみたいでおしっこ漏らしそうだ。触られたらボクの肉も服もごっそり無に還元され、この世とグッバイしなくちゃいけない。まだ転生して1ヶ月も経ってないのに。女体像がもう1歩進んだ。残り2m。シオンの爆発魔法も魔力切れだ。シールドボールを作れる隊員たちも疲弊したようだ。もう女体像の進行を食い止めるものがない。最後の希望を込めてボクは自分の周りに球状シールドを展開した。なけなしの魔力を全部ぶち込む。ドラゴンの突進でもゴジラの放射能ブレスでも破れないくらい強固なシールドだった。


レイ男爵の憑依した女体像がシールド面にぶち当たる。形よい乳房が毟り取られるように消失した。消失するそばから再生していく。ボクのシールドが削られていく。魔法陣の修正が1個完了。残る魔法陣は1個。両手を突っ込むみたいにして陣を書き換える。暑くもないのに汗が流れた。わずか2m先にボクの死刑執行人がもがいている。緊張のあまり4個前からの紋様が全部間違っていた。間違いを消して新たに書き込む。全部の魔法陣の修正が終わったのとボクの球状シールドが砕け散ったのがほぼ同時だった。両手を伸ばし女体像が迫る。嗚呼。短い第2の生だったな。目なんかつぶらないぞ。最後の一瞬までこの世を目に焼きつけてやる。最後に見るものがキアヌ・リーブス似のハンサムとはいえ中年オヤジの顔じゃなく、彫像じみてはいるけど美しい女性の顔なのが救いだ。オヤジに抱き締められて死ぬなんておぞましい死に方だけは勘弁してもらいたい。女体像の顔がボクの鼻先まで近づいた。と思ったら、視界が半透明のベールに覆われる。強がっていたけどめちゃ腰が引けてたボクはそのまま後ろに尻餅をついた。ミナトと名前を呼ばれたのも、背後からがっしり抱えられ乳房を潰されながら後ろに引きずられたのも覚えてなかったりする。身体3つ分くらい離れて初めて全体像が見えた。女体像が半透明の女性の投影像に抱き締められている。冒険者の革鎧を着て黒髪を背中で結いあげた女性。背には双剣。ボクにもシオンにもない色気がガンマ線のように放射されてる。


次の瞬間、パキーンとガラスが割れるみたいな音が鳴り響いた。ボクが加えた魔法陣の修正はドミノ倒しみたいな手順を踏んで発動する。そのタイムラグのため、ボクは危うく負の質量のレイ男爵に抱きしめられこの世界から消滅するところだった。巨大ホールの中心に浮いている魔法球が眩く光る。中をゆっくり回転していたマイクロブラックホールとその強烈な輻射を吸収する魔法殻が、量子もつれで繋がっているもういっぽうの端へテレポーテーションした。そのときの空間が裂ける音だった。立て続けに3つ、マイクロブラックホールが魔法球の中から消えた。大陸どころか惑星丸ごと焼き尽くすほどのエネルギーを野放しにはできない。修正に時間がかかったのもそのせいだった。中身がなくなった魔法球がパリパリ砕けて消えていく。女体像の顔にも身体にも無数のひび割れが走り、白い破片が雨のように剥がれ落ちていった。世界が真っ白になる。奥の窓から強烈な光が差し込んでいた。目を細めて見やると、グラボ山脈の向こうに巨大な光の球が膨れあがっていくところだった。それも3つも。光がやや収まると‥‥なんてこった。キノコ雲が立ち昇っていく。大地を蝕む3本のキノコ。こっち側の影響を最小限にするよう、エネルギーのほぼすべてが裏側の魔界に流れるようセッティングしたはずだったんだけど、わずかに漏れたみたいだ。あまりの事態に頭が回らない。


