周囲に比較される姉妹
・ふわっとした世界観
サルディアス伯爵家には社交界でも囁かれる二人の姉妹がいた。
姉のアドリアナと妹のイライダである。
姉のアドリアナは美しく艶やかな金色の髪の毛に澄み切った空を思わせる青い瞳をした大変美しい女性であった。それに対して妹のイライダは小麦色の髪の毛にくすんだ緑の目をして垢ぬけない印象を持たれる女性であった。
サルディアス伯爵家では明確に姉妹の扱いに差があった。嫡子である長男は跡取りとして大事に育てられ、美しい姉はその美貌をより磨き上げる為、ふんだんにお金をつぎ込まれていた。しかし妹であるイライダに対しては最低限の扱いしかしていなかった。
最新の流行を押さえた煌びやかで美しい、レースやフリルがたっぷりと使われたドレスをアドリアナに仕立てる一方、イライダには既に仕立てられているドレスが与えられるだけであった。普段使うデイドレスも同じで、アドリアナは常にオーダーメイドで著名なドレスデザイナーに頼む一方、イライダには使用人に任せて店で買うように命じるだけ。
美しさを持たないイライダを両親は簡単に蔑ろに扱っていた。それは嫡男である長兄も同じで、美しいアドリアナのことは社交界でも自慢しているが、イライダの話になると直ぐに終わらせようとするのは誰の目にも明らかであった。
普通ならこのような扱いをされていればイライダの心は疲弊して落ち込んでいただろうが、誰よりもイライダを心配して愛してくれているのがアドリアナであった。
伯爵家の敷地にある離れでイライダは生活している。それはアドリアナには常に美しいものに囲まれているべきであり、それは人も同じであるという考えを持つ両親が、美しくないイライダを隔離したせいである。
幼い頃からイライダの世話をしてくれている使用人と共に離れは穏やかで余計な騒音が入らない。アドリアナもこの静けさを好んで両親や兄の目を盗み信用出来る使用人を抱き込んで離れに逃げ込んでいた。
「そもそも、お父様もお母様もお兄様も、美しくもなんともないのに何でイライダだけ美しくないというのかしら」
「落ち着いて、お姉様」
「イライダは内面から美しいのよ。性根が醜いあの人たちと一緒にいる方が私にとっては害悪でしかないというのに」
アドリアナは自分の容姿が優れているという自覚があった。幼い頃から両親と兄にそれはもう散々に言われすぎて自覚せざるを得なかった。しかしアドリアナは二つ下に生まれたイライダの方が可愛らしいと思っていた。それなのに両親と兄はイライダを見劣りがするとして、虐待とまでは行かないまでもアドリアナと明確な差をもって対応していた。
憤慨するアドリアナはイライダが離れに移された時、自分の傍に控える中で一番信頼出来る侍女を離れに遣わせイライダに対して最高の環境を与えるように命じた。おさがりで申し訳ないと思いながらアドリアナが持つ宝石やドレス、それだけでなく書籍だって惜しみなく贈った。
賢い妹は本の世界にのめり込み学ぶ事にも貪欲になった。学園を優秀な成績で卒業するも上手く働き口を見つけられなかった女性と水面下でやり取りし、侍女としてまずアドリアナの元に呼び寄せ、その後彼女をイライダの元に送るように手配したのもアドリアナだ。この件に関してはまだ子供であったアドリアナ一人ではどうにも出来なかったので、執事も巻き込んだ。
執事は先代から仕える優秀な男で、現伯爵が凡愚であることも、次代である兄に素質がないことも理解していた。その上で大変に頭の回転が良く状況を見定めるのが上手いアドリアナの才能を買って手助けをする事に決めた。現伯爵はプライドが高く自分の才能を本来よりも数段上に考えている節があり、このままではサルディアス家の没落も待ったなしと考えていた。その為、アドリアナの画策を主である伯爵に伝えることは無かった。
こうして離れでイライダはアドリアナの愛に包まれて育った。
