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歴史とDNA

海と陸の稲作ルート

作者: とびうお君

 過去陸稲の半島経由について語ってそれが間違いだったと訂正した。だが今回その間違いだった過去のエッセイに評価を貰った、何度も申し訳ないが、さらにまとめをしておきたい。


 過去の発言を訂正したのはすべてではないが、いくつかの華北での陸稲だと見られていたケースは水稲だった可能性が高い。それは陸稲の中で日本もそうだが水稲と混じったような古いタイプの陸稲があり、それらは水稲と変わらなく栽培できたのが大きい。そういった栽培を私は粗放稲作と読んでいる。谷や沢の条件がそろった水が自然にたまる場所や、またせき止めるだけで簡単に沼地のように出来る場所に簡易的な水田を作るケース。


 これはそもそもの稲の野生種がこういう場所で生育していたので当たり前と言えば当たり前の農法になる。陸稲だと過去思われていたものがかなりの割合で水稲だった可能性が指摘されていて、そういった場所を調査するとそういう沢地であるとの調査結果がでるケースが多い。じゃ何故それまでそういう視点が無かったのか?には2つの理由がある。


 中国は人為的、気候的に華北の環境が激変してるからになる。特に人為的には直接的な時代の流れが人の目で確認されている。ソ連もそうだが、共産主義的な計画経済で灌漑の失敗で不毛地帯になるという事が多発している。そもそも中国は歴史時代に漸進的に徐々に環境破壊をしてきた。それが共産主義時代にさらに加速してその時代を生きてきた人の証言で山東省の農地は激変しているらしい。


 半島はそもそも遺跡が少ないのでこういった地域全体の生産の根本が違うような包括的な話がしにくい。それでも丹念な山東半島、遼東半島、朝鮮半島の調査で陸稲だと思っていたのが水稲だった可能性が明らかになった。


 例えば、畑作の場所で米も見つかる。これは当然だろう収穫としては纏められるだろう。だが実際の栽培場所は別にあったとして再調査するとそっちから米のプラントオパールがみつかったりして、それは粗放稲作だったケースが多々ある。もっと突っ込むと弥生時代の前にそういった粗放稲作が半島にちらほらと広がっていてそれが分かりにくくしてるのと、または立地的に発展稲作が向かない場所で畑作+粗放稲作を展開するなどがある。例えば山地などの勾配がある場所がそれになる。


 さてまとめでさらっと触れた問題の陸稲だが、長江から栽培種が見つかったのは間違いない。だが野生種は長江には日本のものより発展したものしかない。これが栽培種の先祖がえりなのでは?との問題点を指摘する人も一応いる。実際は長江ではない。そのさらに南のベトナムとの国境付近になる。


 可能性としては長江からの海のルートだと私も思う。何らの理由で半島には定着しなかった半島経由も考えられる。ただし日本の陸稲が陸稲としてじゃなく水稲粗放栽培では寒い半島に適さないのは事実。陸稲の移動は確認できなかったとの韓国の学者の調査もあり。


 農業としての稲作は長江だが、イネの栽培化は別にある。珠江中流域と言う長江のさらに南のベトナムとの国境付近。野生稲と栽培稲の遺伝子を包括的に分析して、それがこの地域に成る。正確にはインディカに関しておそらく野生種(東南アジアやインド)との雑種が含まれると思うが、それでも栽培種の起源としては同一に成る。


 さて、コレより前に東南アジア起源説の論文がある。それによると稲には3つの重要な栽培化に対するキーが有り、それらは脱粒、米の細さ=長短粒、そしてねばねば、もちもち感になる。この中ですべて揃った野性稲は東南アジアにしかないとの事。


 じゃこの2つの論文は矛盾するじゃないか?となる。これが難しいんだ。どっちが正しいのか?遺伝子に関しては、最新のものがより正確な事が多い。何故か?そこがキーで、古い論文はデータと成る品種、野生種が十分検証されてなかった事が考えられる。この2つの論文においてより正確さがました点で、インディカとジャポニカの系統の解明がある。


