王太子スタニエールの憂い
ラクレイドの王太子であるスタニエールはその日、南洋の国レーンの港に降り立った。
潮風自体は決して嫌いではなかったが、南洋の浜辺独特の、粘るように絡みつく熱い空気にはやはりうんざりした。
(ラクレイドはそろそろ、木枯らしが吹く頃なのにな)
七年ぶりだった。
父王の方針で、スタニエールは十三歳を過ぎた頃から周辺の国々を、遊学半分・表敬訪問半分で訪れることが多かった。将来のラクレイド王としての顔繫ぎの意味もある。
レーンは七年前、スタニエールが十四の頃に新しい大神官が就任した。まだ成人前だったスタニエールは正式には王太子ではなかったが、王の名代としてその式典に参加することになったのだ。
その時もレーンの港は粘るような熱い空気に満たされていた。懐かしいような気もするが……疎ましさの方が正直強い。
(あの少女は今、どうしているのだろう)
ふと思う。と、粘る空気の向こうから不意に清々しい風が吹いてくる気がし、思わずスタニエールは深い息をついた。
七年前。
十四歳のスタニエールは幸せな王子だった。洋々と広がった未来はすべて、自分のものだと無邪気に信じていた。
むろん王位を継ぐ者としての重い責務を自覚し始めていたから、幼い頃ほど無邪気ではいられなかった。が、それを含めてスタニエールは、自分の未来・自分の幸せを信じていた。己れに課せられた重い責務すら、素晴らしい未来の証のような気がしていた。
スタニエールはかすかな苦笑いを口許に含む。
状況はあの頃とさほど変わってはいないだろう。いや……むしろもっとよくなっていると言うべきかもしれない。
大国ラクレイドの王太子という比類のない地位と身分。
父より受け継いだ明晰な頭脳と、伸びやかで健やかな身体。
国一番と称えられる母から受け継いだ、優美な容貌。
そして、従妹であり幼い頃からのいいなずけでもあった侯爵令嬢・カタリーナと結ばれた。カタリーナは短いスカートをはいていた頃からどこかしら凛とした、賢く美しい娘だ。その申し分のない妃との間に二年前、スタニエールと同じ黄金色の髪とはしばみ色の瞳の元気な息子も授かった。
何もかもが順風満帆、スタニエールに欠けたものなど何もない。
そんなスタニエールを宮廷に集う吟遊詩人たちは『比類なき王子』『創世神ラクレイアーンの申し子』などと大仰に褒め称える。
しかし、順風満帆であればあるほど、褒め称えられれば称えられるほど、スタニエールの心はどんよりと曇った。
いつからなのかはよくわからないが、決して晴れないもやが心にかかるようになった。
憂いの理由はかなりの間、スタニエール自身もよくわからなかった。
現状に不満は何もない。
が、そのかわり心の底から沸き立つような喜びもない。
思えば生まれてこの方ずっとそうなのかもしれない。ただ幼い頃は気付かなかっただけなのだろう。
ある日不意にスタニエールは、その故のない憂いの理由を悟った。
自分で言うのもおこがましいが、スタニエールはおそらく、人が考え付くこの世の幸せのすべてを持っていると言っても過言ではない。
が……どれひとつ、スタニエール自身が欲してもぎ取った幸せではなかった。目の前に差し出された、無条件に与えられた、あるいは生まれる前から約束されていた、そんな幸せばかりだった。どれも確かに自分のものだが、どれ一つとして芯から自分のものではない、そんな虚しさがどうしても募る。
時にカタリーナだけは夫の心の虚ろを察し、物問いたげな目でスタニエールを覗き込むことがあったが、たとえ妻であったとしてもこんなこと、とても言えない。
恵まれ過ぎた自分の境遇がつまらないなどという悩みが、いかに贅沢で子供っぽい悩みかというくらい、スタニエール自身わかっていた。
船から降りた後、迎えの馬車に乗ってスタニエールは大神殿へと向かう。
大小十の島からなるレーンは不思議な国で、いわゆる『王』という存在がない。大神官がそれに代わる地位と言えなくもなかったが、一概にそうとも言い切れない。
レクラ、という神を信仰している人々が住む島々が緩やかに連帯している、一種の宗教国家といえようか。
