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迷宮回路と不可視なるヒロイズム

作者: こうあま

 遠い歌声は、幻聴だ。

 実際には自分にだって聞こえていなかった。ただ「そこにあるように感じたい」だけのものだった。

 存在するのかわからないもの、自分だけの五感にさえ、とらえているわけではないもの。その多さに辟易して、それを知らずに生きている自分の鈍感さを嫌悪して、少しでもわかっているふうでいたくて。

 頭の片側の痛みは、幻覚ではない。

「あと何回……」こんな痛みを覚えるのだろう。

 初夏にしては涼しい風が、こころとからだの昂ったところを諫めるように吹いている。せせらぐようなこずえの音は確かな振動で、どこからかくゆるお香の匂いが、一緒にその澪を流れてくる。鳥が鳴いた。

 自室は一瞬の安堵をもたらすけれど、そこにこもっていては生きられない。それでもこもらざるを得ないひとびとがいるという事実がそこで頭をよぎって、そうやって思考の分岐を辿ろうとしすぎる己の状態に脱力した。

 ちからなんて入らないくせに、吐ききれないほどに息を吸いすぎて、指が震える。なにごともうまくいってない。息を吸いすぎたらいずれ視界が翳って、見えているものさえ見えなくなってしまうのに。

 ――あと何回。この心境に、状況に、戻ってくるんだろう。

 見えないものを見ないままでも。聞こえないものを探さなくても。そんなの仕方ない。見えているもの、聞こえているものをちゃんととらえて、自分の身を処しているなら立派なものだ。

 きちんと休めば、きっとまたそう考えられるようになるだろう。そもそも世の中には見えるはずのものが見えない人も、当然聞こえることが聞こえない人も、ついでに幻視や幻聴のある人だっているけど。ああまた分岐を辿ってる。

 疲れているから、自分の身を自分で保てないから、今だけ探しているに過ぎない。複雑すぎる脳の回路を制御できなくて、そこかしこ全部電気信号が走り回ってスパークしたような、飛び散る花火の粉を浴びて。そこから探し物なんてばかげている。

 つないで紡いで、鏡になんかならない呆けた言葉ができあがる。

 だけどその言葉はたぶん、わたしが普段捉えられない「そこにあるように感じたい」ものの声――正しくはそうあってほしいと、わたしが願うもの――だ。


「ユクエさん」

 名を呼ぶ声は、幻聴だと思った。

 一拍遅れて認識を改めたのは、幻視はしたことがなかったからだ。窓の外に『ヒーロー』の姿があった。

「あっ……」

 久しぶりに姿を見た。

 そうだ、わたしがこうやって実家の部屋にこもっているときにしか、会えるはずがない人なんだ。この人は、私の休日や夜を邪魔したことはない。加えれば家族がいるときに来たこともない。わたしひとりがこうして小さいころから使い古したベッドに寝ているとき、出窓越しにそっと現れる。

「久しぶり」

 朗らかな表情に、いつも涙が出そうになる。

「ユクエさんは泣き虫なんだなあ、相変わらず」もう何度めかのせりふだと思う。その優しい言い方がいっそう目元に熱を導いて、結局涙を止められないのも毎度のこと。

「ちが……あなたくらいだよ」

 そう、と短い相槌が受け止めてくれる。ほとんどパニックと一緒で、泣きたいわけでもないわたしの落涙を、彼はそれ以上強要したりしない。寝そべったままで、窓の外から丸見えなわたしの泣き顔をのぞき込むことも。

 落ち着いて体を起こした頃に、静かに言う。

「休んでいるの?」

「……そう。また」

 窓を開けて招き入れた。ベッドの縁に並んで腰かける。

「だんだん疲れて、苦しくなって……ってもう、言うまでもないけど」

「何度でも。同じじゃないよ」

「ううん、同じだなって思うの」

 ヒーローは交通警備の人みたいな格好をして、頭はヘルメットじゃなくゴーグルと耳当てが一体になったようなものを着けている。その姿があまりに変わらなかった。出会った頃から若い青年という風貌で、あの頃わたしは学生だったのだから十年近くに経ているはずだけど、彼が歳を経ているのかよくわからない。どこか現実離れしている人だった。わたしの状況や、数年に一度に過ぎない邂逅が、そう認識させるだけかもしれないけれど。

「また何度こうして……振り出しに戻るのかな」

「振り出しなんだ?」

「うーん。リセットというほどすっきりもしないし」

 ふうんと笑って、彼は手元の道具を撫でる。筒状の長い棒、持ち手と引き金のようなものがついていることから、オモチャのような造形に目をつぶってもっともらしく連想すればおそらく銃。切れ目や繋ぎ目があり、そこに耳当てと同じ色の光で信号が走っているのを見ると、もう少しファンタジーに考えたら変形したりするのかな、などと思う。どちらかというとSFだ。

 何にしたって空想趣味を持ち合わせていないわたしにも彼が現実離れして見える、そしてそれに説得力を与えて受け入れさせる大きな理由のひとつ。幻視なんてしたことがなく、妄想趣味がないはずでも、彼の姿はじつに奇妙でありながら、現実のものと訴えてくる。

