動かせない椅子1
ただの気紛れだろうと思っていた。
彼が自分を妃の間に住まわせていることを。
いや、今もそう思う気持ちは変わらない。
王族というからにはさぞ美しい妻が何人もいるのだろうと検討をつけていたのだが、どうやらそれは外れていたらしい。
「女嫌い?」
「えぇ、有名な話でしたわ。何でもしつこく言い寄った貴族のお姫様を斬り捨てたことがあるとか。ですがお妃様に迎えられたサナエ様は特別なのでしょう。毎晩お通いなんですもの。」
ミイシャはサナエの長い髪を丹念に結い上げながら、ふふふと怪しげに笑った。
「だからね、お茶を飲んで話をしているだけよ?何度も言うけど私はエスター殿下の妃ではないからね?」
夕食が済んだ後にエスターが立ち寄り話をすることがいつの間にか日課になっていた。
やましいことなどないと主張するサナエの言葉に聞く耳を持たず嬉々として長い黒髪の手入れに腐心するミイシャに、サナエは朝から疲れを感じた。
朝の湯浴みで濡れた髪の手入れを、最初は自分で適当にするからと断っていたサナエだったが、侍女の仕事だと譲らないミイシャの粘り勝ちで彼女の仕事となった。
今では美容室に行くようなものだと割りきるようにしていた。
サナエはふと、エスターとの初めての短い邂逅で冷たい刃を突きつけられたことを思い出した。
あのときの、隠している本音を容赦なく引き摺り出させるような冷徹な視線も。
観察者だからこそ向けられるものだと思っていたのだが、どうやらそれだけではなかったらしいと知る。
「お人嫌いも周知のことですわね。女性を遠ざけるようになられたのは3年前の一件からですが、そもそもがお心を開いてらした方も限られていたそうですわ。あぁでも、デュラン様とライアス様とはご学友として仲がよろしかったはずです。お3方が揃われる姿はまるで美神のようだと聞いたことがありますもの。けれど、あれからライアス様とも距離を置かれるようになられてしまって…」
「ミイシャ」
咎めるようなサラの声が飛んだ。
「3年前?」
ミイシャの言葉に引っ掛かりを覚えて尋ねると、それまで饒舌だった口は急に閉ざされた。
触れることを躊躇わせる過去なのだろう。
少なくとも、ミイシャを黙らせるほどには。
隠したいことのひとつやふたつ誰でも抱えているものだ。あいにく自分の情けない話はすでに知られているけれど、だからと言ってそれを盾に相手のことを暴きたてて良いとは思えない。
サナエはそれ以上は何も言わず、ミイシャの手が頭の方で動く気配を感じながら、静かに結い上がるのを待つことにした。
*
年季が入った板張りの床は丁寧に磨きあげられている。
西の陽がふんだんに差し込むその部屋は、空気の中にたゆたう塵さえどこか穏やかに見える。
部屋の隅にはクラヴィコードがぽつんと忘れられたように置かれていた。
ピアノの原型となったその楽器は、鍵盤の白と黒が逆転している。
博物館でしか見たことがなかったサナエは、おそるおそる指を落とした。
小さく、弦が震えるような音が響く。
「ここにあるものは古いですが、別の部屋にはもっと色々な楽器がありますよ。」
「デュラン」
振り返ると、踵のない布張りの靴を取りに行ってくれていたデュランが戻っていた。
「ご興味があれば後程ご案内させていただきますね。さあ、どうぞ、こちらを。」
受け取ったそれへ、部屋から履いてきた華奢な靴から履き替える。
「ぴったり。ありがとうデュラン。それじゃあ、よろしくお願いします。」
ぺこと頭を下げると、仕える主には真似できないような素直な笑顔がかえってきた。
「こちらこそよろしくお願いいたします。サナエ様は初めてでいらっしゃいますか?」
