001 ああ…恨めしい…
「ああ…恨めしい…」
東京都某所。秋の入り。
逢魔が刻近づく帰宅の頃合い。
さほどに大きくもないビルの屋上に、ひとりの女が立ち尽くす。
「恨めしい、恨めしい」
呻くような声は雑巾でも絞ったかのようだった。低く淀んだ恨み言。尽きることなく浮かぶ呪詛の数多。
今、彼女の手には藁人形と金槌が。懐より取り出したるは五寸釘。
「…」
眼下に広がる往来をねめつけたあと、彼女は屋上の床に藁人形を投げ捨てて、それをじっと見つめていた。そして…。
「キィイイイエエエエエエエエエエエエエェェェェッッッ!!!!」
恐ろしい奇声と共に藁人形に覆いかぶさり、五寸釘を激しく打ち付け始めた。
当然ながら彼女の非力ではコンクリートの床に五寸釘はめり込んでいかない。しかし、誰かを呪うに十分な行為であったことは誰の目から見ても明白だった。
「の、呪って、やるぅ!!馬鹿共、めっ!!不幸になってなってなり果てて!!この世のっ!!地獄を見る、が、いい!!」
普段から運動をしない彼女には、五寸釘を打ち付けるような行為はかなりの負担となっているのは間違いない。それゆえ、声も途切れ途切れだったが、何者かに対する怨念がそれをやめさせなかった。
彼女の名前は曾根田 恩子。今年24歳になる社会人で、短大を卒業後に中小企業に就職した現役OLである。
性格は意外とさっぱりしていながらも、基本的に他人に対しては根暗で付き合いにくいタイプ。所謂、個人的な付き合いなどはほとんどなく、自分も他人が苦手ならば、人々も恩子のことを忌避しがちだった。
口癖は恨めしい。良くするクセは爪を噛む。所謂"陰キャ"であった。
さて、そんな友だちもいなければ会社でも孤立しがちな彼女が今回呪っているのは、日本全国の幸福な人々とそして、社内にはびこる世渡り上手な同僚たちである。
あるときは先輩にいい顔をし、あるときは上司にいい顔をし、あるときは営業先の幹部にいい顔をする。そんないけ好かない女性社員がいた。まぁ、それだけならば上手く立ち回っているやり手の社員とも言えるのだが、この女性社員、なぜか恩子にだけは包み隠すことをしようとせずに嫌味な態度を取ってくる。それが彼女は異様に気にくわないと言うわけである。
そんな相手に呪詛をまき散らしながら、眼下を行き交う大衆にも"ついでに"呪いを放ちまくる。いい迷惑である。
「はぁ、はぁ…っはぁ!」
随分とたくさんトンカントンカンと五寸釘を打った恩子。しかして、釘は全く刺さってはおらず、彼女が手を離して力を抜いたときにはコロン、と転がってしまった。
「はぁはぁ…ふ、ふふふ!くきききぃ…っ」
体をカクカクと不気味に震わせながら、恩子は気色悪い笑い声をあげた。壊れた人形のような挙動である。
「ふひひは…私とて、貴様らと鳴れ合う気なぞ毛頭ないわ」
どうやら呪い行為に納得したと見えて、一応の落としどころを見つけたらしい。
そうと決まれば、恩子はすぐに後始末に入る。呪い道具たる藁人形と、金槌と、そして五寸釘を拾わねばならぬ。
持っていた呪いバッグに金槌をおさめ、五寸釘が貫通した藁人形を拾い上げた。と、その時。
「あ」
藁人形に刺さっている五寸釘を持った拾い上げた途端、藁人形がすっぽりと抜け落ちてしまった。しかも、タイミングの悪いことに冷たいビル風が急激に噴き上げてくる。
「な、なんとぉ!」
恩子は己のスカートが捲れ上がることに同様する程度の女子性をまだ保持していた。しかし、それゆえに風に抱かれて床を這う藁人形を見過ごしていた。
まるで意思を持ったように藁人形がするするとコンクリートの屋上床を這って行く。
「ま、まま、待ってぇ!」
強風ゆえ、ホラー映画の一部始終のように四つん這いになって藁人形を追いかける。だが、なおも藁人形は勇み進んで歩みを止めぬ。ついには屋上の淵まで来て、恩子もびくりとした。
この趣味だけはバレてはならぬ。幼少のみぎりより連綿と鍛え上げてきた独学の呪術。最近は巷で幾分にも需要が出てきたと聞くが、何らかの漫画かアニメの影響だろうか。
ともかく、いつもいつも時間があってストレスが溜まれば行っている呪い行為がバレては社会的に終わってしまう!
