01.ありふれた「ゲート」と「死」と「煌めく夜空」
ボクがこの世で
最期にみたのは、
夜空に渦舞う
ダイアモンドダスト。
綺麗だった。
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猛暑。熊谷で40度を記録したらしい。東京も茹だるような熱帯夜になった。溶けるような新宿新駅を定刻21時に発車したつくば医療エクスプレスは、途中つくば新国際空港駅に停車しただけで21時30分ちょうど遅滞なくつくばゲート北駅に到着した。日本中が猛暑に喘いでいる中で、つくば市だけは一面の雪景色。列車がホームに停車し側面に並ぶ数百枚の昇降口がガルウイング式に上へ開くと、ボクを乗せた自走式電動車椅子が自動走行モードでゆっくり動き出した。段差もなく滑らかにホームに降りる。駅は完全なドーム化により外気から遮断され暖房されているはずだけど、広大なせいかどことなく冷え冷えと感じた。モーター音で後ろから救命看護師の山科さんを乗せたカートが追従してくるのがわかる。横を見ると開いた何百という車室から、ボクと同じ末期患者を乗せた車椅子や自走式ストレッチャーカプセルが続々と滑り出しているところだった。車椅子の患者は20%といったところか。ほとんどの患者は救急車と同じ仕様の自走式ストレッチャーカプセルの中でさまざまな医療機器に繋がれて横たわり、付き添いの救命看護師に看護されながら低速車線を粛々と走っていく。軽量でスピードの出る車椅子は外側の高速レーンを走る。スティック操作で自走することも可能な車椅子だけど、東西南北のつくばゲート駅到着後は強制自動運転になる決まりだ。ここで勝手に自走して事故渋滞など引き起こしたら、転移に間に合わない事態となって人命に関わる。
プラットホームには改札などなく、シームレスに駅を抜けた。ランプウエイをくだって地上に降りる。道路はすべて透明ドームで覆われ、彼方に聳える『ゲートスフィア』が見晴るかせた。夜も更けていたけど、煌々とライトアップされてその威容がわかる。2年前に完成した電子魔子転換炉で原子炉の220倍という発電量が実現したおかげだ。直径12キロ。純白の半球ドーム。高さは6キロ。富士山よりはるかに高くエベレストよりもそこそこ低い。キリマンジャロと似た高さ。これが冥府門ともいわれる『つくばゲートスフィア』だった。半球状で裾野なく立ちあがるから圧迫感が半端ない。遠目にドームと見えていたものが、近づくにつれ天地左右に果てしなく広がる絶壁へと変じる。半球に見えているけど実際は球体だという。見えない下半球部分は地殻に食い込んでいる。もしここが地殻の薄い海底だったら、最下端はマントルに食い込んでいただろう。幸い厚みのある陸地部分だったおかげでマグマの噴出などもなく、雪がひそやかに降り積もることができる。こんな巨大なものが鎮座して重みで沈降しないのが不思議だけど、重さはなく一説には時間も質量もないといわれている。どうにも現代科学の範疇を超えているらしい。そんな得体の知れない物に入るのは無謀過ぎると懐疑的な者もいまだにいるけど、末期患者にしてみたら一縷の希望なのだ。
重病人ばかりの移動のため、高速といわれる車椅子でも上限は時速30キロ。うんざりするほどゆっくり走って、ようやくドームの周囲を周回する環状線に合流した。環状線の内側、ドームの基部に接するように外縁を一周してガラス張りの構造物が建築されている。『回廊』と呼ばれる構造物だ。回廊は全周を9420等分され部屋番号が割り振られて『前室』という待機スペースになっている。ボクに割り当てられた前室番号は9042号。環状線との北側合流地点が1番となり、時計回りに1000室ずつ世界の8地域に割り当てられていた。不正が一切不可能な抽選によって選ばれた世界中の転生希望者は、日本国の運営する転生者特別便によって空路つくば国際空港に集められゲート入りする。8000番台からの1000室は日本が含まれる第8区、環太平洋地域に割り当てられていた。そして残る9001番から9420番までの420室は、若年優遇措置により世界中の25歳までに余命宣告を受けた若者に優先割り当てされる。今年21歳になったボクもこの枠で転生権を得た。
