時旅 葉・十二話
……さすがにあの手紙はないわよねえ。
今朝、実先生に渡した手紙の内容を思い出しながら、大いに後悔しつつ、待合室の壁に掛けられた時計を見やる。
十七時四十分。
休憩時間になるまで後二十分。私は椅子から立ち上がり、隣に座る火巻に聞く。
「昨日のこともあるし、私は集中治療室の前で待ってるけど。あなたも一緒に来る?」
「んー、や、僕は美唯ちゃんの容態見てくるから先行ってて」
「わかった」
火巻は昏睡状態にある美唯ちゃんの病室へ、私は実先生が代役を勤める集中治療室へ、それぞれ向かうことにした。
治療室前。
手術中を示すランプにはまだ明りが灯っている。
中の様子が気になるけれど、実先生の集中力を乱してしまうと術式が台無しになる可能性があるので辛抱する。
十八時になっても出てこなかったら、その時は中に入ろう。昨日の美唯ちゃんみたいに、中で倒れているかも知れないから。
それから待つこと二十分。時間ぴったりに、ランプの灯りが消える。
扉が開く。
「……」
実先生が幽鬼のような足取りで出てくる。
「大丈夫ですかっ?」
彼には後半の手術もやってもらわなければならないのだ。こんなところでくたばってもらっては困る。
「ん、んん、……あなたですか。安心して下さい、今のところは問題ないですよ、なんとかね」
「ありがとう御座います、こんなになるまで頑張っていただいて……」
「気にしなくていいんだ、僕は医者だからね。利用出来る内に利用してくれ」
……そんなことを言われてしまうと、利用しにくくなる。それでも、後半の手術を任せないわけにはいかないのだけれど。
「休憩室まで肩を貸しますよ」
「……お気遣い感謝します。それではお言葉に甘え、て」
肩を貸し、休憩室に向かって歩く。
実先生の身体は、とても軽かった。不自然に。昨日、手術室で倒れていた美唯ちゃんのように。
そこで罪悪感に駆られてしまう。今、一番感じてはいけない感情。この人に、後半の手術を託してもいいのだろうか、と。良人のために、この人の良い医者を犠牲にしてしまっていいのか、と。
頭を振る。頭を冷やせ。冷やして罪悪感を捨てろ。
良人に助かってほしいんだろう、手術を成功させたいんだろう、それがたとえほんの僅かな可能性でも、この人を犠牲にしてでも、その確率に賭けなければならないんだ。だから、ここで実先生に手術をやめさせるわけにはいかない。
あと少し、もう少しなんだ。こんなところで終わってしまったら、美唯ちゃんは何のためにあそこまでやったんだ。
ダラリ、と。
急に実先生の身体が力を失う。
!
「……先生?」
「……」
無言。
「実先生!?」
「……」
無言。
嫌な予感。嫌な予感。
廊下だけれど、その場で実先生の身体を寝かせる。
そこで初めて気付く、顔色が真っ白だということに。昨日の美唯ちゃんと同じ……いや、それよりもひどい。
口元に手をやると案の定、呼吸をしていない。
それどころか……、
脈が止まっていた。
正真正銘、
死んでいた。
◆◇◆◇
どうしようもない。
どうしようもない。
せっかく、暗闇の中から、蜘蛛の糸を一本見出せたのに。
希望はいとも容易く絶れてしまった。いともたやすく、糸はたやすく千切れてしまった。
こんな中途半端なところで。
……ああ、やっぱりそうか。そうだよね。
わかっていた。わかってたわよ。
――――どうせ、この蜘蛛の糸にすがったところで、失敗することは目に見えている。そして私は絶望するのだろう。一瞬だけ希望を見出させ、そして叩き落す。そうやって、貶めるのが狙いなのだろう。
と。
昨日、実先生が良人の手術継続を志願した時の、あの予想通りの結果。
ろくでもないなあ。
現実って。
ろくでもないなあ。
私って。
実先生は死んだ。
壮年の医者、織姫 実は死んだ。
今さっき、長時間の能力発動による脳髄への過度な負荷により、あっけなく他界した。本当に、本当にあっけなく。
その責任感と善性に突き動かされた医能力者は、見ず知らずの良人を助けるために息を引き取った。しかも手術半ばに。
冷静に考えてみれば当たり前だ。超能力者の美唯ちゃんであの有様になってしまうような大手術を、ただの医能力者が引き継ぐなんて無理な話だったんだ。なぜこんな当たり前のことすらも気がつかなったのか……いや、わかっていて実先生に託したのか。
実先生は集中治療室に入る前、美唯ちゃんから借りた(というか私が借した。後輩の鞄を勝手に漁るのは忍びなかったけれど、状況が状況だったから仕方ない)例の薬を飲んでいたけれど、それでも通常の医能力者にはこれが限界だったのだ。これだけ長時間もっただけでも奇跡と言っていい。
