美紀の章
<美紀の章>
何でこうなるの、半分泣きそうになりながら時計を見ると6時だった。ほとんどの同級生は終了時刻の5時までには自分の実験を終えて帰って行ったので実験室には美紀を含め不器用な生徒が数人残っているだけだ。興味もなく意味もあまり分かっていない実験、それに加え失敗。もう嫌―!これは罰ゲームか何かかしら。
「畑中さん、もう終わりかけじゃん。俺、まだまだかかりそう。」
隣の谷口がしょげ返っている美紀に声を掛ける。
「疲れたね〜。不器用ってこういうとき困るよね。」
「分かる分かる。俺、研究職につきたいから本気で困る。」
笑いながら谷口が言う。その口調は拗ねた様子もなく明るかった。不器用でも研究者になりたいだなんて思うんだ、と美紀は意外に感じた。やはり興味を持てないことに問題があるのだろうか、と自分と谷口を重ね合わせる。
7時になってようやく解放された。実験なんて大嫌い。白衣は燃えるわ、ビーカーは割れるわ、ナイフで手を切るわ、悪いことづくめだよ、と今までの散々な大失敗を思い返す。我ながら情けない。
「お疲れ、頑張ったね。美味しいパスタでも食べに行こう。」
おそらく2時間程、待っていてくれたのだろう。健が校門脇に車を止めて美紀を迎え入れた。
「もう嫌〜。疲れた。」
「ハイハイ、辛かったことは忘れようね。なっちゃんが美紀の不貞腐れた顔見て笑ってたよ。」
「なっちゃんも、健も器用だもんね。私の気持ちなんか分からないよ。」
「たまたま早くできただけだって。」
頭を撫でられる。優しい彼氏がいてくれてほっとする時はこういう時だ。一人だったらきっと泣いて帰っていただろう。
「美紀は働かなくていいのだから頑張らなくていいよ。俺が養ってあげる。」
本当かどうか分からない言葉だが嬉しくてつい機嫌が良くなってしまう。健のお嫁さんになるために花嫁修業は頑張るね、と思う一方、また彼氏に依存してしまう自分が嫌になる。
「おはよ〜。眠いよ〜。」
「私も昨日のクラブで体が重いよ。筋肉痛?」
と、沙希。
「お疲れ。また筋トレ?すごいねー。運動なんてここ二,三年ちゃんとやってないよ。」
「やばいよ、それ。早死にするよ?」
と、マスカラを塗りながら奈津子。
「なっちゃんもクラブしてないじゃん。」
「ジム行ってるもん。ジム行ったら?楽しいよ、痩せるし。」
運動は汗かくから嫌いなんだよね、と言いながら席に着く。早死には避けたいけど。
バッチリ化粧ですっかり変身した奈津子と教室を出る。
「沙希、真面目だね〜。」
「ホント、ホント。ていうか、私達が不真面目なだけだよ。」
「アハハ、確かに。」
「なっちゃん、どこ行くの?」
「図書館でテストの勉強する。教室うるさいし。授業聞いてないから意味ないしね。」
もうすぐ大きなテストがある。これはペーパーテストなので手先の器用さは関係ない。
奈津子と別れて美紀は教科書を買いに本屋へ向かう。授業を聞いていないのでテスト前必死で勉強するしかない。テスト前に授業の内容を自分でまとめて必死で暗記する二人のような不真面目な輩を真面目な同級生達は気にいらないようだ。彼らは授業を毎回真剣に聞いているのでテスト前も焦らないですむらしい。もちろん成績も上位者揃いだ。特に彼らと接触した覚えはないのに鼻白まれているのは正直、気分が良いものではないが。
もちろん、美紀と奈津子だけが不真面目な訳ではない。美紀の学年では真面目組、不真面目組が半々くらいいる。しかし、不真面目組の中でも二人はペーパーテストの成績は良く追試にかかるようなヘマはしたことがなかった。
真面目な沙希も、私達二人といるのが嫌なのかな。そんなことが頭に浮かぶ。奈津子に相談しても「嫌なら離れていくでしょ。」と、クールに流されそうである。テスト前は沙希のノートやプリントの書き込みを図々しく頼ってくる二人を沙希が疎ましく思っていても不思議ではない。沙希が嫌そうな素振りを見せたこともないので余計に不安になってくる。ちょっとしたことが引っ掛かって気分が滅入ってしまうのが美紀の性分だ。出来るだけ教室にはいようっと、と思いながら教室へ戻った。
お昼は三人一緒だ。
「今度のクラスの飲み会行く?」
「そういえば、そんなのあったね。来週だっけ?」
「私、健も出るから出席するって返事したよ〜。」
「美紀ちゃん行くの?じゃあ行こっかな。」
「私、その日バイト入ってる…。」 と、沙希。
「さぼっちゃえ!」と、奈津子。
「無理無理。行きたかったのにな。」
「えー、沙希ちゃんも来てよ!」
いきなり後ろから今回の飲み会の幹事でもある和田が入ってきた。お調子者でクラスのムードメーカー的存在だ。もちろん不真面目組である。不真面目組の彼が幹事をしたため真面目組のメンツが少ないらしく人数集めに奔走しているようだ。
「意外に人、集まらないから呼びかけてるところ。」
「あの辺、来なさそうだもんね。」
と、真面目組の方を見ながら奈津子が。
「うん、来たらいいのに。たまには交流を深めたいからクラス会にしたのにさ。」
和田が口を尖らせながら言う。
「じゃ、二人参加ね。ありがと。」
和田の仲間の賑やかな連中が飲み会のメンバーの大半であろう。盛り上がる飲み会になりそうだ。
「盛り上がりそうだね。」
と、嬉しそうに奈津子。
