細身少女の述懐
【王国暦123年8月20日 1:11】
ジゼルは自室に戻ると、後ろ手に閉めた扉に背中を預けてもたれかかった。
「ふう……」
罪悪感と焦燥感。
優越感と充足感。
フローチャートなるものがこの世界にあるとしたら、それはきっと、この四つの要素がバランスよく配置されているのが、今のジゼルの心情だろう。
自分の肉体を使って、思い人を強引に振り向かせる。
我ながら酷な選択をレックスに押しつけている、とジゼルは申し訳ない気分になる。
だが。
レックスの思い人であるサリー。彼女には負けられない。その思いは強く、それ故にレックスを肉欲に絡めでもしないと負けてしまうのではないか。
レックスは体を許しても、心がずっとサリーを向いている。それを強引にねじ曲げようというのだ。自らの全てを賭してかからねば、成就などしないだろう。
サリーはそれほどの相手だ。レックスへの思慕などまるで見せないくせに、レックスから思われている。ズルイ、とジゼルは嫉妬に身を焦がす。もちろん、サリーの年齢を考えれば、色恋に執心するのは違和感がある。サリーがレックスに向けている感情が恋だ、と自覚する前に――――既成事実を積み重ねたい。
焦っている。
それは自分でもわかっている。
でも、他に方法を思いつくほど、ジゼルも恋愛経験が豊富ではない。
正直に言えば、これが初恋なのだから。
レックスを意識し出したのはいつからだろうか。
ふと、ジゼルは過去を思い返す。
レックスは教会の孤児院で一緒だった。サリーはエルフの血が入っていて少し耳が長く、生育も遅く、体が小さかった。その反面、聡いところがあったので、年長だったフローレンス、ダフネ、ペネロペからいじめを受けていた。そのサリーを、体を張って守ったのが、同じく体の小さいレックスだった。
ジゼルはいじめっ子三人組と、それほど仲良しというわけではなかったものの、背が高かったから防壁になるとでも見たのか、誘われる機会が多かった。当のジゼルにその意識はなかったが、周囲から見れば四人組、と目されていただろう。
サリーを守るレックスの姿を見て、孤児院に置いてあった騎士の物語の本をすぐに思い出した。小さなレックスが、姫を怪物たちから守る騎士に見えたのだ。
ジゼルが、そこでサリーに感じたのは羨望だった。
私も騎士様に守られたい、と。
無条件に守られる姫様に、私もなりたい、と。
しかし孤児院時代、お遊戯でやる『騎士・姫ごっこ』で、背の高いジゼルがやらされるのは、毎回決まって騎士役だった。
「おお、姫様、この騎士ジゼルがお守り致します。どうかご安心下さい!」
芝居がかった口調で、ジゼルは空気姫を相手に台詞を吐く。ご安心していいことと言えば、この部屋の防音性能は高く、夜の営みで絶叫したところで隣の部屋や上の階に音が漏れることはない。
「ああ、騎士様、この姫ジゼルをお守り頂けるのですね」
「そうです、このジゼルは姫様の騎士です!」
「ああ、私の騎士様!」
だなんて、一人芝居を続けたところで虚しくなって、扉を背にしたまま座り込んでしまう。
少し年齢を重ねてくると、姫様だって、無条件に守られてるわけじゃない、だなんて大人の事情もわかってくる。もう一方の騎士様だって、姫を守ったという実績を元に恩賞を欲するわけで、それを元に仕官して家族を養おうだなんて下心に満ちているかもしれない。あわよくば姫様の好意を得て、婿入りも視野に入っているだろう。
無垢な子供のように純真さだけで恋物語が成就するなんてことは絶対にあり得ない。そんな話は、耳年増なフローレンス辺りがジゼルに吹聴して、ジゼルの中では確定事項として固まっていく。
何故、自分が孤児院にいるのか―――――。
という根本を考えてみると、どうやら自分は父を亡くし、生活に困った母が教会に預けていった――――ところまではシスターに話してもらった。
母は一人でジゼルを育てられない、と判断したのだ。孤児院に数十人の院生がいることを思えば、同じような経緯で集まってしまったのだろう。
父を亡くしたことは不幸だろう。だが、母は自分を育てることに自信を持てなかったのだろう……。だから孤児院に預けたことを打算だ、と言うには端的すぎるにしても、無償の愛を向けられることなく、自分は放り出されたのだ。
そう考えると、打算なしの愛情なんてあり得ないのだ。
しかしサリーを守るレックスはどうだ?