アドリアナが十四歳になると王立学園に通う事が決まった。美しいアドリアナは多くの子息の目に止まり至る所から縁談の申し込みがやってきた。だが両親はアドリアナであればもっと上を狙えると見合いすら了承しなかった。
イライダはその間も離れで穏やかに暮らしていた。アドリアナから時折渡される学園で使う書籍や書き込みがされているノートを見るのが楽しい。
イライダが本邸に足を運ぶことは殆どない。食事ですら最近ではこの離れで済ませている為、彼女は両親や兄の顔を殆ど覚えていなかった。
使用人に大事にされ、姉であるアドリアナに愛されて隠れるように育ったイライダも、姉と同じように十四歳になると学園に通うようになった。姉からは垢ぬけない恰好をするように命じられていたので、化粧はどちらかというと野暮に見えるように、髪の毛も複雑に結い上げるのではなく三つ編みをするだけという恰好で彼女は学園に通っていた。
あまりにもアドリアナと見た目が違うので、イライダはそれはもう周りから様々なことを言われたけれども彼女の耳はそれらの言葉を留めることは無かった。そのような言葉は生まれてからずっと言われ続け、離れに居を移した八歳の頃にはもう意識の奥底に刻まれる程であったので。
姉に近付きたい子息達がイライダに声を掛けようとすることもあったけれど、イライダは気配を消して子息達から上手く逃げていた。幸いにしてイライダは令嬢達に受け入れられており、あまりにもしつこい子息からは友人達がしっかりと守ってくれていた。
背が高く出るとこは出て締まっているアドリアナは女神のような美しさを有している。それに対してイライダは小柄でおっとりとした可愛らしい小さな花の妖精のような愛らしさを持っていると友人達は近くで見ていて思った。アドリアナがいるからわかりにくいが、イライダだって十分に可愛らしい顔立ちをしている。よくよく見れば化粧で可愛らしさを抑え込んでいる部分が見えて、これには誰かの意図が含まれていると令嬢達は気付いてしまった。
圧倒的な美は信仰の対象となり簡単に近付こうにも出来ないという畏れ多さがあるのに対し、可愛らしいというのは気安さを感じさせ余計なものを惹きつけるという事を令嬢達は知っている。見るからに地味な姿をしているイライダは守られているのだと分かれば、傍にいる令嬢達はイライダの本来の愛らしさを語る事もせずに傍で守る事を選んだ。
十五歳になってデビュタントを迎える際、アドリアナには最高のドレスを仕立てた両親であったがイライダの為にドレスを仕立てようとはしなかった。既製品を買えばいいという両親に、執事は流石に物申すしかなかった。伯爵家の令嬢でありながらデビュタントドレスを仕立てないという事は、この家の経済状況は破綻していると対外に晒しているも同然だ、と。
アドリアナには最高の環境を与えている一方でイライダには与えないという事を国王陛下に見せたならばどうなるか、と言えば流石の両親も反論は出来なかった。デビュタントは国王陛下と王妃陛下に挨拶をするのが習わしで、更に王族とダンスをする事になる。
アドリアナのデビュタントの際は最高級のシルクをふんだんに使い、装飾品だって金を惜しまずに最高品質のものを選んだ。その甲斐もあって王族すら目に留めるような美しさで会場を魅了した。
イライダにそれだけの金を注ぐつもりはないけれど、サルディアス家の名を落とすようなことは出来ない為、仕方なくドレスを仕立てることになった。だが彼らは気付いていない。初めてイライダの為にドレスを仕立てたという事を。
本来であればデザインは母が同席した上でどのようなデザインにするかとデザイナーと相談するのだが、イライダの母はそんな事をするつもりは一切なく、デザイナーは案内された離れでイライダが侍女を背に一人で待っていた事に驚いた。
イライダにとって初めてドレスを仕立てる事になり、どのようなデザインにするのかすら分からないままデザイナーと話をしていると、憤慨した様子でアドリアナが離れにやってきた。怒りに満ちた美しい女神の如きアドリアナの登場にデザイナーはひゅっと息を呑んだが、イライダを目にしたアドリアナは直ぐにその表情を蕩けるようなものに変えた。
