七話
異無は進んでいた。
進む。ひたすら進む。足を前に、必死に必死に。動かし続ける。
左肩を貫通している触手。先端は遥か後方の地面に突き刺さっているため、抜こうにも抜けない。つまり、異無は張りつけられた状態。
痛い。傷口がジュクジュク痛む。熱い。燃えるように痛い。
だが進む。進むたびに肩の傷口と触手が擦れ合い、叫びたくなる衝動に駆られるが、進む。
進まなければならない。速く。もっと速く。魔獣まで残り約二メートル。
あれを倒さなければ、死滅させなければ、ここにいる四人は死ぬだろう。
異無、彦星、篤木、奈々乃。
篤木と彦星は死んでも構わないが、いや構わなくはないが、出来れば助けたいが、それよりも奈々乃が気がかりだ。妹と同じ顔をした人間が気がかりだ。
もちろん、妹と奈々乃が別の人間だということは分かっている。そんなの承知の上だ。奈々乃とアイツは全くの別人。似ても似つかない。
だが、見捨てられない。どうしても見捨てられない。
妹を助けることが出来なかった。妹を守りきることが出来なかった。だからこそ、奈々乃を見捨てることが出来ない。
今度こそ、あの顔をした少女をこの手で守りたい、守らなければ、義務がある。
実際、異無一人が逃げ出すことは簡単だ。なりふりさえ構わなければ、いつでも逃走は可能である。
千切ればいい。
左肩を引き千切ればいい。
幸い、魔獣は彦星と篤木に注意を向けている。
幸い、左肩は貫かれているため非常に脆い状態にある。
なら逃げることは簡単だ。
だが出来ない。物理的には簡単でも、心情的に無理だ。
見捨ててなるものか。その一つの感情が、痛みを麻痺させ、異無を突き動かす。
後一メートル。状況は芳しくない。
今、篤木が地面から生えてきた触手に貫かれ、空中に吊り上げられた。
あれはまずい。
一応、これも何かの縁だ、あの二人もついでに助けておきたい。この状況で、それは少し欲張りが過ぎるというものだろうが、欲張って何が悪いというのだ。
助けられる人間は助けたい。当たり前だ。
だがこのペースでは間に合わないだろう。
一メートルが百メートルにしか見えない。このペースでは間に合わない。
なら走ればいい。
異無は、貫かれた左肩を気にも留めず、両足に力を込め、思い切り走る。そう、走る。
そんなことをすれば、傷口と触手の摩擦は増し、狂いそうになるほどの激痛が襲うだろうが、お構いなしに走る。
ブチブチュブチュブチッ、
筋繊維が壊れる音が聞こえる。
ブチンッ。
嫌な音だ。左手がブランと垂れ下がる。
肩が使い物にならなくなるかも知れないが、まあ仕方ない。
ブチュブチと肉が擦れる音に呼応するかのように、
ビチャビチャビチャビチャ。
篤木の血液が滴る音。
肉が擦れる音と血液が滴る音が、嫌なハーモニーを奏でる。
あと少し、あと少しで魔獣に、魔獣の瞳に、魔獣の弱点に、竹刀が届く。
「あ、ああ、……」
彦星が、あまりの篤木の惨状に、膝を折る。
大丈夫だ安心しろ、もう届く。今届く。
「俺を置いて話を進められてもなあ」
異無は、少女を安心させるように、皮肉を込めてそう言う。
助けを求める虚ろな目が、こちらを向く。
「あぁあああああっ!!」
右手に持った竹刀に渾身の力を込め、魔獣の瞳に突きを入れる。
ドチュッ。
赤い飛沫が舞う。
キイイイイイイイイ、という悲鳴。鳴き声。泣き声。
ドサリ、と地面に落ちる篤木。
大分出血していたが、大丈夫だろうか? まだ間に合うことを祈る。
魔獣はまだ死滅しない。しぶといやつだ。
先程まで篤木に巻きついていた触手が、彦星を襲おうとしていた触手が、一斉に異無目掛けて飛んでくる。
