心の在り処2
内通者。
それも、サナエの身近にいた存在―
「すぐに取り押さえましょう!」
青褪め、一瞬にして沸騰した怒りで頬に朱をさしたライアスが、剣を掴んで飛び出そうとしたとき、男が転がるように飛び込んできた。
「殿下!ご無事ですか!?」
「グウェン殿?」
よほど急いだのだろう。
普段は一分の隙もなく撫で付けられている灰褐色の髪は乱れ、その顔はライアスと相反するように青ざめている。
グウェンとデュランには、警護兵を動かした時点で使いを出し、動かないよう伝えていた。
エスターとライアスが緊急事態を予測して身構えたそのとき、グウェンの影が一瞬陽炎のように揺らぎ、新たな客が現われた。
「馬鹿だな。俺が本気だったらお前がここに着く前に殺してるよ」
飄々と笑う。
現れたのは西の街へ向かったはずの守護竜、レンだった。
***
夢を見ていた。
闇に閉ざされた空間で、なにかに手繰りよせられるように、ゆっくりと墜ちていく夢。
逃げ出すように浴室に続く扉へ駆け込んだのは、喉元を駆け上がる吐き気が抑えられなくなったからだ。
頬を流れる涙は生理的なもの、と信じたい。
情けなかった。
容易く誰かを受け入れ、その度に傷つく自分自身が。
胃には内容物が残っておらず、気分の悪さだけがむかむかとこみ上げる。
鋭い痛みが胸を突き刺し、思わず握り締めた拳のなかで爪が手のひらに食い込むのを感じた。
少しだけ、どうしようもない疲労感に、ほんの少しのつもりで目を閉じたサナエは、いつの間にか浅い眠りに囚われていた。
視界の利かないその深い闇を大きな揺りかごのようだと思った。
不思議とこの状況への恐れはない。
ただ、心があるはずの場所に風がすうすうと通り過ぎていく感覚だけがやけにはっきりと感じられた。
暗闇のなかで思い描くのは、交わした笑顔。
身近でとりとめのない会話ができる同性の存在は、世界での不安を和らげてくれた。
―どちらかなのか、それとも。
浮かび上がる疑念に答える声はない。
かわりに届いたのは、微かな歌声だった。
意識が浮かび上がる。
不安定な歌声は小さな子供の泣き声だった。
天真爛漫に放つ自己主張のそれではなく、抑制された、こらえきれない悲しみを絞り出すような。
「誰?どうしてないているの?」
サナエの呼び掛けに、声がピタリとやみ、完全な闇だったはずの世界が、微かに白くぼやけてきた。
「どこにいるの?」
いつの間にか落下は止まっていたが、大地を踏む感触はない。
頼りない空間であたりを見渡してみても、泣き声の主はおろか、自分以外の生き物の存在すら感じられなかった。
「誰かいるんでしょう?」
「ここだよ」
突如、足元にサナエを見上げる小さな子供が現れた。
「何でここにいるの?ここは僕の庭なのに」
「あなたのお庭とは知らなかったの。気づいたらここにいて…」
サナエの説明に子供は不可解そうに首をかしげたが、何も言わずただふぅん、と口を尖らせた。
「どうやって入ったのかな」
独り呟く子供にサナエは視線を合わせるように身をかがめた。
「勝手に入ってしまってごめんね」
間近で見ると子供の瞳の縁は僅かに赤い。
「どこか痛いの?」
「痛くないよ」
「じゃぁ誰かとケンカでもした?」
サナエの言葉に子供は驚いたように目を見開いた。
「なんで?」
「だって、」
泣いていたでしょう?と聞くことはこの子のプライドを損ねそうだと思いサナエは質問をかえた。
「ここにずっとひとりでいたの?」
「ひとりじゃないよ。ハルがいるけど、でもあいつは僕が嫌がることばっかさせるんだ。だったら一人のほうがずっといいのに」
サナエはその子の頭にそっと手をのせた。
子供特有の柔らかい髪が滑らかだった。
「嫌なら嫌って言ってごらん?我慢してばかりいたら友達にはなれないよ」
ちり、と胸の奥が痛む。
なんて傲慢な大人、とサナエは心のなかで自嘲した。
自分のことは棚に上げることにして、不安の色を滲ませる子供に微笑みかけた。
「僕、もうやめたいんだ…」
あんなこと、と唇をかむ表情は思いの外大人びていた。
「でもあいつがいなくなったら、僕は本当にひとりになっちゃう。ここに僕がいること、あいつ以外には知らないんだもの」
「それなら私は知ってるよ?君がここにいること」
どうやって辿り着いたのかわからない上に、また来れる保証もない。むしろ帰れるのだろうか。
これは夢の中で、この子供は自分で作り上げた登場人物かもしれない。
それでもサナエは漠然とした予感を持っていた。またこの子供に会えるような。
「もし、もし嫌だって言って、あいつが怒ったら、お姉ちゃんが友達になってくれる?僕、会いに行くから」
ぎゅっと小さな手がサナエの手を握り締める。縋るように。
今にも泣き出しそうな顔に、サナエはその小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
「お姉ちゃんね、ひとりなの。
だから君がその子と仲直りしても、できなくても、友達になってくれたらうれしいな」
「うん…」
サナエの背中にほっそりとした手がまわされた感触があった。
と、不思議そうな声で子供が言った。
「でもお姉ちゃんはひとりじゃないよ。いろんな気配が近くにあるもの」
「気配?」
「うん。僕には見えるの」
不思議な子、とサナエは思った。
透明な瞳は何の邪気もない。
「お姉ちゃん、泣いてる」
頬に小さな手が添えられる。
思いのほか暖かいそれに、サナエは目頭が熱くなるのを感じた。
「喧嘩したのはお姉ちゃんの方?誰がお姉ちゃんを泣かせたの?」
「喧嘩、そうなのかな」
「大人なのにわからないの?」
サナエは苦笑して謝った。
「嫌なことされた?嫌なら言わないと、友達になれないんでしょ?」
「手厳しいなぁ。そうだね、言わなきゃね。思ってることを、伝えなくちゃ…。ねえ、お姉ちゃんがひとりじゃなくても友達になってくれる?」
「うん、お姉ちゃんを泣かせるやつは、僕キライ。僕が友達になってあげるよ」
子供らしい正義感に微笑んで、ありがとう、そう言葉を呟いたとき、不思議と心が軽くなっていくのをサナエは感じていた。




