祈りの泉のペペツェロリ
ペペツェロリは泉の精。ちいさな村のはずれにあるささやかな森に抱かれた泉が彼の生まれた場所であり、住み家だ。
葉擦れの音がこだまする気持ちのいい場所なのだが、最近ペペツェロリはちいさなイライラがつのってしかたがない。
「いた、あいたっ」
今日も苦行がはじまった。
うしろ頭にこつんと当たった硬貨をつまみあげてペペツェロリはうんざりする。
「いいかげんにしてよ、ひとの家に硬貨を投げ入れられたってなんにも願いなんて叶えてあげられないよ」
今より少し前のこと、旅人の男がペペツェロリの泉でかわいた喉をうるおした。ところがこの男。たいそう運が悪かった。泉に身を乗り出した瞬間、ふところから旅費の入った袋がころがり落ちた。
袋は泉に一か所空いた亀裂にみごとすべりこみ、ペペツェロリが眠る泉の底まで落ちてきた。
あわれ旅人の男は見えなくなった旅費の袋をあきらめざるをえなかった。
ところがだ。
その男がその後、あれよあれよと幸運を引きよせ、大富豪になったのだという。幸運の始まりはどこだったと聞かれた男は「泉に財産をすべて呑み込まれた。不運と思ったあれこそがまさに幸運のはじまりだった」と証言したのだ。
かくしてペペツェロリのうんざりな日常ははじまったのだった。
辺境の村の辺境の森の泉まで、幸運にあやかりたい人々が訪れては硬貨を投げ入れていく。
ぽちゃんと水面で音がしたのであわててペペツェロリは泉のはしへと逃げこんだ。沈み落ちて来る硬貨の上で水にゆらめく男が必死の形相でうなっている。
「嫁さんがほしい、嫁さんがほしい、嫁さんがほしい……」
「こんなとこで祈ってないで、道ゆく女に声をかけるなり見合いをするなりしてよ!」
ペペツェロリはうんざりする。
「まったくもうつきあってられない」
言って水底の寝どこまで降りて行くと耳に両手をあててふて寝を決めこんだ。
少し横になったつもりが本気で眠ってしまっていたらしい。ペペツェロリが目を覚ますと、辺りはすっかり真っ暗やみだった。
「夜は静かでいいなぁ」
凪いだ水面につられてペペツェロリは水面から顔を出した。出したとたんにぎょっとする。誰もいないと思っていた泉のほとりに少女がいた。草地の上にひざをつき両の手を組みあわせて一心に祈りをささげている。
月明かりに照らされる姿がひどくきれいでついペペツェロリは見とれてしまった。
しばらくして少女はまっさらなワンピースから銅貨を取りだすと静かに泉に沈めた。そうしてまた両手を組みあわせ、まぶたを閉じる。
祈る少女の唇から頼りなげな声がもれた。
「泉の神様、どうか私のお母さんを助けてください。どんな薬をのませても病気は少しも良くならず、今ではごはんさえまともに食べることができません。お母さんに元気になってほしいです。以前のようにいっしょにごはんを食べられるようになりたいです」
泉に向き合い、少女はずっと動かなかった。
朝が来るまでそうしてずっと祈っていた。
日がのぼり、やっと少女が帰っていくとペペツェロリは水の上に座りこみ、黙って水底を見つめていた。水底には人々が投げ入れた願いの硬貨が降り積もっている。
「僕だって叶えてあげられるものなら叶えてあげたいよ。だけど僕はただの泉の精。なにもとくべつなことはできないんだ」
その日も入れ替わり立ち替わりさまざまな人々がやってきて泉に硬貨を投げていったが、ペペツェロリは少女のことが気になって頭に積もった硬貨をはらうことすら忘れていた。
夜になり、少女はまたもやってきた。
次の日も、その次の日も。
見るたびちいさな少女は疲れはてていく。少女の気落ちしようがそのまま少女の母親の病状を表しているようだった。
「あと何日、私はお母さんといられるんだろう。せめてその苦しさだけでも変わってあげられたらいいのに」
少女は毎日祈りのすきまに自分の胸の内を語っていく。やせ衰えた母を見るのがつらいこと。昔がなつかしいこと。病気がつらく、自分にあたる母を憎らしく思うときがあること。そんな自分がきらいなこと。そして最後には、お母さん元気になってと涙を落とす。
ペペツェロリはそれをただ聞いていてあげることしかできない。
今日も夜明けとともに帰っていく少女を見送りながら、ペペツェロリはとぼとぼと泉の底の寝どこに戻った。
「せめて少しでもなにかしてあげられればいいのに」
だけどペペツェロリにできることはなにもないのだった。
「せめても僕にできることがあるとしたら、この泉の水を分け与えることくらいなんだ」
ペペツェロリは水底からこんこんとわき出る水だけをつかまえると、トトイの葉でくるんでふところにしまい水面にむかった。空は暗い。泉から顔を出すと今日も少女がきていた。
「もうだめかもしれません」
少女は今にも泣きそうな声でつぶやいた。
「水さえ口にすることができないんです」
それっきり声もなく、少女は泉にむかって祈りつづけた。
ペペツェロリはその日初めて少女のそばへ近よった。
はげましたい一心で少女の組みあわせた手に自分の両手をそえて、くずれそうな少女をささえつづけた。
夜明け前、少女のひざ下にふところから取りだした清らかなわき水を置くとペペツェロリは打ちひしがれて水底へ戻って行った。
日がのぼり、また人々がやってきた。硬貨が降り落ちてくる。
「嫁さんがほしい、嫁さんがほしい、嫁さんがほしい……」
今日もいつぞやの独身男がきていた。
「できるよ。それだけ希望する心があるのなら」
そうならいいなと思い、ペペツェロリはつぶやいた。
その夜、少女はやってこなかった。次の夜も、また次の夜も。
少女がこなくなって、二月がたった。
いつかのわずらわしさが嘘のように、泉は静けさを取り戻していた。
人々は別の幸運の噂を聞きつけて、泉から離れていった。
はやりの過ぎた今でも訪れてくる者はいるが、少しくらいの人数ならばむしろペペツェロリにはいい憩い相手だ。
ぽちゃんと水音がして硬貨が落ちてくる。
「嫁さんがほしい、嫁さんがほしい、嫁さんがほしい……」
ペペツェロリはふふと笑った。この執念深い独身男にもなんだか愛着がわいてきた。
いつか願い叶って嫁をもらう日がきたなら、その日まで投げ込み続けた硬貨をすべてトトイの葉でくるんで贈りかえしてあげようかなぁといたずら心をふくらませる。
なんだかんだとおだやかに日々暮らすペペツェロリだが、二月たっても気がかりなのは病気の母親の快復を祈っていたあの少女のことだった。
少女と母親は今ごろどうしているだろう……。
その夜、うたた寝をしていたペペツェロリは人の気配を感じて起きあがった。
まさか、でも、もしかしたら?