前室に入るまで全自動で荷物のように運ばれるから、ボクにできることといえば深夜0時の転移まで死なないようにすることだけ。車椅子が9042号前室の前にさしかかると、内部の照明が点灯しガラス壁の中央にあるガラスドアが自動で開く。段差もなく道路からスムーズに扉をくぐって中に入った。車椅子はゆるゆると部屋の中央に進み、奥の開口部から見えるスフィア壁に正対してとまる。車輪ロックがかかり、肘掛けで赤く光っていた自動走行モードの表示が消えた。開口部天井に、ストレッチャーに横たわっても見やすい角度のついた大型モニターが取り付けられている。今はまだ転生支援機構のロゴマークを映しているだけ。後ろで山科さんの伴走カートがため息のような音を漏らして停車した。
「到着しましたね。ご気分はいかがですか」
伴走カートを降りた山科さんがボクの車椅子の横に立ち覗き込む。いまのところは痛いところも苦しいところもない。車椅子の座面に敷かれた体圧分散クッションと鼻カニューレから供給される酸素のおかげだ。
「絶好、調、ですよ」
口周りの筋肉も冒されているから話しづらい。
「まもなく23時です。準備がばたつかないよう先に座面フレームを自走台車から分離させて酸素供給を繋ぎ直しますね」
「あ。ちょっと、だけ」
山科さんを制して自走スティックに指をかけ、車椅子を前進させた。前室の開口部ギリギリまで進める。エアカーテンが膝掛けをそよがせた。前室奥の開口部とゲートスフィア面の隙間は20センチ。萎えた手を動かしてゲートスフィア面に手の平を当てる。温かくも冷たくもない。硬さも柔らかさも感じない。少しだけその不思議な感触を味わっていた。車椅子を中央に戻す。山科さんが床の供給ジャックに接続した長いカニューレチューブを捌いて、酸素ボンベに繋がった方の短いカニューレと交換してくれた。これで酸素は建物の配管から供給され残量の心配がなくなる。その後、車椅子の自走モジュールが切り離された。ボクの座る座面とそれを保持する簡易フレームが押し出されて分離する。フレームにはキャスターが付いていて足で床を掻けば自力で動かせるけど、ボクの萎えた足では無理。山科さんの介助に頼るしかなくなる。
『ようこそ、つくばゲートスフィアへ。神代湊さん。現在時刻日本時間2052年8月10日、10時55分です。5分後にスフィア面が開き、玄室に入れるようになります。準備してお待ちください』
モニターにガイドCGキャラクターが現れ話し始めた。ゲートスフィアは11時間毎に1時間ちょうど表面被膜層が消失し、下から『玄室』と呼ばれる部屋構造が露出する。玄室は外壁がなく外界に開放された幅4mX高さ3mX奥行き3mの横長な六角形空間で、円周に沿って9420室が並ぶ。玄室とは、古墳において死体と棺を収める横穴式石室を意味する言葉だ。縁起のいい言葉ではないけど、生きた人間がエネルギーと情報に分解されるのは死ぬのと同じだとしてこの俗称が定着していた。1玄室には1人しか入れないのが大原則。2人以上や身体が玄室からはみ出した状態での転移は転移先で実体化されない。分解されたまま玄室に戻る。つまりミンチ状の肉塊となって死ぬ。転移は1日に2回。9420室にひとりずつで1日18840人。1年間で約680万人。世界の年間ガン死亡者数は960万人。ガンだけでこの数字だ。転移できて第二の生を謳歌できるのは抽選で選ばれた幸運な人たちということになる。日本が属する第8地区は面積こそ太平洋全域と広いけど、そこに含まれる国は日本とパプアニューギニアやソロモン諸島にハワイ・グアムといった島々のみ。日本人優遇が明白なんだけど不満も抗議もいっさい聞き入れられず、いまに至るまで確定事項となっている。転移ゲートが日本の領土にあり、その成り立ちからしても日本の固有財産であるためだと納得するしかないらしい。