誰ひとりとして動こうとするものはいなかった。抱き合う像と幽霊を見て目を丸くするか、窓の外のキノコ雲を見て目を細めるかしてるだけ。女性冒険者幽霊に抱えられた負の質量の女体像は、身体が剥げ落ちて床を消滅させ大穴を開けている。肉体が剥がれ落ちた後にはレイ男爵のハンサム幽霊体が残った。美女が美男を抱きしめる構図。絵になる。グスタフ・クリムトの『接吻』を思い出す。だって幽霊さん同士が抱き合い接吻してるし。情熱的な接吻が終わり、俯く男爵を庇うように女性冒険者が振り向く。この女性がキイラさんだろう。声も音もないがキイラさんの口が動く。ありがとう。そういっているように見えた。キイラさんが胸元から小さなクリスタルを取りだした。フッと息を吹きかけると、クリスタルはボクを目指してフワフワと寄ってくる。負の質量だったらボクの手の平に大穴が開くだろう。負の情報だったらボクの生命情報と連鎖反応を起こしてボクの全情報を消してしまい、ボクは大量の黒い煤となって吹き散るだろう。そうなりたくなければ腕を切り落とさなくちゃならない。でも、ボクの命を救ってくれた人をそこまで疑うのは失礼な気がして、ボクは漂ってきたクリスタルを躊躇うことなく手に受けた。幸いなことにボクの手の平に深く刻まれている生命線が消えることはなく、ボクは太く長くズーズーシイ人生を約束されたまままでいられた。


手を繋いだ男爵とキイラさんのまわりがニュルニュルと歪み始めた。空間が歪んでいる。ブラックホールはまだもうひとつあった。床下、3つのブラックホールの連鎖の真下にあるはず。死にかけた動揺からか、完全に頭から抜け落ちていた。強烈に空間が捩れていく。このままだとボクたちも吸い込まれ肉のスパゲッティになるかもしれない。なんて心配したけどボクたちの身体を吸引する重力は感じなかった。ふたりのまわりの歪んだ空間が奥に伸びる。後ろにできていくのはワームホールか。魔法陣も展開せず、どうやってワームホールを作っているのか想像もつかなかった。ふたりの幽霊がニュルッと丸まって吸い込まれるように消え、その途端背後のトンネルも消えてしまう。最後のブラックホールはワームホールとなって消えた。原理なんか知らん。アインシュタインさんかホーキングさんにでも聞いてくれ。ほうっとひと息ついた途端、魔法球のあった空間から経験値の魔素が逆流してきた。量子的繋がりの往路は潰したけど復路が残っていたようだ。完膚なきまでに破壊されたダンジョンが3つ。ダンジョンコアとダンジョンに棲息していたすべての魔物分の膨大な経験値が大ホールに逆流し、ボクたちの肉体を強引に再構成してくる。


「経験値が逆流してきた。とんでもないレベルアップになる。みんな倒れないように座っ‥‥」


最後までいえなかった。苦痛なのか快感なのかすらわからない。ダンプカーに衝突されロードローラーに轢き潰され、業務用肉挽き器でミンチにされて溶鉱炉に投げ込まれたみたいな衝撃に全員が失神していた。


参考文献:

「理化学研究所/蒸発するブラックホールの内部を理論的に記述」https://www.riken.jp/press/2020/20200708_3/index.html


「MOND/橋本省三さんの解答」https://mond.how/topics/pd4kw4cd4sall1w/77mmbo1wpdcbcx9


「Google Arts & culture/クリムト『接吻』」https://artsandculture.google.com/story/zQURmESPplFKJQ?hl=ja





