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海と空の境界。  作者: 水無月
33/42

心の在り処3

蝋燭の火が揺れる。

その傍らにひとり、佇む女がいた。

「そう、失敗したの…」

小さな硝子箱に浮かび上がった文字を見て呟いた言葉は静かで、底が知れない冷たさを伴っていた。

消えていく文字をそっと指でなぞり、彼女は笑った。

「あの方が守ってくださったなんて、つくづく運の良い女。さあ、次はどうしようかしら」

愉しそうな笑みがその白い頬に広がる。

彼女はいま、確かに幸せそうに見えた。


***

エスターは舌打ちした。偵察に行ったレンがこんなにも早く戻るとは思わなかったということもあるが、自分と同様、サナエに執着する存在を失念していたことは、

自覚するよりも動揺が大きかったからに他ならない。

レンがただならぬ怒りを持っていることは瞭然だった。

「だいたいさ、お前がきたところで何の抑止力になるっていうの。前の観察者の類縁だからって俺が手加減するとでも思うなら、どうしようもない馬鹿だね」

「殿下に手をだすな。今回のこれは殿下の失態ではないだろう。あたるのも殺すのもライアスにしろ」

まっすぐに睨まれながら、レンは鼻で笑った。

「王家に忠実なお前らしい」

「殿下はサナエ殿を守っただろうが。取り違えるな」


「怪我をさせなかったら傷つけていないとでも?こんな事態を招いたのは誰?身内を管理できないのは力量不足以外に何かある?」

「グウェン殿、その方はもしや」

「なんだライアス、知らないわけはないだろう。この国の竜だ」

「お前の無礼さに驚いているんでしょ。あんた、アルヴァーソンの息子だよね。面白いことがあったって聞いたよ、今夜の夜会」

「それは…」

エスターをちらりと見てレンは薄く笑った。

「で、奪われた花嫁を取り返しにきたってわけ?情けないね」

「恐れながら守護竜殿、殿下がいらしたおかげでサナエは無事だったのです。屋敷への侵入があったのは私の責任です」

「黙ってなよ、お前の責任を不問にするつもりもないから安心しな」

視線すら合わされずに切り捨てられたライアスは、静かな迫力にのまれ沈黙した。

サナエは?

と部屋を見渡したレンは、誰の答えも待たずに浴室へ続く扉で視線をとめた。

馴染み深いサナエの気配を辿ることは容易なのだろう。

つられるように視線の先を辿うと、グウェンは目を伏せた。

沈黙を続ける扉が開く気配は、いまだない。

エスター、と凍りつく冷気のような声でレンが呼びかけた。

「死ぬ気で守れと俺は言ったはずだよね?」

「言い訳はしない」

「俺は、今最高に機嫌が悪い。どう責任をとってもらおうかな。命であがなう?」

「お前の好きにすればいい、だが今は待て。あいつを狙った相手を見つける」

「へえ、見つけたら殺していいってこと?殊勝だね」

「殿下!」

「あいつの身辺に置く人間について俺がもっと慎重になるべきだった」

戴冠式を目前に控えたエスターに対し、どんな小さな芽を使ってでも足を掬おうとする輩がいることはここにいる誰もが認識していることだった。

エスターはふと目をあげた。

「それでそっちはどうだったんだ?」

レンが西へ向かってから、何かが起きることは予想していた。

エスターの問いかけに、すっとレンの顔から表情が抜け落ちるのを見て、腹の底が冷えていく。

「消えていた」

「なんと、言った?」

「西の街が消えてた。何が行われていたのかは、まだわからない。痕跡ごと消えていた」

「目を覚ましたのか」


最悪の事態を想定し、頭を奮う。

だがレンは否定した。

「覚醒はしていない。どうやってか、サナエの表層意識を借りて干渉しようとはしているけれど」

枷が外れたわけではないのにこれだけのことをしたからには、かなりの無理を押したはず。またしばらくは動けないだろう、というレンの言葉に、三人は安堵よりも懸念を露にした顔で黙りこんだ。

「殿下、このことは伏せましょう。特にサナエ殿には」

常日頃冷静なグウェンも今夜ばかりは青褪めた顔をして、皆に念を押した。

「厄介ごとが増える前に、あいつを拐おうとした輩をつきとめなくてはな」

「しかし…、しかし誰が神の目を拐おうとなどしたのでしょうか。サナエは観察者です。あまりにも危険ではありませんか?」

「観察者自身が特別な力を持つわけではないってことを知ってる人間でしょ」

レンの指摘に首を振ったのはグウェンだった。

「それだけとは限らない。観察者に危険が及んでも、本人にそれを払う力がないことはあまり知られていないとしても、わざわざ拐おうというのは性急に過ぎる。だが、最初から実行犯を切り捨てるつもりであれば」

「自分の身は安泰というわけか。確かに前もって計画ができたわけではないだろうに、あれだけの人数をよく集めたものだと思ったが」

「実行犯を切り捨ててしまえば大した代償にはならない、そういうことでしょう。それだけの財力を持つ人間が黒幕にいるはずです。問題は、情報提供者がなぜ性急にことを進めようとしたのか、ですが。王宮に雇われる人間は厳しく審査されます。俸給が高いかわりに処罰も厳しい、金銭目的でないとすれば…」

「恨みでしょうね、それも個人的な感情の」

静かな気配を纏い佇むのは、サナエだった。



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