最初の頃は日本政府に文句をいう国もあったようで、しまいには軍事侵攻によって日本を占領しようとした国まで現れたけど抗議も侵攻も意味をなさなかった。なぜならゲートの利用権を割り振ったのは日本政府じゃなく、女神だったから。抗議に答えが帰ることはなく軍事侵攻は始めようとするとすべての機器が動作しなくなって滑稽に失敗したんだよね。とかぼんやり考えてたら柔らかな電子音が注意を喚起し、モニターにカウントダウンが表示された。数字がゼロになった瞬間、ゲートの表面を覆っていた薄膜が消失する。目の前に真っ白な部屋が現れた。
『転移1時間前。付き添い者退室30分前です。転移準備に入ってください』
前室の床から渡り板が伸び出し、20センチの隙間を埋めた。座面の支持フレームが山科さんの介助によって押され、キュルキュルしたキャスター音と共にボクは玄室へ運び込まれる。交換された鼻カニューレの長いチューブが前室と玄室を跨ぐ。玄室に入ると山科さんがフレームを180度回してくれた。これでボクは最後の時間、白壁だけを見つめて味気なく過ごすのではなく少なくとも世界に面して外向きに過ごすことができる。といっても見えるのは、前室とモニターと前室ガラス壁を通して見える闇に沈む環状道路だけだったけど。
「姿勢はどうしますか。横になりますか?」
山科さんが座り続けのボクを心配する。確かに長時間車椅子で同一姿勢を取り続けていると自重で尻や背中が鬱血してキツくなる。
「いえ。座った、ままで、いいです。体交だけ、して、ください」
あと1時間足らず。そのくらいの時間ならなんてことはない。山科さんの手が脇に入れられて身体の向きが優しく変わる。あちこあちのクッションを入れ直して体勢を固定してもらう。ずいぶん楽になった。
「SpO2は95%。心電図も異常な波形なし。血圧も脈も正常。バイタルは安定しています。あと40分。大丈夫だと思いますよ」
ここまで来て最後の30分に息を引き取ってしまう不運な人が、年間で1000人近くいるという。1回の転移でひとり以上いる計算だ。でもこればっかりは運。どうにもできないことでクヨクヨしても始まらない。
「山科さん。長いこと、お世話に、なりました。また、いつか、向こうで、会えたら、いいですね。もう十分、ですから、最終の、準備して、退出して、ください」
山科さんとはボクが発症してからずっとのつきあいだ。姉のような存在に感じたこともある。心臓移植の手配ではずいぶん苦労をかけた。脳死状態でも転生できるため、ドナーが極端に減ったからだ。結局心臓ドナーが見つかる前に余命半年のラインを超え、若年優遇で転生に当選してしまった。名残を惜しむ山科さんを説き伏せて酸素カニューレ以外の心電モニターなど計測器類を外してもらい、退室制限時間の10分前には退室してもらう。自走モジュールを接続した伴走カートが回廊の前室から出ていく。振り返る山科さんに最上級の笑顔で手を振った。そして‥‥広い玄室にポツネンとボクひとり。玄室内は暖房などないのに寒くない。というか寒いも暑いも温度を感じなかった。
自動追尾で常にボクの位置へ画面を向けている天井モニターの画面が真っ赤に染まる。『退出』の白文字が点滅した。音声でも切迫感のあるトーンで退出が促される。転生が始まった最初の頃、付き添いの家族などが名残惜しむがゆえに居続けたり急変した患者に救命処置を施しているうちに転送時間を過ぎてしまった結果、全員が凄絶なミンチになる事例が起きて退出時間厳守は厳しすぎるほどになった。遠くで威嚇的な声がかすかに聞こえた気がする。退出命令を無視すると前室のどこかに格納されているロボットガードが起動しティーザー銃で問答無用に撃ち倒し搬出するのだとか。ボクには名残を惜しんでくれる身内などいない。淡々と逝くのみ。23時40分。残り20分。ゲートはすべての玄室に末期患者を収め、粛々とその瞬間を待っている。モニターの右隅にカウントダウンが表示され唐突にプログラムが始まった。画面にCGキャラクターが現れにこやかに説明を始める。