大神官は民の崇敬を集めているし、大きな権威と権力も持っているが、国を実際に動かしているとも言い兼ねる。
「レーンをラクレイドの常識で理解しようとしても無駄だ」
父王は言う。
「そして決して侮るな。嵐に慣れた海の民は、見た目以上にしたたかだからな」(そうかもしれませんね……)
スタニエールは父の言葉を反芻する。
今回スタニエールは、七年ごとに行われるレーンの大祭に是非お越し下さい、と、周辺国の要人の一人として招かれた。……しかし。
実はこのところ、東の果てに起こった新興国・ルードラントーがこちらへ色気を出し始めている。今すぐどうこう、ということはまず考えられなかったが、用心に越したことはない。
広い砂漠と大きな山脈に阻まれ、陸路で大々的にラクレイドへ迫ってくるのは難しいが、海伝いに迫ってくる予兆がこのところ、散見される。
古くからの豊かな国だが、山と森の国であるラクレイドは海軍力が弱い。そもそも海軍を持つようになったのも最近だ。
その点レーンは海洋国、海戦に長けた優れた戦士たちを多く擁している。互いの強みを活かし合うより強固な同盟を、と、内々にレーン側から話が通っている。
(早い話が……)
より強固な同盟の証として、レーンの娘をスタニエールの妃の一人に、と。
この大祭で出会ったレーンの娘、おそらくは大神官の縁者の娘をラクレイドの王太子が見初めた……そんな美しい話を用意しているはずだ。
断る理由はない。
レーン側は正妃に、とは言っていない。
第一、すでに世継ぎをあげている、王家と血も近い正妃カタリーナの地位は余程のことでもなければ磐石だ。レーン側もそれにとって代わろうとまでは思っていなかろう。ただ、大国ラクレイドと縁組をする、それだけの国になったという事実が欲しいというところだろう。
ラクレイド側の事情としても、より強固なレーンとの同盟は望ましい。急ごしらえの海軍だけでは、ラクレイドの防衛は危ういのが現状だ。
また、側室の一人や二人でうろたえるようなカタリーナでもない。
国の為に必要ならばお迎えになられるべきです、と、こちらへ来る前、カタリーナ自身から言われた。むろん嬉しくなかろうし、内心色々と思うこともあろうが。
(カタリーナ以上の妻がいるとも思えないな)
馬車に揺られつつスタニエールは思う。
あれは賢く、美しい。そう教育されただけでなく、王妃になるべく生まれてきたような女だ。
カタリーナより美しい娘も賢い娘も、探せば何処かにいるだろう。が、すべてを兼ね備えたカタリーナほどの者はまずいないだろう。良い妻を持った、とスタニエールは常に思っていて……ため息が出る。それに。
(妻など……一人で十分だ)
政略結婚そのものに強い拒絶感があるのではない。
国の為なら意にそわぬ縁組も受け入れる、そのくらいの覚悟なくて一国の王太子など務まらない。それはレーンの娘とて同じであろう。
むしろ、結果として人質のようにラクレイドへ送られることになるその娘の方が気の毒なくらいだ。
が……しかし。
今までの経験から言って、スタニエールが優しくほほ笑みかければ大抵の娘はまず例外なく、ぽうっと頬を染めて彼に恋をする。おそらくレーンの娘もそうなるだろう。実に簡単で……つまらない。恋する娘の反応というものも大体同じでそこもつまらない。そんな妻、何人いようともスタニエールにとっては同じだ。ならば一人でいい。面倒がないというものだ。
いや、もちろんそういう問題ではないことくらい重々承知しているが、スタニエール個人の本音はそれだ。
カタリーナは簡単にスタニエールに籠絡されたりしなかった。
幼い頃から互いを見知っていたからかもしれないが、カタリーナは昔から、良き友・良き相棒・良き参謀とでもいう存在で、スタニエールはそういう彼女に満足していた。暑苦しい恋情などより、余程すっきりしているし役に立つ。
(いや、もう一人いたか)
朝の浜辺、潮風の中でほほ笑む浅黒い肌の少女を不意に思い出す。スタニエールへ暑苦しい恋情を向けず、友としてでもなく、ただいたわるようにほほ笑みかけた少女だ。
レーンに来たせいだろうか?