レックスの目からは、サリーを守る、という意思に満ちている。その源は愛情だ。レックスは、サリーが好きなのだ。子供心に、それはすぐに理解できた。
羨望。
どうして、サリーは、無償の愛を甘受しているのか!
どうして、そこにいるのは自分ではないのか!
レックスはお世辞にも格好良い男の子ではない。背は大きくないし、美形とはいえない。
それでも羨ましい。守って貰いたい、サリーのように。
しばらくすると、妄想の中で、ジゼルを守るのは、背が大きくない、美形とはいえない子供の騎士様に置換されていく。
思えば、これがジゼルの初恋だったのだろう。
ジゼルが淡い恋心を自覚した時には、レックスとサリーはトーマス商店に奉公に出された。同じポートマットの街にいることは変わりないが、住み込みということもあり、ゆくゆくは養子になる可能性さえある、と聞かされて、ジゼルは衝撃を受けた。
サリーがいなくなった後、フローレンスたち三人はジゼルを標的に変えた。普段は寡黙だったということもあって、対象にしやすかったのだろう。しかしジゼル本人はどこ吹く風で、飽きられたのか、そのうち三人とは距離が開いた。
ところが面白いもので、トーマス商店から再度奉公の話が来ると、三人組と一緒にジゼルも選抜されて、孤児院を出ることになった。
正直に言えば三人組と一緒なのは嬉しくはない。ついでに言えば、サリーを守っているレックスがいる場所に行くのも、あまり嬉しくはなかった。
その時、ジゼルは寡黙を通そう、と決意した。
トーマス商店で働くことは新鮮な驚きに満ちていた。
一番改善されたのは食事だろう。何もかもが美味しいのだ。
当初は孤児院から解放された、気分的なものだろうと考えていた。ところが日が経つに連れ、工夫された味付け、新鮮な食材……そう言ったものの複合的な要因ではないかと思い始めた。
決定的だったのは、先輩であったドワーフの少女に、強制連行されて山ごもりをさせられた時だった。
思いも寄らない食材が、とんでもなく美味しかったのだ。
このドワーフの少女はポートマットでは有名人で、俗に『黒魔女』と呼ばれていた。彼女は孤児院に何度も通っていたからジゼルも顔は知っていた。しかし直に先輩として接してみると威圧感が凄かった。自分よりも年下に見えるし、背も低い。ところが話してみると知性の塊で、およそジゼルが敵う相手ではない。武力や魔法では指先さえも使わずに自分を殺せるだろう、と察した時、ジゼルは『黒魔女』には無条件に従おうと決めた。
無条件? ああ、つまり、本能レベルで承認してしまうことを言うのか。そう気付くと、ジゼルは雷に撃たれたような気分になった。
ジゼルは孤児院にいた頃の、騎士と姫の関係を考えた。騎士が無条件に姫を守るのは姫だから、ではなく、本能に由来して守りたい、と思われる存在だからだ。
そうなると自分は姫には相応しくないのではないか、と自らの高身長にジゼルは陰鬱な気分になった。だが、逆に考えたらどうだろうか?
つまり―――――自分が騎士になればいいのではないか?
そこまで思索が進むと、何かがピタリと自分の中で填ったような気がした。
そうか。私が騎士だ。
では、姫は…………?
