黒魔女の薫陶
【王国暦123年8月18日 15:23】
「黒魔女先生、ようこそいらっしゃいました」
「黒魔女先生、ご機嫌麗しゅう。お久しぶりでございます」
領主の館、別館に『黒魔女』がやってきた。二刻ほど前、オダがポートマットに戻っていた『黒魔女』と遭遇、夏バテ気味だった二人の姫の様子を見て欲しい、と依頼したのだった。
サリー、ジゼル、レックスから提示されたように、二人の姫は麦わら帽子を被って、庭仕事をかなり頑張った。筋トレも欠かさず、乳製品も多く摂るようになり、実に健康的に――――ほんの少しだが――――太ってくれた。姫様二人の頑張りは、コーチ・オダを感動させていた。
実際には夏バテといっても軽度のもので、『黒魔女』に声を掛けたのは、オダが過保護である証明でもある。
姫様二人はそんなオダに苦笑しつつ、午後の紅茶の用意を始めたのだった。
オダは不慣れながらも給仕を手伝った。メイド長に言わせるとまだまだ下手らしいが、手際が悪いだけだ、と本人は自己擁護をしている。
まだまだ下手、といえば姫様二人の手作りクッキーの方だろう。ハーブは香り付け程度に抑えるべきなのに、豊作だったアピールと、歓迎の気持ちが昇華して、緑色になってしまった。
「いや、紅茶もクッキーも美味しいですよ」
『黒魔女』は料理には厳しいと聞く。それでも批評は時と場合を選んでいるらしい。だから、この紅茶とクッキーにも見るべきところはあったのだろう。
「本当に日焼けしちゃって……嫌だわ」
急な日焼けは体に悪い、と脅されていたので、そんな呑気な言い方をするオーガスタを見て、オダは危機感がないなぁ、と苦笑する。一方で死への恐怖が薄いのだろうか、とオーガスタの精神面を不安視する。
妹君であるヴェロニカ姫は、オーガスタに比べて充実していて、庭仕事以外にも習い事やら領内の視察に出掛けたりと、領主の奥方になる準備に忙しい。
オダとしては、オーガスタと二人きり、というシチュエーションは悪いものではない。それでも、暗い顔をしているオーガスタに接するのは歯がゆいものだ。
「それならば柑橘類を多く摂りましょう。ケリーたちからトマトは受け取っていますね?」
「はい、ご厚遇には感謝しておりますわ」
「トマトや柑橘類はなるべく生で召し上がるようにしてください。あとはお酢を使った料理があると夏バテにはいいですね。食べやすいのは豆腐などでしょうか」
食べ物の話になって、『黒魔女』は弟子たちからは得られなかった、いくつかの食材知識を教えてくれた。オダは乳製品は知っていたが、懐かしい名前にハッとなる。
「豆腐……」
「はい、製法はご存じですか? そのうち、ポートマットでも専門店が出来るとは思いますが」
そう言いつつも、『黒魔女』はレシピを書いたメモを渡した。こういう手間を惜しまない気配りができる人間は本当に尊敬できる。真の意味で、この小さなドワーフは親方なのだと、オダは感動する。
当の『黒魔女』には、オダに対して手間を掛けるだけの理由がある。何の活動もしていなくとも、オダは勇者として召喚された人物である。暴走すれば脅威になりかねず、オーガスタが安全装置である、というだけの話なのだ。
オダが素直にそれを好意として受け取っているのは、それこそ丁寧にオダやオーガスタに接しているからで、『黒魔女』の演技が上手いとも言える。しかし裏に理由はあれど、『黒魔女』は基本的にお人好しで、味方であればとことん厚遇する。敵になるのなら容赦がないのは、別に『黒魔女』に限った話ではない。
オダにとってオーガスタ姫は別格に大事な存在だ。その次くらいには、この『黒魔女』のために骨を折ることも吝かではない。オダがそう思うまでに至ったのは、それが『黒魔女』の仕込みが成功しているのか、純粋に人柄のせいか、どちらかなのだろう。
総じて緩やかな空気の中、お茶会の時間が流れていった。
【王国暦123年8月19日 13:07】
本日もお茶会だ。
オダは連日のお茶会に、これが貴族の暮らしか、などと変な感想を持つ。