『20年前。2032年10月10日。13時00分ちょうど。茨城県つくば市北区の国立総合量子研究所地下4階に設置されたアニーリング型量子コンピュータ『空観』の試用運用が開始されようとしていました』
画面には量子コンピュータの画像をバックに『空観』のロゴとその読み『クウガン qugan』の文字が大きく映し出された。さらにテロップが流れる。空観とは仏教用語で、一切の存在には本性がなく実体を持たないという真理を観想すること。だそうだ。
『画期的な演算能力を持つ量子コンピュータにおける試行課題としてチューリングテストを突破すると期待されるAI「ルキナ」、VRゲーム「幻夢」アルファ版、暗号解析システム、ゲノム創生薬システムなど7課題が、埼玉県和光市の旧陸上自衛隊広報センター跡地に設置された理化学研究機構の第3世代スーパーコンピュータ「百景」内に用意されました』
画面では量子コンピュータの外観映像に女神の絵が重なって現れ『Lucina/ローマ神話の光の女神・誕生の女神』という字幕が表示される。背景映像が切り替わって、ずらりと並ぶ黒い箱型のスーパーコンピュータになった。今度は『百景』の文字。
『世界最速を記録した「京」の次世代機「富嶽」、さらに第三世代として「百景」が開発され運用されてきましたが、量子コンピュータ「空観」が稼働すれば演算速度は最大2兆倍になり得ると期待されていました。また、初期試行が成功して運用開始されれば同じつくば市北方面に建設された粒子加速器『ケックビー2』で予定されていたダークマター生成実験の分析にも使われる予定でした。13時に「空観」が稼働し、同時に「百景」内のプログラムが重ね合わせダウンロードされた瞬間、強烈な光と共につくば市に直径12キロの白いドームが出現します』
つくばターミナルビル「Tウエーブ」A棟の屋上に設置されたお天気カメラの映像が流れる。この映像はもう何度見たかわからないゲートスフィア出現時の映像だ。10月10日。秋晴れのブルースカイ。お天気カメラは駅前再開発で建てられたTウエーブA棟の屋上からB棟を右に見て筑波山を奥に収める、緑と建築物が調和した美しい街並みを映していた。その1点に光が生じる。瞬間で拡大し画面が真っ白になった。素子を焼き切るほどではなかったようで、ホワイトアウトした画面がじわっと風景に戻りかけたとき‥‥土砂なのか煙なのか黒い流動体が噴きあがった。時間にして100分の1秒。画面はスロー再生になっている。爆発の衝撃波が空気を圧縮し一瞬で霧の球体を出現させた。衝撃波は霧球を後に残して超音速で拡がり駅前ビルを襲う。道路では車が吹き飛び、TウエーブB棟の窓ガラスすべてが砕け散った。
衝撃波で画面が激しく揺さぶられたけど、カメラは破損しつつも映像を中継し続ける。球状の霧が毟られたように掻き消えたあと、純白の半球状ドームが現れた。それがじわじわと拡大し半球表面に接触した家屋や樹木が、そして遠過ぎて見えないけど道ゆく人々をも、なにもかもが接触した一瞬で漂白されたように白くなり微細な粉となって球の内側へ溶け崩れていく。外縁で吹き飛ばされた車の発火や破れたガス管やガソリンスタンドの爆発などが多発していたけど、半球のあまりの大きさにオモチャのように小さく見える。最後にB棟ビルを倒壊させて半球の拡大が止まった。ゲートスフィア生成の瞬間だった。何十本もの黒煙が空を黒く覆う頃、ようやく消防車のサイレンが鳴り響く。
『直径12キロの円内にあった粒子加速器を始めとする施設やビルや家屋、研究所や学校、駅や橋や道路、走る車や列車、樹木、土壌まで。何もかもとともに推定4万人を含む居住者すべてが消失しました。これが通称「ゲート災」とも呼ばれる大災害でした』
画面には4万人以上の名が刻まれた記銘碑と鎮魂祭の映像。そして右上のカウントダウンが残り3分を切った。
『同時刻、埼玉県和光市の理化学研究機構では地下1階から地上4階までが崩落しました。崩落後の空中に直径20mの白球が現れます』