「良かったわ。あんなセンスの悪い女の意見を取り入れなくて済んで。貴方は可愛らしく清楚なデザインにしたほうがいいと思うの」
「お姉様のドレスは違ったの?」
「私の好みじゃなかったわ。最高級のシルクを使ってもデザインセンスが最悪ならどうしようもないのよ。出来るだけデザイナーと共に方向修正を狙ったけど、この私にフリルたっぷりが似合うと思って?」
「お姉様はマーメイドラインのドレスが似合いますもの。フリルよりもすっきりとしたデザインで精密な刺繍を入れたほうが似合うと思います」
「でしょう?本当に最悪なデビュタントだったわ。あれを見て美しいとか言う男は全くわかってないのよ。ああ、マダム・トリル。私、貴方のデザインが好きなの。両親の勘違いな見栄のせいであなたのドレスを着たくても買えないのが残念だけれど。この子の為に最高のデザインを考えて下さる?」
「まあ、わたくしの事をご存じで?ええ、ええ。イライダ様はふわりとしたスカートラインが似合うと思いますの。ですが変に手の込んだものではなくてあくまで清楚さを前面に出した方が宜しいですわね」
アドリアナの言葉にデザイナーであるマダム・トリルはスケッチにデザインを思いつくままに描き、アドリアナが変更点を告げる。両親にとって大事なのは無駄にお金を使わないこと。しかしアドリアナは大事で可愛い妹のデビュタントを最高のものにする為に私費を惜しみなく注ぎ込んだ。
ドレスの裾には生地と同色の白ではあるが質の良い刺繡糸で小花がびっしりと縫い込まれている。光に当たると光るようなその糸のお陰で、きっとドレスは舞う度に光を仄かに放つように見えるだろう。
装飾品はアドリアナが持つ物からイライダに合わせて手直しをしてもらう。趣味の悪い両親から贈られたものを変更するのに躊躇いなどない。
そうしてデビュタント当日、久しぶりにイライダを見た父は何とも言えない顔をしていた。抜群の化粧の腕を持つ侍女とどんな髪型も自在に作り出せる侍女の手によって飾り立てられたイライダは、確かに色合いこそ地味ではあるが人目を引くような雰囲気をしていた。
しかし、アドリアナの美しさを最高のものだと思っている父は気のせいだとしてぞんざいにイライダをエスコートするだけであった。
その日のデビュタントは僅か三名。子爵家、伯爵家、侯爵家の令嬢が控室でその時を待っていた。
緊張している様子の子爵家の令嬢に近寄ったイライダは、微笑みながら「大丈夫ですか?」と声を掛ける。具合が悪そうな令嬢は、「緊張して……」と小さな声で零した。
柔らかな白のドレスは新品の物で、両親から愛されて育ったのだろうその令嬢にイライダは優しく言葉を続ける。
「大丈夫ですよ。国王陛下はとてもチャーミングな笑顔をされる方で、王妃陛下は厳しそうに見えるけれども実は可愛い令嬢がデビュタントする姿を見るのが大好きなんだそうよ。だけど破顔してしまうと威厳を損ねるという事で必死に堪えているらしいわ」
「どうして、そのことをご存じなのです?」
「私の姉が教えてくれたの。陛下たちはわたくし達令嬢がこれから巣立つのをしっかりと見守って下さるわ。知っていて?多少失敗してもいいのよ。その失敗は初々しいわたくし達だからこそ許されるのですって。むしろその失敗をする姿を寛容に見守りたい方たちが多いそうよ」
「まあ……」
「お姉様はあわよくば失敗に落ち込んでいる令嬢を慰めるという名目で声を掛ける機会にしたがっているから、気にする必要はないわ、と仰ってたわ」
「ふふ。そうなんですね。ありがとうございます。失敗したらどうしようと思っていたのですけれど落ち着きました」
「良かったわ。それに、わたくし達にはオレーシャ様もいらっしゃいますわ」
「あら、わたくし?」
「はい。オレーシャ様は学園でも常にマナーの先生にお褒めの言葉を頂いていらっしゃいますでしょう?カーテシーの美しさにわたくしも幾度となく目を奪われましたわ。本日も是非学ばせてくださいませ」