普段は忘れている顔だ、実際もう何年も思い出さなかった。もはや会うこともない少女だ。
突然よみがえったその鮮やかな面影に、スタニエールは戸惑った。
そう……七年前のことだ。
正式に『王の名代』として外国の重要な式典に出席するのは、十四歳のスタニエールにとって初めてのことだった。
式典で失敗するような自分ではない自信はあったが、それでも緊張していたのだろう、スタニエールは夜明け前から目が覚めてしまい、その後どうしても眠れなかった。
寝台でごろごろしているのも飽きてしまった。スタニエールは身を起こし、ガウンをはおる。
小姓でも呼んでお茶を入れさせようかと思ったが、ふと外の空気が吸いたくなった。いつにないことだったが、それも面白いなと思った。
今思えば軽率な行動だが、その時はあまり深く考えなかった。
簡単に身支度し、腰に愛用の剣を佩いた。こっそり部屋を抜け出して外へ出る。見知らぬ国で供もつけずに出歩いているのが、たとえ庭先だけとはいえなんとなくわくわくした。
湿った潮風ではあるが、夜明けの空気は清々しい。
そぞろ歩いているうちに、小高い場所に設えられた四阿を見つけたので立ち寄る。
そこから真っ白な砂浜と、朝日を浴びて輝く海が見えた。引き寄せられるようにスタニエールはそちらへ向かった。
白い砂浜は、美しいが想像以上に歩きにくかった。瞬くうちに靴の中が砂だらけになる。引き返そうかと思ったその時、波打ち際にしゃがみ込んでいる小さな人影に気付いた。
神殿に仕える者のお仕着せなのか、簡素な服を着た十一、二歳くらいの少女だった。いかにもレーンの民らしい、波打つようにうねる漆黒の髪を簡単に束ねた、浅黒い肌の少女だ。
彼女は何かを探しているのか、濡れるのも構わず膝をつき、食い入るように砂地を見つめていた。あまりに一生懸命なその様子が、スタニエールには可愛らしかった。
「これ。そこで何をしている?」
少し離れたところから、スタニエールはレーン語で話しかけてみた。
少女は驚いたように顔を上げ、まじまじとスタニエールの顔を見つめた。一瞬黒かと思うほど深い、菫色の瞳の少女だった。
不躾なまでの凝視だったが不快ではなかった。少女の表情が、珍しいものを見つめる赤子のようだったからかもしれない。
「ごめんなさい」
ようやく少女は、ここがラクレイドからの賓客の為に用意された宿泊所の近くだということに気付いたらしい。
「外国の方の宿泊所の近くだから行ってはならないと言われておりましたのに。おにいさまは王子様を警護する方でいらっしゃいますか?」
おにいさま、などというなれなれしい呼びかけに驚いたが、レーンの神殿に仕える者は皆、年長者を『おにいさま・おねえさま』と呼び、年下の者を『おとうと・いもうと』と呼ぶ習慣だということを思い出した。
「まあ……そんなような者だ」
いたずらめいた気分もわいてきて、スタニエールはそう答えた。明け方の浜辺を軽装でそぞろ歩く者が、まさか当の王子だとは誰も思うまい。不意にそれに気付き、なんだか愉快になった。
彼女は改めて膝を折り、頭を下げた。
「申し訳ありません、どうかお許しください。私は大神殿に仕える者であります、決して怪しい者ではありません。おねえさまが式典に用いる耳飾りに使う白い貝を探しておりました。今朝のレクラに祝福されたものをどうしても手に入れたい、そう思い立ちましたので……」
「式典に用いる耳飾り?」
不審に思い、スタニエールは問う。
「式典は今日からだろう?今から式典の装身具を用意するのか?」