 その目眩のするようなバランスは、

「……前に来た時と違って、傷ついていないね」

 ヒーローの表情、手つき、沈黙――そして今日はない傷。それらにあまりに生々しい血が通っているからだ。

 前に出会ったときは、絆創膏やらガーゼやら、あちこち治療の痕跡としか呼べないものがあった。剥き出しの怪我こそなかったけれど、ただならぬことだと語っていた。

 そのときわたしは、かれを『ヒーロー』と名付けた。後に少し悔やんだけれど、その名を撤回する気になれなくて、名を決して言わない彼のことを内心でそう呼び続けている。

「あのときがたまたま。いつもあんなんじゃ、身が持たないよ。同じじゃないんだ」

 絶えず優しい微笑みが、何かを守り、人知れず戦っているのかと思わせる姿が、彼にその名を与えた。彼に会うときのわたしの思考回路はいつもオーバーヒート、もしくはセーフモードになっているようなものだし、そこから覚めた平素では結局本質に辿り着けない気がして、それ以外の名が一向に付かない。

 振り出しにいるわたしを知っていて、それを受け入れ慰めてくれる、彼は紛れもなく救いだと、それだけがわたしにとって、彼に感じられるすべてだ。

 平素のわたしの平日や、彼の休日や夜は、今目の前にいるヒーローとは、まるで分かたれたものなのだ。

「……泣いてるね、また。我慢してもいいことないよ」

 ちがう、と言いたかった。

 上手く生きられない自分への悲観に咽び泣いているのではなかった。彼を勝手にヒーローにしたことへの罪悪感に、耐えられないのだった。言えるはずもない懺悔がただ頬を伝って落ちていく。

 自分はどんな場面でも全人的に認められたいのに、彼からは同じく在れないように奪っている。

 彼はわたしのようなひとを、なぜ糺さずに許すのだろう? わたしを許し、いったい何と戦い、傷ついているのだろう――。

 温かすぎる手が、過換気にひくつく背中を撫でた。


 何度目かの療養がいつも捨てがたいのは、「そこにあるように感じたい」ものの影をいつも探しているわたしに、その実像を恐ろしいばかりでない癒しや救いとして見せるからだ。たとえその裏側に彼が、どんなに哀れな姿を隠していたとしても。

 わたしが平素見えないもの。地雷や兵器に、もしくは不足のある事故で奪われた手や足の、ひいては命の数。かいくぐり騙しあって日常を維持する、情報と信号の網の目。分断と依存が混じりあった貿易や政局の変化。シンギュラリティの日とユートピアの形を計算する人工知能。憎悪を扇動する仕組みと、洗脳じみた教育の手法。不幸と救済の不備を訴える眼差し。それさえ不可視とされてもなお大地を震わせるような、埋もれた慟哭。

 そして秘密のヒーローと、無数の黒幕。

 そんなのは、見通せなくて当然だった。健康状態ひとつで、そんなものがすべて見通せるならそれはもう、ヒーローさえ通り越している。

「ユクエさんが変わりなく悩んでいられるなら、それはまあひとつ、少しはいいことなんじゃないかな」

「へ?」

「だって。ゆっくり休める実家があるし。無収入ってわけでもないでしょ? 前に就職した時から一年以上経ってるもんね。無理解と貧困は療養の大敵だよ」一年とは傷病手当の受給要件のことを指しているのだろう。現実離れしたヒーローが、あまりに現金なことを言うのはどうにも面白かった。

「確かに……家族の理解がない人も、一年以上続けられない人もいるだろうけど……」

「いや、そういうことじゃないんだけどね」

 そういうこととは、より辛い境遇にある人と比べることだ。なぜわたしの考えがわかるのだろう。

 なぜ、わたしの考えをわかっていると感じるのだろう。

「……休んだり悩んだり、悪いことじゃないでしょ」

 おもねりへつらうためではない言葉に、うまく返事ができなかった。

 本当にそう考えている、そう考えられる人が目の前にいるのは心底ありがたくて、とても大切にしたい、相応の態度で報いなければならないと切迫する。そうだねと確信をもって言い切りたいとこみ上げる。

 そのくせできない。そんな自分への失望は、量刑を言い渡されるような、ヒーローに切り捨てられたような気持ちにさせる。

 ああ、軽蔑しないで。

 ぐるぐる回る思考さえ慈しむほほ笑みが、なおもわたしを許す。

「言えなくても良いんだよ」

 ヒーローはいつも長居をしない。立ち上がって耳当てを直す。

 窓枠から外に出ると振り向いた。

「――それに、俺を救うのは、そうやって苦しみ悩みながらも、見えないものを見続けようとするひとの姿なんだ。だから俺はあなたの前に来られるんだよ、ユクエさん」

 じゃあ、ゆっくり休んで。

 言い残してヒーローはあっさりと消えていく。

 頭痛は消えていた。


 脳裏でヒーローの残像を追いかければ、思考は分岐へ入っていく。

 それは彼に出会ったことで作られて、数年ごと会うたび先が作られる。

 ヒーローの言葉がその暗い洞窟の底のかたちを見せた。

 もし。わたしが「そこにあるように感じたい」と今は思っていることを、いつか求めずとも生きられるようになったとしたら。

 彼がわたしの前に来れなくなったら。

 彼は笑うだろうか。

 わたしは許されるだろうか。

 ――その背徳を。

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