今日は領主である、アイザイア・ノーマンが同席していた。
このアイザイアとヴェロニカは、来月の頭に婚姻の儀を執り行う。迷宮の外部に露出している植物園の上で、屋外パーティーが予定されており、そこで使うテーブルの試作品を、『黒魔女』が持参するとのことで、アイザイアも執務の休憩がてら見に来た、というわけだ。
「ほう、スコーンか」
昨日のリベンジ、というわけではないだろうが、今日も姫様二人の共作、手作りお菓子の登場と相成った。スコーンにつけるジャムは、残念ながら、ポートマットで有名なスーパーお婆ちゃん、アーサお婆ちゃんの手作りだ。『黒魔女』と同居もしているから、すぐにジャムの出所はバレてしまったのだろう。
「美味しいです」
それでも、『黒魔女』は眼を細めて褒めた。百パーセントの賛辞ではないのが、オダにもわかった。
「何かしていないと不安らしくてね。その点、庭園造りやお菓子作りは終わりが見えなくていい」
なるほど、そういう考え方もあるのか、とオダはアイザイアの言葉に感心する。アイザイアは柔らかくヴェロニカ姫を見て、ヴェロニカはそれに気付いて頬を染めた。そのヴェロニカを見て、少しだけ、オーガスタは寂しそうに目を伏せて、すぐに気を取り直して微笑みを見せた。オダはそんなオーガスタを見て、胸が締め付けられる思いだった。
『黒魔女』はオーガスタを目の端で見て、タイミングを見計らい、
「ああ、それで、これが試作品なんですけど」
と、テーブルの試作品を取り出した。
それは透かし彫りの白い陶器とガラスのテーブルだった。
「うわ……」
「わあ……」
「素敵……」
「すげえ……」
陶器が彫り込まれ模様が透けて見える。その上にガラスが乗っているのだが、どうなっているのか、透かしをガラスが埋めていて、全体としては平滑な面になっている。一見して普通の人間が普通に作ったものではないのがわかった。
たかが工芸品がこんなにも人の魂を揺さぶるものなのか。オダはまたまた『黒魔女』に感動させられていた。
場が感嘆の言葉に満ちたことで、『黒魔女』も得意げだった。彼女は自分ではそんなことはない、と思っているが、周囲に言わせると、あまり感情を見せる方ではない。だが、自作の物品を披露して、それを賞賛されると破顔するらしい。
オダが想像するに、『黒魔女』は自己評価があまり高くないのではないかと感じるのだ。グリテン最強の魔術師の自己評価が低いというのはどんな笑い話なのかとも訝しむが、そうとしか思えない。その代わりに、製作物を褒めると嬉しがる。これは行動を褒めているに等しいからだろう。この『黒魔女』にして、未だ自身の行動には自信がない。そう考えると、今の自分の立ち位置が不安定であっても、それはそれとして容認できるような気がした。
不安定、といえばオーガスタの立場もそうだ。オダがオーガスタを見つめると、オーガスタもオダを見ていた。
「!」
心が通じ合ったような気がした。不安定でもいい。二人なら、支え合っていけるような……そんな気がした。
「……………………」
アイザイアとヴェロニカも通じ合っている様子で、一人取り残されたような形になった『黒魔女』は、ちょっと詰まらなそうな表情で、二組のカップルを見て、軽く肩を竦めた。
【王国暦123年8月20日 1:07】
「それじゃ、私、戻るね」
「ああ、はい」
寝間着を頭から被ったジゼルの背中を見ながら、レックスは思う。
乳首って小さいんだな……。
天の声があるならば、そりゃー背中ーだからなー、乳首がーあったらー驚きだー、などと響いたことだろう。
今日も今日とて、レックスはジゼルに蹂躙された。……とは言ってもジゼルの方から誘っているだけであって、行為そのものは合意の上でやっている。ジゼルは文字通り体当たりでレックスと接しているのだ。
こんな爛れた関係……素晴らしいな! と、レックスは下衆いことを考えた。
何しろ、女体をくまなく触ることが出来て、しかも喜ばれる。今ではジゼルの細身の肉体を、本人以上に知っているくらいだ。
