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海と空の境界。  作者: 水無月
39/42

風の消える場所2

「面倒なことになってしまってすまない」

朝一番にサナエに与えられた部屋へ現れるなり、ライアスはその端正な顔で苦笑した。

「あんな人だが、本当は君が誤解をされてあんな噂をたてられたんだろうと、随分気をもんでいたらしい。昨日の姿からは信じられないかもしれないけどね」

「そんなことないわ。私、ラフィーネさんみたいな人、好きよ。家族思いで優しい方ね。最近貴族の奥方たちと上っ面の会話ばかりしていたから、むしろ楽しかったわ」

つい思い出して口元が綻ぶサナエに、ライアスがなんとも言えない顔をした。

「君は大物だね。姉の勢いを間近にしても、不快を感じているようには見えなかった」

「不快になるはずなんてないわ。まっすぐぶつかってくれる人は、今の私には貴重なの」

騙したい相手以外からも誤解をうけるだろうことは覚悟の上だった。

唐突に現われたラフィーネは、天を突き抜けるほどまっすぐでそれがサナエにはとても眩しく、好ましく映ったのだ。

美しい人。その容姿も気性も。

彼女たちの妹もそうだったのだろうか、ふと思考に捕らわれそうになったサナエを引き戻したのは、一ついいかい?と遠慮がちにかけられたライアスの声だった。

「もしよかったら、姉上に真実を話してみたらどうだい?人に誤解されたままというのも辛いだろう?それに、姉上は君の力になることも厭わないはずだ」

彼の真心から出たのであろう提案は、サナエにとって魅力的だった。

それでも。

誤解の元となる噂を流したのはほかならぬ自分自身なのだ。

誤解を解いてまわるのは今やるべきことではない。そもそも、理解を求める相手とそれ以外、そのボーダーを曖昧にしたらこの心はどこに置けばいいというのか。

それに、とサナエは心の中で苦笑する。

これ以上、誰かに心を開いて傷つくのは、耐えられそうになかった。

黙って首を横に振ったサナエに、ライアスは何かを堪えるようにやさしく微笑みそれ以上は何も言わなかった。



**

王都の一角。

神の棲む国として名高いこの国の王都には、人が耐えない。

折りしも時期国王となる第一王子の戴冠式が近いとなれば、その混雑はこれまでにないものだった。

見えない熱気に浮かされた街に、ほっそりとしたしなやかな体を平民の服につつんだ青年が二人歩いていた。

銀に近い白色の髪が特徴的な青年がぽつりと呟いた。

「思ったよりも影が薄いな」

「え?殿下なんですか?」

間抜け顔で振り仰いだ従者の頭に拳骨を落とす。

ふぎゃ!といつもながらの声を上げるまだ子供の域を出ない顔立ちの少年に、彼は顔を寄せて凄んだ。

「そう呼ぶなって言ってるだろ」

「わー、すいません、アニキ!えっと、それで何て言ったんですか?」

「お前は気にしなくていい」

ひとつの町が消えたというのに人々に動揺がない。

「というより、知らないのか」

それにしても、と彼は思う。

民に公表できない力など、王家にとっては害でしかない。

「操りきれぬほどの力など持たない方が得策だな。ざまぁみろ」お前も苦労すればいいんだ、エスター。

その言葉は飲み込んで、彼は薄く笑った。

「おい、そろそろ行くぞ。客が待ってる」

「でん、アニキ、本当にあの怪しい男のところへ行くんですか?危ないですよ、あいつの目いっちゃってましたよ」

泣きそうになりながら必死にとめようとする従者に振り向くと、彼はその目を覗き込んだ。

「だから、行くんだよ」

常軌を逸した目をした男が持つ暗い罠。

その目は、まるで自身を鏡で見ているようだった。

「まぁお前は気にするな。いやだったら先に禿げ大使んとこへ行ってろ」

「あっちも怖いっす!!」


**


ともすれば沈んでいきそうな心を抱えたサナエの部屋の扉が再び叩かれたのは、昼食の準備が始まる少し前のこと。

開いた扉の向こうにいた意外な相手を、サナエは大きく瞬きをしてむかえた。

「世間話をしにきました」

「槍でも降ってきそう。どうぞ入って」

この国で最も多忙であるはず宰相とは襲撃の背後関係を洗うという目的において協力関係にはあったが、本来の政務に加え戴冠式への準備のため多忙を極めるグウェンとサナエが顔を合わせることはほとんどなく過ごしていた。