「ふふ。イライダ様、学園で見る時よりも随分としっかりとされているわね。わかりましたわ。わたくしも緊張はしておりますけれども、多少は慣れておりますもの。ナターシャ様、あまり気負わなくてよろしいのよ」
「は、はい。ありがとうございます」
三名の令嬢が穏やかに言葉を交わすのを護衛している騎士たちも微笑ましそうに見守っている。何時もであればこの控室は緊張に満ち溢れ言葉なども一つもない。だが今はどうだろうか。イライダの機転により緊張していた令嬢は血色がよくなり、侯爵令嬢はプライドを擽られ自信をもって赴こうとしている。
イライダは最初から全く緊張した様子はなかった。彼女にとって、アドリアナという素晴らしい姉がいて常に誰かに見られ悪意のある言葉などをぶつけられてきたせいでかなり図太い性格になっていたのは間違いがなかった。
時間になり三名の令嬢は落ち着いた様子で国王陛下と王妃陛下に挨拶をしていく。子爵令嬢は前もって聞いていたように国王陛下の優しい微笑みと、王妃陛下の厳しそうに見えて目元が少し下がっているのを見て、イライダの言っていた事は本当なのだわと感心していた。
侯爵令嬢も、自分を参考にするというイライダの前で無様な姿は見せられないと教わってきた通りの完璧なカーテシーを披露した。完成された美しいカーテシーに見守る貴族たちから感嘆の声が上がる。
その中でイライダはどこまでも自分のペースで挨拶をし、アドリアナから仕込まれたカーテシーを披露した。アドリアナ曰く、母のカーテシーは見苦しく美しくないので必死に自分で努力したそうだ。その姉仕込みなので決して見劣りはしないであろう。とは言えども、侯爵令嬢の後では多少硬さが見えたであろうが。
そしてダンスになり、侯爵令嬢は第一王子である王太子が、子爵令嬢は第三王子が相手となり、イライダの相手は第二王子となった。王太子は学園を卒業し既に政務に取り掛かっている十九歳。第二王子は姉と同じ十七歳で学園では教室が同じであると聞いていた。第三王子は一つ上の十六歳である。全員年頃ではあるのだが何故か婚約者がいない。王太子は二十歳になったら探すからと言って逃げ回り、第二王子と第三王子は王太子が見つけるまではと言って避けている、というのを姉から聞いている。
アドリアナは既に社交の場に出ては多くの話をイライダに教えてくれる。そのおかげでちょっとした情報持ちではある。
「君はアドリアナ嬢の妹だったかな」
「はい、殿下。姉とは同じクラスであられると聞いております」
「そうだな。あの苛烈なアドリアナ嬢の妹は地味だと聞いていたが、噂とは全く信用ならないな」
「噂、ですか。いえ、その前に姉が苛烈ですか?」
「ああ。美しいのは確かだが、その性格は苛烈だろう?君はアドリアナ嬢に随分と愛されているようだ。妹を悪くいうものに対しての報復行動がすさまじい」
「まあ……お姉様ったら。確かに姉はわたくしを大事にしてくださいますの。わたくしはそんな姉が大好きなのです」
第二王子のリードは素晴らしく、ダンスはそこまで得意でないイライダでも間違えることなくステップを踏めている。そして会話をする余裕すらある。ダンスに関しては時々姉が男性役をしてくれて踊る事もあるけれど、姉はどこであの技術を身に付けたのか。それが気になって仕方がない。
「お互いを思い合っている姉妹だな」
「ええ。お姉様がいるからわたくし、いつでも笑えておりますのよ」
白のドレスが翻る。柔らかい明かりを反射して、縫い込まれた刺繍がきらきらと小さな光を放つ。
小麦色の髪の毛はハーフアップにして緩く編み込み、白い花を小さく散らした髪飾りで留めている。
首を彩るのは三つの真珠が連なった首飾り。よく見れば真珠が動かないように蝶の飾りが両脇にそっとそえられている。
目を引くような美しさは確かにない。アドリアナは誰もが認める程の圧倒的な美しさで周囲を引き付けていた。それに対してイライダは近くに寄らなければ分からないが、近付いてしまえば離れがたい愛らしさと穏やかさを持っていた。しかしだからと言ってか弱いわけではない。芯がしっかりしているのは姉と同じで、その出し方が異なるだけだ。