まことに無様な体勢である。四つん這いのまま腕だけ伸ばして、地面に這いつくばるようにしたところでようやっと藁人形を捕まえた。
「くひひひ…わりゅ…悪い子だぁ」
噛んだ。
なんとも気色悪い笑顔で藁人形を見つめる恩子。その顔にはじっとりと汗が浮かんでおり、相当焦ったことが伺えた。中小企業とは言え、落ちれば確実に死ぬ高さ。高所恐怖症でなくとも緊張はする。
運命、とでも言うのだろうか。
それとも、このときから既に呪いに導かれていたのだろうか。
それはとてもおかしな出来事だったと言える。
大の大人の女が力強く握り締め、抱きしめた藁人形がどうして、そこから解き放たれたのであろう。筒抜けるはずのないヒトガタが、なにゆえに今一度、宙に舞い出たのだろう。
そして。
どうして恩子は死を顧みずにそれに手を伸ばしてしまったのだろうか。
気付いたときにはもう遅い。
藁人形は建物の屋上から飛び出し、恩子の体は飛び降りるようにしてそれを追った。
視界の暗転は瞬く間だった。
死んだ。ただ、そういうこと?
………。
は?
「はっ」
まるで全身麻酔の直後であった。
眠り落ちたかと思えば、次の瞬間には瞬きのごとく目を覚ます。その間に何があったのか、何時間経ったのかも分からない。だが、とにかく目は覚ませた。
「…死んでない?」
己に問うてみる。
意識はある。死が如何なものかを知り得ぬ以上、生きているのか死んでいるのかは定かではない。しかし、ともかく視界は良好である。
満点の星空が見て取れた。あまりにも静かで、あまりにも暗い。しかし、星も三日月も良く見える。
次に、自分がどのような姿勢でいるのかを確認する。
仰向けに寝そべっている。地面はじりじりと鳴っていた。どうやら土の上に寝転がっているらしい。
「うう…」
起き上がってみると、背骨がバキバキと鳴った。
四肢が痛いのだが、外傷や重症はなさそうだった。
ともかく立ち上がる。
「ど、どこ…ここ」
月夜の次に目の前に広がったのは、ぼろぼろに破壊された村…もとい、廃村であった。
瓦礫同然となった建屋は石造りで、さながらヨーロッパの片田舎のような趣である。
オロオロ・キョロキョロとしながら歩き始めた恩子。体のあちらこちらがなまっているようで痛かったが、立ち尽くしているわけにもいかない。誰か人がいないか探し始める。
「あぁのぉ~…だ、だぁれかぁ、いません、かぁ~…?」
頑張っているのだろうが、あまりにも声が小さい。これでは誰かいたところで出てくる可能性は希薄だった。
幸いにも夏場。肌寒さがないだけ幸運だった。…夏場?
