心の在り処5
ハルシオンを守護する竜のことはこの国に住む民ならば誰でも知っている。
しかし神の加護が深いとされるこの国にあっても、神話のような存在であることに違いはなかった。
王都に程近い神山に棲むとされている竜を、朝焼けの空に、夜更けの空に、一日の始め、眠る前のひととき、偶然に見上げた空でその美しい鱗の煌きを目の端に止めることができれば、それだけで王都の民は幸せな気分に浸れるのだった。
偶然の邂逅が尊く感じる稀少な存在、そのはずが。
最近では王都の一角、大貴族の邸に棲みついたらしいという噂が広まっていた。
人通りの多い道に面しているこの酒場は、安くてうまい手料理を食わせると評判で、古くからの馴染みも遠方から王都へとやってくる旅人の利用も耐えず繁盛している。
今日も近くの店主たちがまだ日も暮れぬうちから集まり、つまみに舌鼓を打ちながらちびちびと杯をあけていた。
早い時間とあってまだ店の中は馴染みの三人組のほかは学生風の青年がいる以外客の姿は見えない。
中年男の三人組のひとりが、白い口髭に蒸留酒の泡をつけたまま連れに聞いた。
「おい、例のあれ、もう見に行ったか?」
「うんにゃ。だがうちのかみさんは昨日行ってきたぞ。大貴族様のお屋敷じゃあ無駄だって言ったんだが。やっぱり見れなかったとさ」
酒樽のような男がざまあみろだ、と笑った。薄くなった頭を掻きながら残る一人は「なんだそうなのか」とつまらなそうに酒を継ぎ足す。
「まぁ守護竜様を一目拝めるとなりゃぁ、人足も絶えんだろうさ。近くで商売を始めたいくらいだね」
「やめとけやめとけ。とっつかまるぞ」
人の集まるところには商機がある。根っからの商人である彼らにとって垂涎の的であることは事実だが、
貴族街に屋台でも出した日には、警邏にすぐつかまるのがオチだった。
「それにしても神山に暮らしてたはずの竜がなんだって最近は王都に棲みついたんだ?」
「そりゃあなぁ…」
酒樽男の発言に後の二人は顔を見合わせ、声を潜めた。
「聞いたか?王都の仕立て屋はいまてんてこ舞いらしいぞ。目が潰れるような煌びやかな夜会服をそりゃもうたくさん仕立てさせてるんだとさ。俺のとこも仕立て屋だったらなぁ!」
「八百屋に武器屋に乾物屋じゃぁ縁がないのも仕方ねえや。気に入らない宝飾細工の職人を片っ端から出入り禁止にしてるって聞いたぞ。関わらないのが一番さ」
「おれんとこの母ちゃんなんか、たまには自分にも首飾りくらい買えって言い出してたまんねぇよ」
「守護竜様を従えてるから誰も逆らえないんだろう」
「そりゃそうさ!神の御使いでしかも竜を従えてるなんざとんでもねぇ!逆らったらどうなるやら…」
「大層我侭で、たまりかねた王家が公爵家に投げ出したらしいじゃないか」
「アルヴァーソンのご子息もかわいそうになぁ。妹姫を事故で亡くされて以来遠方に行っていたんだろう。それが今度の観察者の預け先ってんで静養先から呼び戻されたっていうんだ。とんだ災難だな」
「まぁ、観察者様だからな。下手なところには預けられまいよ」
「そうだなぁ、なんせ神様の御使いだからなぁ」
うんうん、といいながら杯に酒を満たす。
と、そこに湯気のたった大皿が卓に叩きつけられた。
「ちょっとあんたたち、お天道さまがまだあがってるうちから酒飲んで、観察者様の悪口なんか言ってたらそれこそ天罰がくだるよ!」
「なんだよ女将。こええなぁ。お前さんだって色んな噂を聞いてるんじゃないかい?」
「あたしにゃ関係のない世界さ」
「そう言っても気になるじゃねえか。ことは神の御使い様の話だぜ?」
「だからだよ。神様の目になってあたしらを守ってくださっているんだ。そんな方の悪口なんて言えるもんじゃないさ」
ぐ、と男達は口を噤んだ。
「それよりあんたたちは奥方連に観察者様のひとかけらぶんでも贈り物をしてやるんだね。このかいしょなし!」
三人はしゅん、と小さくなって、そのあとはさらにちびちびと酒杯をあけて帰っていった。
大貴族の邸に棲みついた竜。その噂とともに囁かれるのは、未だ国民の前には姿を現さない観察者の存在だった。
***
仕立て屋のドルティはここのところある夜会服の制作にかかりきりだった。
今日も通いの針子を総動員して工房に詰めている。
「違う違う!ここの透かし模様は大胆なものがいいんだ。繊細なものからつなげて大柄に、これみたいにな」
ひとつの衣装を手にとって、その裾を指した。
「ですが親方、この透かし模様は伝統的なものですけど、胸元にあしらったことはございませんよ」
「いいんだ。お客様からの要望だからな」
「足元はどうします?」
「広がらせずに、小さな泉のようなゆったりとしたひだを作れ」
「そんなぁ!私たちには無理ですよぉ!なんでそんな無茶な注文聞いてくるんです」
「無茶なもんか。俺がやるから貸せ!」
「観察者様は随分と変わった服を作られるんですねぇ。あたしらには想像ができませんよ」
「馬鹿言うな。この服が出来上がれば素晴らしいものになるぞ」
鼻息も荒く満足気に頷く姿に、お針子たちは顔を見合わせた。
「とにかく納期まで時間がないんだ!手を動かしておくれ!」
ドルティは手を叩くと、詳細を確認するために紙面に目を落とした。そこには、必要な枚数、色の指定、予算などが細かく書きこまれている。
観察者から仕立の依頼を受けたものは皆、これを受け取っているはずだ。型の粗描と一緒に注文の一切を書き込み、最後に観察者と仕立屋の署名が並んでいる。
注文を過たず、またその型を外に洩らさないという同意書を兼ねていた。
戴冠式目前になったこともありここのところ納品する一方で受注が下火になっていた仕立屋たちには、今回の観察者の行動は嬉しい悲鳴だった。
「大した商人だね、あの方は」
清々しく笑うと、ドルティはその見かけにそぐわず繊細なものを作り出す職人の手をせっせと動かし始めた。




