4、レディーファイト
場が、一気に静まり返る。
騒ぎを遠巻きにしてひそひそ話をしていた、近くのオフィスの人たちも。社長が出てきたので一旦退いたものの、この社長では収拾をつけられそうにないと踏んで再度割り込もうとした警備員さんも。わたしの隣で息を呑んだ溝口さんも。声をかけられて、ようやくわたしのことを思い出した社長も。その社長に断る隙も与えず言い寄っていた女も。
みんな、ぽかんとしてわたしを凝視する。
わたしはこのインパクトをさらに強めるため畳みかけた。
「プライベートのご関係のようですが、何故わたしがその女性に殴られ、その上侮辱されなければならなかったんです!? 顔を殴られたんですよ? 顔を! さいわい爪で引っかかれませんでしたけど、痣ができたらどうしてくれるんですか!? お仕事に伺っただけなのに、こんな目に遭わされるとは思ってもみませんでした!」
「え? あなた──」
自分の勘違いにようやく気付いたのか、女の顔に動揺が走る。その機を逃さず、わたしはジャケットのポケットから取り出した名刺を差し出した。
「わたくし、こういう者です。国館建材さんからのオフィスリフォームの依頼を受け、オフィスデザインを担当させていただいています。本日はリフォーム案をお持ちいたしましたので、ご確認とご要望の追加を承りにまいりました」
毒気を抜かれた女が促されるままに名刺を受け取る。
名刺が自分の手から離れたところで、わたしは再び国館社長に目を向けた。
「だいたい、仕事にプライベートを持ち込むなんて、だらしないと思わないんですか? 廊下に出て見てください、この人だかりを。皆さん、何の騒ぎかと思って出てこられたんですよ? 静かな環境でお仕事をなさりたいでしょうに、これだけたくさんの方が仕事の邪魔をされてしまっているんです」
迫られておどおどしていた社長の顔色が一変する。
わたしのほうを向いた女の脇をすり抜けて廊下に出ると、わたしに向かって腰を折って頭を下げた。
「申し訳ありません!」
それから国館建材さんのオフィスを挟んで両側に集まってきていた人たちにも、それぞれ深々と頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありません!」
はっと我に返った溝口さんも、社長に倣って頭を下げ「申し訳ありません」と謝罪する。
二人が悪いわけじゃない。けれど、ここで追及の手を緩めたり、女に矛先を向けたりするわけにはいかない。
わたしは社長をさらに責め立てた。
「御社の問題は御社の中で片付けるべきで、他の方々に迷惑をかけるべきではないのではないですか? こういう騒ぎを引き起こし、かつ収めることもできないようでは、社長の経営手腕を疑います。わが社はリフォームを引き受けているだけでなく、御社が取り扱う製品を卸させていただいていますが、今回のことを社に報告したら今後の取引を考えさせていただくことになるかもしれません。わが社から御社に宛てて抗議があるかもしれないことも覚悟しておいてください」
頭を上げられないまま、声に苦渋をにじませ社長は謝罪を繰り返す。
「はい……まことに申し訳ありません」
溝口さんも警備員さんも、騒ぎを聞きつけて出てきた人たちも、皆固唾を呑んで見守るばかりで何も言わない。
その状況に良心が咎めたのか、女が言いにくそうに声をかけてきた。
「ちょっとあなた、国館さんは悪くなんか……」
やった、かかった!
わたしは小躍りしたい気分を懸命に隠し、女に冷ややかな目を向けて告げる。
「じゃあ悪いのは誰ですか? わたしが殴られ転ばされて、避けられないほうが悪い、運動音痴なんじゃないかと侮辱されたのは、誰のせいですか?」
わたしはおもむろに手のひらを差し出した。
「あなたの名刺をください」
「……は?」
唐突なわたしの行動についていけず、間の抜けた相槌を打ってくる。わたしはちょっと顎を上げて尊大に言った。
「名刺がなければ、連絡先を何かに書きつけてください。連絡先がわからなければ、わたしがあなたに治療費を請求できないじゃないですか。ぶたれた頬にもし痣ができたりしたら、治療を受けてその費用を請求させていただきます」
「お、脅そうったって、そうはいかないわよ。痣なんて全然ないじゃない」
上手い具合に動揺してる。あともうひと押し。
わたしはあくまで冷淡に答えた。
「脅しているわけじゃありません。被害者が加害者に賠償を請求するのは、今の世の中当然じゃありませんか。今は大丈夫でも後になって痣が浮き上がってくることもありますので、念のためにあなたの連絡先をお伺いしておくのは当然のことでしょう? それとも、あなたは無関係な人間に暴力を振るっておきながら、謝罪も責任も負えないような非常識な人間なんですか?」
人格を疑われるような正論を突き付けられ、女は忌々しそうにハンドバッグから名刺サイズのカードを取り出し渡してくる。……社長に渡すつもりで用意してたものみたい。可愛らしいデザインのカードに丸文字印字で名前と電話番号とメルアド。手間暇かけてるなぁと感心したいところだけど、人様に迷惑をかけるのはいけません。
名刺をじろじろ眺めたあと名刺ケースに入れてポケットにしまうと、わたしはにっこり笑って言った。