 2元論と1元論、古くからその2つが述べられてきた。古い論文は栽培地が2つあると言う2元論に基づいてる。最新のものは1、5元論のような話になってる。どういう事かと言うと、2種は同じジャポニカから別れたとあり、ジャポニカが拡大する中で東南アジアインドで、土着の野生種と交配したため起源地が2つ以上に分かれることになったとの説明になっている。


 この点から東南アジア起源説は取りあえず置いておいて良いと思う。例え沖縄ルートであっても陸稲も水稲も長江から運ばれた、または起源地である珠江中流域からやってきたと考えて良いのではないか?と見ている。朝鮮での陸稲栽培の証拠が無い事と、日本の熱帯ジャポニカと言う陸稲の起源が古いため海のルートだったのではないか?と私は見ている。


 昔私が書いた漁労民が案外重要じゃないか?と見ている。


 日本には推測になるが3つの漁労からスタートした集団があると見ている。正確には2つになる。そのうち古くからいる系統を2つに分けて考える事にする。


 陸稲によるものは雑穀農業か南方の根菜農業とセットになっていたと考えられる。または根菜農業はまた別かもしれない。中国南部か東南アジアの集団が、これらの集団だと思われる。基本mtハプロはB系でよいと考えられる。さてB系はさらに古い集団が存在する。ここから以前書いていた事でB系は時代によって下位系統で分けられるのではないか?と言うのを書いた。


 それがなんとなくこれじゃないか?と言うのを見つけた。B4Aと言うハプロがあり、これが南方系ポリネシアハプロになる。所謂ラピタ人。根菜農業はこの集団では無いか?と考えられる。これとは違い旧石器時代に新大陸に海沿いのルートで渡ったのではないか?といわれてる集団がある。


 これらは南方系ハプロと系統が違う。古くに別れている。B4Bと言う系統になる。何故これが新大陸に渡ったか?分かるかと言うと、これらの下位系統、すなわち子孫にアメリカで発見されるB2と言う系統があるからになる。ただし、これらもラピタ人からも見つかる。


 これ難しい話しになるが、イースター島からさらに東に進んで南米に上陸した説があり、ハワイに大航海時代の前からさつまいもが存在するとの話がある。これは南米に一度渡ってないとありえない。逆にイースター島に南米の先住民の子孫が居る。ただし、彼らは大航海時代の後欧米人に連れられて移住した子孫になる。


 歴史的にそれは残っていて、これあくまで余談になる。余談ついでに何故下位系統がB4からB2に上がるの?だが、mtハプロはアメリカ先住民の研究を世界規模に後から広げたからになる。この反省からY染色体はアフリカから系統だって分類されてるという余談をしておく。


 実は、もっと古い集団が旧石器時代に日本に来ていたのでは?とあり、この集団がB5と言う系統に成る。じゃB4B無意味じゃないか?そうとも言えないんだ。アジアに残ったB4Bはかなり時間がたってるためポリネシア系と分岐元で異質な変異を遂げている可能性がある。ただし、それはまだ調べてない。あくまで可能性。


 3つ考えられる。起源地である中国に残って直接日本に来た系統、ポリネシアに移る前に日本に分岐した系統。3つ目がアメリカ移住組みが日本を通過した時そのまま住み着いた旧石器時代から住んでる縄文系になる。ラピタ人の先祖で旧石器時代からD系と完全に混血してしまった漁労集団が居る。彼らが第2の海人になる。


 最後が江南から朝鮮半島経由で日本に入ってきたO1B2の漁労民。稲作だろ?となるが、これがそうとも言えない。ちょうど日本の縄文系の遺伝子が調べられてない弥生と縄文の間ぐらいの時代に半島と北九州で同一の釣り張りを使う集団の存在が確認されている。それは縄文時代の母系B集団なのではないか?との反論もあるだろう。


 だが私はこれO1B2ではないか?と見ている。


 日本におけるO1B2の47Zと言う系列が特別多いのは、藤原系であると見てるが、それ以外に日本に到着するタイムラグがあったと見てるから。47Zは先行して日本に来たのじゃないか?と見てて、それが粗放水稲稲作の文化じゃないか?と見ている。これは下手したら長江文明衰退前になる。