「いえ、もちろんすべての用意は整っております」
やや恥ずかしそうに少女は答える。
「でも……その。私自身の手で探し出した、私と今朝のレクラの祝福のこもったものをひとつ、どうしても加えたいと思い立ったのです」
少女は目を伏せたままほのかに笑む。
「いつもお世話になっているおねえさまの、晴の日を飾るものをもうひとつ、私自身の手で用意できれば、と……そう思ったのです」
スタニエールは笑んだ。可愛いことを言う少女だ。彼女はおそらく新しい大神官に仕えているのだろう。
「で?見つかったのか?」
スタニエールの問いに、少女はさらに目を伏せ、悲しそうに肩を落とした。
「いいえ。日の出前から一生懸命探しているのですが。桜貝は少しありましたけど、おねえさまの耳飾りに使えるようなものは、まったく」
「そうか、それは残念だったな」
なるほど、だから彼女はうっかりラクレイドの王子の宿泊所の近くまで迷い込んできてしまったのだろう。大神殿の庭先にある浜とこちらは地続きだ。
(それだけ大神殿周辺は安全だということなのだろうが……あやういな)
確かに安全で大丈夫だろうが、『安全』『大丈夫』という思い込みが何よりあやうい。たとえ無害な少女であっても、誰何もされずここまで入り込めたというこの事実。
レーンが平和でのんびりした国なのは知っているし、不安も感じていない。しかしここまで開放的なのは如何なものか?
瞬間的にそこまで考え、思わず剣の柄に手が伸びる。スタニエールの中の武人としての感覚が鋭く動いた。
少女は怪訝そうに顔を上げた。スタニエールの気配が瞬間的に変わったことを、敏くも彼女は感じ取ったらしい。神殿に仕える世慣れぬ少女に気配の変化を覚られ、スタニエールはややきまりが悪くなった。ごまかすように笑みを深める。
「……では。これも何かの縁だ、その健気な心根に報いよう」
言いながら彼は、左の小指から琥珀をくりぬいて細工させた指輪を外した。
貴金属や宝石類などは基本好きではないスタニエールだったが、唯一琥珀だけは気に入っていた。琥珀は軽くて肌への当たりも柔らかく、すぐ体温と同化するので着けていても違和感が少ない。スタニエールは様々な色合いの琥珀を加工させ、装身具を作らせていた。今はたまたま左の小指に、レンゲの花から採られた蜂蜜を思わせる色合いの琥珀を透かし彫りにした指輪をしていた。
「白い貝の代わりにこれを使え。指輪のまま使ってもいいし、細工師に頼めばこの指輪を上手くふたつに断って耳飾りの一部に加えることなど造作なかろう。急げば十分、午後の式典にも間に合うだろうし」
言いながらスタニエールは、指輪を少女へ差し出した。
少女は菫色の瞳を見張り、まじまじと指輪とスタニエールを見つめた。
「……あの」
おずおずと少女は口を開く。
「私は愚かなもの知らずですからそうだとは言い切れませんが。それは……琥珀ではないのでしょうか?高価なものだと聞きます。ひょっとするとラクレイドではありふれたものなのかもしれませんが、そんな高価なものをいただくわけには参りません。そ……それに神官の装身具は海からの恵みで作る決まりになっておりますので、仮にいただいてもおねえさまの装身具に使わせていただけませんし」
スタニエールはさらに笑みを深めた。
「ならばお前個人にやろう。『おねえさま』への健気な思い、褒美をもらう価値があると私は思うぞ」
少女は絶句した。ものも言えずに硬直している彼女の手に半ば強引に指輪を握らせ、きびすを返す彼の背へ
「お、お待ち下さい、ラクレイドの方」
という少女の声が追いかけてきた。