サナエ手ずから茶器を扱う様子をおとなしく見ていたグウェンは、さりげない様子で口を開いた。

「侍女は置かれていないのですね」

「まあね。もともと庶民だもの。かえって気楽でいいわ」

その言葉通り、危なげない手つきで暖かい湯気のたつ杯を差し出す姿は、先日まで王妃の間に滞在していた王妃候補というよりも、どこかの町娘そのままだ。

甘い香りの立ち上る棗茶を手に取り口火を切ろうとしたグウェンを制するように、笑みを深めたサナエが顔を上げた。

「謝罪ならいらないわよ」

思わず開きかけた口を噤む。

どうして町娘などと思えたというのか。この相手が一筋縄でいかない存在だということは苦いほど身に染みているというのに。


サナエが王宮を離れたことは、結果的にことを企む側に好機を与えた。

内通者が誰であれ、突然観察者が居を移すことになったことによる警護の隙を突かれたのは事実だ。

「王宮に留まっていればあの夜の襲撃は避けられただろうけど、内通者を身近に置いたままただ日を重ねていっただけだもの。いずれかの段階で、起こっていたことだわ」

淡々としたサナエの声は感情を感じさせない。

黙って聞いていたグウェンは深い息とともに、貴女らしい、と呟いた。

「そう、だからこれはただの愚痴なんだけどね。それでもたまに思うことがあるの。あの夜、あなたが訪ねてきたとき、拒否しておけばよかったのかって」

微妙に向けられた先が違うことに、聡い男はすぐに気づいていた。

「エスター殿下の気持ちに応える覚悟があったと?」

「少なくとも、あてつけるように出てくる必要はなかったわ」

王宮を出てほしい。それもアルヴァーソン家に嫁ぐ形で。

エスターの気持ちを踏みにじることになることは、グウェンにとって躊躇う動機にはならなかった。

失望すればいい、観察者という存在に、より深く。

残酷であろうと、目的を忘れるわけにはいかないのだ。

なすべきことのために代償は必要であり、それが主君の感情であろうと、躊躇う必要がどこにあるのか。

「あなたは誤解してる。彼は私を気に入っているのかもしれない。けれどそれは一時的な感情よ。珍しい存在に興味を抱いただけ」

「夜会のあと、エスター殿下がここに来たのは予想外でした」

「ね?取り上げられた玩具は、魅力的に見えるものなのよ。そのおかげで命拾いしたけれど」

「それでも、今までどんなものにも興味を引かれることのなかった方です。関心を持つ時点で、殿下にとって貴女は特別な存在だ」

どうかしらね、そう言って肩を竦める姿は、普段年齢よりも幼く見える分、彼女を大人びて見せた。

「ところで、謝罪にきたわけじゃないなら、ひとつ教えて欲しいんだけど」

顔を上げたサナエの前で、グウェンは表情の読めない顔を崩さず、黙って眉をあげた。

サナエは少し考えてから言葉を紡ぎ始めた。

「ハルシオン神は今眠っているのでしょう?目覚めているときは、誰でも姿が見えるの?」

「力を行使するときにのみ、姿を現すといわれています」

力を行使するとき、口の中で呟いて、サナエは問うた。

「つまり、罰を下すときには姿が見えるということ?それは、恐怖の対象になりそうなものだけど」

「だからこそ、この国は存在が異彩であるのです。畏怖と尊敬は、人を萎縮させ、執政が容易くなるのですよ。もちろん、外交においても」

「あけすけな言葉ね」

「貴女を相手に取り繕う必要が?」

ふ、とグウェンはその頑なな目元をほんのわずかに緩めた。


核心に触れることのない雑談を続けていたが、そろそろ戻ります、と言って席を立ったグウェンの動作でその時間も終わりを告げた。サナエはどこかこれまでとは違う棘のない空気を感じながら、率直に問いかけた。

「結局、今日は何の話だったわけ?」

「あぁ、仕上げの準備が整いました。この招待状にある場所へ行かれてください」

蝋で封がされた招待状を差し出しながら、グウェンが事も無げに言う。

受け取った白い封筒に目を落とし、サナエはひとつ深呼吸をした。

「これで、はっきりするのね」

「そうならなければ困ります。これまでにかかった費用の元をとるためにも」

そうね、と笑うサナエにうなずいて、グウェンは扉に手をかけ、小さく言葉を落とした。

サナエに聞こえないほどの声で。

「謝罪は、次回にします」

これから起きることを考えると、まだ彼女に許しを請うことはできなかった。

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