白金魔女の筋肉
【王国暦123年6月10日 8:11】
「そう言われましても、私は料理人ではありませんし、姉さんほど知識が豊富なわけではありませんよ?」
トーマス商店迷宮支店の一室で、冷淡に聞こえる声を発したのはサリー・オギルビーである。
彼女は、少女独特の儚い雰囲気を持ちながら、大魔力を持つ魔術師独特の圧力を併せ持っていた。無表情に見える、その僅かな表情筋の動きを、いい大人であるスタインとオダは注視せざるを得ない。
こうしてサリーの顔を見つめることで、この少女に淡い思いを抱いてしまう人が続出しているのだが、当人はその事実を知らない。
「そうですか……『黒魔女』殿の一番弟子、『白金の魔女』にお伺いすれば、ヴェロニカ様の健康に役立つ情報が得られると思っていたのですが……」
いやあ、残念だ、と大袈裟な身振り手振りで、スタインは悲しそうな顔を作った。
彼女は『黒魔女』の一番弟子で、その事実こそ『白金の魔女』の矜恃を支えるものでもある。
「むむ……」
それを引き合いに出されると、サリーは黙っていられなくなる。スタインの作戦勝ちというよりは、サリーの沸点が低すぎるのだ。その辺りは年齢相応なんだな、とオダは微笑ましい気持ちになる。
「如何でしょう、肉が付く……食材や料理……」
それだけを聞くと、まるで家畜を育ててるみたいだ、とオダは眉根を寄せた。
「運動はなさっているんですか?」
「朝の散歩、それに普段は庭園のお手入れですね」
これはオダが答えた。オーガスタと同様、ヴェロニカも朝に散歩をしている。運動量としては似たり寄ったりだ。
「庭園のお手入れはお一人でなさっているわけではないでしょう? もう少し体を動かすようにすれば……」
「徐々に増やしてはおりますが、元々運動が苦手なお二人です。急に増やせるものでもありません」
オダは無意識にオーガスタを絡めて意見を述べた。サリーはそんなオダを見てなるほど、と頷く。何故、この場にオダがいるのかを悟ったのだ。
「サリー嬢、食事の話だったのでは?」
スタインが軌道修正しようと口を挟む。
「姫様お二人は体に相応の食事量を摂取しているに過ぎないのでしょう。筋肉量が少ないと思われます」
「筋肉量?」
スタインが疑問符を投げる。オダの方は、その単語がすんなり理解できた。
「そうです。スタインさんは立派な筋肉をお持ちですよね。オダさんの方も体格の割には立派です。これは普段から運動して鍛えているからです。冒険者ですから、当然ですよね」
「まあ……そうですな」
スタインは少女であるサリーに対して、上から目線では話さないでいる。見た目とは違う才覚を持つ人間がいるというのは、『黒魔女』で散々思い知っていたからだ。
「ですが、引退された冒険者さんはでっぷりと太っていることが多い……。運動しなくなって筋肉の量が減ったのに、消費量を上回る量の食事を摂っているからです」
オダはサリーの説明に大きく頷いた。
「単に太りたいなら毎食限界以上まで食べればいい、と」
「はい、ですけど、それはそれで体に負担があるんじゃないんでしょうか?」
サリーは、オダの補足に理解が正確だったことを示すように、僅かに微笑んだ。
「つまり運動量と筋肉量を懸案しつつ、バランスの取れた食生活であればいい、と?」
スタインも理解が追いついたようだった。サリーはさらに微笑む。
「そうです。単に太ればいい、というものではありません。色々なものを美味しく食べられる肉体であれば、相応の体つきになるはずです」
サリーは饒舌に語った。
「さすが白金の魔女ですな。有意義な意見だ」
「『陰影』に鍛えられたことがあるのです。その時に教わった訓練方法ですが、お教えしましょうか?」
「『陰影』のブリジット……」
その名前はスタインも、オダも知っていた。恐らく、冒険者ギルド全支部を合わせても、一番有名な冒険者ではないだろうか。
「しかし、それでは激しい訓練方法なのでは?」
そこでサリーは不気味に笑った。スタインもオダも一瞬怯む。
「いいえ、自慢じゃありませんけど私は筋力量が少なかったんです。本職は魔術師であり錬金術師ですから。そこでブリジット先生が私にやらせたのはコレです」
