時旅 葉・?話
雨。
雨。
ぽたぽたぽたぽた。
足元を雫が濡らす。
ぽたぽたと。
私の頬を雫が伝う。
雨。
おかしい。
日は出ているのに、どうして雨が降っているのだろう。
太陽はあんなに照っているのに。
空は雲ひとつ無い美しい蒼穹。
こんなに身体は熱いのに。蒸発してしまいそうなほど、熱いのに。
私の胸の内はただただ曇天で。足元を水滴が濡らす。
淀んだ双眸から、とめどなく零れる透明な液体。
進もう。
進もう。
どこに?
どこにだろう。
知らない。
わかるもんか。
ここではないどこかだ。
どこだっていい。
なんでもいい。
どうでもいい。
こんな世界、どうせどこに居ても変わりはしない。
どこに居ても、どうせろくでもない現実が待っている。
歩こう。
歩こう。
どこまでも。
一時間歩いた。
三十秒あるいた。
二秒あるいた。
コンマ一秒あるいた。
気が付けば辺りは暗くなっていた。
いつの間に時が経ったのか。
最近、体内時計がおかしいのだ。
一秒進んだかと思えば十秒進んでいたり。
十秒戻ったかと見せ掛け一年進んでいたり。
一年跳んだかとおもえば一万年は止まっている。
なんでもいいか。
いくら進んでも、もうそこに良人はいないのだから。
好きな人は死んだ。
彼氏は死んだ。
良人は死んだ。
好きな人は死んだ。
後輩は死んだ。
美唯ちゃんは死んだ。
好きな人はいなくなった。
親友はいなくなった。
火巻はいなくなった。
嫌いなやつだけここに居る。
自分だけここに居る。
私だけここに居る。
憎まれっ子世にはばかった。
一人意味無くはばかった。
いなくなろう。
そしてここではないどこかに消えてしまおう。
歩け。
歩け。
進め。
進め。
倒れる。
倒れた。
痛い。
立てない。
立つ力は残っていない。
足は百年は昔に使いきった。
なら這え。
這え。
前進。
全身。
漸進。
そういえばお腹がすいた。
もうどれだけ物を口にしていないのだろうか。
一日か。
千年か。
一億年か。
√九秒か。
ああ、三秒か。
お腹がすいた。
何を食べよう。
ここには何もない。
いや、あるか。
三つだけある。
一つは道。
一つは空気。
一つは時計。
一番食べられそうなものを思考する。
空気にしよう。
お腹が減ったから空気を食べよう。
そうと決まればやることは決まっている。
調理だ。
料理の腕には自身がある。
ええと、なぜだったっけ。
誰か、好きな人のために、何度か手料理をこしらえたことがあるからだ。
自分の食べる分はいつも冷凍食品の詰め合わせだったけれど。
あいつには、美味しいものを食べてほしかったから。
たまに作ってやったんだっけ。
だから料理には自身がある。
ところであいつって誰だっけ。
忘れたくないのに。
思い出したいのに。
流れた時が、滞った時が、戻った時が、淀んだ時が私の記憶を麻痺させていた。
ああ、そうだ。
りょうとだ。
私はなんでこんなことを忘れていたんだろう。
信じられない。
あんなに好きだった人のことを忘れていた。
だけれどもう、顔は思い出せない。
薄ぼんやりとしか思い出せない。
りょうと。
漢字はどう書くんだったっけ。
どこまでが苗字で、どこからが名前だっけ。
りょ・うと?
りょう・と?
まさか、り・ょうとではないと思うけれど。
あれ?
りょうとって誰だっけ?