ジゼルの思考はそこで行き止まりになり、首を振って妄想を霧散させた。
そう、あの時までは思い出すこともなかったのだ……。
去年の初冬、ポートマットで連続して痴漢騒ぎがあった。
上司であるドロシー、店主であるトーマスからは事前に情報が来ていたが、どうやら帝国の姫とその従者がお忍びで来ているらしい。
痴漢の被害者は、もちろん、その姫と従者、そして色気のない女騎士として名高い、ポートマット騎士団のエルマ・メンデスと、その他二名。いずれも、だらしない体をしていたり、身だしなみがだらしなかったり、男にだらしなかったりと、痴漢魔の粛正対象になった。
ジゼルはピン、ときた。
この痴漢魔はレックスではないのか、と。
被害者の風貌や容姿は、どれもレックスが修正したくなるような素材だったから。
曰く、
『磨けば光るのに、磨くことを怠っているなんて、女体に対する冒涜です』
と、言葉を聞くだけなら立派な志だが、それを外部から修正しようだなんて、傲慢にも程がある。
体の手入れを怠っているのは自分たちの責任ではないのか。ジゼルは表情にこそ出さなかったが、内心で憤慨したものだ。
そう思っていたのだが、実際に被害者たちが倒れている現場を見たところ、どの女性も恍惚の表情をしていたのを見て、少し考えを改める。耳年増のフローレンス情報によれば、被虐や恥辱によって性感を得る人たちがいるらしい。まさか、彼女たちがそんな特殊な事例だというのか。
極めつけだったのは騎士エルマが倒れている現場だった。
陵辱された女騎士!
ジゼルはビビッときた。
有り体に言えば、倒れている騎士エルマを、自分に置き換えた姿を想像して、興奮したのだ。
思わず股間を押さえてしまったが、同時に嫌悪感もあった。自分の性癖こそが特殊なのではないか、と。
一人悩んで悶々としていたところ、新規開店していたトーマス商店下着部のフィッティングルームで、ジゼルは毎夜に渡ってレックスからフィッティングのレクチャーを受けた。
これも衝撃的だった。
つまり、守るべき王子様と、それを守りながらも、護衛対象である王子様にいいようにされてしまう女騎士……という謎の構図がジゼルの中で完成したのだった。
もうジゼルの目に入る男はレックス以外にいなかった。自分の体をこんなに火照らせた男を、黙って逃す筈がないではないか。
これは、一生を賭すべき恋だ。
ジゼルはそう確信した。
たとえレックスがパンツを被り、夜道で他人のパンツを強制的に交換しようが、変態に恋をしてしまったのだ。
そうだ、自分も変態だから丁度いいじゃないか。
納得し出すと、もうレックス以外考えられない。これは是非責任を取ってもらわなければならない!
ところが…………恋する乙女の視線でレックスと、その周囲を見てみると、外面の良さと滲み出る変態性癖が女性を惹き付けるのか、レックスは異性に物凄く好かれる。
ライバルの多さに愕然としたジゼルは、実力行使に出ることにした。レックスが幼いとかは関係ない。自分だって、そう変わらない年齢だ。こういうのは早めに唾を付けるべきだ、などと偉そうに言っていたフローレンスも、実はレックスのことが気になっているのをジゼルは知っている。まあ、フローレンスはどうとでもなる。せいぜいレックスに気が向かないように誘導するだけだ。
レックスは自らが陵辱した帝国の姫様と、その従者にも誘いを受けていた。レックスが下着をフィッティングすると、ただならぬ愛情が相手に伝わるのか、実に幸福そうな顔になる。
実際に多幸感に満ちるのは、ジゼルが体験済みだった。レックスのお触りは一級品、絹の如し。
「ああ……」
ジゼルは先ほどまで味わっていた感触を思い出して腕を抱いた。
当面の最大のライバルはサリーだ。彼女が恋心を自覚してからが本番、そこまでに可能な限りリードを広げたい。ジゼルとしてはサリー本人は嫌いではない。年下ではあるものの、尊敬できる人物だ。黙ったままでいても間が保たない、だなんてことはないし、ウマが合う、とでも言えばいいのか。透明な空気感は浮世離れしていて、茫洋としてつかみ所がない。猫の目のようなミステリアスガール……。直情なジゼルには羨ましい属性だった。
それこそ、騎士に守られるお姫様ではないか。
だから……だから、渡さない。
レックスは、姫を守る騎士ではなく、私という女騎士に守られる王子様なのだから。
グッと拳を握りしめてから、中指と人差し指だけを伸ばして、ジゼルは思いを新たにする。
「レックス……好き。愛してる」
虚空に呟いた。
なお、盛り上がったジゼルが自分で慰めることを思いつくのは、それから三分後のことである。
うん、ジゼル、君も十分に変態だ!