【第2外周警備隊】

[隊 長]ダムディン・アチバドラフ大尉。

男性。34歳。髭大男。


[副隊長]ダメル・ンガバ中尉。

男性。30歳。黒人。剣の達人。


[1班・01]バイオレット・ドワイヨン2士。

女性。18歳。身長174cm。濃いめの栗色の髪、緑の瞳、瓜実顔の美人。冒険者との混血。【盾球】


[1班・02]リュシエンヌ・オリヴィエ1士。

女性。22歳。母と二人暮らし。狸顔。おっとり型。【盾球】


[1班・03]カミーユ・コンスタン1士。

男性。22歳。陽気でお調子者。やや融通が効かない。


【負傷欠場】

[1班・04]ダゴベルト・アベジャネーダ士長。

男性。26歳。妻帯者。子供2人。子煩悩。


[1班・05]ダフネ・パパンドレウ士長。

女性。26歳。金髪、均整美。【弓手】


【メイドとの接触で殉職】

[1班・06]ジョエル・ブリエン士長。

男性。26歳。古参兵。目が大きく鼻も大きく口も大きいのにハンサムに見える。アンバランスが微妙なバランスで保たれた転生人にはない顔立ち。


[1班・副班長]ニケ・ミツォタキ曹長。

女性。27歳。切長の目と薄い唇。笑わない女で有名。なのだが酒に酔うと泣き上戸になるというかわいいギャップを持ち合わせている。酔ってない間は鬼の副班長。【弓手】


[1班・班長]ファウロス・ストラトス曹長。

男性。27歳。アポロ像に似てる。格闘技のプロ。【盾球】

                   


[2班・09]シャルリー・コルビエール2士。

男性。19歳。身長186cm。明るめの栗色の髪、やや四角い顔立ち。垂れ目。【盾球】


【分身体との接触で腕消失】

[2班・10]アルキダモス・カサヴェテス1士。

男性。21歳。超絶ハンサムでモテまくるがゲイ。


[2班・11]ミハイル・カヴラス1士。

男性。21歳。3班のフォルミオン・ガヴラスの兄。頭脳派。チェスの名人【盾球】


[2班・12]レベッカ・ボワヴァン士長。

女性。24歳。身長180cm。アマゾネス。濃い栗色の髪。青い目。優しい目鼻立ちだが筋肉がミシミシ。


[2班・13]ヴァランティール・フォレ士長。

女性。24歳。身長184cm。アマゾネス。明るい栗色の髪。翠の目。男性陣と変わらない体格。鋼鉄筋肉。【弓手】


[2班・14]ファビアン・ボーヴォワール士長。

男性。25歳。かなりな醜男だけど豪放磊落な性格が功を奏して女性にモテまくる。酒豪。


[2班・副班長]トリュファイナ・デュカキス曹長。

女性。26歳。体脂肪率ひと桁じゃないかと思う細身で筋肉美。腹筋割れてる褐色肌の女性兵士。【弓手】


[2班・班長]ピリッポス・カラマンリス曹長。

男性。27歳。テルモピュライの戦いで圧倒的多数のペルシャ軍と戦ったスパルタ兵似の鋼の肉体と顎髭のギリシャ風偉丈夫(いじょうぶ)



[3班・17]フォルミオン・ガヴラス2士。

男性。19歳。身長182cm。オリーブ色の肌、黒髪、面長の顔、鷲鼻。ゴツい体型。2班のミハイル・カヴラスの弟。おっちょこちょい。


[3班・18]デスピナ・クセナキス1士。

女性。20歳。身長174cm。アマゾネス。濃いめのオリーブ肌。女豹の印象のシャープな眉と目。


【分身体の接触で殉職】

[3班・19]エウフロシネ・ラリス1士。

女性。20歳。小柄だが素早い動き。先日の盗賊団壊滅の報奨金で両親に新しい納屋を建てたと喜んでいた親孝行娘。二角馬の世話が好きで警備隊引退後は牧場を開きたいと夢を語っていた。


【負傷欠場】

[3班・20]ラファエラ・アブレイユ士長。

女性。23歳。


[3班・21]ニコラ・ギャバン士長。

男性。23歳。身長190cm。物静かで落ち着いている。体格はノアの方がいい、しなやかな筋肉。【盾球】


[3班・22]ロジェ・ドパルデュー士長。

男性。24歳。184cm。口髭の紳士。大人の雰囲気。長い脚。【弓手】


【ガヴラスを庇って殉職】

[3班・副班長]バスティアン・ガシェ曹長。

男性。26歳。褐色の肌。大きな目。鷲鼻。ロビンフッド。【弓手】

                       

[3班・班長]セレイコス・カポディストリアス曹長。

男性。28歳。顔も身体もゴリラ。隊員の中では最年長。頭頂部が薄くなりつつあり、髪を伸ばして後ろ手ポニーテールに結っている。


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