なぜ世界は存在するのか
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なぜ世界は存在するのか。
世界が存在する理由はなんだろうか。世界は数億年前に小さな粒子が爆発することによって始まったと言われている。また、キリスト教では神が世界を創造したと言われている。
どのような語り方でも、世界は何もないところから始まったというわけではないことがわかるだろう。しかし、なぜ世界は存在しないのではなく存在するのだろうか。存在しないこともありえたのにどうして世界は存在するのだろう。
世界はもともとあったと考えてみよう。そうなると、今ある世界を仮にA世界とするのなら、A世界はB世界から生まれたのだと考えられるだろう。ではB世界はどこから生まれたのか、と問うならば、C世界から生まれたのだと考えられる。そうやって、A世界は無限な世界の生成と消滅の結果として生まれた世界であると考えるのならば、A世界が存在する理由は納得できるのではないかと思う。
しかし、なぜ「生成消滅を繰り返す世界が存在するのか」と問いたくなる人もいるだろう。だから、生成消滅する世界がなぜ存在するのか、という問いに対しては、神の存在を持ち出すより他はない。世界を無限にさかのぼっていけば、その遡っていく系列の外に出ることになるからだ。そうなると、世界を生み出した統治者を立てるより他ならないだろう。この世界の統治者は自らの力で運動することのできる存在とみなさなければならないからだ。
しかし、そうなると、神はなぜこの世界を現実世界として選んだのかという問いが浮かんでくる。この世界は無限な世界の生成消滅の結果として生まれてきた世界である。だが、無限な世界の生成消滅の結果として生まれてきたということは、どのような世界でも生成消滅の結果としての世界でありえたといっていることになる。例えば、この世界をA世界とするならばB世界でもありえたしC世界でもありえたはずだ。生成消滅の系列の違いによって、様々な世界でありえた可能性を考えることができる。しかし、この世界はA世界であるのはいったいどうしてなのだろうか。
アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言った。つまり、どのような世界もありえず「この世界」が現実世界になるべくしてなったのだと答えることになる。しかし、なぜ「神はサイコロ」を振らないなどと言い切れるのだろうか。むしろ、「神がサイコロを振らない」と考えるからこそ、なぜ神はこのA世界を現実世界に選んだのかと、問わざるを得ないのである。
そう考えれば、無限な世界がありえた中で、現実世界がこの世界であるのは奇跡としか言いようがないだろう。
奇跡であるということはこの世界において、あらゆる出来事について言えることだ。例えば、太陽が東から昇って西へと沈んでいくということにも言える。また、本初子午線を通るのがイギリスのロンドンであるということにも言えるだろう。太陽は西から東に昇るという世界もありえたし、本初子午線を通るのが日本の東京であるという世界もありえたからだ。
「いやそんなことはありえない」という反論もあり得るかもしれない。世界はなるべくしてなっており、他のような世界ではありえないと。確かに世界はなるべくしてなっている。もしそうでなければ、この現実世界はある時は太陽は西から昇り、またある時には太陽は東から昇るというような世界であることになってしまう。だが、問題なのは「ある時は太陽は西から昇り、またある時は太陽は東から昇る」というような世界がありえたかもしれないということなのである。つまり、世界はなるべくしてなっているからこそ私たちは、「なるべくしてなっていないような世界ではないのはなぜなのか」と問わざるを得ないのだ。
ではなぜそう問わざるを得ないのだろうか。この問いはいったい何に根ざして出てくる問いなのか。
世界AでもBでもCでもありえた中で、この世界がA世界であることに問いが出てこざるを得ないということは、言い換えれば世界Bであっても世界Cであっても「なぜこの世界なのか」という問いが出てこざるを得ないということである。A世界はB世界でもなくC世界でもないからだ。しかし、少なくともどの世界であっても唯一の世界でありえたということは断言できる。
これは宝くじに例えるとわかりやすい。宝くじは日本人の2億人が買うとすると、そのうちで1人が当たることは必然的である。これは「宝くじ」という概念から導き出されることであるから必然的なのだ。
だが、実際に宝くじに当たった人にとっては、2億人分の1の確率で当たったことに奇跡を感じるだろう。だが、これが奇跡であるのは宝くじに当たったのが「この私」であるからに他ならない。実際、私たちは誰が当たっていようが別に何の奇跡も感じないからである。宝くじに当たることが奇跡であるのは「私」が宝くじに当たるからに他ならない。また、その「私」を他の複数の「私」から区別するから、奇跡度みたいなものが上昇してくるのである。
そう考えれば、世界とは無限の宝くじのうちの一本の当たりくじみたいなものだと見なせるだろう。ということは、「どの世界」であっても「私」がいる限り、当たりの世界を引いたことに奇跡を感じるのは必然的である。
しかし、それを全くの偶然の出来事と解釈してしまうのは、「私」を「この私」として「他の私」から区別するからに他ならない。それゆえ、「なぜ世界は存在するのか」という問いは「なぜ私はこの私なのか」という問いと同じ問いであるということになる。これはいったいどういうことなのだろうか。
すなわち、「私はどの世界でも必然的に存在せざるを得ない存在である」ということ、これである。結局のところ、私が世界に存在してしまっていることが原因で、世界が存在することの謎が生じるのである。しかし、これは本当に謎なのだろうか。というのも、「私はこの私」として存在してしまっていることによって世界の謎が生じているのであるならば、「存在してしまっているということ」そのことが真理であるからだ。だが、私が存在しないということなどはあり得ない。「私のいない世界」など考えられないからだ。
しかし、私は「この私」でなくてはならない理由など存在しない。誰が宝くじに当たったとしても、誰も文句が言えないのと同じように、私はどのような私でもあり得たからである。例えば、私は田中博之でもあり得たし山田花子でもあり得たということである。そのような実存の不条理が「世界がどのような世界でもあり得た可能性そのもの」を作っているのだ。
言い換えれば、「この私」が「私」であることはなぜなのかと問えるからこそ、誰にでも共有可能な「一つの世界」というものの実在性を認めることができると言い得る。この問いは誰であっても生じる問いであり、そのことは「この私以外の他者の問い」でもあり得ることを認めることになるからだ。




