孤独な椅子3
バルコニーから繊細な銀細工に清らかな水を流した色合いを見せる月を見上げていると、涼しい風に剥き出しの肩を撫でられ身を震わせた。
デュランの後に手をとったライアスとともにエスターの元へ進み出た彼女は、ライアスが次期国王へ口上を述べている最中、背中に出席者たちの視線、正面からはエスターのそれを痛いほど感じながら、どこか自分がこの場にいる感覚が薄れていくのを感じていた。
高らかに観察者としてサナエを紹介するグウェンの声、それに応える歓声。
それすらもどこか遠い世界で。
グウェンの提案を受け入れたのは自分だと言うのに、いざとなると逃げ出したい気持ちが強くなったということか。
サナエは自嘲し、エスターのもとを下がってから貴族に取り囲まれる前にそっと広間を抜け出した。
彼女の婚約者になった男はすでに貴族に囲まれていてこちらに気づいていない。
その彼は人々の中心にあって尚、一際目立つ存在感を放っていた。
(いたいけな少年じゃなかったけど…)
『美丈夫』
ライアスはその言葉を形にしたような姿だった。
外見だけで言えば次期国王と遜色ないほどに。
エスターは孤高の冷たさに静謐とした容貌をしているが、ライアスは太陽の化身のような華やかな美しさを持っている。
緩く束ねた金の巻き毛。新緑の輝きを閉じ込めた瞳。
彼が現れサナエの手をとった時、貴族の女性たちから悲鳴まじりの声があがった。
向けられる視線に憎しみがこめられたように感じたのは、気のせいではないだろう。
白銀色の月と水色がかった色の月が互いの光で闇のなかに輪を描いている様を見つめながら、広間の喧騒を背にサナエは足を動かした。
ヒールの下には土の感触。アスファルトに慣れた足にはその柔らかさがどこか懐かしい。
小さな噴水を見つけて石縁に腰掛ける。
広間から随分と離れてしまったが、二つの月の光であたりはさほど暗くは感じなかった。
「静かに暮らしたいのに。」
ぽつりとこぼれた言葉を拾うものはいない。
神の意志という大義のもと、自分たちに都合の悪い人間を追い落とそうとする人間がいる以上、観察者として利用されないように王家の目の届く範囲にいなくてはいけない。
この国に無用な混乱を招かないためにも、そのことへ異を唱えるつもりはなかった。
今は水も止まっている噴水の放水口をぼんやりと眺めながらその仕組みを想像していると、後ろから声がかかった。
「こちらにいらっしゃいましたか。」
月のあかりに半身を照らされた彼は、中性的な顔立ちに逞しくもしなやかな身体がまるで絵画から出てきた美神のようで、妹のような侍女の言葉を思い出させた。
そのライアスがふっと微笑む。それだけで空気が色づくようだった。
「今日顔を合わせたばかりの男と一緒にいては疲れてしまうでしょうから、ご様子だけ確認するつもりだったのです。それでも小鳥のようなお姿に、そのまま立ち去ることができずお声をかけてしまいました。」
無礼をお許しください、と礼をとる彼は、白い上衣に深緑色のマントが恐ろしいほど似合っている。
柔らかい口調が面映くてサナエはつい顔をしかめた。
「勝手に席をはずしてしまってごめんなさい」
「あのような場はお嫌いですか?」
こくん、と頷き立ち上がろうとしたサナエを、ライアスは優しく制した。
「小鳥は籠の外を好むものですからね。」
「小鳥…?」
怪訝そうなサナエの声に、思い出すのです、と彼はどこか昔を懐かしむ瞳で微笑んだ。
「貴女を見ていると、妹を思い出します。小鳥のように可憐で、儚く散ったあの子を。」
**
憧れていたの。
王宮に咲くために生まれついたかのような、美しい花に。
自分のみすぼらしい姿なんて比べるまでもなく、だから嫉妬のかけらすらわいてこなかった。
あの方の命が刈り取られた日から、この国の王子はそれまでにも増して頑なに人を、女性を拒むようになった。
それなのに。なぜその人の傍では笑うの?
