時旅 葉・十話
良人の手術が始まってから二日目。
私は集中治療室の扉の前で、付き合い始めてから数日と経っていない彼氏の無事を祈りながら待っていた。
現在の時刻が十六時半で、美唯ちゃんが治療室に入ったのが九時だったから、もう七時間も経っていることになる。
今日は土曜日だから、学校はない。あったとしても休むけど。異無兄妹がこんな状態なのに、のうのうと学業なんかやってられない。あいつが聞いたら怒るか呆れるかするかも知れないけれど、それでも私はここから離れられない。
それに、それは私に限った話でもないみたいで、私の友人、火巻 柚喜も今朝からずっと病院に滞在している。
「時旅さん、そんなに根詰めて大丈夫? 気持ちは分かるけどさ、手術室の扉睨んだところで良人がよくなるわけじゃないよ」
自販機から飲み物を買ってきた火巻がジュースを渡してくる。
「……いらない」
けれどすぐにその手を押し返す。
「あり、もしかして嫌いだった? チャーハンジュース」
「そんな面白ジュース飲めるような心境じゃないのよ」
「遠慮しないでって。よく冷えてて美味しいよ。朝からずっと何も口にしてないでしょ、喉乾いたんじゃない?」
しつこいので仕方なく受け取る。せっかくの好意を無下にするわけにもいかないし、それに確かに喉は渇いた。
プルタブを空け、軽く一口飲む。
「……案外いけるわね」
「ね? ね? チャーハンってだけでも奇特なのに、それを冷やしたゲテモノジュースの味がこれだよ。いやあ、世の中分からないよねえ」
「そうね」
「僕、最近ゲテモノジュースに凝っててさ、探してたんだ、そのチャーハンジュース。まさか病院の自販機に置いてあるとは思わなかった」
どうでもいい。
「あー、それと、ここに居たら病院の人の邪魔になるだろうから待合室行こうよ。ていうか疲れたでしょ?」
「いや」
「ここに居ても何も変わらないって」
「うるさい」
「手術は明後日まであるんだよ? それまでずっとここでこうしてるわけにはいかないでしょ」
「ここに居る」
「……あのさあ、気持ちは分かるけど、こんな薄暗い場所で突っ立ってても気が滅入るだけだよ。気分転換がてら夕飯でも食べに行こう」
「あんたは――――気楽でいいわね」
「誰が気楽だよ」
ジュウウッ、と。
火巻が持っていたジュースが熱で沸騰し、膨張した末に中身が飛び出す。
「う、うわっ、ごめん、おかしいな、勝手に能力が発動するなんて、僕もちょっと気が立ってるのかな、えと、はは……は……」
やがて無言でハンカチを取り出し、濡らした床を吹く。
「――――……それじゃあ、僕は夕飯食べてくるから。……何か買って来てほしい物あったらついでに買ってくるけど。何も食べないわけにはいかないし」
「ありがとう。でも平気」
「……そっか。また後で来るから」
立ち去っていく火巻の背中を見送りながら、自責の念に駆られる。
私は何をやっているんだ。友達が気遣ってくれたのに。火巻だって辛くないはずはないのに。
駄目だ。私は。
どうしようもなく、弱い。
それからしばらく経ち、私のことを見かねたのか、一人の看護士がやって来る。怒られる、と思ったのだけれど、私のためにパイプ椅子を持ってきてくれたようだった。ありがたい。
パイプ椅子に座り、待つこと一時間。
集中治療室の扉が開き美唯ちゃんが出てくる。
この手術はかなり長時間治療を施さなければならないのだけれど、同時に、ある程度の間もところどころで空けなければならない。患者と医師――――良人と美唯ちゃんの体力がもたないというのもあるけれど、良人の負傷がかなり特殊だというのが第一の要因だそうである。
美唯ちゃんは、ふらふらと覚束ない足取りで廊下を歩いていく。私のことは目に入っていない。休憩時間は三十分あると聞いているけれど、どこに向かうつもりなのだろうか。
見ていると、トイレに入っていった。
……なんだか気になるので、私も後をつけてトイレに入る。
と、そこには洗面台に向かって盛大に吐瀉物を撒き散らしている美唯ちゃん。
そりゃあ……そうか。長時間ずっと異能力を解放しっぱなしだったのだから。能力の発動には莫大な集中力が必要とされる。いくら超能力者であり、長時間の発動が可能な『念末念糸』であっても、意識を保っていられることの方がおかしい。
胃の中の内容物を吐き尽くしても、未だげほげほと苦しそうにしている。
いたたまれなくなり、私は目を背けそうになる。
だけれど、そのあまりの光景に、背けそうになった目を思わず見開く。
美唯ちゃんが、ラベルの貼られていないビンを傾け、口内に大量の薬を含み始めたからだ。
――――何を……やってるの?
