家庭教師
「お手紙ですか?」
イリスに転生して1週間が経った。
少しずつここでの生活にも慣れてきた頃、オリバーから、イリスの父から手紙が届いたと伝えられたのだ。
(まあ、娘が階段から落ちて、記憶喪失になったら心配するわよね)
「旦那様にはお嬢様の記憶喪失について、手紙でご連絡を差し上げていたのですが、記憶喪失によって、今までお嬢様が学ばれた知識や教養、マナーなどがほぼ全て失われたことを大変心配されておりまして」
思ってた心配と違った。
(普通は知識だマナーだとかより、娘の身体のこととか、父親である自分のことを忘れてしまったこととか、そういうことの心配をするもんじゃないの?この世界の親ってそんな感じなの?)
思わず無表情になってしまう。
「それでですね、あと半年間で元のお嬢様のレベルに戻すために、家庭教師を付けるよう指示されました」
少し申し訳なさそうな表情でオリバーは続ける。
「明日から家庭教師の方がお見えになります」
(いや、この世界について学べることはいいんだけど……)
「あの、半年間ってなにか半年後にテストでもあるの?」
「テストではございませんが、半年後にこの国の王太子殿下とのお茶会の予定がございまして……。そのお茶会で粗相のないようにとのことです」
(王太子!?えっ!こんな早い段階で会わないとダメなの?ゲーム開始の15歳まであと5年あると思ってたのに!)
王太子はゲームの攻略対象者の内の1人である。
つまり、ヒロインを害する悪役令嬢のイリスにとっては敵になる可能性が非常に高い。
「あ、あの、そのお茶会って断れないんでしょうか?ほら、記憶喪失って事を説明してもらって」
焦ってまたオリバーに敬語が出ちゃったけど、もしかしたら断罪してくるかもしれない相手とはなるべく会いたくない。私も必死だ。
「このお茶会は、王太子殿下と歳の近い、高位貴族の令嬢が招待されるものでして、王太子殿下の婚約者を決めることが本来の目的となっております」
「なら、なおさら断らないと!記憶喪失なんですよ!私!」
「申し上げにくいのですが、旦那様はお嬢様の記憶喪失を公にするつもりはないそうです」
「そんな……」
ゲームの設定では、イリスが王太子の婚約者だった。
ゲームの強制力からは逃げられないのだろうか。
半年後の王太子とのお茶会は決定事項のようだ。
オリバーが部屋から退室した後、今後について改めて考えてみる。まずは家庭教師の件。
(この世界の教育の水準はわからないけど、半年間で10歳のレベルまでいけるもの?)
「あっ……」
(10歳っていうより、以前のイリスのレベルよね。悪役令嬢だし、勉強サボってばっかりのおバカさんかも)
「ミリー、前の私ってお勉強どうだった?よくサボったりしてた?」
「いえ、お嬢様は真面目に取り組んでおられましたし、非常に優秀でしたよ」
(えっ、意外!でも困る)
「旦那様に認めていただこうと、努力なさっておいででした」
「それで、私は父親に認めてもらえてたの?褒めてもらって喜んだりしてた?」
「その、旦那様はあまりそういったことを表に出す方ではございませんので……。でも、内心では優秀なお嬢様を自慢に思われていたと思います」
「なるほど」
(父親の内心は知らないが、つまりイリスは、勉強を頑張って成果を出しても、目に見えて褒めてもらえなかったってことか)
なんとなく、イリスの親子関係が見えてくる。
王都には、血の繋がらない義弟がイリスの父親と一緒に暮らして、自分は1人領地に残される。
怪我をして、記憶喪失になっても、会いにも来ない。
今の私は、前世での家族に愛された記憶があるから平気だけど、普通の10歳の少女にとっては、ひどく寂しい環境ではないだろうか。
なんだかイリスが可哀想になってしまった。
翌日、家庭教師のカロル先生がやって来た。
30代後半の穏やかな雰囲気の女性だ。
半年後の王太子とのお茶会のため、座学は後回しにして、まずはマナーと礼儀作法、一般常識をメインに指導してもらうことになった。
カロル先生は初心者の私にもとても優しく、丁寧に教えてくれた。
そして夜、初めてのマナーレッスンに身体がクタクタで、ベッドに沈み込む。
「お嬢様、カロル先生はいかがでしたか?」
「優しい先生だったよ。丁寧でわかりやすかったし」
「それはようございました」
ミリーは安心したように言う。
「カロル先生も、お嬢様のことをとても熱心で、真面目で、教えがいがあるとおっしゃっていましたよ」
「そう、それは良かった」
(ん?いいのか?)
私は「熱心で真面目」というワードに引っかかる。
なんだか、前世の学生時代の自分と同じことをしているような気がしたのだ。
それに、真面目に取り組む必要ってあるんだろうか?
父親が勝手に記憶喪失を隠して、半年後のお茶会に間に合わせようとしてるけど、間に合わなくてもいいんじゃない?
(だって、それで王太子と婚約したら、それこそゲームのままだし。ここは、マナーを習得できずに婚約者に選ばれませんでした。っていう方向性なら断罪もないんじゃない?)
妙案を思いついた私は、さっそくミリーに聞いてみる。
「ねえ、このマナーや礼儀作法が、半年後も身に付いてなかったらどうなるのかな?やっぱりお茶会は不参加?」
「いえ、お茶会には参加していただきます」
「でも、身に付いてないのに王太子殿下に会ったら、恥かいちゃうんじゃない?だったら最初から不参加のほうが……」
「たしかに、お嬢様は恥をかくでしょうが、それよりもカロル先生の責任問題になるでしょう」
「え?」
「家庭教師の仕事とは貴族間の評判が全てです。優秀な令嬢を育て上げたとなれば、引く手あまたですし、逆になればあっという間に評判が落ちて、仕事を無くされるでしょう」
なんてことだ。まさかのカロル先生へ飛び火。
カロル先生は元伯爵家の令嬢で、同格の伯爵家に嫁いですぐに、不慮の事故で夫を亡くしたそうだ。
子供もまだ居なかったので、嫁ぎ先の伯爵家は夫の弟に継いでもらうことになり、実家は先生の兄が継いでいたので戻りづらく、家庭教師として生計を立てることにしたのだ。
という話をミリーに聞かされた。
ダメだ……そんなカロル先生の身の上話を聞いたら、余計にダメだ。
いや、聞いてなくても、私のせいでカロル先生を路頭に迷わせるわけにはいかない。
「半年間死ぬ気で頑張るわ……」
「はい。頑張って下さいませ、お嬢様」
ミリーは満面の笑みで答えた。