命の危機を感じ取ったからだろうか、恐ろしく速い。
魔獣の瞳は、まだ一つ残っている。それを破壊しない限り、この三角錐の化け物は暴れ続けるだろう。
ここで異無が死ねば、全員が死ぬ。それだけは避けなければ。
だが、残る一つの瞳は、異無のいる調度反対側にある。ここから回り込んで瞳を破壊するまでに何回殺されるか。それ以前に、左肩を貫いている触手が邪魔だ。
不幸なことに、魔獣の瞳は反対側にある。
幸運なことに、魔獣の瞳は反対側にある。
ギチビチビチャ。
異無は、全身の力を、体重を、気力を、全てを、携帯竹刀に込める。
魔獣の瞳に突き刺さったままの竹刀を、ぐりぐりと押し入れる。
竹刀が、魔獣の体内を掘り進む。肉を貫き、奥に沈んでいく。
ビチグチャブチッ、
竹刀の先端が、反対側の瞳に迫る。
魔獣の触手が、異無の首に迫る。
「と、ど、けえええええええええええ!!」
ドスッ。
異無の首の後ろに、まさしく首の皮一枚でピタリと止まる六本の触手。
届いた。貫いた。
三角錐の化け物を、赤い瞳を、弱点を、急所を、魔獣を貫いてやった。
やった、やってやった。
今度こそ、妹を、いや妹の顔をした別人だが、とにかく妹を守ることに成功した。
異無は歓喜と達成感に脱力し、その場に膝を付く。
ギイイイイイイイイイイイ、
魔獣の断末魔が上がる。三角錐の身体を覆っていた金属質の皮膚が剥がれ落ち、触手が腐ったように崩れ落ちる。剥がれた場所が、崩れた場所が、溶けるように消滅していく。
あれだけ暴虐の限りを尽くした魔獣だが、案外アッサリと死滅していく。
表面の剥がれた三角錐はなんとも不恰好で、全身から赤黒い液体を染み出させている。なんというか、今更だが、非常にグロテスクだ。
異無の左肩を束縛していた触手は、もう無い。
自由に動かせる。といっても、左肩から先の感覚が無いのだが。
「ああ、疲れた。あああ疲れた。とりあえずは病院だな」
だが安心するのは早い。疑問は、まだ残ったままだ。
なぜ魔界の生物がこんなところに居るのか?
魔界は厳重に警備されていて、魔物が抜け出せばすぐさま警報が発令される。即、討伐隊が駆けつけるはずだ。
そしてもう一つ。
なぜ魔獣は、奈々乃ではなく、異無を優先して攻撃したのか?
魔獣が奈々乃に触手を伸ばした直後に、異無は駆け出したのだ。人間の足よりは、魔獣の触手の方が数倍速い。あれで間に合うはずがない。“だが間に合った”。
触手は奈々乃を無視し、異無に向かったのだ。なぜだ?
途中までは、確かに奈々乃を狙っていたはずだ。異無も、全力疾走しながらも、おそらく間に合わないだろうと頭では分かっていた。だからこそ“あの程度の存在”に肩を貫かれたのだ。こっちに向かってくることは有り得ないと油断したからこそ、突如軌道を変えた触手に反応が遅れ、肩を貫かれてしまったのだ。本来の異無なら、六本の触手ぐらいものともせずに払いのけていたはずだ。
もし……。
もしも、それが異無を殺害するための策だとしたら、どうだろうか。奈々乃を攻撃すると見せかけ、異無を油断させ、殺すためだったとしたら?
最初から、異無を殺すために魔獣は現れたのではないのか?
異無が狙いだったからこそ、魔獣は最初、異無の真下から出現したのではないか?
いや……。
あくまで、もしもの話だが。
それに、魔獣にフェイントを仕掛けるだけの知能は無い。
だから、これはもしもの話なのだ。もしもの話は所詮もしもの話。自分の命を狙って魔獣は襲ってきた、なんて自意識過剰もいいところだ。
アホらしくなり、異無は思考を打ち切る。
そんなことより、一刻も速く手当てしてやらなければならない人間がいる。
……生きてるよな?
