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海と空の境界。  作者: 水無月
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孤独な椅子1

久しぶりに見るサナエの姿に、嬉しいよりも悲しくて、けれどどこかほっとした。


共に暮らしていた頃の少年のような格好からは想像もつかない姿でこの広間の視線を集めている彼女を、レンは眩しい何かを見るようにみつめていた。


滑らかな肌に映える朱金のドレス。

すっきりとまとめられた長い髪に控えめにあしらわれた花が普段隠されていたサナエの女性らしい美しさを際立たせている。


そしてアーモンド形の瞳。その黒曜石のような、知性を湛えた瞳は、彼女がどんな姿でも変わらない。

エスターが射殺しそうな目でパートナー役の自分の従者を睨んでいることに気づいて、レンはそっと笑い彼の側へ転移する術を使った。

この王宮には結界が張ってあり、どんなに力のある術師でも転移の術をいたずらに使うことはできない。

しかしレンはその限りではなかった。

何せその結界を作ったのは彼自身なのだから。

「見とれすぎだよ。女嫌いの王子さま。」

気の弱い人間なら心臓が止まるんじゃないかという眼差しでエスターが振り返った。

ハルシオン神もレンのこともまるで信用していなかった少年は、そのまま青年となり次の闇の月にはこの国の王となる。

きっと彼はこの国の歴史を変えるだろう。

後に賢君と讃えられるか、暴君と罵られるのか、レンはどちらでも構わなかった。

人の世のことなど、本当はどうでも良いのだ。

だがそれがサナエを傷つけるのなら話は別だ。

自分が喚んだ娘。彼女には責任がある。

何の用か低く問う彼に、レンは肩を竦めて見せた。

「あいつが動き出した。しばらく王都を留守にするから言っておこうと思って。」

「どこだ?」

「西の街。サナエへの干渉があった時に邪魔をしておいたけど間に合ったとは思えない。とにかく様子を見てくる。だからその間サナエを守ってよ。」

「言われなくてもそうするさ。だが忘れるな。決着を望むのはお前だけじゃない。」

「心配してくれてるの?うわーうれしー」

エスターは零度の視線をものともしない昔馴染みに、親しみもこめずに返した。

「殺すぞ。」

「エスターが言うと冗談に聞こえないからやだな。俺を殺せる唯一の人間なんだからもっと気を使ってよ。まあ、だからサナエを任せられるんだけど。」

もう一度サナエへ視線を戻した。

花のように開く彼女の裾。

神の意思をこの国に示す存在の王は、精霊、竜といった人間とは位階が違う高位の相手を殺せるほどの力を持っている。

逆に言えば、人の枠を外れたこのハルシオンの王になる人間を殺せるのは精霊や竜、そして神だけだとも言われていた。

彼らはお互いを必要としながら共存してきた。数十年までは。

「あれは俺のものだ。」

レンの視線に気づいたエスターが不機嫌な声で傲慢な主張をする。

執着か恋情か、そのどちらもなのか、考えを巡らせながらサナエへの視線を外し、かつての教え子へと戻した。

「エスターがそこまで気に入るとはね。」

圧倒的な力を持つ者のみが浮かべることのできる笑みを口端にのせて、レンはエスターの眼を捉えた。

「それなら、死ぬ気で守れ。」

そして表れたときと同様に突然空気の中に掻き消え、瞬きをする間にそこには誰の気配も残っていなかった。




レンは竜の姿をとって王宮を遥か下にのぞむ空高くから王都を見渡していた。

夜空を写し取ったような濃紺の体を西の方角に翻し風を巻き起こして飛び去る。


手を打たなくてはいけない。

この先待ち受けるものが、サナエに翳りをもたらさないように。この先待ち受けるものが、サナエをひとりにしないように。




デュランのリードに合わせてステップを踏みながら、サナエは徐々に心が麻痺していくのを感じていた。


ふ、とサナエの口元にそれまでとは違う寂しげな笑みが浮かんだ。

「おやめになりますか?」

周りで踊る人々には聞こえないほどの声で囁いてきたデュランに、そっと首を振る。

いいえ、と。

胸のなかでもやもやとする雲のような感情に名前をつけることができなくとも、それは曲の終わりに向けて無視できないほど拡がっていく。

ずっと、流されることが嫌だった。

かつてそれで愛情と友情を曖昧な境界線に置き、結局大切な友人を失ったから。

一番楽に見える、何も見ずに、何も聞かずに、流されてしまうことの代償を、サナエは痛いほど理解していた。

それでも結局、自分にできる範囲のことなどたかが知れている。

そっと息を吐いて視線を上げたとき、視界の端に見慣れた濃紺の瞳を見た気がした。

しかしもう一度そちらを向いたときには知らない貴族の男性がこちらを見ながら連れの女性の腰を抱いている姿しか見えなかった。

(レン…?)

デュランの腕に添えたサナエの手首には、いつもの黒曜石のブレスレットがある。

いつでも呼んでいいとは言われたが、エスターから竜の性質を聞いて以来、どこか躊躇われて彼の名を呼ぶことがないまま日が過ぎてしまった。


曲調が変わる。

デュランの手に添えられていたサナエのそれを、新たな手が掲げ持った。


広間にざわめきが走る。


冷たい指先だった。

そっと握られているだけのその場所が、痛いほどの視線を集めていることを感じる。彫刻のような指先からしなやかな腕につながり、やっとその主に辿り着く。

(あぁ、目立つ人物って、本当ね。)

デュラン以外の男性と踊るのは初めてだ。初めて顔を合わせた婚約者に、サナエは機械的な笑みを浮かべるのが精一杯だった。





「どういうことだ?」

「ルーカス殿下、落ち着いてください」

ジェイの言葉に踏み出そうとした足を留める。

彼の腰に下がる長剣の鞘が側のテーブルにあたり、硬質な音がした。

「お前は知っていたのか?」

まさか、という思いで護衛兼副官でもある彼を振り返ると、ジェイはいつものように生真面目な顔で首を振った。

そう、知るわけがないのだ。自分でさえ、聞かされていなかったのだから。

(では兄上は?)

追いたてられるように降りあおぐ彼の視線の先には、何の感情も映さないエスターの瞳があった。



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