空気とどっちが大事だっけ。
空気だ。
だって空気は食べられる。
こんなにも私を包んでくれている。
あいつはいなくなってしまったけれど。
空気はいつまでも私に付きまとう。
さあレッツクッキング。
まずは空気を空気で揚げる。その空気を空気ナイフで切り裂き、断面に空気を擦りこんで、再び空気同士を密着させる。途中で調味料として空気を小さじ一杯入れ、より空気らしくする。隠し味として空気をちょっぴり混ぜて、そしてここでなんと十二種の空気を、それぞれ五個ずつぶちこむ。おまけに、その辺の空気棚に入っていた空気を取り出して、空気もろともかき混ぜる。空気お玉で空気をすくい、軽く味見。うん、実に空気な味だ。空気と空気と酸素と空気と窒素と二酸化炭素が絶妙なハーモニーを生み出している。これは凄い。天然素材の百パーセント空気。持ち運びも便利で、どこでもいつでもどれだけでも食べることが出来る。空気は偉い。私を見放さない。あいつも、あの子も、やつも、私も、私のことを見放し、どこかへ行ってしまったけれど、空気はいつでも私の側に居てくれる。
空気はこんなにもいとおしい。
ああ、どうすれば空気は私を愛してくれるのか。
そうだ私も空気になろう。
空気になって消え去ろう。
そうしよう。
それがいい。
いや、君は消えないよ。
あれ、その声は空気さん、そんなところにいたのね。
君は僕と一緒になることで、永遠に空気として存在することが出来るんだ。
そっか、空気になることで、永遠に空気として存在出来るんだ。
じゃあもうとりあえず空気になっておこう。
形も思考も記憶も道も時計もない、空気になろう。
さあ、一緒にエアライフを満喫しよう。
ばいばい。
……。
…………。
………………。
やだ、
い、や、だ、
「う「あ」「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ」「ぁ「あ」「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ」「亞「あ」「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ」「あ」「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ」「ぁ「あ」「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ」「「あ」「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あ「あ」あっっっ」
声が戻る。
意思が戻る。
身体が戻る。
自我が戻る。
記憶が戻る。
私が戻る。
世界が戻る。
「――――っは……っは……う、ううぅうう、ぁ、ああ、あぁあああ……」
見開いた瞳孔で周囲を確認する。
そこは見知らぬ町並みだった。
私の在籍している第五十学区でも、以前在籍していた第三十二学区でもなかった。
だけれど、神屠学園内であるということだけは分かる。
見知らぬ土地だけれど、各地に神屠学園特有の公共物が溢れているのだから間違いない。
ここは現実世界だった。
そして当然、突如奇怪な叫び声を上げた私が、街を行き交う人々の奇異の視線に晒されないわけがなく。
通りすがりの背広姿の成人男性が肩に触れ、
「大丈夫、ですか?」
「触んないでっ!!!」
その手を払いのけ、夜の街を駆け出す。
駆けながら、ある事実を頭の中で反芻する。
思い出した思い出した思い出した思い出した思い出した。
昨日――――いや昨日かどうか定かではないけれど、先日、良人と美唯ちゃんが病院で非望の死を遂げたのだ。
その事実を受け止められず、私は病院から駆け出て、走り続け、呼吸が出来なくなっても走り続け、足が動くのをやめても走り続け、理性が失われるまでひたすら徘徊し続けていたのだ。
全て思い出した。
私はここに居る。存在している。空気なんかにはなっていない。
安堵する。
だけれどその安堵はすぐに崩壊する。
良人も美唯ちゃんもここには居ない。存在していない。死んだ。それも美唯ちゃんは私が殺したようなものだ。あの時、良人の手術をする美唯ちゃんを止めていれば。集中治療室の扉を開け、私が止めていれば。美唯ちゃんだけでも助かったかも知れない。だけれど私は、良人が助かってほしいという一心で、止めることが出来なかった。
見殺しにした。
たった一人の後輩を、私は自分の意思で見殺しにしたのだ。
しかも結局良人は助からなかった。
美唯ちゃんと、それから実先生が命を賭して手術を成功させたのに、良人の命は尽き果てた。
無駄死に。犬死に。骨折り。くたびれもうけ。死にもうけ。
そして私の親友だった火巻 柚喜は、良人と美唯ちゃんの死、それから――――私に美唯ちゃんを止めるか止めないか選択させたという、有りもしない責任を感じ、完全に瞳から光を失わせていた。私も酷かったが、彼女も彼女で酷かった。よく覚えていないけれど、火巻は私とは別のベクトルで塞ぎこんでいた。ただ私に謝り続けていた。その後、火巻の姿は見ていない。
考え得る限り最悪の結果。最悪の現実。これが私の今。今。
いや、考え得る限りの、その限りを越してより酷い。
酷い、酷い、酷い。
なんでなんでなんで。
おかしいおかしいおかしい。
こんなのってない、どうかしてる。
ただ私は、美唯ちゃんと良人、二人共に助かってほしかっただけなのにっ。
二人が並んで笑んでいるところを見たかっただけなのにっ!