その姿を見るたびに、心の淵から闇が拡がっていく。
いつか。いつか、私はその人の血を浴びて、微笑んでみせる。
**
「エスター殿下が以前婚約していたことを?」
深緑のマントをそっとサナエの肩にかけながら、ライアスは問うた。
サナエはその緑の闇に閉じ込められたかのような錯覚に捕らわれながら頭を振る。
「3年前、リシェル…私の妹は殿下の婚約者として王宮にあがり、命を落としました。」
3年前。
エスターが女嫌いと呼ばれるきっかけとなった何か。
そして仲の良い友人だったという彼らに起きた何か。
誰も開けようとしなかった箱のリボンが目の前でほどかれていくことに息が詰まりそうだった。
聞きたいわけではないのに、耳を閉ざすことができない。
そこに、ライアスの透明な声が届いた。
「リシェルは殿下の部屋に忍び込み刃を向けました。そして、返り討ちにあったのです。」
「え?」
「どうしてあの子が殿下を殺そうとしたのか、殿下が実際にリシェルにとどめを刺したのか、私にもわかりません。真実を知る人間は、一方は死に、一方は口も心も閉ざしてしまった。」
「エスター、をころそうと、した?」
喉にはりついた言葉がうまく上ってこなくて、もどかしい。
座るサナエの肩をそっと支えながら、覗き込むように立つライアスの影が、重さを増したように感じた。
緑に闇が翳った瞳、そこに鏡のように写り込む自分の姿が見える。
「殿下はこの国の王となる方であり、ハルシオン神の加護がこの国にある証。そんなお方を手にかけようとしたのです、返り討ちにされるのは当然のこと。近衛のひとりとしてその場にいれば、私とて剣を抜き妹を斬っていたでしょう。」
王族殺しは例え未遂でも極刑を免れない大罪。
咎が一族全体に及んでもおかしくないところを、エスターの恩情で名門であるアルヴァーソン公爵家はその地位を守られた。
「第一王子の婚約者だった妹は精神を患って自害したことになり、反逆自体なかったこととされました。」
それが家を守るたったひとつの術だったことはわかっている。
それでも、容易く受け入れられる現実ではなかった。
「妹は女神の化身と言われるほど、美しい娘でしたよ。美しく無力で、大それたことができるような娘ではなかった。ちょうど今の貴女のように。だから先日殿下が出された触れを見て驚きました。リシェルの命を奪ってからの殿下は女性を信用なさらず、近くに寄ることさえ赦さなかったのに。」
そ、と冷えた頬に暖かい掌が添えられる。
「貴女は何が違うのですか?なぜ貴女は赦されるのです?」
「私は…」
サナエは答えを持っていなかった。
妃の間に部屋をもらっていることも、今日彼が発表しようとしたことも、ただの思い付きにしか見えなかった。
俊巡するサナエをどうとらえたのか、ライアスの人を魅了してやまないだろう瞳が細められる。
「グウェンから話を持ちかけられた時、興味を持ったのは家の復興よりも殿下がご自身で選んだという貴女のことでした。貴女のことが、知りたい。
殿下が特別に思う貴女なら、リシェルと同じ小鳥の貴女なら、私が知りえなかったあの子の真実がわかるかもしれない」
寄せられるその美しい顔が、ゆっくりと近づいているのか、そうではないのか、サナエには認識できなかった。
息がかかるほど間近に迫った距離で、サナエは唇を動かした。
「妹さんが命を落とされたのはとても悲しいことだわ。貴方も、ご家族も、どんなに苦しんだか…、私には計り知れません」
家族をある日突然喪う悲しみ、衝撃。
両親が事故にあったと連絡を受けた日のことを思い出し、声が震えた。
神と人の王が並び立つ複雑な王制の国で、妹が友人でもある王子の手にかかったとなればその衝撃はどれほどのものだったのだろう。
妹を失ったライアス、友人の妹を手にかけたエスター、その二人の心を思い、サナエはそっと瞼を閉じた。
頬に添えられた手がその顔を上へ引く。
「サナエ、貴女はかわいらしい。震える様まで小鳥のようだ。」
ライアスが近づく気配を感じる。
唇が重なろうとしたとき、闇色の瞳が長い睫毛に伏せられた新緑色のそれをのぞきこむようにまっすぐに射抜いた。
「でもこれはただの当て付けだわ。貴方が私に何をしようと、貴方が欲しい真実は手に入らないのに」