理化学研究機構の館内カメラ映像が流れる。パニック映画のCG映像を地で行く迫力映像だ。そして奇跡のように損傷なく白球を正面から写し続けるカメラ映像になる。白かった球体が一瞬にして青空の青に染まり透明化した。球体内にホログラムの女神が現れ「ルキナ」を名乗る。
『私はルキナ。この世界の皆さんにお願いがあって現出しました』
何十回となく見て聞いた映像だった。その後、異世界への転生について語られる。ルキナのお願いとは、彼女の創生した異世界への人的リソースの転生。転生の条件はふたつ。余命半年の宣告を受けた者であること。転生者の選別はルキナが行うこと。そのふたつだけ。世界が8地域に分けられ、それに若年優遇枠を加えた9枠が割り振られる。日本には転生者の搬送に関わるいっさいの運営を行うことが求められた。大混乱しながらもなんとか転生事業が始まった半年後。中国と北朝鮮がタッグを組み、北朝鮮は核ミサイルまで発射してゲートを奪取しようとする。しかし侵攻開始から1分で頓挫した。その様子が大量のニュース映像や監視カメラ映像としてモニターに流れる。船はコントロールを失い港湾内で座礁し、飛行機は滑走路から離陸した直後に推進力を失って不時着した。核ミサイルは10メートルだけあがって爆発せず、棒のように地面に転がる。明らかにルキナの干渉なんだけど、ルキナ自身はなんのコメントも発せずただ侵攻失敗の間抜けな映像を全世界に発信しただけ。ゲート侵攻を禁じすらしなかった。ルキナはネットのみならず全世界のシステムに浸透していて、侵略行為をただ失敗させるだけ。電脳化された現代社会ではネットに棲むルキナを排除できない、と説明ナレーションが流れた。この失敗映像集は20年経ったいまでも、爆笑動画ジャンルで再生され続けている。
画面のカウントダウンが残り1分となり、秒表示に切り替わった。一瞬だけ震えが走る。瀬戸際の弱気が出たようだ。あと50秒足らずでボクは原子かクオークかそれ以下のなにかに分解されて肉体は死ぬ。ボクの記憶と構成情報だけが量子もつれの記号となって基底空間に書き込まれ異世界にホログラフィー投影されるというけど、異世界から戻ってきた者はいないのだからすべてがルキナの嘘である可能性だってあるのだ。転生などせず、ルキナという異世界の怪物に魂を食われるだけかもしれない。この期に及んで情けない自分にふっと息が漏れた。未来なんてどうなるかわからない。でもこのままこの世界に残れば半年後にボクは死んでいる。それだけは確実な未来。最期くらい格好よく迎えようと下腹に力を入れたとき、カウントダウンの数字がゼロになった。
深夜0時。玄室露出時間が終わって表面被膜が戻る。このとき皮膜面にある物体は空間ごと切り裂かれたように切断される。酸素のチューブが切断されてうねった。その後のナノ秒で球体内の全構造物が冷却される。初期に投入された計測器が通信不能になるまで送ってきたデータから、絶対零度にまで冷却されると推定されていた。ボーズ・アインシュタイン凝縮が起きて相転移し、人体は分解されて存在の波となる。その後、量子もつれの書き込みにより異世界へ転移し、そこで女神ルキナが「観察」することにより再構築されるという。量子力学における『観測』とはよくわからない奇妙な概念でいまだに論争されているんだけど、異世界で新しい健康な身体をもらえるならなにを観察されたっていい。外界との開口部が皮膜によって白く覆われる。痛みや寒さを感じる暇などない。神経を信号が流れる前にボクは摂氏マイナス273.15度に冷却され相転移して分解された。しかしその刹那の刹那。身体が引き伸ばされて上へ歪む感覚がする。そしてなぜか透明になった被膜を通して夜空が見えた。量子トンネル効果で滲み出した冷気により、周囲の水分が氷結してダイアモンドダストが生成される。ライトアップされて無数の煌めきが世界を覆う。その煌めきがボクがこの世で見た最後の景色。
そしてボクという存在は分解されてこの世から消えた。