後を追う音2
引越しを終えたばかりの部屋には、積み上げられたダンボールがいくつかそのままに残っていた。
アパートの前の公園に咲く桜の木が、薄闇の中カーテン越しにシルエットだけ透けている。
小さなテーブルの上には翻訳の途中だった原書が数冊のっている。
日常のはずの風景に、今まで感じたことのない違和感を覚えて、立ち尽くした。
肩にとまった飛竜が悲しげにくぅと鳴いて身を寄せる。
その夜の空を模したような羽をなでながら、サナエはそっと息をはき、使い慣れた携帯電話を手に取った。
「健太郎?私。ごめんね、こんな時間に。お願いしたいことがあるの。」
***
ダイクンとの食事から数日後、その日サナエはいつものように朝から王立図書館にいた。
今日手に取ったのは、活動期の神の時代を綴った伝記。
ある地方で民には重い税を科し、一部のものから賄賂を受け取って罪を見逃していた領主へ罰を下した話や、他国がしかけてきた陰謀をつまびらかにし、打ち払った話などが描かれている。
神の偉業を称える聖書というよりは、まるでヒーローものの英雄譚だった。
疲れた目を休ませようと顔を上げたサナエの視界が蜂蜜色を捕らえた。
視線をずらすと、そこには久しぶりに見る輝かしい笑顔。
「久しぶりですね、サナエ殿」
目の錯覚かと大きく瞬きをしたが、置き忘れた写真のように笑顔は変わらない。
「ルーカス殿下・・・」
幸い周りには人が少ないが、それでもこの国の王位継承者に名を連ねる存在の異質さは際立つ。
一目で質の良さがわかる金糸の織りが入った深い緑色の上衣が蜂蜜色の髪と瞳に合い、なんとも上品だった。
「近くを通ったものですから」
屈託のない笑顔が憎らしい。
「邪魔をするつもりはなかったんです。本に集中しておられたし、声をかけずにこのまま帰ろうかとも思ったのですが」
でも気づいていただけて良かった、と更に笑顔を重ねるルーカスに、サナエは降参するしかないと思った。
「いえ、今日はそろそろ引き上げるつもりだったので」
「では送っていきましょう」
「ありがとうございます。その前に殿下、お願いですから私に敬語はやめてください…」
ルーカスのきょとんとした顔に、サナエは苦笑するしかなかった。
外に出るとまだ陽は高かった。
サナエの歩調に合わせて横を歩くルーカスの姿に、たまにすれ違うものが驚いた表情で振り返る。
「悪かったね、押し掛けてしまって。サナエ殿には振られてばかりだからこうすれば少しは話を聞けるかと思ったんだ」
身長が低いわけではないサナエだが、隣に並ぶルーカスはさらに頭ひとつ分ほどは背が高い。
表情を見られたくなくて、ついうつむいてしまうと、上のほうで、ふっと笑った気配がした。
「意地の悪い言い方をしたね、ごめんね」
顔を上げると、苦笑したルーカスと目があった。
その表情は彼をずっと大人びて見せる。
「謝らないでください。悪いのは私ですから。でも私には殿下のお役にたてるような話などできません」
「どうだろう。僕はね、ずっと観察者に会ってみたかったんだ。《時代の証人》に小さな頃から興味があった。よく教育係のダイクンに歴代の観察者の話をねだったものだよ。だから観察者の召喚に成功したと聞いたとき、すごく興奮したんだ。なんせ違う世界の話を直接聞けるのだからね。」
《時代の証人》という呼び方は、サナエが読んださまざまな資料にもでてきた、観察者の別称だった。
大層な呼び方をつけたのは誰だろうか、とサナエは苦笑した。
結局は、見ていることしかできない普通の人間なのに。
「観察者、時代の証人…、私が読んだ本の中にも伝承がいくつか載っていました。彼ら個人というよりは、元の世界のことをまとめたものが多かったですが」
特に、前任と思われる観察者の話をまとめたものは興味深かった。どういう仕組みか、彼女はサナエとさほど変わらない時代からやってきていたようだった。
そして少女の頃にやってきた彼女が、元の世界の政治や歴史についてうろ覚えだったことが伺えた。
それでもこの王子がかわいらしい子供だった頃、物語の世界のように魅力的に響いたのだろう。
「貴女たちの世界は随分暮らしやすいように聞いているよ。民から選ばれた者たちが政治を行っているとか。サナエ殿、僕にその話を聞かせてくれないだろうか?」
蜂蜜を溶かしたような瞳が、まっすぐにサナエをとらえた。
あぁ、このひとは。まっすぐな心を持っている。きっと、危ういほどのまっすぐさを。
眩しさに目をそらしたくなる。それでも、サナエはひとつ呼吸をして告げた。
「殿下、私からお話できることはありません」
「サナエ殿」
「ごめんなさい、私は親の仕事の都合で小さな頃から海外・・違う国を転々とすることが多かったので、きちんと学んでいないんです」
ごめんなさい。言葉にならない声を飲み込むように、そっと目を閉じた。
ルーカスは納得したわけではなさそうだった。
それでもサナエは半ば強引に話を終わらせるために、距離を置いて付き従ってきていた彼の護衛を呼んだ。
それを見てルーカスは大きくため息をつき、おもむろに片手をあげた。
「わかった、この話はいずれまた。あともうひとつ、もうすぐ今後のことをまた話し合うことになりそうなんだ。ダイクンとレン殿もまじえて場を作ろう」
「はい。殿下、申し訳ありませんでした」
「謝らないで。僕も強引すぎた」
サナエの肩に軽く置かれた手のひらは、指揮者のように美しかった。
「では、また」
えぇ、と笑い返すのを確認してから、彼は立ち去った。
颯爽とした後ろ姿をしばらく見送ってから、サナエは小さく息をつきながらもとの道へと引き返そう身を翻した。
ここに来て以来、ため息の回数が増えている気がして、空を見上げた。
東京では望めないような広い空が、高く高くどこまでも続いている。
西の方にうろこ雲が薄くたなびいていた。夕暮れ時にはさぞ美しい色の濃淡が見れるに違いない。
大丈夫、何も変わらない。神の棲む国といっても、この空の営みは変わらないのだから。
歩き出そうとしたとき、目の端に輝く光がよぎったように見えた。
「え?」
その瞬間、容赦のない力がサナエの腕をつかみ、建物の間にある影へ引きずりこんだ。