既に社交界に出ている彼女たちの兄は、アドリアナを褒めたたえる一方でイライダは存在しない者のように扱っていた。彼女の家での立ち位置が推測出来るというものだ。アドリアナが親しい一部の友人に妹の可愛らしさや素晴らしさを散々語っている姿を実は見た事がある。だが、それを言うのはどこまでも彼女だけで、イライダの学園の評判は地味で目立たないというものばかりだった。
どこが地味で目立たないというのだろう。
第二王子のエルナンドは己がリードしているイライダを見下ろす。全体的に小柄で、ドレスのデザインで分かりづらいものの、とある部分はしっかりと質量があるようだ。時折当たっては柔らかさが伝わってきて驚いてしまう。
イライダは淑女らしい微笑みを浮かべながら、言葉を交わす余裕がある程度には度胸がある。頭の回転も悪くなく、だからと言って自己主張が激しいわけでもない。
エルナンドからすればまさに理想が詰め込まれた令嬢が目の間に突如現れたような感覚に陥っていた。
そんなエルナンドの事など分からず、曲の終わりを迎え、イライダは美しくお辞儀をする。ファーストダンスが終わってしまえば後は自由で、父が帰るまでの間は壁際で待っていようとそちらに向かうイライダはエルナンドが目で追っていた事など気付くはずもなかった。
「ふぅ、疲れましたわ」
「イライダ様!あの、控室ではありがとうございました」
「まあ、ナターシャ様。ふふ、素敵な挨拶でしたわ」
「イライダ様もです!」
デビュタントのファーストダンスが終わると、後は夜会と同じ雰囲気になる。初めての社交の場ではあるがイライダは悠然と笑っている。ナターシャはそんなイライダを見ながら、学園とは随分と違うなぁと感心する一方だ。
「それにしても、さすがオレーシャ様ですわ。沢山の方からダンスのお声掛けを頂いているようですね」
「本当です。私は子爵家なので、まあ想像してましたけど……」
「私も、サルディアス伯爵家の地味な方と言われていますから、まあお声掛けはされないと思ってますわ。このまま壁を彩る花の一輪にでもなろうかと」
「えぇ……イライダ様、こんなに可愛らしいのに」
「ありがとうございます。でもほら、よく見て。ナターシャ様を熱心に見ている方がいるわ」
「え?あ、えー!あの、あの人は、私の幼馴染なんです!」
「私と話しているから声を掛けていいのか悩んでいるようですね。私はあちらに行って飲み物を頂くので、ナターシャ様はゆっくりお話しくださいね」
「は、はい……」
ちらりとイライダが視線を向けた先にはナターシャだけを見ている男性がいる。少しだけ年上の彼はきっとナターシャのこのデビュタントを待っていたのだろう。ゆったりと歩き出したイライダと入れ替わるようにナターシャの傍に近寄ったその男性は何か声を掛け、そして手を差し出していた。
いいなぁと思いながら給仕からグラスを受け取ったイライダは、そのまま近くにあるテラスに出る。
明るすぎる光が近いせいで空の星は見えにくいが、その分庭園は見ることが出来る。王城の庭園は美しく整えられ、季節の花が惜しみなく咲き誇っているようだ。
暗がりの中でもわかる花を見ながら、ベンチに腰掛けたイライダはグラスを傾ける。デビュタントの令嬢にはお酒ではなく果実水を、というのが暗黙の了解だ。まだ何も知らない無垢な乙女が酒精に惑わされぬようにという配慮。それは裏を返せば起きてはならない事が起きたからという歴史を感じさせる。
爽やかですっきりとしたのど越しを感じる果実水に肩の力を抜く。思ったよりも緊張はしていたようだ。今日ばかりはあまり悪くは言われないだろうが、これから姉と共に社交の場に出ることがあるなら、きっと比較されるのだろう未来を感じる。
とは言えども、あの姉のことだからイライダを悪く言うような男など切り捨ててしまう事だろう。それが想像出来る程度には愛されている自信がある。