恩子は立ち止まって思考した。今は確か秋の入りだったはずだ。こんなにむしむしと暑いはずがない。そう言えば星座もどこかおかしい気がする。特別、天文学に明るいわけではなかったが、オリオン座のように良く見る星座も確認できなかった。
途端に怖くなる。本当にここはどこなのか。慌てるべきなのだろう。落ちて死んだと思ったら、見たこともない廃村。しかも星々も見覚えがない。ここは別天地で、季節は夏。
と、そのときだった。
廃村の出口の更に向こう、暗い草原の中をこちらに向かってくるヒトダマが見えた。
しかし恩子、そのヒトダマに恐れを抱くどころか、足早にそちらに向かって走り出した。
「あ、あのう…っ」
あれは火だ。火が動くならばそこに人がいるのは当然のこと。そう思い彼女は駆けだしたのだった。少しばかり走ると、みるみるうちに火はこちらに近づいてくる。どうやら恩子が走るよりもよっぽど早くこちらに向かって来ているようだった。
「へぇ、へぇ」
恩子はというと、全く不甲斐ない様子で走り、肩で息をしている。昨今の呪い好きOLの運動不足も由々しき問題である。
人影が見え始める距離になると、その人数が確認できた。4、いや5人ほどいる。あれだけの大人数がいるならば自動車で移動してきた可能性も大いにあるだろう。
助かった。そう思った。
「こっち来ちゃいかんよ!急いであっち向かって走って!」
叫ぶような怒号。女性の声だった。もちろん恩子ではない。
あっけにとられた恩子は目をまん丸にして立ち止まってしまった。それもそうだろう。向かってきたのは布や皮で出来たおかしな服装の男女数名。手に手に松明を持ち、腰には剣を佩いているではないか。
危険人物。真っ先にそう思った恩子だったが、逃げる時間はなかった。先頭をきって走ってきた女性が恩子の腕を取って、お構いなしに走りだした。
「ちょっちょっちょぉ!?」
「もちっと速く走れんかね!そんな悠長決め込んでたら死んじまうよ!」
「は、は、離して!」
当然、恩子の話などお構いなしに女性は駆け抜ける。
同じく駆ける面々が語気を強めて言った。
「おい!何でこんな場所に人がいる!?」
「知ったことか!おい、駄目商人!そんな女は放っておけ、俺たちまでやられちまうだろうが!」
すると、恩子を捕まえている女性が声を張り上げた。
「駄まらっしゃあい!!義理も人情もありゃせんねぇアンタ方!!高ぇ金払ってんですよ!?ちっとは頑張って下さいよ!!」
それに対し、またも怒号。
「あんなモンがこの辺りに出るなんて聞いたこともなかったんだ!備えがないんだからしょうがねぇだろ!!」
女性はそれに舌打ちで答えるばかりで、今なおすさまじい速さで駆けていた。
「うわぁああああああああああ!!!!」
夜闇と夏の暑さをつんざくような叫び声。本気で人間が生命の危機を感じたときだけ発する悲痛の声。聞こえた瞬間、恩子の心臓は小さく固まり、全身に氷を詰められたような怖気を感じた。
「やべぇ!ひとり足を掴まれた!」
メンバーの中の男が叫ぶ。女性と恩子は二人して走りながら背後を見やる。
そこにいたのは、まごうことなき化け物だった。
四つん這いで動き、ドロドロとした肉体を引きずるようにして走り回る異形。
異臭を放つ巨体は自動車よりも大きく、目は赤く光り、口は大きく開かれてニタニタと笑っている。
背中や腹といった肉体からは無数の腕のようなものが生えており、うねうねと気色悪い動きをしていた。
女性の手に力がこもり、恩子は痛みを感じる。
「クッソがぁー!なぁんでこんな場所にレジェンダリー級のスライムがいるんだっつぅの!!ああ!!死にたくねぇ!死にたくねぇよー!!」
叫ぶ女性を後目に恩子は思う。なぜ誰も捕まってしまった男性を助けに行かないのだろうか?
モンスターは捕まえた男性ににじり寄ると、大口を開けて下半身に喰らいついた。
「いぎぃああぁやぁああああぁ!!たす、助けて!!助け…ぎゃああああああ!!」
捕食された男性は、下半身が白骨となっていた。正確には血まみれの骨だったが、どちらでもよい。もはや助かる見込みはないだろう。あのモンスター…もといスライムに食われれば、あのように骨から肉がこそぎ取られてしまうようだ。
捕まるわけにはいかない。そう確信したとき、恩子の足にも力が入った。
だが、その瞬間。
「え」
暖かな感触が胸を貫いていた。自然と、周りの歩みが止まった。
恩子の胸からは、あのスライムの触手が伸びていた。
抜いてはならない。そう思った。それを引き抜いてしまえば、胸には本当に何もなくなってしまう。死んで、しまう。
しかし無情にもズルリと引き抜かれた触手。前後に揺れた後に倒れる恩子。叫ぶ面々。
もうここでやらなきゃ全員死んじまう。
そんな怒鳴り声が聞こえてきた。男の声だったか、女の声だったか。
眠い。仕事に行く前の朝のように眠い。
伸びてくる手が見える。
そして。
どうして恩子は死を顧みずにそれに手を伸ばしてしまったのだろうか。
気付いたときにはもう遅い。
手を伸ばす人影は恩子を担ぎ上げ、恩子の体は傷もおかまいなしに揺られた。
視界の暗転は瞬く間だった。
死んだ。ただ、そういうこと?
………。
は?