本当は…………サリーと、こんな関係になりたかった。純愛が結ばれるべきだ、とも思うが、同居している冒険者のカレンやシェミーなど、大人の話を聞いてみると、好き合った同士が結ばれることの方が珍しいのだという。ある種の諦観が醸成した結果の台詞ではあったが、レックスは、それが真実の一端を示しているように思えた。
ジゼルが嫌いなわけではない。むしろ、肌を重ねて情も移っている。それでも、レックスにとってサリーは特別だった。妹であり、姉であり、守りたい人……。物心がついたときには隣にいて、儚く可憐な、エルフの血を引いた少女……。
今だって孤児院時代と関係性は変わっていない、と思う。
サリーは普段、ポーッとしていることが多く、何を考えているのかわかりにくい。レックスは他の人に比べれば理解出来る方だと自負はしているものの、どうにも理解できないことを考えている時も多々ある。
話し掛けていいものか迷う。勇気を出して、サリーに考えていたことを訊いたら、ドングリかリスか魔道具か、姉さんと呼んでいる『黒魔女』のことか……そのいずれかなのは毎度のことだ。
男っ気がまるでないのは救いなのか、そうではないのか、レックスにしてみれば判断に迷うところ。
魔道具製作に関してはレックスも一定の腕前があるため、自分の手に負えないところはサリーが手伝ってくれる。一緒に作業をするときの一体感は、肌を重ねていなくても感じる、スピリチュアルな触れ合いだ。
ふと、レックスはそれでもいいのではないか、と妥協を自分に提案してみる。
心が触れ合っているならば、それで満たされるのではないか。直接的な肉の交わりがなくとも、サリーを感じることが出来れば、手段は問わずともいいのではないか。
いいや、と否定する。
フローレンスたち四人組がトーマス商店に来た最初の夜、二段ベッドでも足りず、レックスはサリーと同じベッドで寝たことがある。その時のサリーの暖かさといったらなかった。あの暖かさを感じた時間は、今でもレックスの宝物なのだ。
そうだ、今の状況と何も変わらないのは――――やっぱり駄目だ。レックスが努力を放棄しては、親密さは高まらないのだ。向上することを止めてしまえば、サリーは自分に愛想を尽かすだろう。共に高め合う関係であるからこそ、レックスはサリーと一緒にいられる。いてもいい、と自分で思えるようになる。
ああ、サリーは、自分にどこまで要求してくるのだろうか!
レックスは天井を仰ぎ、大いに嘆息した。
僕はもっと大物に、ビッグになるんだ。ならなければ、サリーと添い遂げることはできないんだ。
レックスは無意識に自分の下半身に触れて、ビッグになるんだ、と心の中で繰り返した。
他者から見れば大いに否定するところではあるが、レックスは自分が凡人であることを自覚している。そう思えるのはサリーという魔法の天才を見ているからであり、そのサリーよりも多才、多芸、多趣味である『黒魔女』、家事、裁縫、料理の化け物であるアーサお婆ちゃん……。
才能の塊である連中と付き合っていれば、嫌でも己の才の無さに嘆きたくなる。
一種の脅迫観念ではあるが、それらに匹敵する才能を見せ、実績をあげなければならない。
レックスはグッと力を込めて、自らの下半身を握りしめた。ビクビクッと下半身も刺激に応えて反応した。
ちなみにレックスの名前は、孤児院のあった聖教会ポートマット支部の司教であるユリアンが名付けたもので、その由来は赤ん坊にして下半身がビッグだったからだ。
つまり、すでにレックスはビッグだったのだ。
僕はまだまだビッグになる、と心の中で誓ったレックスに、お前はーぁ、どんだけービッグにーぃ、なるーつもりーなんだー、と天の声がツッコミを入れたのは間違いない。
「サリー……」
レックスは上の階で寝ているだろうサリーを思って呟いた。
なお、下半身をビッグにしたレックスが、自分で慰めることを思いつくのは、それから三分後のことだった。
若本規夫の百人一首とか素晴らしいですな!