あれ? あれ? なのにどうして二人とも死んでるの?
どうして二人とも死んだの?
私が悪いの?
私が無力だったから?
何もしなかったから?
でも何も出来なかった。
しようが無かった。
私はどうすればよかったのだろうか。
どうすれば異無兄妹を守れたのだろうか。
こんなことになる前に、良人を軍部の手から解放すればよかった?
でもそうしたら美唯ちゃんが殺される。学園に利用されると同時に、人質に取られていた美唯ちゃんが殺される。
じゃあ、先に美唯ちゃんを学園の魔手から助けていればよかったの?
でもそうしたら良人が殺される。軍部に利用されると同時に、人質に取られていた良人は殺される。
じゃあ、良人と美唯ちゃんを同時に助ければよかったの?
そんなことできるはずがない。
そもそも、どちらか片方を助けることすら不可能に等しいのに――――学園と軍部、どちらか一つ相手取ることすら無謀なのに、同時に二つなど出来っこない。
助けようとして、結局二人とついでに私もまとめて殺されるのがオチだ。それか更に酷い事態に陥るか。
どうしようもないじゃない。
知っていたところで、どうにもならなかった。
ましてや、その事実を――――良人も美唯ちゃんも互いに人質に取られていたという事実を、私は、良人が病院に搬送されたあの日、初めて美唯ちゃんに聞かされたのだ。
どう対処すればよかったのか。
あの時点で既に手遅れだったのに、私はどう対処すればよかったのか。
そうだ、あの時。
良人に告白した日のこと、私は良人に真実を迫った。だけれど、少し待ってほしいという願いを聞き入れてしまった。あそこで良人をぶちのめし、無理矢理にも聞きだし、協力していれば。
いやだから、そんなことをしたところで、結局、私なんかが力になったところで、軍部にも学園にも刃は立たなかっただろう。
刃は立たなかった。だけれど、もう少しまともな未来を選べていたかも知れない。躍起になってがむしゃらに手を尽くせば、あくまでかも知れないというだけで、ほとんどその確率は皆無なのだろうけれど、まだマシな結末になっていたかも知れない。
私はその機会を逃した。自らの意思で。
やり直せるものならやり直したい。
私はこんな私は嫌だ。
どうにもならなかったとしても、せめて何かをしたかった。
ただ美唯ちゃんが手術するのを傍観しているだけではなくて、私も良人のために何かしたかった。
無力なのは嫌だ。
何も出来ないのは嫌だ。
こんな惨めで無力で無能な私は嫌だ。
もう一度やり直したい。
好きな人の笑顔を見たい。
後輩の笑顔を見たい。
また、あの屋上で笑いあいたい。
取り戻したい。
あの時が取り戻せるなら私はなんだってする。
何だって捧げる。
命だっていらない。自我だっていらない。魂だっていらない。
存在だっていらない。
時だっていらない。
時。
時計。
あの時計の針を戻すことが出来るのならどんなに良いことか。
時を戻す異能力。
そんな都合の良いものがあればどんなに良いことか。
だけれど私の異能力はただの役立たずだ。
事象を観測する意識を加速解釈することに特化した能力形態。
つまり、意識を加速することで、物事をスローモーションで捉えることに突飛している、ということ。
それが私の異能力が特異とする分野。
だけれどせいぜい、1秒を0.8秒に意識下変換することぐらいしか出来ない。それもほんの数秒。しかも大量の念粒子と集中力を消費しなければならない。
こんな能力に意味なんかない。
だからこそ私は劣悪者が揃う、劣級十五組に在籍しているのだから。
役立たず。
無能。
無能。
私は無能。
無能力者。
最弱の無能力者。
時。
時計。
指針。
なぜ時は未来に向かって進むのか。
進んでほしくないのに。
止まってほしいというわけではないけれど。
なぜ時は前しか見られないのか。
本当にほしいものは、楽しかった思い出は、いつだって過去にあるのに。
なぜ暗いだけの前を見詰めて進み続けるのか。
私は後ろに進みたいのに。
戻りたいのに。
過去。
戻りたい。
あの屋上で、
また、
皆で、
弁当を……。
いや、
良人と、ただ馬鹿な会話を、交わしたい。
それだけ。
それだけが私の望み。
誰でもいい。
誰か、私の望みを聞いてほしい。
こんなどうしようもない結末をぶち壊してください。
いや、
誰に頼んだところで無駄か。
夢を見させられ、そして結局最後には陥れられるのがオチだ。
上げて落して嘲笑われるのがオチだ。
だから私がやらなければ。
私の力。
もう無能は嫌だ。
だから、
私に、
こんなどうしようもない結末をぶち壊す力を下さい。
◆◇◆◇
“ようやく決心がついたのかい”
“?”