 夏王朝誕生前の龍山文化の時代になる。ぎりぎりこの時代の核DNAの調査はされてない。龍山文化の時代にすでに米の存在は確認されている。ただそれが初期の粗放水稲だったと見ている。そもそも山東省で生まれた革新的水田農法なのだから、その原型となるものが山東省でもっと前に無いとおかしい。


 これらが私が陸稲だと勘違いした古い半島南部の稲作になる。これらはこれまで言われた発展した水田では無いため凝った道具が必要じゃない。そのため陸稲と似たような道具で栽培可能。それらと漁労雑穀栽培をセットにしたO1B2集団が渤海を北上し直接半島南部にきたか?北方ルートで回ってきたか?と見ている。


 縄文時代に見つかる妙な陸稲の水田は先ほど書いたB系海人縄文人が半島にいった時真似した名残じゃないのか?と見ている。


 何故漁労文化を復活させたか?と言うと、原始粗放稲作と山東省型黄河農業混合水田型と2つ山東省では時代が下る流れで存在したから。大掛かりな道具を必要とし無いのと、あくまで漁労のついでだったという古い稲作のスタイルだったことからになる。後は、これらの地域で交流した形跡がある遺物が多すぎる点。これは日本でおそらく居ただろう3つの海人集団が、日本だけじゃなくて活動していた証しだと見ている。


 ただし、O1B2が漁労集団として弥生時代の前にすでに原始稲作を持って来ていたと言うのはかなり飛躍した話しになる。これに関しては日本と半島に跨って存在したと見てて、日本に稲作はあまり持ち込まなかった事も考えられる。それと言うのも、半島と日本ではやはり日本の方が水稲は時代が新しいと言うのがある。


 半島をベースに活動して移住はあまりなかったのじゃないか?と考えている。半島に住んでいたのはD系海人集団じゃないのか?これが難しい。じわじわと半島全体に広がっていたO1B2に対して、D系は南部に偏りすぎている。これは伽耶国に居たD系である可能性がとても高い。各地に漁労民として広がってるならもうちょっと分散して残っていても良いと思うのだが。


 半島にD系海人が住んでいた可能性は否定し無いが、後の遺伝子に影響を与えるほどじゃなかったと見ている。後新羅には3つの王の系統があり、これが順番に即位して最後にC2C系の金一族が王家になった歴史がある。そのうち2人のうち一人はO1B2(日本人に多い47z)だと言われていて、もう一人がはっきり日本人だと言われている。この系統がD系じゃなかったのか?と言われている。


 確か現地では調査されてるのだが、日本にはその情報は入ってきてない。朴氏子孫にO1B2が多くて、日本から来た昔氏がD系じゃないのか?と言われている。伝説に日本人の重臣が居たとされその人物が実際は朴氏そのものだったのじゃないか?とのDNAの結果から推測されている。名家だったため、ハプロだけが極端に日本の系統が増えてしまってる可能性が十分にある。


 海人に3つの系統があっただろう推測は、O1B2が旧石器時代に遡るのはありえないから。そもそもこの変異誕生してない。半島での漁労文化が発達する前からすでに日本で船を使った漁労文化や交易が発達していたので、系統的に別れていただろうと見ている。ただし刺青など江南の文化はこの3つのうちD系とO1B2は繋がりがあったとみてて、D系が真似した可能性もある。明らかに縄文人の人骨からも抜歯の風習があるため、同じ江南の風習である刺青も多分していただろうと。


 根菜農業がセットであっただろう新石器時代のラピタ人系は独立した集団ではないか?と見ている。代表的な集団が隼人で、彼らは言語が違ったとあり、言語が北方言語に入れ替わってしまったO1B2ではありえないと見ている。


 元は江南からの北上だと見てるが、彼らは山東省で発達したと見ている。今山東省でさっぱりO1B2が出ないので困ったものだが、それでも、ここだと見てるのは稲作がここで発展型が生まれたからになる。日本に典型的な水田の様式は江南ではない。言語交替に説得力を持つのがN系が作り出した山東省龍山文化の存在になる。当然言語はN系の言語だっただろうと想像できるから。