普段なら年下の少女に追いつかれることなどなかっただろうが、砂地に慣れぬスタニエールはどうしても足を取られてしまう。あっという間に少女に追いつかれてしまった。
「あの、困ります」
言葉通り、彼女は心底困った顔をしていた。
「なんだ?高価すぎて困るというのなら神殿への寄進でもいいぞ。お前のいいようにしろ」
物をもらって本気で困った顔をした者など、スタニエールは生まれて初めて出会った。今までスタニエールが他人に何かやれば、誰もが目も鼻もなく喜び、礼を言った。好意を素直に感謝されないことにスタニエールはやや苛立ち、面倒にもなってきた。
少女は軽く目を伏せ、申し訳ありませんとつぶやいた後、ひるみそうなほど真っ直ぐスタニエールを見つめてきた。
「ラクレイドの方。私の心根を愛でて下さったことを感謝いたします。そのお気持ちの現れがこの指輪だということもわかります。おにいさまのその有り難いレクラに感謝いたします。でも……この指輪をいただく訳には参りません」
彼女は少し眉を寄せ、言葉を探すようにちょっと考えた。
「その。私は琥珀の指輪が必要でもなければ欲しいと思ったこともありません。近しい身内に必要としている者もいません。私のレクラに今、おそらく琥珀の指輪は必要ないのでしょう。これはおにいさまの手元にあったもの、おにいさまに必要だからあったのでしょう。だからおにいさまがお持ちになるべきなのだと思います」
「つまり、好意の押し売りは迷惑ということか?」
かなり本気でスタニエールは腹が立ってきた。好意の押し売りは迷惑、なのは彼自身が何度となく経験してきた。が、自分の好意を迷惑とされるのはやはり腹が立つ。
「違います。私のレクラに今、必要を感じないだけなのです、ラクレイドの方」
少女は自明のように謎めいたことを言う。苛立ちが募る。
「それがレーンの神の教えなのか?そもそも『レクラ』とは何なのだ。レクラは神の名ではなかったのか?」
『レクラ』は光であり闇であるもの。海であり島であるもの。この世をつくるあらゆるもの。それらすべてを引きくるめて『レクラ」と呼ぶ。つまり『レクラ』は神である。
それがレーンの宗教観なのだということは、知識としてもちろんスタニエールは知っていた。知っていたが、正直まったくピンとこない宗教観だった。神がこの世を作ったのではなく、果てのない昔からあり果てのない先まであるから『神』である、というらしいのだが、つかみどころがなさ過ぎてスタニエールの理解はどうしても及ばない。
そして、この少女の言う『レクラ』はまた違う意味のような気もするが、どう違うのかあるいは同じなのかよくわからない。
「レクラはレクラ、何とは申せません」
少女は不思議そうに言った。
「レクラは光・闇・海・風・島・人・鳥・魚・木・草……そのすべてです。それ以上の説明は出来ません。ああ……外国の方にはなかなかわかっていただけないと、おねえさま方からよく聞かされていましたけれど。本当なのですね」
感心したように彼女は、半ば独り言のようにそう言った。
スタニエールは、なんとなく腹を立てているのが馬鹿らしくなってきた。
どうやらこの少女と自分は、まったく違う世界に住んでいるようだ。レーン語とラクレイド語は違うという意味ではなく、まったく別の言葉を話している。空気を相手に腹を立て、空気を相手に戦っている、そんな虚しさにスタニエールは脱力した。
「わかった」
スタニエールは軽く息をつき、笑みを浮かべる。