「隣、いいか?」
「まあ、殿下。休憩でいらっしゃいますの?先ほどはありがとうございました」
「そうだ。少しばかり休憩だ。こちらこそきちんとリード出来たか不安だったが」
「殿下のリードはとても安心出来ましたわ。鍛えられた体でいらっしゃいますでしょう?体幹がしっかりしていらっしゃるのでブレがありませんもの」
「確かに鍛えているが、分かるものなのか?」
「授業の一環でダンスをしていると、鍛えているかどうかすぐわかりますわ」
ふふ、と笑うイライダは全力を出した侍女たちの成果もあって十分に魅力的な姿を惜しみなく晒している。小柄で可愛らしい二つ年下の少女は興奮がまだ残っているようで仄かに顔が赤いままだ。エルナンドが隣に座る。少し離れた場所に座るのは親密な関係ではない相手への礼儀である。
「こんな素敵なデビュタントが出来てとても嬉しいです」
イライダは両親や兄から疎まれている自覚があったけれども、誰よりも美しい姉が三人纏めても足りないほどの愛情を注いでくれるから今のように育つことが出来た自覚がある。もしも彼女が見捨てていたら、周りには誰もおらず一人ぼっちで寂しく離れで暮らし、食事だって孤独が故に美味しさも感じずに食べる事すら放棄していたかもしれない。衣服だってサイズが合わないものを着ていたかもしれないし教養だって得られなかった。
全てはアドリアナのお陰であるからこそ、彼女の優しさに包まれたイライダは今日も笑っていられる。仮令誰に何を言われても姉の魔法の言葉があればなんてことは無いと思わされるのだ。
「イライダ嬢」
「はい」
「休憩が終わったらもう一度ダンスを申し込んでも?」
「まあ、光栄ですわ」
イライダは突出した美しさを持っていない。姉と並べば地味と思われる容姿である。しかし近くで見ていれば内面から滲み出る人の好さが表れた表情に気付けるだろう。くりっとした少し大き目な目にちょこんとついた鼻。口元は柔らかく弧を笑みの形で描いている。愛らしいと気付いた人間はどれだけいた事だろうか。
アドリアナの事だからドレスなどに注目させて本人の顔に気付かせない可能性はあるとエルナンドは思い返していたが、イライダにその内心を気付かれることは無かった。
姉が卒業してもイライダは地味でおとなしい化粧をして学園に通っていた。両親は無意味なのにと言っているが、貴族であれば通う場所であり唐突に辞めさせる理由もないので仕方なく通わせている状態である。
アドリアナにはひっきりなしに縁談の申し込みがあるけれども相変わらず両親は何一つとして許そうとはしない。ただの伯爵家にはもったいないほどの家柄から来ても、もっともっと上がと考えているようだ。アドリアナ自身はそんな両親をとっくに見切っているのだが、イライダが未だに学園に通っている以上は下手に行動が出来ないと耐えている状態である。
イライダが十八歳で学園の卒業も間近というある日、本邸で騒ぎが起きた。王家から縁談の申し込みがあったのだ。両親や兄からすれば遂にアドリアナが王族に見初められたのだと喜んだのだが、アドリアナだけはそんな彼らを思い切り馬鹿にしていた。
「何故、イライダに……」
「どうしてアドリアナではないの!」
呆然とする父と激昂する母を横目に、漸くあの奥手は動いたのかとアドリアナは安堵した。王家の使者を前に、何かの間違いではないか、アドリアナの方ではないのかと言い募る両親に、使者ははっきりと告げる。
「エルナンド第二王子殿下よりこの度の申し入れをさせていただいた相手は、イライダ=サルディアス令嬢に相違ございません」
「そんな……」
デビュタントのあの日、イライダのファーストダンスの相手をしたエルナンドがイライダを気にするようになったことを知っていたのはアドリアナだけだろう。それからというもの卒業するまでの間、エルナンドは学園にいるイライダの情報を集め、時にはアドリアナにすら探りを入れてきた。