頷くサナエに彼は、緊張なさらないでくださいね、とその濃い茶色の瞳を優しく細めて手を差し出した。
**
「晩餐会?」
「あぁ内輪向けのな。一応お前の顔見せも兼ねているから、顔を貸せ。」
顔を貸せの意味が違うと思う、とぶつぶつ呟くサナエの腰に、エスターは長い腕をまわしその背中に顔をうずめた。
「仕立屋を呼んだ時に正餐用のドレスもいくつか仕立てたのだろう?何色を着るか決めたら教えろ。首もとを飾る石を贈ってやる。お前が踊るとその黒髪が揺れてさぞ美しいだろうな。」
「作ってない。踊れない。近い。離れて。」
「は?」
最近やけにスキンシップが過剰な次期国王の身を引き剥がす。
確かに仕立屋のご主人に何着か注文をさせてもらったが、どれも動きやすい平服にしてもらった。
ドレスも、とご主人が言ってくれてはいたが、サナエはいらないと断ったのだ。
「変な女だな。女らしい服を着ないとは思っていたが、そもそも仕立てていなかったのか。まぁ、普段は好きにすれば良いが、取り急ぎ晩餐会までには用意させよう。何だ、まだ不満か?」
「踊るのは、必須?」
「まぁ誘われるだろうな。」
「うわぁ…」
衆人環視の中で見世物になれというに等しいそれは、ただの嫌がらせにしか聞こえない。
社交ダンスなどやったこともないのだ。
周りから見たら、自分はエイリアンと同義だ。鬱陶しいほどの注目を浴びるだろう。
いつになく弱気なサナエに、空色の瞳と銀の髪を持つこの国の施政者は、艶然と微笑んだ。
引き剥がされた腕を今度は抗いの手を避けてその細い腰へ伸ばし、しっかりと絡めとる。
「別に構わないぞ。会の間中、こうしていればいい。うるさい貴族たちに踊りへ誘われることもなく、俺の婚約話にも信憑性が増す。調度良いかもしれないな。」
「練習する。絶対する。明日にでも始める。」
**
デュランは次期国王の副官兼侍従として多忙だろうに、ダンスの教師役を引き請けてくれた。
「右足をこちらに、そうです。このまま左を後ろへ。背筋はきれいに伸びていますよ。その調子です。もうすこし顔を上げてみましょう。」
1、2、3、と頭の中でカウントしながら足を動かす。
そちらばかりに気をとられるとつい頭が落ちてしまうが、とにかくこれ以上デュランの足を踏むことは避けたい。
そう思う側から何度めか、また踏んでしまった。
「ごめんなさい」
「気になさらないでください。昔よく友人にも踏まれました。ライアスと僕はサナエ様と違ってダンスの覚えが悪かったので、顔を背けながら練習をしたものですよ。」
「ライアス、?」
「あぁ、ずっと王宮を離れていたのでサナエ様はまだご存知ないですよね。古い友人です。僕と、エスター殿下の。」
「公爵家の方と伺ったことはあります。グウェン宰相が…」
嫁ぎ先として真っ先にあげた名前だ。
しかしその言葉は呑み込んだ。
そしてミイシャの言葉がよみがえる。
『デュラン様とライアス様とはご学友として仲がよろしかったはずです。けれど、あれからライアス様とも距離を置かれるようになられてしまって』
3人に起きた何か。
口を閉ざしたサナエに、デュランはふっと笑いながら声をかけた。
「彼は目立つ存在ですからね。話にのぼることも多いでしょう。晩餐会には彼もくるはずです。お顔を合わせるかと思いますよ。ライアスと僕がむさくるしく練習していたことを思い出して気持ち悪くなられないでくださいね。」
少年たちが向かい合って踊る姿を想像して、サナエは小さく笑みをこぼした。
「少し肩を落として、そうですね。首のラインがきれいに見えます。ではもう一度。」
デュランは教え方がうまい。
数日の特訓があればなんとか形になりそうな気になり、もっと集中しようとサナエは気を引き締めた。