彦星に駆け寄られる篤木を窺い、その目が薄っすら開いていることに多少安堵する。
身体を三箇所も貫かれ、あれだけの血を絞りとられた。それに、あの怪力の締め付けによる損傷は、何も出血だけではないだろう。体中の骨があちこち折れているはずだ。少なくとも肋骨は数本いってしまっているのは確実だ。
むしろなぜ意識が残っているのか不思議だが、それは篤木の能力によるところが大きい。
篤木は能力『筋骨流粒』により、全身を活性化させているのだ。骨を活性化させ血を生成、細胞を活性化させ治癒力向上、少なくなった血液を活性化させ、微量の赤血球で多量の酸素を運ばせる。
要は、自然治癒力を最大まで高めている。
便利な能力だ。これなら救急車が来るまで保つだろう。
異無は携帯電話を取り出し、救援を呼ぼうとする。
「待つです」
篤木の傷口を確認すると、顔を上げて遮る彦星。
さっきまでの悲壮に満ちた表情ではなく、感情を読み取ることの出来ない、無表情。
「救急車は呼ばないでほしいです。学園の医療班なんてもっての他です」
「はあ? 何言ってんだお前。いくら篤木が丈夫でも、さすがにこのままはまずいだろ。それにほら、こっちもこの通り」
ブラブラと全く動かない左肩を見せてやる。出血も結構酷い。奈々乃も一応怪我をしている。
「大丈夫です。それに関しては“こちら”で何とかするです」
そう言って、小型の通信装置を取り出す彦星。電波ではなく念粒子を利用したもので、逆探知や盗聴防止のための通信装置だ。
ボタン一つでコールをし、即応答する通信相手。
「……です。……下校中……。スカウト……奈々乃……。突然魔獣が……です。……本当に突然……撃退は成功…………それは分からないです。……篤木……重症……。……至急救急班を…………。……例の無能力者……見込みありです……。……今すぐですか? ……もう少し時間掛けても……はあ……了解です」
何を言っているのかはよく聞き取れない。言葉の断片から判断するに現状報告と救援要請、そして無能力者がどうとかいう話。奈々乃の名前も出てきた。
彦星は通信装置を仕舞い、溜息を一つつく。しぶしぶという風に、
「少し事情が変わっちまったです」
「事情? おい、その前にどこに連絡したんだ? どこに救援を依頼した」
だが異無の言葉を無視し、そのまま続ける彦星。
「香苗としては、今日は手当てだけして見逃して、またの機会に勧誘でもよかったんですが。今、貴方とナッチーのことを報告したら、人材はすぐにでも欲しいとのことです」
「いや……言ってる意味が分からないんだが?」
「すぐ分かるです。とにかく……」
彦星は指を二本上げ、
「あなたの選択肢は二つです。“こちら”に付くか。記憶を消されて元の生活に戻るか」
「はあ?」
何を言っているのか全く意味が分からない。
こちら? 記憶を消す? 元の生活?