少し気になる相手としてだけなら振り払っていた所だが、時間が経つほどにじわりじわりと執着じみたものを感じるようになったので、暴走しないように小出しで情報を与えるようになった。あのような手合いは抑圧され続けると碌でもない結果を生み出してしまうのだ。
アドリアナからすれば大事に育てた可愛い妹を王家になど渡したくないのだが、可憐で愛らしい妖精のような妹が見初められるのは当然とも思うわけで。
王家の使者より返答を促された当主である父親は、侍女にイライダを呼ばせに行った。その際にうっかりと「離れ」という言葉を出していしまい、使者が僅かに反応したのだがそれにはどうやら気付かなかったようだ。
数年ぶりに本邸に足を運んだイライダは、我が家でありながら全く見知らぬ場所のように侍女について行く。そうして訪れた応接間にて、数年ぶりに母や兄を見たのだけれども、ほとんど記憶が無いのですっと視線を逸らした。明らかに興味がないと言った様子に衝撃を受ける母と兄の姿を見てアドリアナはにんまりと笑う。
空いている席に座ったイライダは、父の震える声によって第二王子殿下から求婚されている事を知らされた。
「まあ、殿下が。使者様、殿下はお元気でいらっしゃいますか?」
「はい。恙無く日々をお過ごしになられております」
「学園に通っている頃は時折お話をして下さることもありました。あの時の思い出は今でも胸に残っております。わたくしとしましては、是非そのお話をお受けしたいと思っております」
両親など目にも入れず、まっすぐに使者を見つめるイライダ。あまりにもすんなりと受け入れているので流石にアドリアナも驚いたのだが、ちらりと視線を向けられて後で話を聞こうと決める。
王家からの申し込みは実質の決定事項である。どれだけ足掻こうとも望まれているのはイライダであり、アドリアナではない。最終的に当主である父はその申し出を受け入れた。
使者が帰ると同時にイライダは離れへと戻っていく。デビュタントの時にエスコートされたので父は認識しているが、母や兄は最早他人も同然である。イライダにとって家族とは姉だけを示す単語であった。
夕食を終えた頃合いでアドリアナが離れを訪れたので、イライダは笑顔で迎え入れる。
「あまり驚いていなかったわね」
「ええ。実は、殿下が学園に通っている頃、時折ガゼボでお会いする事がございまして。幾度か交流させていただいた後、卒業間近に殿下からお心を頂いたのです。私としてはこんなにも地味なので良いのかしらと思ったのですけど、殿下は私だからいいと言って下さったので」
「そう。知らない間にそこまでの関係になっていたのね」
奥手だとは思っていたけれどもそんなことは無く、あの王子はしっかりと準備をしていたようだ。第二王子と言えども婚約者に選ばれるのはそれなりの家格の人間でなくてはならない。それなのに許されたという事は何かしらを講じたという事だ。
「お姉様。今まで私を守って下さってありがとうございます。お姉様がいらっしゃらなければ私はここまで幸せで穏やかな生活は出来ませんでした」
「何を言っているの。私の可愛いイライダ。貴方は誰よりも可愛い私の妹よ。こんな家に生まれていなければきっと惜しみない親の愛情を与えられていたはずなのに」
「いいえ。私にとって大事なのはお姉様がいる事です。仮令どのような家に生まれてもお姉様がいなければ意味はありません」
ふわりと笑うイライダはやはり可憐な花のようで、思わず抱きしめる。アドリアナの背中に腕を回したイライダはきゅっと抱きしめて軽やかな笑い声をあげていた。
それから程なくして婚約は正式に結ばれた。だが、それは王家とサルディアス家としてではない。イライダは別の侯爵家の養子となってそこからエルナンドに嫁ぐことになった。その際、サルディアス家とはきっちりと縁を切るように画策したのはエルナンドであった。彼はアドリアナからサルディアス家がイライダにしてきた仕打ちを聞いており許すつもりは一切なかった。