 より起源地に近い半島には日本より中国南部のオーストロアジアの言語の痕跡は無い。タミル語がこちらじゃなくてドラヴィダ語に属するのは、混血しただろうドラヴィダ人の言語が強く残ったからになる。その過程が分かる証拠としてアジア系であるオーストロアジア語族のムンダ語派の存在がある。タミル語の日本語と関係が複雑なのはこれがある。


 仮に隼人がO1B2であっても半島経由のO1B2とは言語が全く違う点で、直接来た可能性が高いと見ている。しかもベトナムとかインドネシアなどのようにO1B2が南下した集団じゃないか?と見ている。


 何故偶然O1B2なのか?と言うと、B系の相方であるO1Aが強く出ないため、ひょっとしたらO1B2が案外その候補なのかもしれないとも考えたから。


 人種について難しい面で、とにかくハプロは人種、または形質とは全く関係が無い。ある程度確率的には述べられるが、こういったデリケートなケースの場合問題になる。隼人が言語と容貌が異質であったとあるので、当時主流派だった北方モンゴロイド形質の和人に対して、D系と混血した集団か?または南方の形質を強く持ったものであった可能性が高いため。


 根拠が薄弱で、陸稲の半島経由の可能性が消えたため漁労も捨ててしまったが、再度粗放稲作と言う発展するための稲作を携えた集団として復活させたのが今回の趣旨と、もう1つは思わぬほど発達していた日本海、東シナ海などの海の民の文化を見たためになる。前から分かっていたが、これほど発達してるとはさすがに思って無かった。


 後は、1つの海人集団がいたんじゃなくて、大陸と日本でそれぞれ別に発達した海人が日本にやがて皆で住むようになったとの考えに変わったのが大きい。


 もう1つは斉藤教授の3段階モデルに触発されたのが大きい。ただしこれは複雑で斉藤教授は海人と流民、中国文明人の2つの選択しで考えてる。


 半島からの大量移民の前段階として、ある程度大規模な大陸移民があったと。これが海人ケース。これとは別に半島から流入の後に中国、半島の戦争による流民と先進的文化を持った大陸人の移民。こういった流れがあったとするケース。


 何故1つに絞れないか?と言うと、遺伝子を調べると起源地や時代は正確には分からないが、大きな流れが2つあるから。それを説明するためにどっちか絞れないという話しになる。


 なら後者である可能性なら海人はあまり重要じゃないのか?ならそうなる。


 沖縄にも残ってるが、燕滅亡後の流民が誤って沖縄にたどり着いてしまったのが遺物から証明された。それはレアケースとしたら、そうじゃない本土ケースはもっと多かったと見てるから。


 半島からの平和的移住に対して、戦争による国家滅亡の流民は別口で多かったのじゃないか?そしてこれらの時代にはズレがあるとしてになる。流民と限らないのは、日本には近畿地方にモンゴルからの移住者の痕跡が大量にある。百済や高句麗の滅亡流民じゃないか?となるが、これに関して王族は優遇されたが、当時すでに半島から吸収してしまって、進んだ文化を持っていた日本は、平民はあまり歓迎してなくて、各地の僻地の開拓に追いやってしまったとの歴史があるから。


 近畿に高くなる理由にならない。近畿に高くなった理由は利用価値がある集団であった可能性がとても高い。それはヤマト朝廷成立後の技術集団の移住だと見ている。


 何故モンゴルなのか?がかなりややこしい。モンゴル高原の集団は過去別の場所に居て、モンゴル高原から直接来た証拠にはならない。日本と同一集団があり、それが分かれて片方はモンゴルに、片方は日本に来たとも考えられる。候補としては、日本には存在せずモンゴル系で発達していた馬と金属精錬だと見ている。


 可能性としては後者の方が高いと私は思っている。それゆえ海人の漁労粗放水稲交易などの海の民の文化は果たして遺伝的移住と関係してるか?は可能性が薄くても面白いと思って書いてる所がある。


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