心の在り処6
ルーカスはここのところ疲れていた。主に精神的に。
隣国からの特使には見えぬよう小さく嘆息をつく。
戴冠式には各国の要人が数多く出席する。その日まではまだ時間があるが、各国との交流を目的として特使たちが早々に集まりつつあった。
隣国からやってきた目端の鋭い中年男がエスターに挨拶をする間、ルーカスはきりきりとした胃を押さえていた。
あとしばらく辛抱すれば、事務方の政務官との協議になる。そうすればエスターとルーカスは席をはずせるのだが。
宰相のグウェンは戴冠式に向けた準備にかかりきり、従者であるデュランはこんな時期に休暇という。
「デュランはこんな時期にどこへ行ったのですか?私には兄上の補佐役などつとまりませんよ」
「諦めろ」
ついもらした愚痴に、兄の言葉は短かった。
王宮内、ことにエスターのまわりでは観察者たるサナエの話題は禁句になっているが、特使としてやってきた彼らの関心がそこへ向かないはずはない。
この大陸のどこを見渡しても、神が実在し、その加護を受ける国というのはハルシオンのほか例を見ない。独特の宗教観はその存在をして周辺国への威嚇ともなり、また大陸の宗主国としての存在感を強める効果をも発している。
そのハルシオンに観察者と呼ばれる神の御遣いがやってきたという知らせはすでに周辺国へも届いていた。
サナエが王宮を離れてからエスターが激しく激昂するだろうと思っていたルーカスは、表面上変わった様子を見せないエスターに意外な思いを抱いた。
そしてやはり彼女を近くに置いていたのは気まぐれだったのだと知り、なんとも形容しがたい気分になった。
ルーカスは初めてサナエに会ったとき、観察者を心待ちにしていた自分を恥じた。
一人の女性の人生を見知らぬ国のために奪おうというのだ。退路を断った上で。
騎士道精神とは相容れぬが、それでも王家の一員としての役目を優先させるしかない。
だからこそできる限りのことをしよう、というのは彼らなりの罪滅ぼしでもあった。
前任の観察者は、貴族たちへの影響力を強く持っていたらしいが、サナエの様子から、ルーカスはサナエが離宮での生活を選ぶことを察していた。
それならば、たまに時間を作って彼女の世界の話を聞きにいくこともできるだろうか。
ルーカスの漠然とした想像は、サナエが自身の世界について語ることを拒否したことで砕かれたが、それでも彼は長い時間をかけて彼女の心を溶かしていきたいと思っていた。
それを完全に打ち砕くことになったのは、兄であるエスターが強引にサナエを王宮に迎えいれたためで。
「・・つきましては、ぜひとも神の御遣いたる観察者様に拝謁させていただきたく・・」
特使の言葉を聞き落とすところだった、とルーカスは身を正した。
「観察者殿は現在王宮を離れている」
にべもない第二王子の発言に、特使は遜ったままエスターに目をうつした。
「それはそれは…、どちらにいらっしゃるのでしょうか?わが国はハルシオン国の盟友、是非にご挨拶をさせていただきたく存じます」
たぬきめ、とルーカスは胸中で舌を打った。
ルーカスの知るサナエとはかけ離れていて信じる気にはなれないが、王宮を離れた観察者が、日夜贅をつくし、貴族の屋敷で行われる夜会にも頻繁に顔を出していることは、市井にまで広まっている。
隣国は軍部が成長して数代前に王代わりをした軍事大国だ。
筋の通らぬことも鉄を叩くように通してしまうという評判は伊達ではない。
ハルシオンはその独特の存在から彼らの歯牙にはかからず、またその矛先もこちらを向いてはいないと貴族たちは考えているが、エスターたちは事態をそこまで楽観視していなかった。
血の気の多い獅子の気まぐれは、いつ何を引き起こすのかわからない。
その特使の要望を穏便に断ろうと策をねりながら口を開いたルーカスを遮って、
「何もそう焦ることはあるまい。戴冠式後の夜会にはあれも出席する。それとも他国を差し置いて話しておきたい理由でも?」と、エスターが冷たく嗤った。
謁見の間に小さな波が立つようにさざめく。
「まさか」
特使が大げさに驚いた風を装う。
不快をあらわにするかと思えたが、そこは外交の場、微笑みながら礼をとった。
「では夜会でお会いできることを心待ちにいたすとしましょう。戴冠式の前日にはわが国のタリエンティ殿下もいらっしゃいます。殿下もその方にお会いできるのを楽しみにされておりますゆえ」
にこやかに笑う特使に、先ほどの発言が実現されないことを見越して駄目元で投げかけられたものであったことを察し、ルーカスは安堵した。
執務室に戻るエスターの後ろを歩きながら、ルーカスはまだ胃を押えていた。
「昼飯は食ったのか?」
「いえ、食欲がなくて」
「若い娘のようなことを言うな。食わないともたないぞ」
はぁ、とルーカスは苦笑した。
なんだかんだ言いながら、この兄は自分には甘いのだ。
その兄の背がくつくつと笑いをこらえるように揺れた。
「タリエンティが来るか。楽しみだ」
「兄上、本気で仰っているのですか?」
「知れたことを」
ですよね、とルーカスは引きつる頬を意思の力で抑えた。
更に胃が絞られるように感じて息を吐く。
隣国アッティアの王子、タリエンティは若獅子という通り名を持つ血気盛んな軍人で、ハルシオンの次期国王、つまりエスターとは犬猿の仲でもあった。
「デュランの休暇先に迎えを出したい…」
弟の切なる呟きにエスターは片頬を上げただけで何も言わずに立ち去った。