「お前のレクラとやらが必要としないのなら、お前の言う通りこの指輪は返してもらおう。私はただ、お前の健気さを可愛らしいと思い、それにいくらか報いてやりたいと思っただけなのだ。しかし当のお前が困るなら、私の本意ではなくなる。別にお前を困らせるつもりではなかったのだから」
少女から返された指輪を受け取り、スタニエールは指輪を左の小指へ戻した。少女の体温が移っていたのか、指輪は燃えるように熱かった。
「指輪をいただく訳には参りませんが」
何とも言えない幸せそうな顔で彼女は笑う。
「おにいさまの有り難いレクラの響きをいただきました。白い貝は与えられませんでしたけど、それ以上に貴重な、素晴らしいものを与えていただきました。心からお礼を申し上げます。ありがとうございました」
少女は、胸の前で腕を交差させる、レーンで神に祈るときの仕草をして頭を下げた。顔を上げた彼女は、朝日の中で笑った。
「おにいさまのレクラが穏やかに身に満ち、どうぞ心身共にお健やかでありますように」
祈りの言葉と共に向けられた笑顔は、神々しいまでに眩しかった。
出会いはそれで終わりだ。
彼女へ与えようとした透かし彫りの琥珀の指輪は、今はもう手元にない。
あれを見るとスタニエールは、朝日に照らされた彼女の笑顔を思い出し、何故か苦しくなった。
彼女はおそらく、スタニエールの知らない幸せを両手いっぱいに抱えている。彼女は今のままで十分満たされていて、スタニエールが彼女に与えてやれるものは何もない。それがひどく哀しく、なんだか妬ましいような気分にすらなってくる。妬ましいなどという卑しい感情を初めて知り、スタニエールは驚き、慌てた。
あの指輪を見る度に彼女を思い出し、訳もなく苦しく、妬ましくなるのにスタニエールはうんざりした。
だから彼はラクレイドへ帰ってほどなく、適当な口実を作ってあの指輪を側付きの誰かへ下賜した。ようやくほっとし……以来胸に決して埋まらない穴が開いたような気がしている。
もちろん普段は忘れているし、無意識のうちに見ないようにもしているが。
大神殿に着く。
賓客中の賓客であるラクレイドの王太子だ、大神官自らが出迎える。
「お越しいただき感謝いたします、スタニエール・デュ・ラク・ラクレイノ王太子殿下。着任の儀以来ですね」
音楽的な柔らかい声。その声が紡ぎ出す歌と言祝ぎこそが、彼女を『レクテナーン』にした。
浅黒い肌に白い衣。
紅色の珊瑚を連ねた首飾り。
波打つような黒髪には乳色と鈍色の、真珠の髪飾り。
幾つかの磨いた白い巻貝を下げた耳飾り。
就任の儀の時よりは幾分地味だが、基本的な装いは同じだ。これがレクテナーンとしての装いなのだろう。
当時は、少年のスタニエールの目にも初々しさの残る二十歳の娘だった彼女も、今は女ざかりを迎えて落ち着いたたたずまいだ。
「ご無沙汰を致しております、大神官レクテナーン。ご壮健でいらしゃるご様子、お慶び申し上げます。ますます思慮深く、ますますお美しくなられた貴女様を前に、この青二才は身も竦む思いでございます」
レクテナーンはころころと笑った。濃い茶色の瞳が踊るように光り、笑うと彼女は急に子供っぽくなる。
「ラクレイドの王太子殿下にそこまでおっしゃられると、わたくしの方こそ身が竦みます。すっかりご立派になられて。ラクレイドの国王陛下もさぞ、ご自慢に思っていらっしゃいましょう。お国では創世神の申し子と称えられていらっしゃるとか」
「それは吟遊詩人どものお追従に過ぎません」
対面の社交辞令も済み、お茶と軽食をまじえた席での当たり障りのない話も一段落が付いた頃。
レクテナーンはそばのいる者へ、目顔で合図した。