言うが早いか、サリーは床に伏せてしまった。
「肘を直角にして、爪先と二箇所で体を支えます。このときに体を直線に保つのが重要です」
このトレーニング方法は見たことがあるぞ、とオダは不思議な気持ちになった。
「最初は十を数えさせられて、それを三セットやらされました。最終的には三十を数えさせられるの五回やらされました。慣れてきたら、これと一緒に……」
「横になるやつですか」
オダが言うと、サリーは少し目を丸くした。
「ご存じでしたか。下になった方の足を曲げて、左右を三回から五回。ゆっくり息を吐きながら――――」
スタインとオダは、言われた通りに実際にやってみることになった。
「こんな軽い運動で筋肉がつくとは思えないが……」
「いえっ」
「むっ」
「ほらっ」
「これはっ」
「むううう」
「ぐっ……」
ドタッ、と三人がお腹を床に付ける。
「結構キツイ……なるほど……なるほど!」
スタインが目を輝かせた。重量級と言われているスタインの奥さんにやらせようとしているに違いない、とオダは邪推した。
「お腹がプルプルしますよね。今でも毎日やっていますよ。レックスはそうでもないですけど、ジゼル姉さんなんかは腹筋が割れています」
サリーは何だかんだと親切に教えてくれる。無表情なだけで根は良い子なのだろう。レックスとジゼルは同じくトーマス商店に勤務している従業員、かつ冒険者で、サリーと一緒に、王都の冒険者ギルド本部で開催していた初心者講習という名の地獄の特訓に参加させられた。辛い特訓を耐えきった同志だ。
「食べ物の方はあまり力になれませんけど。アーサお婆ちゃんか、モーさんか、コルンさんに訊いた方がいいかもしれません」
アーサはサリーが住んでいる家の家長で、ポートマットでも有名な、伝説のスーパーお婆ちゃんのことだ。ギネス・モーは、迷宮都市にある『ホテル・トーマス』にあるレストランの料理長。コルンは、軽食堂の店長だ。
「三人とも多忙そうだな……」
スタインが呟く。
「コルン氏なら個人的に知り合いです」
オダが声をあげた。
「それならコルンさんに訊いた方がいいですね。フィッシュ&チップスばかり作っていますけど、あの人の料理もなかなかですよ? 私は、昨日頂いたハーブも――――ああ、その節はありがとうございました――――どうやって使えばいいのか、全く思いつきませんでしたから」
昨日、オダがダフネに渡したハーブはちゃんとサリーに届いたようだった。
「参考までに。昨日のハーブ、どうやって使ったのか、教えて欲しい」
オダが訊くと、サリーは頷いた。
「ウチのアーサお婆ちゃんは、ハーブを天日で乾燥させて、パンも乾かして粉にしたものと混ぜて衣にして、鶏肉を揚げ焼きにする、と言ってました」
「香草焼き……?」
オダは頭に浮かんだ料理の名前を口にする。
「っていうんですか?」
サリーが小首を傾げた。それはとても可愛らしく、彼女のファンがポートマットの製造業に多い、というのが良くわかる仕草だった。
【王国暦123年6月10日 9:23】
「一体何だったの? 筋肉? って?」
来客が去った後、ダフネが近づいて、サリーに訊いた。
「筋肉を鍛えたいらしいです」
「へぇっ?」
何で? あんなに筋肉隆々の人たちなのに? とダフネは不思議そうに首を傾げた。
「ジゼル姉さんみたいになりたいのかなぁ」
ちゃんと説明しないままのサリーは、同じように首を傾げた。
「あの子は痩せてるようで体重が重いわ」
ダフネがちょっと勝ち誇ったように言う。
「体重が軽いのは剣を扱う者としてはよくないそうですよ」
「私は使わないから大丈夫」
あくまで自分の優位性を示して、ダフネは満足そうだった。
何だか噛み合っておらず、意思が通じていないような気がして、サリーは釈然としなかったが、ダフネとは毎回こんな感じだ。
「美しい肉体を作るのは正しいトレーニングから」
「美しい肉体……。フローレンスみたいになれるかな?」
