27、社長の戦い
粕谷さんをオフィスで見送った後、僕は取引先に向かって車を走らせていた。
──明日の夜には、必ず話しますから。
昨日粕谷さんが言った言葉を思い出し、僕の口元は不謹慎にもほころんでくる。
期限を決めて自分を追い詰めなければならないほど、粕谷さんが言えずにいることだ。真摯に受け止めなければならないことはわかっている。
けれど、それによって二人の関係が先に進むだろうことを、喜ばずにはいられなかった。
粕谷さんは気付いてないみたいだけど、彼女がまだ僕から距離を置こうとしているのを感じる。
改めて数えてみれば、出会ってからまだ一月だ。互いを知り、心を開くには、十分な時間とは言えないかもしれない。ただ、“粕谷さんが僕に言えずにいる何か”が一つの障害になっていることは間違いなかった。
その障害を取り除けば、粕谷さんとの距離が縮まるだろう。
僕はそう信じていた。
運転席と助手席の間にある小物入れで、スマホが着信音を立てた。僕は停車禁止でないことと安全を確かめ、路肩に車を止める。
スマホを手にとって見てみると、相手は登録していない番号だった。仕事の電話は全て登録してあるし、紹介された人とは連絡先交換をするまで紹介者の方を通して連絡する。
不審に思い眉をひそめた後、僕は慎重に電話に出た。
「──はい」
『壮一? わ、わたし志乃子……』
「荒倉さんでしたか」
やっぱり、という苦い思いが胸に広がり、僕はこっそりため息をつく。
いったいどこで、僕の電話番号を手に入れたんだ。
荒倉さんと別れた後、僕は全ての顧客や取引先に連絡先変更のお知らせをして、連絡先を変更した。二度とかけてこないと思っていたけど、念のためだ。
けれど、荒倉さんにはその程度での連絡拒否は通用しないらしい。
「誰にこの電話番号を教えてもらったか知りませんけど、電話もしてこないでください。あなたと関わる気なんてこれっぽっちもないんです。失礼します」
『待って! あの女のことなの!』
電話を切ろうと耳から離したスマホから、必死な叫び声が聞こえる。
“あの女”。
その一言に、僕の手は止まった。スマホを凝視していると、そこから怯えた荒倉さんの声が流れてくる。
『あの粕谷美樹って女は、そうとうヤバいわよ。前の会社で散々男漁りしてクビになったくせに、そんな女はあなたにふさわしくないって言ったら、逆にわたしを脅しつけてきたの。このままだとあなたもわたしも、あの女にこれまでの信用をずたずたにされるわ。あなたがわたしを嫌いというのはわかってるけど、ここは協力してあの女を追い払ったほうがいい──ちょっと、何笑ってるの?』
こらえ切れず、電話口でくつくつ笑い声を立てた僕に、荒倉さんの苛立った声がかかる。
僕は正直に話した。
「あなたをそこまで怯えさせるなんて、粕谷さんはさすがだなと思いまして」
息を呑む音に続いて、激昂する声が聞こえてくる。
『冗談言ってる場合じゃないわよ! あなた、あんな女と付き合ってるって取引先に知られても平気なの!?』
そんなことを言って、粕谷さんを傷つけたのか。
僕は煮えたぎる怒りを抑えながら言った。
「僕は、粕谷さんと付き合えたことを自慢したいです。僕を励まし、身体を張って助けてくれた。“あなたが言ったことが本当だったとしても”、僕は絶対に粕谷さんと別れません。もし、あなたが粕谷さんについて不名誉な噂を流すようでしたら、僕も人生を賭けて、あなたの信用をずたずたにします。──妊娠をしたと偽って僕に結婚を迫ったことを、顧客だけでなく、あなたの取り巻きにもバラしたらどうなるでしょう? 特に取り巻きたちは、あなたを崇拝するからこそ、どんな行動を起こすかわからないですよね?」
電話の向こうの、荒倉さんの声が震えた。
『あなたまで、何言ってるの……?』
「僕は本気ですよ。──“他の人たちは利用してるだけで、本命はあなたよ”。あなたの口癖でしたよね? 取り巻きの男性たちにも、同じことを言ってるんじゃないですか? 彼らはあなたへの恋心に惑わされて気付いてないようですが、もし同じ言葉をあなたが他の男性にも囁いていると知ったら、彼らはどう思うでしょうね?」
裏切られていたと知った時のショックは計り知れないだろう。
その恨みが僕自身に向く危険もあるけど、これ以上粕谷さんを傷つけたら、そのリスクを負ってでも荒倉さんのことを許さない。
動揺したわめき声が、スマホから聞こえてきた。
『あ──頭おかしいわよ、あんたたち! も、もう二度と関わらないから!』
耳元に、通話が切れた音がする。
荒倉さんの最後の言葉は負け惜しみだ。“二度と関わらないから許してほしい”と懇願する代わりの。
今回の動揺から覚めたら、またちょっかいをかけてくるかもしれない。けれど、これからは断固として戦う。もう二度と、粕谷さんを傷つけさせはしない。
粕谷さん──。
僕は怒りから我に返り、急いでスマホを操作した。
──・──・──
いつもの足取りで駅前商店街を抜け、住宅地に入る。住宅地の一角に、会社のショールームと事務所を併設した社屋があって、ここから十分足らず歩けば着く。
わたしは足を止めて、会社に電話した。