少女のことが頭に浮かんでペペツェロリはあわてて水面に顔を出した。
泉のほとり、座っていたのはペペツェロリの願い通り、いつかの夜の少女だった。月夜にあわく照らされる白い顔に以前の疲れた色はない。
もしかして、もしかしたら?
ペペツェロリは望みを抱いて、そろそろと少女のそばへ近よっていく。
まるでペペツェロリがそばへきたことに気づいたように少女はとうとつに話だした。
「お母さんが亡くなりました」
それは一瞬でペペツェロリの心を石にする出だしだった。
「二月前、最後にこの泉にきた夜の次の昼間に。最後は眠るようでした。あんなにつらそうにしていたのに嘘みたいにおだやかな表情でお母さんは息を引きとりました」
泉の中をのぞきこむ少女を近くでみつめながら、ペペツェロリは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。 わかっていたはずだったのだが、けっきょくペペツェロリは少女の願いを叶えてはあげられなかったのだ。
だけど、話す少女の表情はおだやかだった。
「ありがとう」
だしぬけにお礼をいわれてペペツェロリはとびあがった。
「あの夜、私の足元にトトイの葉で閉じこめた水を置いてくれたのは、泉の神様なんでしょう。私、あれを持ち帰って、お母さんの唇を湿らせてあげたんです。それからは夢みたいな時間だった。ずっと声もなく眠っていたお母さんが目をあけて、すごく甘いわ、これはなんて飲み物? って私の目を見ていったんです。私が泉の神様がくれたお水だよっていったら、お母さんはにっこりわらった。ごはんどころかお水も飲めない状態だったお母さんなのに、泉の神様のお水だけは葉っぱをつたう一滴までぜんぶ飲んでくれたんです。おいしいね、おいしいねっていって、幸せそうにわらいながら。なんだか昔に戻ったみたいだった。ほんとうに、夢をみているみたいな時間だった。だからね、神様。お母さんが亡くなって、心を落ちつけるまでずいぶん時間がかかってしまったけれど、どうしてもこの気持ちを伝えたかったの。私の願いを叶えてくれて本当に本当にありがとう」
一息にしゃべりぬけると泉に前髪をひたすほど深く少女は頭をさげた。
ペペツェロリは胸がいっぱいになった。
「ぼくはなんにもしてないよ、きみが一生懸命がんばったから、きっとお母さんも最後にこたえてくれたんだよ」
いった直後にペペツェロリはわーんと泣きだした。声をあげて泣いたのははるか昔の子供のころ以来だ。
だけど、少女が元気でいたこと、なにもできない自分にこうして感謝してくれていること、病気の母親の最期にわずかでもおだやかな時間があったこと、いろんな感情がごちゃごちゃになって、ペペツェロリは泣くことをとめられなかった。
少女はペペツェロリが泣きやむまで、泉のそばで座りこんでいた。
泉をのぞきこむ少女には水面に座って泣くペペツェロリの姿はうつっていなかったが、ただおだやかな面持ちで少女はそこにいてくれたのだった。
そして、夜のあけぬうちに少女は兄と姉が待つという家へ帰っていった。
ペペツェロリはまっかに腫らしたまぶたをこすって、ゆっくりと夜があけていくのを見ていた。
ちいさな村のはずれにあるささやかな森に抱かれる泉には、今日もほそぼそと村から人がやってくる。
昔はやった噂を信じてなけなしの銅貨を握りしめやってくる若者。銅貨ではなく供え物をもってやってくる者もいる。
太い手に硬貨のかわりに自分の畑でとれた野菜入りのかごを持った男は、今は家に妻と子が待っている。
そして泉にむかい歩いてくる娘は、いつか頼りなげに祈っていた少女。しなやかな足どりで、手には手織りの衣服の供え物を抱いている。
泉にはそこで生まれた泉の精がいて、今日も彼らを見つめながら憩いの時を過ごしている。