フローレンスはトーマス商店従業員の中でも、飛び抜けて美少女だ。しかし、その中身は『かなりキツい』と評判で、それが人気の元にもなっているのだから、世の中の男はどうかしている。
「さあ?」
そんなのは本人のやる気次第なんだけどな、とサリーは言おうとしたが、どうせ正しく伝わらないし、補足するのを諦めた。
「無責任ね」
トーマス商店の従業員は『黒魔女』を除いて、ポートマットにある聖教会の孤児院の出身だ。その孤児院時代、ダフネはフローレンスを煽って、サリーとレックスを虐めていた過去がある。ダフネが店主であるトーマスに引き取られた時、すでにサリーは先輩従業員として独り立ちしていた。
ダフネとしては当然面白くなかったが、虐めるというのは立場が上でなければ難しい。仕事にも慣れた今なら同列だ、と思いたかったが、サリーは魔法と錬金術に才能を示していたため、トーマス商店でも重要な位置にいる。
永遠に追いつけないのでは、虐めるなど夢のまた夢。燻っている思いをぶつける相手は誰もおらず、焦りと苛立ちは募ったままだ。
ダフネの後にも従業員は入っているから、立場が弱いものを虐めたいのなら、その人たちをどうにかすればいい。ところがダフネには要注意マークでもついているのか、邪な気持ちを抱く前に複数の人物から干渉を受ける。その度に黒い気持ちは霧散するのだが、サリーと二人きりで店番、と言う時は、どうしてもストレス解消先だった過去を思い出してしまうのだ。サリーが悲しい顔をすれば、楽しいんじゃないか? と夢想する。
現実には戦った経験など皆無のダフネが、上級冒険者であるサリーを虐められるはずがない。サリーが暴力を振るうつもりなら、攻撃魔法で消し炭も残らないだろう。つまり喧嘩を売っていい相手ではない。ところが、こうも穏やかに暮らしていて、サリーが持つ馬鹿げた――――真の戦闘能力というものを見たことがないダフネには、それを想像できないでいる。
知らないことは幸せである――――が、すでに自分の立ち位置を見つけているサリーにとって、ダフネの存在はあまり重要ではない。だからダフネから何を言われて何をされようが、些事だと斬り捨てるだろう。
ダフネとしては、そうやって自分を過小評価しているだろうサリーが気に入らない。ここまで明確に言葉になっているわけではないが、それは何となく伝わってくる。
だからダフネは思う。
私を過小評価したことを後悔させてやる、と。
もしかしたら、これも一つの愛情表現だったのかもしれないが、それは本人にもよくわかっていない。
【王国暦123年6月10日 13:17】
領主別宅に戻ったオダは、腕を組んでオーガスタとヴェロニカに向き直り、声高に言った。
「さあ、姫様、やってみましょう」
「ええー……」
軽い拒否の言葉が細い体躯から伝わる。
サリーから教わった筋トレをオーガスタ、ヴェロニカにやらせてみたものの、五つ数える前に体が床に着く。
「ささ。いーち、にぃー……」
「だめぇー」
「あぅー」
はふ、と息をつくオーガスタはとても色っぽいな、とオダは内心で興奮した。
「はい、よくできました、姫様。また明日やりましょう」
「…………何だか面倒臭いわ…………」
「誰がこんなことを提案したの……?」
両姫からの苦情に、オダは軽く息を吐いてから、伝家の宝刀を振りかざすことにした。
「『白金の魔女』に習ってきました」
「サリーさんか……!」
「あの白金の魔女が、こんな肉体強化法を……?」
「魔術師と言えども最低限の体力をつける必要はあるそうです。この訓練方法は、『白金の魔女』の体力の無さを不安視した師匠が提言したものだそうです」
「『白金の魔女』の師匠と言ったら…………」
「そ、それは頑張らないといけないわね……」
実際には『黒魔女』に比肩するネームバリューを持つ『陰影』のことなのだが、ここは勘違いさせておくことにした。二人にとって『黒魔女』の影響力が大きいことは、オダもわかっていたから。
「ですから毎日やりますよ!」
オダは珍しく、心を鬼にして宣言した。
なお、オーガスタとヴェロニカが筋肉痛で動けなくなったことに気付くのは、明朝のことである。
本編同様にダラダラ続く感じ……。