「粕谷美樹です。……はい、国館建材さんへのお引き渡しは無事完了しました。それで、すみません。急に具合が悪くなってしまって、このまま早退させていただくわけにはいかないでしょうか? ……ありがとうございます。サインをいただいた書類のほうは、次に会社に行く時まで責任もって管理しますから。……はい。……はい。……」
仕事のことを二つ三つ話し、月曜日は残業をして遅れを取り戻すと謝って、電話を切る。
わたしは駅とは反対方向にとぼとぼと歩き始めた。
しばらくすると、スマホが着信を告げる。
「……はい」
のろのろと電話に出ると、壮一さんの切羽詰まった声が聞こえてきた。
『粕谷さん! 大丈夫ですか!?』
「その様子ですと、荒倉さんとお話なさったんですね?」
わたしはできるだけ普通の声で話す。
『荒倉さんのことでしたらもう大丈夫です。僕も徹底的に脅して、“二度と関わらない”と言わせましたから』
「壮一さんが脅しをかけたんですか? すごいです!」
ホントにすごい。先々週までとはまるで別人だ。
壮一さんはもう大丈夫。
荒倉さんがまた接触してきても、きっと自分で何とかできる。
電話口からは、壮一さんの焦った声が流れてくる。
『粕谷さんのおかげです。ありがとうございます。それで、粕谷さんは大丈夫なんですか?』
最後に話さなきゃ。
「今、お時間大丈夫でしょうか?」
『え? ええ……』
質問をはぐらかすわたしに、壮一さんの声は戸惑う。わたしは決心を固めて、穏やかに話し始めた。
「荒倉さんからどのくらい話を聞かれたかわかりませんけど、わたしの話も聞いてください」
わたしは荒倉さんに話したよりも簡潔に、社長に話した。そして荒倉さんには話さなかった、家に閉じこもっていた時の話をする。
「誰も信じられなくなって、外に出ることもできなくなったわたしは、毎日ネットをつらつら眺めて過ごしました。そこで認知療法というものを知ったんです。自分の行動を客観的に分析して、精神的改善を図る──ちゃんと勉強したわけじゃないので、正しく理解してないかもしれませんけど。ともかく、わたしはこれだと思いました。わたしは、それまで自分に起きた出来事を主観的にしか捉えてなかった。自分や他の人たちの感情を抜きにして、実際に起こった出来事を見直してみて、ようやく自分は悪くなかったと認識できるようになったんです。それから徹底的に自分の身に起こった出来事を分析して、どうすればあの状況を避けられたか“研究”し尽くし、社会復帰への自信を手に入れました。──それでなんです。わたしが社長に言い寄る女性たちに諦めてもらうことができたのは。頭の中で何でもシュミレーションする癖が役に立ちました。実のところ一か八かだったんですが、成功してよかったです」
口から漏れた笑いは、壮一さんの沈黙によって空笑いに変わる。
「すみません。わたしの話をいっぱいしちゃって」
我に返ったかのように、社長の声が耳元で響いた。
『いえ、それはいいんです! 話してくださってありがとうございます。前にも言ったように、僕は受け入れます。そもそも、粕谷さんは何も悪くないじゃないですか。ひどい目に遭われて、さぞかし辛かったでしょう』
わたしを労わってくれる壮一さんの声をずっと聞いていたいけど、これ以上聞いていたら決心が鈍ってしまう。
わたしは未練を断ち切るように、話を遮った。
「わたしの話を信じてくださってありがとうございます。それで話を戻しますと、荒倉さんを追い払う目的のためにわたしは壮一さんと別れないと言ってしまったので、壮一さ──国館社長も、もし次に荒倉さんから連絡があった時は、わたしたちが付き合い続けているというフリをなさってくださっても構いません」
わたしが何を言いたいのか察したのだろう。息を呑む音がして、それから社長の慌てた声が響く。
『粕谷さん!? 何を言ってるんですか! 僕たちは付き合ってます! 言ったじゃないですか! “僕はあなたを受け入れる”って! なのに何で別れるって話になるんですか!?』
わたしは涙をこらえながら答えた。
「社長は信じてくださっても、他の人まで信じてくれるとは限りません。わたしを非難したり、社長にわたしとの付き合いをやめるよう忠告する人が現れるかもしれない。国館社長は、会社を背負って立つ人です。わたしのことでご迷惑をおかけするわけにはいきません。ですからこれで終わりにしましょう」
『粕谷さん! 待ってください!』
必死に呼びかけてくれる社長に甘えたくなる。
それを振り切ってわたしは言った。
「これにてわたしの任務は完了です。この先はご自身の力で切り抜けていってください。大丈夫です。荒倉さんを脅しつけて撃退した社長ならできます。どうか、ご自分の力を信じてください。それでは失礼いたします」
電話を切ってすぐ、スマホの電源も落とす。
馬鹿みたい。傷つきたくないから話せないとか悩んじゃったりして。
最初のうちは“わたしなんかに社長はもったいない”って思ってたのに。告白されて浮かれて、肝心なことを忘れてた。
わたしは、社長にふさわしくない。
自分のことより、社長のことを考えるべきだった。悔しいけど、荒倉さんの言う通りだ。社長が信用を失ったら、会社の評判も台無しになってしまう。そうなったら、国館建材さんと取引する人たちも迷惑を被ることになる。
だから、わたしは社長と付き合っちゃいけない。
この恋には先がないという、自分の考えを信じるべきだった。