「決まりで、相手のことも尊重しないといけないんです。香苗的には、めんどくさいから問答無用で連行してしまえばいいと思うんですが……とにかくどちらですか? 香苗達の組織は極秘ですから。勧誘を断られたら、記憶を消さなければならないんです。大丈夫です、手当てはしてからでもいいです。肩、痛そうです」
「どちらか選べって……その前に説明を要求したいんだけどな」
彦星は、仕方ないとでも言いたげに溜息をつき、
「一応、勝手に詳細とか話しちゃダメなんですが……いいです。理由も聞かされず、いきなり二択選べってのも理不尽な話です。要点だけ説明するです」
異無は、周りに誰か居ないことを確認する。誰も居ない。それ以前に誰か居たら騒ぎになっているはずだ。
そもそも、この日に限ってほとんど人通りがないのは偶然ではない。彦星も、それには気付いている。これだけの騒ぎがあって、誰も気付かないというのは明らかに異常だ。学園の仕業か、それとも……。
「まあ、とにかく説明を頼む」
分かったですと頷き、説明を始める彦星。
「まず、香苗達は『烏合の衆』という組織に所属しているです。ツッチーもこれの所属で----」
そこで、彦星の言葉が止まる。止めざるをえない。
驚愕に、思考停止する彦星。
誰だって、首に刃物を突き付けられては固まってしまうだろう。
「あんまり良人をたぶらかさないで」
「なっ……なん……」
「黙れ」
殺意のこもった声。その声音は、有無を言わさず人を黙らせるのに十分に、圧倒的に、殺意的。
彦星の首に銀のナイフが突き付けられている。いつの間に、本当にいつの間に、瞬きもしていないのに、気付いたらそこにナイフがあった。
ナイフが皮膚に食い込み、一筋の血が流れる。
銀色の冷たい感触が、彦星の恐怖心を煽る。赤色の暖かい感触が、彦星の恐怖心を煽る。冷や汗も出ない。
「お前、今朝の……奈々乃を襲っていた……」
異無が呟く。
ナイフの持ち主を見て、呟く。
そいつは特徴的な格好をしていた。今朝見た、あの白だ。
白い制服に、白い髪の毛。白く、きめ細やかな肌。腕には、白いアンティークな腕時計。白く、白い白。
なんだか天使のようだ。
そんな場違いな感想が頭をよぎる。
白い少女は、奇しくも、今朝異無と対面した時のように、彦星の首にナイフを突き付け現れた。
「いいからアンタはどっか行って」
淡々とした声で、単調な声で、どこまでも平坦な声で、むしろ意図的に声に感情を乗せないようにしているかのように、異無に言う。
なんだか従わなければいけない気がする。
なんだか、従わなければ大変なことに巻き込まれてしまう気がする。
突然過ぎて意味が分からない。というか、今日一日で色々唐突に起き過ぎだろう。
朝は、奈々乃が追い詰められてるし、学園では行地の能力が暴走するし、帰りは気色の悪い魔獣に襲われるし、彦星に謎の勧誘を受けるし、そして、これだ。何なのだろうか。絶対厄日だ。
それで、コイツの目的は何なんだ? どっか行って、って……俺に興味がないのか?
----あんまり良人をたぶらかさないで。
----いいからアンタはどっか行って。
……いや……俺を逃がそうとしている? どういうことだ。
「お前は一体----」
「速くどっか行かないとこいつの首が飛ぶけど?」
彦星の首に、ナイフがいっそう食い込む。血の出が良くなる。
主の危険を悟ったのか、まだ薄っすらと意識のあった篤木が、何事か呻くが、何を言っているのか聞き取れない。
白い少女は、その行為に、首を切るという行為に、一切のためらいがない。やばい、あれは確実に殺る目だ。
「お、おいっ! ちょっと待てって、何がなんだかっ」
「十、九、八、」
カウントが始まる。
どうやら、これ以上問答する気はないようだ。
後、七秒でこの場を去らなくては、彦星の命が絶たれる。
一瞬、どうにか出来ないか考えるが、すぐにどうにもならないと悟る。逃げるしかない。
逃げる……いやまあ、それはいいとしよう。だけどまだ……。
異無は、徐々に後退しながら、チラとその方向を窺う。奈々乃だ。
自分が逃げるのは、まあいいとして、でも奈々乃もこの場に残しておくわけにはいかない。
「七----三、二、」
「----っ!?」
飛ばしやがった!
一目散に逃げ出す異無。
全速力で駆ける。
最後に、彦星の首から結構な量の血が飛び出していたのが見えた。
----やばいやばいやばい! あ、あの女! 正気か!?
「一、ゼ」
角を折れ曲がる瞬間、後方から、そう聞こえた。
間に合ったかどうか、いささか疑問である。
◆◇◆◇