「うん、盛り上がり過ぎそうだよ…。」
飲み会当日。健と一緒に安っぽい居酒屋に入る。健の隣に座るのもなんだか気恥ずかしいので奈津子の隣に座る。健はいつの間にか美紀の正面に健の仲間と一緒に座る。和田の「乾杯!」で宴会が始まった。ビールを飲もうとすると健にサッと取り上げられる。
「美紀は酒弱いから飲んじゃダメ!」
酒は嫌いだし付き合い程度に飲もうと思っていただけなので素直にグラスを置く。それを見ていた和田にすかさず冷やかされる。
「おっと、早速いちゃついちゃうの?!ていうか、畑中さんって旦那探しに大学来たってマジ?」
と美紀に聞く。
「そうだよ〜。薬学部向いてないから目標をお婿さん探しに変えたの!」
笑い声が聞こえる。
「でも、離婚されたら生きていけないから薬剤師の資格だけでも頑張って取ります!」
おどけて言う。
「離婚なんかしないよなー。」
と、和田が健をニヤニヤしながら見る。
「それはどうかな。」
健も冗談で返す。奈津子が楽しそうに、
「美紀ちゃんと健君、ホントに仲がいいよね。別れるとか考えられないよ。」
嬉しいことを言ってくれる。
「いや、ホント別れられたら生きていけないよ。3年前の失恋で振られる怖さが良く分かった。なっちゃん、振られたこととかなさそうで羨ましいよ。」
「あ〜。美紀ちゃん、あの時やばかったね。欝病になるんじゃないかって心配だったよ。彼氏とかすぐできるって。本気になれるかどうかは別だけど。」
「なっちゃん、モてるからそんなこと言えるのよ〜。今の人、本気じゃないの?年上だっけ。」
さりげなく、今まで聞いたことのない奈津子の恋愛事情を聞いてみる。
「そりゃあ嫌いじゃないけど、本気でもないなあ。向こうが二股してても何も感じないだろうしし。こっちだって彼氏増やしたいし。」
悪戯っぽく笑う。美紀にとっては信じられない恋愛だ。沙希は言うまでもない。今まで付き合った相手は皆本気で好きだったし好きでいてくれた。美紀は二人に慣れすぎて一人になれない。依存してしまっている自分が情けない。一人になるのが嫌で自ら別れを切り出したこともないので、振られた時のダメージは大きかった。それを奈津子に話しても分かってもらえないし、軽蔑されるのも怖いので言わない。クールに振舞える奈津子が羨ましい。本気になれない恋愛は楽でいいな、と思う反面、寂しくないのかなとも思った。
気が付けば奈津子は横の派手目な男子と盛り上がっている。いや、むしろいちゃついているように見えるのは気のせいだろうか。
「なっちゃんて、キャバ嬢だったってマジ?」
藤田が奈津子に酔っ払っているのか大声で聞く。奈津子も酒が入っているせいでテンションが高い。普段は隠しているが、
「昔ね〜。もうしんどいからやめちゃったけど。」
と。ええっ?!あの噂は本当だったのね、と心の中で驚く。奈津子のドレス姿を想像する。確かに似合いそうだ。話も上手いし、色気たっぷりだし、客の指名も多かったのではないかと思う。
「じゃあ今の年上の彼氏って昔の客?金持ってそうだな〜。」
「若い彼氏も欲しいな〜。」
面白そうな話題を嗅ぎつけて奈津子の周りに男子が集まる。調子に乗って奈津子も普段は語ろうともしない彼氏のことや昔のバイトのことを面白おかしく話している。奈津子、お酒大分飲んでるけど大丈夫かな、変なことにならなきゃいいけど。心配だがあのうるさい輪の中に入って行く気もおこらない。
一次会が終わりニ次会へ流れる。美紀は門限があるので一次会で帰らなければいけない。奈津子に一緒に帰ろう、と声を掛けるが二次会に行く〜、と美紀をスルーして楽しそうに和田と話し続ける。健も一緒に一次会で抜け、駅まで送ってもらう。奈津子が気になるがしょうがない。
「なっちゃんをちゃんと家に帰してよね。」
和田を睨みながら皆と別れる。
「昨日大丈夫だった?ちゃんと家に帰った?」
「帰った帰った。う〜飲みすぎて頭痛いよ…。」
奈津子が苦しそうにトイレへ向かう。その間に怪訝な顔の沙希に昨日のことを説明する。
「大分、ぶっちゃけちゃったみたいだね、なっちゃん。私達でも普段滅多にそんな話しないのに。」
「二次会、女の子少ないのに行っちゃうし、心配してたんだけどちゃんと家に帰ったみたいでよかった。」
「なっちゃんって謎が多いよね。そこがなっちゃんっぽいけど。」
「あんまり自分のこと話さないよね。」
「うん、昨日大分、飲んでたからね。珍しく饒舌だったよ。」
「うわっ、なっちゃんの詳しい話、興味あるけど何か怖いなあ。あまりにも私とかけ離れてて…。聞いてる分は面白いけどね。」
「沙希には理解しがたいと思うよ。」
「私もそう思う。あまり深く追求しないでおこうっと。」
「悩み相談とかもされたことないよね。」
「そう言えば。ただ悩んでないだけかもしれないけど。」
二人で笑う。楽観的で好奇心旺盛な奈津子が美紀、沙希にとって羨ましく見える時がある。向こう見ずな行動は心配ではあるが。彼女は人の目等、気にせず我が道を歩いていく。見習いたい部分もあるが、ほとんど真似できない。普通の女子大生の日常とかけ離れた奈津子のことを、とやかく言う連中もいるが美紀と沙希は奈津子のことが好きだ。
少し変わった友人であるが、二人に出会えたことと健の彼女になれたことが、薬学部に入った唯一のメリットだと美紀は思った。