“覚醒する気になったのかい”
“あなた、だれ?”
“現”
“うつ、つ?”
“世界から外れた存在だよ”
“ここは、どこ?”
“どこでもないよ。ただの狭間。いや……隙間、かな”
“私は誰?”
“迷子”
“迷子?”
“時の迷子。種保持者だったもの。覚醒したもの。第一の鍵保持者になり行くもの。まあ肩書きは何でもいい。ようは、君には才能がある”
“才、能? 違う。私はただの役立たず”
“そうだね。君はただの役立たずだ。君は、ね”
“?”
“だからさ、君は――――君という自我は、君の持つ才能――――即ち、『鍵』の付属品に過ぎないんだよ。キーホルダーで言うところの輪や紐、もしくはチェーンの部分って言えば分かりやすいかな? 君は、その世に『鍵』を留めておくための入れ物なんだ”
“鍵、って?”
“君の内に秘めた『鍵』。それを育てるのが君の役目さ”
“私、そんなもの持ってない”
“まだ、持ってないよ。これから手に入れる。この狭間から、そっちの世界に戻った時、君の『鍵』は芽を出す”
“芽?”
“君に伝わるように言うならば、異能力が覚醒する。時を巡る力――――いや、時を迷う力、『時計錠』”
“時計、錠……”
“そちらの能力はオマケなんだけどね。その能力を使用することで『鍵』を育ませることが本筋だよ”
“意味が、わからない”
“意味なんかわからなくていいよ。付属品が真実を知る必要なんかない。ただ踊らされていればいい”
“あなた――――不快”
“褒められると照れるね――――くすくすくすくす”
“……”
“まあ、これは君にとっても嬉しい話のはずだよ”
“何を言ってるの。もう私には何もないのに。嬉しいことなんか何もない”
“過去に遡れる。そう言ったら?”
“嘘”
“なら自分の目で――――自分の身体で、確かめてくればいい。世界に帰った時、君は時の迷子になっている。存分に迷い求めるといいよ”
“あなたは……何?”
“それは最初に答えたよ――――ぼくは現”
◆◇◆◇
目が覚めた時。
そこには、色鮮やかな桜の木が並んでいた。
桜並木。
薄桃色の花弁が散っている。
風が吹くとそれらが舞い上がり、まるで新入生を歓迎しているかのようで。
私を歓迎しているかのようで。
私はそれが、怖かった。
私はその場でうずくまる。
得体の知れない恐怖に駆られる。
ここは見覚えがある。
知っている。
前にも同じような体験をしたことがある。
背中に当たるランドセルの感触が、今私は“あの時”にいるのだと自覚させる。
ここは、
――――小等部の入学式?
「怖くないよ」
道端で、頭を抱えて震える私に、そう声を掛ける男の子。
「怖いなら、目を瞑っていればいい」
そいつは、遠慮もせずに私の手を掴み、
「僕が、こうやって手を引いてあげるから」
歩き出す。
そこで確信する。
男の子に手を引かれながら、確信する。
私は過去に戻って来ている。
脳髄を混乱が襲う。脳髄が混沌とする。
だけれど、思考を埋め尽くす疑問符を処理するよりも、今はやるべきことがある。
男の子の手。
私はそれを払いのけて、言ってやる。
なんかもう、半ば反射的に。
「触るな。死ね変態野郎」
そして私の時間旅行がはじまった。
◆◇◆◇