さらさらというかすかな衣擦れの音と共に、奥から娘が一人、現れた。
簡素な装身具を身に着けた、上位の神官の装いの娘だ。
波打つ黒髪に浅黒い肌の……黒と見まごう濃い菫色の瞳。
スタニエールは息をのむ。
「神殿に集う者は皆、わたくしの兄・姉・弟・妹のようなものではありますが。この子は幼い頃からわたくしの身近にいた、特に大切な妹の一人です。レライラ……神殿で今、そう呼ばれている者です」
レクテナーンの声が響く。娘は胸の前で両腕を交差させる、神への祈り……レーンで最上の敬意を示す礼をした。
「覚えていらっしゃるとは思っておりませんが、お久しぶりです、ラクレイドの貴いお方。あの日いただいたあなた様のお優しいレクラ、今でも有り難いと思っております」
顔を上げ、娘は笑った。朝日に輝く幼い日の彼女の笑顔と重なった。
「我々レーンの者は、人と人との縁にはレクラの響きが大切だと考えます。たとえそれが、国同士の戦略のひとつであったとしても」
レクテナーンは静かな声で言う。
「この辺のことをラクレイドのお方へ説明するのは難しいのですが。レーンではレクラの響きがまったくない縁は、澱みしか生まない、とも言われます。七年前、殿下はこの娘のレクラに感じ入り、愛でて下さったそうですね?互いの身分も立場も知らないまま、たまたまひとりの少年と少女として出会い、響き合ったレクラ。得難い縁ではないかとわたくしは思います」
「レライラ、殿、は……それでいいのでしょうか?」
どことなく震えてしまう声でスタニエールは問うた。
レーンの高位の神官の呼び名は敬称込みなので『殿』を付けるのは文法的に間違っていたが、彼女を『レライラ』とだけ呼ぶのは何故か気が引けた。
それに『レライラ』は大神官の次の次、第三位の位だ。
そんな高位の神官が、大国の王太子へとはいえ側室として嫁ぐというのか?
「こんなことを申し上げるのは、たいそう非礼で生意気なのですが」
レライラは口を開く。
「実はわたくしは、あの日にお会いした黄金色に輝く髪にはしばみ色の瞳の外国のおにいさまの、眩しさの後ろに見え隠れする虚ろ……が、ずっと気になっていました。あの虚ろは一体何なのだろう、折にふれて思うことがありました。虚ろを埋めるのは自身のレクラを穏やかに満たすしかないのですが、虚ろに気付き、共に見つめる者が近くにいた方が良いとも言われております。もちろん、殿下が必要とされていないのならわたくしの出る幕ではありません。ですがこのレライラが、あの時のおにいさまの何かのお役に立てるのならば。おそばでお仕えしたい、そう思っております」
スタニエールはしばらく何も言えず、レクテナーンとレライラの顔を交互に見た。すらすらと社交辞令が紡ぎ出される達者な彼の口が、凍りついたように動かなかった。
レライラの言った『虚ろ』という言葉が心臓を突き刺し、喉をふさいだような心地がしていた。
「……私は」
ややあってスタニエールは、どうにか喉から言葉を押し出した。
「レーンの方々がおっしゃる『レクラ』がどういうものか、正直わかりません」
でも、と彼は目を伏せ、続ける。
「朝日の中でほほ笑む少女の輝きに、確かに惹かれました。心の底からの明るい笑顔を、妬ましいとすら感じました。おそらく……私のレクラは。あの日の少女のレクラを、必要としているのでしょう」
スタニエールは顔を上げ、彼らしくもない気弱な目でレライラを見つめ、問う。
「この愚かな『おにいさま』を、貴女は支えて下さいますか?」
レライラはただ、柔らかくほほ笑んでうなずいた。