奈津子の章
<奈津子の章>
目を覚ます。もっと寝ていようかな、と迷ったがここが彼氏の家だと思い出す。そろそろ帰る、と言い掛けて博明の方を見る。
「ちょっと!何見てるのよ!」
博明の手から携帯をひったくる。やばい、どこまで見られた?眠気がスーッと覚める。博明は何も言わない。気まずい沈黙を背に服を着る。
「…この男誰?」
どの男?とは聞けない。
「ただの知り合いよ。」
「知り合いとデートするのか?」
「ちょっと会っただけよ。」
「何回も会ってるみたいだけど。」
どこまで見た?とも聞けない。
「うるさいなぁ、勝手に人の携帯見ないでよ。」
やけ気味に答える。
「何で?俺、奈津子の為に色々してきたよね。ずっと一緒にいたし。」
誰が一緒にいてくれと頼んだ?
「…今日は帰るね。」
彼の家族への挨拶もそこそこに逃げるようにして外に出る。面倒なことになった。言い訳するのも面倒くさい。どうしたものか。博明にもう愛情はない。浮気相手の藤森にも無いが。もうどちらが浮気相手なのか本命なのかも分からない。休みの日は「どこかへ行こう」 、テスト前は「勉強手伝うよ」、バイト帰りは「食事へ行こう」、挙げ句の果てに「結婚資金の貯金を始めよう」ときた。私はそんなに暇ではない。もううんざりだ。別れよう。
別れ話をするのも疲れるし、どうしよう、昨日のことを思いあぐねながら家を出た途端、博明の姿が奈津子の目に入った。まさか待ち伏せしていたとは。
どちらから何も切り出さない。気まずい沈黙のまま駅へ向かう。
「…何も言ってくれないんだね。俺、許すよ。もう他の男と会わないって約束して。」
「…ううん。もう別れよう。」
「何で?俺は結婚もする気でいるんだよ。」
「もう、博明のこと昔みたいに思えなくなっちゃった。」
言葉を選びながら話す。どこまで付いてくるのだろう。
「何で?俺、もっと努力するから。」
「ごめん。」
駅に着く。
「俺、諦めないから。」
一人で電車に乗り込み、思わず大きなため息がでた。やはりすんなり別れられないか。
「別れました。まだだけど。」
「誰と?」と、沙希。
「博明の方。」
「振ったの?」と美紀。なんだか楽しそうなのは気のせいだろうか。
「ていうか、何で?」二人からの質問攻めにあう。今日は朝から「何で?」をよく聞く一日だ。
「携帯見られた…。」
「あら…。色々バレたんじゃないの?」
「どこまで何がバレたか分からないから困ってるの。」
「もう別れちゃえばいいじゃん。」
「別れられないから困ってるの。」
「困ってることだらけだね。」沙希が笑って言う。
「別れ話がこじれて刺されないように気をつけてね。」
笑いながら美紀。何で二人共楽しそうなんだ?少し不満に思いつつ、つられて笑う。
「 男女関係のもつれってやつ?気をつける〜。」
この頃は三人とも、よくあることだと、まだ楽観的でいられた。
バイトを終え家に帰る。もしやとは思ったが、やはり家の前に奴がいる。心の中でため息をつく。
「お帰り、遅かったね。何してたの?」
いつも通り学校に行ってましたよ。
「 ごめん、もう博明の気持ちに答えられない。博明の気持ちが重たいの。」
「 お願いだから考え直して。」
博明が泣きそうな声を出す。奈津子にとっても楽しかった思い出がなかった訳ではない。一瞬楽しかった日々が脳裏をよぎるが、気持ちを盛り立てる。
「何回会いに来てくれても無理だから。」
朝、出かける前に家の前にいる。夜、帰ってくると家の前にいる。これが一週間続いた。さすがの奈津子も怖さと薄気味悪さを感じた。もちろん奈津子だってこの一週間、彼に会わないように色々と対策を立てた。いつもより大分早めの時間に帰る、いつもより遅めの時間に家を出る、友人の家に泊まる。しかし、奈津子が姿を現さない度に携帯に電話、メールが入り、返事をしないでおくと実家のインターホンを鳴らされる。そうなると話をせざるをえない。家族にも男関係で揉めていることがバレて恥ずかしいやら情けないやら。奈津子の派手な交際に普段何も言わない母親からも、
「男の掛け持ちはやめなさい。気の毒でしょう。」
と注意される始末だ。こんな日がいつまで続くのか。別れ話がここまで難攻したのは初めてだ。他の男とはもっと冷めた関係で別れ話もあっさりしたものだった。思い通りにいかない。それに怖い。本当に危害を加えられたらどうしようと、柄にもなく不安になった。
意を決して博明に電話をする。こちらから掛けるのは何日振りだろう。
「もうやめて。こんなことをされても困るよ。もう博明のこと好きになれないし、むしろ嫌いになりそう。」
正直に今の気持ちを言う。長い沈黙の後、
