風の消える場所4
魔術師の塔の地下にある精霊の間は、本来の姿をとった竜がその体を休めることができる十分な広さ、高さが確保された、巨大な空間だった。
丁寧に石が敷き詰められたその暗い床を、この空間の主人であるレンはためらいがちに踏みしめた。
明かりはない。竜は本来、明かりを必要とすることはないのだ。
暗闇は彼にとって視界を妨げるものではなく、ただ彼を静かに包むやすらぎであった。
彼女に救われてからは。
だが、それも20年前を機に、再び彼を苛むものとなった。
ここに足を踏み入れたときからその額にはうっすらと汗が滲んでいた。
時間が経つごとに、見えない何かが触手を伸ばし、肺の奥まで侵食してくるような錯覚を覚え、息苦しくなる。
それでも彼はそこに留まりじっと気配を探っていた。
はるか彼方の地底、そして空の彼方でもある、『どこにも存在しないはずの場所』にいるはずの、ひとつの存在を。
「ハル?ハル、聞こえているんだろう?」
問いかけた声は、発した途端に闇へ吸い込まれていく。
「サナエを通してみているはずだ。どうして姿を現さない?」
空間の密度が増したように感じて、思わず腰を折った。
胸に湧き上がる不快感も増していく。
「それとも、現せないのか?あの時の封印は、まだ効力があるのか?」
パチン!光の閉ざされた空間に突如、火花が散った。
耳元をかするように弾けたその火は、刃となり、レンの頬を切り裂いた。
あぁ、とレンは笑った。頬を歪ませて。
「俺を憎んでいるんだな」
安堵が滲んだその声は、闇の奥深くに沈むその存在の機嫌を損ねたらしい。
もう一度、先ほどよりも威力を増した炎が現れる。
襲い掛かろうとしたそれを、レンは片手で握りつぶした。
「そうだ、ハル。俺を憎めよ。お前の相手は、俺だ」
相手が投げた炎を糸に、その気配を手繰っていく。
そしてその先にいる相手へと、レンは封印を施す深い深い闇を一気に流しこんだ。
***
「あなたが作らせる衣装は、どれも独特ね。かといって奇抜すぎるわけでもなしに」
身支度をしていたサナエの部屋に突如やってきたラフィーネは、部屋の片隅を埋め尽くす山積みになった衣装箱のなかを覗き込みながら、感心した様子で言った。
ラフィーネは今夜の夜会に監視役として付き添うつもりらしい。すっかりと身支度を整えた彼女は同性から見ても惚れ惚れとするほど、美しかった。
襲撃者をあぶりだすための仕掛けも大詰めとなり、最後の舞台が設定された今、サナエにとって今夜の夜会はそれほど重要なものではなかった。だからこそライアスも姉の申し出を容認したのだろう。
「その濃紺の色合いも肌を引き立ててる。自分に似合うものがわかってるのね」
手放しの褒めようだが、それを言うラフィーネの声は決して明るくない。
「年齢も年齢ですから、自分に無理なく着れるものが何かくらいは。ラフィーネさまほどお美しければ、何を着てもお似合いになるでしょうけれど」
「本心で言ってるの?ってその顔は邪気がないのよね。図々しいかと思えば無邪気だし、意味がわからないわ」
「本心ですよ。今日お召しになっているドレスもお似合いですし。ラフィーネさま?」
ふう、と一息ついたラフィーネは複雑な笑顔を見せた。
「うちの家系が見栄えがするのは確かよ。でも貴女みたいに自分に似合うものを知っているって、私からしたらうらやましいことだわ。ひとつの才能よ」
サナエは言葉が継げなかった。
ここのところ楽な魔術師の格好を避け、屋敷のなかでも『贅沢を好む観察者』の装いを徹底していたサナエのことを、傍から見ているラフィーネはさぞ臍をかむ思いで見ていたことだろう。
そう思っていた。だが。
『君が誤解されているんじゃないかと随分気をもんでいたらしい』
ふと、ライアスの言葉がよみがえってきた。
そして彼はこうも言ったのだ。本当のことを打ち明けてみたらどうか、と。
同性でも見蕩れるほど美しく、家族が慄くほど気が強く、そして本当はどこまでも優しいこの人は、きっとサナエが真実を話せば受け止めてくれるのだろう。
なんて人だろう。サナエは泣きたい気持ちを押し隠し、髪を整えるふりをした。
「あら、この腕輪、今日はしないの?」
繊細な絹の生地を傷めないようはずしておいた黒曜石の腕輪をふと取り上げてラフィーネは光にかざした。
「綺麗な石よね。漆黒を美しいと思ったのは初めてだわ」
裏のない称賛に、サナエは頬をゆるませた。これを与えてくれた友人はすぐ外にいるはずだ。
いつもそばで見守ってくれる、かわいい竜。
どこか誇らしい気持ちで微笑んだサナエは、ほんの思いつきでひとつの提案をした。
「でも、貴女の大切なものじゃないの?」
「えぇ、ですが、今日の新緑のお召し物に似合うと思います。よかったら、今日一日だけ」
戸惑って返そうとしてラフィーネの手を、サナエはそっと止めて微笑んだ。
彼女の真心に報いることができることがあるならば、せめてそれをしたかった。
本当のことを打ち明けられないのは、自分の弱さでしかないことを、サナエは痛いほど感じていた。