そしてアドリアナ自身も別の公爵家の養子となった。彼女は隣国の王族から見初められて縁談を申し込まれたのだ。だが、サルディアス家は伯爵家でしかない。あまりにも家格が劣る為、公爵家の養子となる事で漸く隣国の王族に嫁げるようになった。
アドリアナを誰よりも尊い身分の方に嫁がせようと思っていた両親の願いは叶った。しかしアドリアナはサルディアス家として嫁ぐことは無かった。それだけでなく、ただアドリアナほどの美しさを持っていなかったというだけで生まれてからずっとイライダを冷遇してきたことはあっという間に社交界に広まり、両親と兄は肩身の狭い思いをする事になった。ただでさえ過剰なまでにアドリアナに金を注いでいた所為で財は殆どなく、破綻はしていないけれども裕福さとはかけ離れた生活をしなくてはならなくなった。
本来であれば隣国の王族に嫁いだアドリアナと自国の第二王子に嫁いだイライダという二人の生家ともなればそれなりの待遇を得られるはずなのに、その二人とは縁を切らされ残されたのは悪評だけであった。
第二王子と婚約が果たされるまでの間に幾度となく夜会などに出たイライダはその度に姉と比較されてきた。似ていない姉妹であるとそれは言われたものだ。
アドリアナは何時でも美しい装いをしており、ドレスだって最新のものを着ていて華やかであったが、イライダは着まわしているのだろうか似たようなドレスを着ていたし、そもそもそのドレスだって無難でおとなしいものであった。
故に社交界では二人の姉妹の違いに対して勝手な言葉が囁かれていたが、その姉妹は何も気にすることなく二人で楽しそうにしていた姿を目撃していた者は多い。
ところで、アドリアナは奇跡的に美しい顔として生まれたが、別に両親がアドリアナのような美しさを持っていたわけではない。それにイライダとてこれまでの社交の場で見ていたものは何だったのかと言わんばかりに、第二王子と婚約をした後に出るようになった夜会では可愛らしさが前面に出ていた。
そこで漸く周りは気付かされたのだ。あの地味で控えめで冴えない姿は敢えてそのようにされていたのだと。あれだけ美しいアドリアナをより魅力的に輝かせることの出来る侍女がいるのだから、イライダにだってそれが出来たはずだ。だがその逆に敢えて目立たないようにさせられていたのは、彼女へ簡単に触れさせない為の誰かの策であったと。
アドリアナに「二年前には既に殿下からイライダに御心が渡されていたので、他の殿方に見初められないようにあの姿でいたのですわ」と言われたら察するしかない。アドリアナと第二王子によって入念に隠されていたイライダが本来のあるべき姿を取り戻した時、その愛らしさに同じ学園へ同時期に通っていた子息達は衝撃を受けた。あれ程までに可愛らしいとは誰も想像していなかった。それどころかアドリアナと比べては見下していたというのに。
イライダの数少ない友人はイライダの可愛らしさを十分に理解していたので、漸く、という気持ちで一杯だった。なお、その中の一人がイライダの養子先である。彼女の置かれている立場を知り、そして第二王子との婚約をするにあたっての養子先を探していると聞き及んで真っ先に手を挙げたのだ。
可愛らしいイライダを友人としてではなく姉妹として愛でることが出来る立場を得たその令嬢は、他の友人達に嫉妬されたが高笑いをしていたそうだ。
何はともあれ、イライダは両親と兄には愛されることが無かったけれども、アドリアナという最愛の姉の元で恵まれた環境で育ち、ついには思い合える人と結婚する事が出来た。
「わたくしの幸せは、今は隣国の王妃となっている姉から惜しみない愛を注がれた事でしょう。生活に不自由をしたことは確かにございません。ですが、両親と兄からの無関心は幼心にきっと傷付いていたと思うのです。ですが、それを覆い隠すほどの姉の愛情にわたくしは救われたのです」
時に姉への愛が深すぎて夫が嫉妬する姿を見せたが、その度にイライダはころころと笑って夫を慰めているという話は、社交界の微笑ましい夫婦のエピソードとしてあっという間に広まった。