「…ごめん。困らせてるのは分かってたんだけど諦めきれなくて。もう別れよう。」
思ったよりあっさりと事がすすんで拍子抜けした。
「別れました。」
「やっと?!ずっとなっちゃんに会いに来てたんでしょ?大丈夫だった?」
沙希が心配そうな顔で聞く。
「うん、たいへんだったけど分かってくれたみたい。」
「博明さん、可哀相に…。よっぽどなっちゃんのこと好きだったのだろうね。」
しみじみと美紀が言う。
「早く立ち直ってくれることを祈るよ。」
昼休み中、奈津子の携帯が鳴った。嫌な予感がする。
「俺、もう死ぬことにするよ。奈津子がいないとやっていけない。」
博明からだ。背筋に冷たい汗が流れる。
「今、どこにいるの?」
冷静を装って聞く。
「駅のトイレ。血が出てる。今まで楽しかったよ、ありがとう。最後まで困らせてごめんな。」
「えっ、ちょっと、待って!」
電話が切れる。ただ事でない様子の奈津子を二人が怪訝な顔で見上げる。
「どうしたの?」
「博明が自殺したみたい、いや死んでないけど。どうしよ。」
頭が高速回転をする。色々な感情が出てくるが、整理をしている暇はない。今、自分がすべきことは彼を助けることだ。博明の実家に電話をかける。
「あら、奈津子ちゃん。博明がお世話を掛けてるみたいで。」
事情を知っているようで、機嫌の悪い声で彼の母親が出る。急いで事情を話す。大学から一時間半かけて最寄り駅に行くより断然彼の実家からの距離の方が近い。
奈津子の青い顔を見た美紀が奈津子を教室から皆に気づかれないように連れ出す。沙希もその後を追う。
「駅のトイレで手首?切ったみたい。今、彼の母親に見てもらうよう頼んだ。」
ええっ、と二人同時に驚く。二人は奈津子がこんなに慌てる様子を見るのが初めてだった。今まさに自殺を図ろうとしている人が身近にいるという経験も。
「生きてるって。きっと駅員さんも見つけてくれるよ。」
「うん、お母さんも探してくれてるし。最悪の事態にはならないよ。」
何て励ましたらいいのか分からない。二人の心中も穏やかではない。別れ話がこじれていることは知っていたが、まさかここまで事態が悪化していたとは思ってもいなかった。ましてや博明が自殺を試みるほどショックを受けているとは夢にも思っていなかった。
今、どんな状態なの?、何で自殺なんか…、何も死のうとしなくても、連絡はまだなの、不安の中に苛立ちが混ざる。
しばらくして奈津子の携帯が鳴る。
「おばさん?博明さん大丈夫ですか?」
「命に別状は無いわ。トイレで手首を血を流して倒れていたの。今は病院に運んでもらいました。」
「よかった、安心しました。傷はひどいんですか?」
「傷も浅いみたいで意識もしっかりしてます。ただ、心の方が…。」
「……。」
「あなたは学校にいて。病院に来なくて結構よ。」
そっけなく言い放たれて電話が切られた。彼の母親が怒るのも無理はないが、全てを奈津子のせいだとでも言いたげな態度に少し腹が立った。しかし、博明が大事に至らなくて本当に良かった。自分のせいで人が死ぬのは心苦しい。
「…大丈夫だった?」
美紀が恐る恐る聞く。
「うん、たいした傷じゃないみたい。病院で手当を受けてるって。生きててよかった。」
「良かった〜。安心したよ。」
「お見舞い行ってあげなきゃ。」
「う〜ん、おばさん、かなり私に対して怒ってるみたいだから行きづらいな。それに博明にも諦めてもらわなきゃいけないし。」
クールな奈津子が戻ってきた。
「いいの?一回くらい…。」
「メールだけにしておく。」
「でも、すごいよね。文字通り死ぬほどなっちゃんのこと愛してたんだね。」美紀がぽつりと言う。
博明が家の前にいない。当たり前か。今日は重い一日だったな、と思い返す。まさか博明が自殺を図ろうとするだなんて。そんなに私を愛していたとは。でも、これで私のことを諦められるだろう。見舞いにも行かない女のことなんか早く忘れてしまった方が良い。酷な言い方かもしれないがこれで博明と縁が切れて良かった。しかし、どれだけポジティブに考えてみても『自分のせいで人が死のうとした』この事実が奈津子を捕えて離さなかった。
死ぬほど誰かを好きになるなんて奈津子には考えられない。美紀もそんなタイプだな、とふと思い出す。心から誰かを愛す故、裏切られる度に心が折れる博明や美紀か、誰も愛さない故、振り回されることのない奈津子のどちらが幸せなのだろうか。そして私もいつか誰かを心の底から愛せる日が来るのだろうか。こんなことを考えていることが、博明の事件が奈津子の心に重く圧し掛かっている証拠だ。いつもの私らしくない。無理に頭から今日の事件を追い出そうとする。