***
社交界の華と謳われたアルヴァーソン家の姉妹。
妹姫ははかなくも世を去ったが、姉姫のその美しさと、気の強さを知る貴族たちは、嫁いでから社交界を離れていた彼女が、突如その夜観察者に張り付くように夜会へやってきたのは、実家の財を食いつぶし、名声を地に落とすばかりの弟の婚約者を監視することにあると信じて疑わなかった。
そもそもが、今夜の宴は、アルヴァーソン家の不幸に乗じて勢力をのばしていると悪評高いカーモディ家が主催である。
カーモディ家かつては軍閥として力を蓄えてきた貴族だったが、ここ数代は将軍を出すこともなく、貿易で莫大な利を得ていた。
そこにアルヴァーソン家の嫡男と婚約をしている観察者が現れるというのだから、人々の耳目を集めないわけがない。
「相変わらず嫌な感じね」
不躾な視線はないが、絶えずこちらを窺う気配に、ラフィーネは我慢ならないらしい。
誰よりも社交界が似合う彼女は、けれどまっすぐな気性ゆえに、こういう場が何よりも嫌いだった。
サナエの監視をという意気込みで仕度をしたものの、いつの間にか削がれていた気勢に、早くも着いてきたことを後悔しているようだった。
「お姉さま、私は少ししたらすぐに帰りますから、よろしければ先に戻られていてくださいな」
取り巻きに囲まれ談笑していたサナエは、周りの目を意識しながらラフィーネにそっと声をかけた。
「あなたちっとも楽しそうに見えないわよ」
耳元に顔を寄せたラフィーネが囁く。
サナエはふっと目元をゆるませ、素早く答えた。
「それを知っているのはラフィーネさまだけです」
軽く目を剥いたラフィーネは、共犯者のような顔で笑うとその場を去っていった。
ひとりになってからもサナエは不自然にならない程度に周囲と話をあわせつつ、退席の機会を図っていた。
そこに一際目立つ青年が二人、人の群れを泳ぐように縫ってサナエの前に躍り出た。
「これはこれは観察者様」
「ようこそおいでくださいました」同じような背丈にそっくりの顔。ハルシオンの社交界で知らぬ者はいない、カーモディ家の双子。
サナエとはこれまでの夜会で数度顔を合わせたことがあり、そして既にグウェンの隠れた審査に通っている人物たちだ。
もちろん当人たちはそんな審査にかけられていたことなど、露ほども知らないが。
「ジョエルにジョアン。お招きいただいてありがとう。素敵な夜会ね、こちらの建物も」
「この屋敷は曾祖父が武勲をたてたときに下賜された由緒ある建物でして」
「いや、もうひと世代前のおじいさまだ」
「まあいいさ。どちらにしろ俺たちとは似ても似つかない将軍様だ」
顔は同じでも几帳面なジョアンと奔放なジョエルでは、性格がまったく違う。
それがこの双子の面白いところだった。
「川岸に建つお屋敷は珍しいわね。水の音が涼やかだわ」
「あの清流は北の山脈から流れてきていましてね、この辺りではうまい酒が作れるのですよ」
サナエはにっこりと微笑んでジョエルから華奢なグラスを受け取り、その香りを楽しんだあと、ゆったりとした動作で口に含んだ。
醸造されたぶどう酒はサナエの知る世界のそれと同じもの。
「今日のサナエ様はいつにも増して美しいですね」
そつなく褒めるジョエルの後を続けたのは、小首をかしげてサナエをじっと観察していたジョアンだった。
「貴女のドレスはどこか新しく感じます。その胸元の刺繍は特に繊細ですね」
「おいおいジョアン、妹じゃないんだぞ、女性の胸元をあからさまに見るな」
「ローレル地方の伝統的な刺繍の模様に似ていますが。あぁ、やはり。この使い方は珍しい。色合いといい、東方の姫たちが欲しがりそうだ。戴冠式では各国の王族が集まりますから、サナエ様のお召し物は話題を集めますよ」
「聞いてないな。サナエ様、申し訳ございません」
「いいえ。褒めていただいてありがとう。あなた方の物を見る目は確かだと聞いているから私も嬉しいわ」
冷静に賛辞を受け止め微笑むサナエに、ジョエルはふと周りを見渡して問うた。
「そういえば、さきほどまでラフィーネ様もいらしていたのでは?お姿が見えませんが」
「少し前に先に帰られたの。ライアスも地方で起きたという小競り合いに狩り出されてしまったし、今日は何だか気がのらないわ」
申し訳ないけれど、と辞意を口にしようとしたサナエをよそに、ジョアンとジョエルは顔を見合わせ、小さく頷いた。
それでしたら、とさりげなくサナエを人の群れから避けるよう誘導する。
「少し、お話をさせていただいても?」
「何かしら?」
「ここでは少し。部屋を用意させますのでそちらで。お時間は取らせません、以前からお話をさせていただきたいと思っていたことがあったのです。私たちの仕事にかかわることと、われわれの妹のことで」
何気ない風を装っていたジョエルだが、最後の部分は意識的に低めた声で囁いた。
いもうと、と口のなかで反復するサナエに、まじめな表情のジョアンが、えぇ、と深く頷き言った。
「貴女に仕えていた、サラのことです」