でもまさか命を落とすなんて……。
実先生には謝罪してもしきれない。首を吊って謝っても彼の家族は許してはくれないだろう。
突然の急死に病院の職員達は戸惑っていた。だけれど予想に反し、皆すぐに冷静さを取り戻し、的確にスムーズに行動していた。まず実先生の家族に連絡を入れ、私の説明を反芻し、一応の措置として実先生に心臓マッサージ。それから諸々の措置を加えるも、手遅れだと確定。各所に連絡を入れ、対処は終了。実に機械的に、実先生の死は受け入れられた。
こんな馬鹿なことがあるだろうか。
結局、犠牲者が一人増えただけ。
このままでは良人は助からないし、美唯ちゃんはただの骨折り損で、そして実先生は無駄死に。
「……ふざけないでよ」
ぽつりと呟く。
罪悪感と怒りと悲しみとが混ざり合い、黒い染みとなり、私の脳を侵していく。
「ふざけるなっ!!」
ガッ、
硬い。
コンクリートは硬い。
蹴った爪先に激痛が走る。
だけれこのどうしようもない憤りは収まってはくれない。
その場にぺたんと座り込む。
廊下だけれど気にしない。気にならない。どうせ誰も見ていない。
力が抜ける。
相変わらず私は何も出来ない。
壁に八つ当たりするぐらいしか出来ない。
「時旅さんっ、こんなところにいたんだ!」
声の方向を見てみると、息を切らしながら火巻が駆けて来る。
かなり焦燥しているようで、半ば叫ぶように言う。
「病室に美唯ちゃんがいないんだよ!」
!
その言葉で全てを悟る。
「そんな……昏睡状態じゃなかったの!?」
「そのはずだけど――――だったんだけど、僕が病室に行った時には誰も居なくて……」
火巻は手に持ったそれを見せてくる。
「代わりにこれが床に落ちてたんだ」
それは空になった、ラベルの貼られていないビンだった。
美唯ちゃんが精製した薬剤が入れられていたビンだった。
中身はもうない。全部呑んだのだろう。
何のために? 決まっている。
「集中治療室よ」
良人の手術を続けるためだ。
火巻の顔が強張る。
「それしかないね、僕も今向かうところだったんだ、一緒に行こう!」
言い終わる前に一目散に駆ける。
階段を上がり集中治療室へ向かう。
扉が見える。
手術中のランプが付いている。
美唯ちゃんが術式を開始したんだ。あんな身体で。自殺行為だ。
「待って時旅さん」
扉に手を掛けようとした私の手を、火巻が掴む。
「中に入ってどうするつもりだい?」
「どうするって……それは」
どうするつもりだろう? 美唯ちゃんを止める?
「少し……少し落ち着こう。僕も落ち着く」
「……」
「僕らは選択しなければならない。……中に入って美唯ちゃんを止めるのか? それとも手術を続行させて良人が助かるのに賭けるのか?」
ここで美唯ちゃんを止めてしまえば良人が助かる確率はゼロになる。だからといって、手術を続行させたところで良人の命が助かるとは限らない。術式途中で美唯ちゃんが力尽きてしまう可能性は高い。最後までやりとげたとして、それが美唯ちゃんの最期にもなる可能性だってかなり高い。
不確かな希望に賭けるより、美唯ちゃんを止める方を選ぶべきだ。そうすれば片方は確実に助かる。美唯ちゃんを止めなければ。
そんなことはわかっている。
でも私の脳裏に、ある一つの可能性が過ぎる。
あくまで可能性の話だけれど。
それは、良人も美唯ちゃんも両方助かる可能性。
手術が最後まで成功し、美唯ちゃんもギリギリで助かる、理想的な道。
わかっている。それはあくまで理想だ。そうなるとは限らない。
だけれど、今美唯ちゃんを止めれば良人が助からないのは確かな事実で。
「美唯ちゃんを止めるべきだと思う……普通なら。だけど良人には助かってもらいたい。……僕にはどちらを選べばいいのか、正直わからない。ごめん。……だから聞かせてくれ、君の意思を。どちらを選ぶべきなのか、美唯ちゃんを止めるのか、それともこのまま手術を続行させるのか。残酷なことを言ってるのはわかってるけど……でも、僕には、わからないんだ。二人とも、僕の大切な親友だから」
その気持ちは痛いほどわかる。
だから私にも、どちらを選べばいいのかわからない。
でも、このまま迷っているわけにはいかない。時は刻一刻と過ぎる。美唯ちゃんの命は刻一刻と削られていく。
「……。……託して、みる」
「……」
「美唯ちゃんに、良人の手術を続行させてみる」
ぱちパチ。
手術中のランプが、怪しく明滅する。
◆◇◆◇