「それでは、何かありましたら連絡させていただきますね。──それで、僭越ながら一つだけお伝えいたします。あなたが会社に押しかけてきたせいで恥をかかされた国館社長は、もうあなたのことを好きになってはくれないと思いますよ?」
その途端、女の目が見開かれる。
ようやくわたしの目的に気付いたようだけど、もう遅い。わたしを憎々しげに睨みつけると、社長に目を向けることなく彼女は走り去った。
エレベーターを待っていられる気分でもなかったのだろう。エレベーター脇の階段を、ヒールの音を響かせながら駆け降りていく。
……よかった。社長のほうを見られなくて。すでに顔を上げていた社長はハラハラと成り行きを見守っていて、見ようによっては彼女を心配しているように見えないこともない。それを見られていたら、また面倒なことになるところだった。
足音がほとんど聞こえなくなったところで、わたしは詰めていた息を吐き、社長のほうを向く。呆然としていた社長はわたしの視線に気付いてはっと我に返り、また頭を下げてきた。
「巻き込んでしまって、本当に申し訳ありません」
わわわ、ちょっと待って、もういいんですってば! わたしは手を差し伸べて、顔を上げるよう促す。
「こちらこそすみません、酷いことを申し上げてしまって。でもこれで、二度と今の方は来られないと思います」
「え……?」
訳がわからないといった表情をして顔を上げた社長に、わたしはにこっと笑いかける。
「社長に好きになってもらえないのなら、今の方がここに来る理由はないですから。──そういう流れに話を持っていくためとはいえ、社長に恥をかかせる真似をして申し訳ありません」
腰を折って頭を下げると、わたしは廊下の左右に集まった人たちにも同じように頭を下げる。
「お騒がせし、皆様のお仕事の邪魔をしてしまって申し訳ありません。国館建材さんのオフィスリフォームを請け負いました、社デザインのインテリアコーディネーター粕谷美樹と申します。後日改めてご挨拶に伺いますが、近々リフォーム施工の工事に入らせていただく予定でおります。騒音等ご迷惑にならないよう重々気を付けますので、よろしくお願いいたします」
礼儀正しく挨拶したおかげか、何人かの人が緊張を解きつつ近付いてきた。
「その……さっきの人に言ってた自己紹介って、本当のことだったの?」
少し年上の女性に尋ねられ、わたしはにこやかに返事をする。
「はい。できれば来週中には工事に入りたいと思っています」
「それにしても、びっくりしちゃったわ。急に社長さんのことを悪く言い始めるんだもの。事務の方に目配せしてたから何か考えがあるんだってわかってたけど、見ていてハラハラしちゃった」
年上で同性の気安さからか、女性の話し方は親しげになっていく。わたしも失礼にならない程度にそれに合わせた。
「そこが狙いだったんです。先ほどのような方は自分がとやかく言われたって、聞く耳を持ちません。ですから社長さんに抗議することで、注意をこちらに引きつけたんです。上手い具合にこちらの話に乗ってくれたので、あとは言い逃れとか否定出来ないこととかを繰り出してですね」
楽しげに説明していると、スーツ姿のおじさまが顎に手を当てて感心しきりに言った。
「いやー今まで追い出すしかなかったのに、引き下がらせる方法があるとは思わなかったよ。“恥かかされた相手を好きになるわけがない”か。なるほどね……」
「相手の方が退散するきっかけになってよかったです。あれ以上食い下がられたらどうしようって、内心焦ってたんですよ」
「そんな風には見えなかったわよ。すごいわ~。ついでに他の人も追い払ってくれないかしら?」
「“他の人”ですか?」
意味がわからずわたしが首をひねった時、警備員さんが手を叩いて注意を促した。
「皆さん、そろそろ解散してください。“敵”は去ったことですし、このままだとあなた方が周囲の迷惑になってしまいます」
「あ、そうですよね。すみません」
「ホントに助かったわ。ありがとう」
皆さんは口々に謝罪やお礼を言って去っていく。わたしは国館社長と溝口さんと一緒に、何度も頭を下げてそれを見送った。
皆それぞれのオフィスに向かったところで、警備員さんが声をかけてきた。
「国館建材さん、騒ぎはこれっきりにしてくださいよ」
「はい。申し訳ありませんでした」
廊下に他の人がいなくなったところで、国館社長は再び謝罪してきた。
「巻き込んでしまって、本当にすみませんでした。その、叩かれたところとか痛くはありませんか?」
「あ、大丈夫です。先ほどの方から連絡先を聞こうとしたのも、あくまで念のためでして。本当は多少避けることができて掠る程度にできましたので、それほど痛くもなかったんです。ただ、よろけちゃって尻もちついちゃいましたけど」
だから痛いのは顔というよりお尻──というのは黙っておくことにする。
けれど心配げな表情をした気弱な社長は、意外に一歩も退かなかった。
「後から腫れてきてもいけません。ともかく冷やしましょう」
そこまでする必要はないって言っても、聞いてくれそうにないな……。気弱だと思ったのに、頑固な一面もあるようだ。遠慮したところで社長は譲らないと悟ったわたしは、心配させてしまって申し訳ないことをしたなと思いながら、しおしおと社長のすることに従った。