いびき
「いびき」
ぐがぁあ、ぐごおおお。まるで豪雨のような、はたまた掃除機のような騒音が美津子の鼓膜を震わせた。美津子はすぐ隣で寝ている夫を家畜同然に睨んだ。
ただでさえ神経質な美津子は夫のいびきのせいで不眠気味であった。通販で高級耳栓も試してみたが駄目。微かに聞こえてくる振動ですら耐えられなかった。
ぐおぉおお。ぐがぁああ。
ああこのまま首を絞めてやりたい。美津子はそんな事を思う自分が醜い化物のように感じて、一時は自分がキッチンの床で眠って我慢した事もあった。が、それでは体調不良をきたすばかりか、余計に夫への苛立ちが募る一方だった。
夫には何度も手術を進め、それにいびきを治すグッズも試させた。だが夫は一度使ったきり。挙げ句の果てには「イヤフォンで音楽をかければいいだろう」と言う始末。
美津子にとってこの時間が苦痛でならなかった。おまけに互いに稼ぎは少なく、住んでいるのは狭いアパート、一間の部屋であった。
「おい、うるせえな!この豚」
美津子は一度夫の背中を蹴り飛ばす。しかし夫は何事もないようにいびきを鳴り響かせる。もう一度、今度は強めに蹴る。ドン!今度は夫が「ひどいなぁ」と泣き言を言った。ひどいのはお前の方だ、と美津子は思った。夫のいびきはしばらくは止んだがまた大きな音を立てて豚のような声を鳴らした。
美津子は耳をふさぎ、髪をかき乱し、またもや夫の背中をどんどんと何回も蹴った。
すると夫の声はしんと、静まった。ようやくゆっくり眠れる。美津子は微笑みながら目を閉じ、それから数分後にはゆっくり寝静まることができた。安楽の時が過ぎ、朝がきた。夫は一足先に起きてカーテンを開けていた。
美津子は声をかけようとする。その時違和感を覚え、喉元に手を抑える。
声が……聞こえない。
美津子は試しに大声を上げてみる。何も聞こえない。夫はびっくりして何やら喋っているが、それも美津子の耳には届かなかった。
夫は慌てて「みつこ」と何度も唇を象っていた。だがしかし、どこまでも終わりなき沈黙が美津子を包み込むだけであった。
完