腹部に腫瘍が見つかったのは博明の事件から数週間後のことだった。お腹は張るし便秘だし調子が悪いとは思っていたがまさか腫瘍だとは。医者が言うには良性の腫瘍なので命の危険は無いが取り出すために手術が必要らしい。それにしても最近運がない。しかももうすぐテスト週間だというのに。二人にもまた心配と迷惑を掛けてしまうが報告しない訳には行かない。
「しばらく入院するから学校に行けないの。テストも全部追試で受けることにするよ。」
奈津子が軽い口調で話す。
「休んでいる間のノート、プリントは任せて!」
「良性で良かった。頑張ってね。」
奈津子の明るい様子にほっとする。けれども、
「博明のことで罰が当たったのかな。」
独り言のように呟いた奈津子の顔が一瞬だが暗くなったのを二人は見逃さなかった。
これから病院だから、と言って休み時間に席を立つ。
「神田さん、今日もさぼり?!」
和田が大げさに聞く。
「病院行くから今日はさぼりじゃないよ。」
「妊娠でもした?!」
「バレた?」
笑いながら奈津子が教室から出て行く。
「なっちゃんが言うと冗談に聞こえないよね。」と、沙希。
「また変な噂が流れなかったらいいけど。」
沙希と美紀が小声で笑う。
「最近、なっちゃんついてないね。」
「博明さんのこと反省してるみたいだよね。珍しく。」
「うん、私もびっくりした。あのなっちゃんが。」
「でも博明さん、可哀相だなって思っちゃった。振られるの辛いの分かるし。しかも原因は恋人の浮気。そりゃあ、すごいショックだったと思うよ。私には自殺するような度胸ないけれど。」
美紀が言う。
「なっちゃんも自分が原因でまさか自殺するとは思ってもなかっただろうしね。」
「博明さんの一件が終わったと思いきや次は病気かぁ。」
「なっちゃんも本当は辛いだろうね、心配。」
「私達の前では絶対弱音を吐かないから余計に心配だよね。」
入院先の病院が決まった。急な手術なため引き受けてくれる病院が少なく、結局新幹線で行かねばならない遠い病院に決まった。手術は失敗の可能性は限りなく低いものだが気持ちは重い。家族には心配を掛けたくない、仕事で忙しい藤森や友達には弱気でいるところを見られたくないので誰にも辛い気持ちを吐露できず平気な顔で振舞った。手術の不安だけでなく、『自分のせいで人が死のうとした』という事実もまだ心に突き刺さったままだ。沙希と美紀も心の中ではそんな目で自分を見ているかもしれない。入院が長引いてこのまま留年してしまったらどうしよう。様々な不安がおしよせてくる。目頭が熱くなる。涙を急いで振り払う。
検査や準備で学校を休む日が増えた。沙希と美紀と、ろくに話もできないまま入院する前日の晩になった。明日大学では大切なテストがあるはずだ。本来ならば奈津子も今頃必死で勉強しているはずだ。追試で苦労しそうだ、と思いながら入院の準備をする。
メールの着信音が鳴る。沙希からだ。
「忙しいときにごめん。外に出てこれる?」
午後8時。まさか、と思いつつ部屋着、スッピンのまま玄関を出る。二人がいた。何で?テスト前なのに。
「はい、これ。入院する時に着てね。後これも。」
美紀からパジャマと病気平癒のお守りを渡される。
「二人共、テスト前じゃ…。」
「簡単にお見舞いにも行けないから今、来ちゃった。」
二人が笑いながら言う。いつもテスト前には必死な美紀と沙希だ。けれど、決して二人の家から近くない奈津子の家に来てくれた。
「たいへんだと思うけど頑張って。手術、絶対成功するよ。」
「嫌なことがあった後は良いことがあるって言うし。」
二人が励ましてくれる。目頭が熱くなると同時に心の奥が温かくなるような感じを覚えた。このまま大声で泣いてしまおうか。
「ありがとう、実は珍しく落ち込んでたの。だから二人が来てくれて本当に嬉しい。」
素直に気持ちを言葉に出せた。もし二人が同じ状況であったら私も同じことをしていただろうか。いや、きっと励ましや心配はするだろうが大事なテスト前にわざわざ家まで見舞いに行くことはなかっただろう。まるで周囲に無関心の自分が恥ずかしく思えた。何かと派手な自分が周囲に受け入れてもらえるとは思っていなかったし二人もそうだろうと勝手に思っていた。辛いとき友達が傍にいてくれることでこんなにも心強く、また嬉しく感じるとは。誰かに、この二人にだけは嫌われたくないと思ったことも初めてだった。
入院当日。奈津子の足取りは軽かった。恥ずかしながら自分が窮地に陥って初めて人の大切さを知った。入院ついでに自分の生き方を少しは反省しようと、これまた珍しく謙虚な気持ちになった。