理解が追いつかない。
自分の目が信じられない。
バリボリと薬を噛み砕く音が聞こえてくる。大量の、薬を。
バリバリ、
ボリ、ゴリ、
「ふ……ふ、ふふふ、大丈夫ぅ。安心して。私が、なんとかするから……」
身体を歪に震わせながら、虚空に向かって言葉を発している。
大丈夫。安心して。私がなんとかする。
大丈夫でも安心でも何でもない。
ああ、……そういうことか。ようやく得心する。
そもそも、あれだけ長時間の能力発動なんて出来るはずがなかったんだ。彼女はとっくの昔に限界なんか超越していて、もっと遠くのどこかに行き着いていたのだ。当たり前だ。毎日毎日学園に、寝る間もなく異能力を振るわされていたというのだから。土台常人には不可能な集中力を酷使しなければならない。二粒三粒の薬でどうにかなるはずがなかったということだ。
そして、こんな大手術となったら尚更多くの薬剤に頼らなければいけない。それが、確実に自分を破滅に導く道だと分かっていても。
それしか方法がなかったから。
ふらふらと、廊下に出て来る美唯ちゃん。
やはり私のことは見えていないらしい。
集中治療室に向かって歩いていく。
その背中に声を掛けようと思ったけれど。
実際に、声を掛けようと思ったのだけれど。
私の口は、ぱくぱくと開閉するだけだった。
◆◇◆◇
良人が病院に運び込まれてから三日目。
美唯ちゃんが良人の治療を開始してから三日目。
私が病院に滞在すること三日目。
昨日、あれから美唯ちゃんは集中治療室に戻り、その日の二十二時まで治療を続けた。僅かの休憩時間を除いて、朝七時から二十二時まで、合計十五時間もの間、異能力を酷使し続けた。
大量の薬剤によって。ビン一杯の薬を頬張り、それだけの長時間能力発動を可能にした。
本来、個人が異能力を使用し続けられる時間は、最大でも一時間かそこらだ。それだけ能力を発動し続けると、脳が熱暴走を起こしてしまい、まともに意識を保つことすら難しくなる。二時間を越えると脳に後遺症が残るのは確実で、死に至る確率も大いにある。といってもそれは常人の脳髄の限界地であって、“超”能力者には当てはまらない。人を超越した能力者、即ち超能力者。美唯ちゃんもそんな超人類の内の一人に含まれる。
だけれど、だからといって十五時間もの能力酷使が成り立つはずがない。しかも既に疲労しきった身体で、だ。
あまりにも無茶。あまりにもあんまりな、酷使。
薬剤。それも大量の摂取。
それにより、美唯ちゃんは十五時間にも及ぶ手術を、一昨日と昨日、合わせて二日連続で成功させた。
そして今日。今日もまた、美唯ちゃんは朝から夜まで良人の治療に専念しなければならない。既に私の声すら届かなくなっているほど意識が曖昧な、あの状態で、自殺行為としか思えない無茶苦茶な能力酷使をしなければならない。
不可能だ。
不可能。
意思の力でどうにかなるようなレベルじゃない。
医師の力でどうにかなるようなレベルじゃない。
昨日だって、手術が終わると同時に美唯ちゃんはその場に倒れ、私が仮眠室にまで運んだのだ。
これ以上は本当に命に関わる。もう既に、いつ脳や神経に後遺症をきたしても不思議ではない状態なのだから。あの薬は美唯ちゃん特製のものだろうから、人体に悪影響は少ないだろうけれど、だけれど量が量だ、過剰摂取どころではない。副作用を考えるだけでおそろしい。今日の手術をするのにも、また大量の薬剤を摂取しなければならないだろう、そんなことをしたら、そんなことしたら……。
止めなきゃ。
このままでは確実に美唯ちゃんはただでは済まない。いや、既にただでは済まないだろうけれど、それでも今止めなければ取り返しがつかなくなる。
朝七時。まだ良人の手術は始まっていない。術式開始は九時からだ。
私は病院に入ると、職員の制止も無視し、美唯ちゃんの眠る仮眠室へと向かう。扉を開ける。
「あ……おはよう」
きょとんとした顔で出迎える後輩。
「どうしたの?」
何でもないかのように聞いてくる。
「どうしたの……って、あなた、大丈夫、なの? 具合は。意識は、あるの?」
「意識? やだなあ、何言ってるの、私は元気だよ。本当にどうしたの? 何か変だね、今日は」
……。
「私が誰だかわかる?」
「からかってるの? 兄貴」
……。
「ここがどこだかわかる?」
「私の部屋だよ。それ以外にあるの?」
……。
「? どうして、泣くのかな。え、えと、ごめん、私なんか変なこと言っちゃった……?」
「いいえ、何でも、ない。気にしないで」
仮眠室から出る。
扉越しから心配そうに語りかけてくる声。
ああ……あの子は手遅れだった。おそらく、もう真っ当には戻れない。
あの状態では今日の手術は不可能だろう。明日の手術なんて論外だ。むしろよく二日も続いたものだと思う。
でも、それだとしたら良人はどうなってしまうのだろうか?
天才医少女の手でしかどうにもならない、良人はどうなってしまうのだろうか?
決まっている。
そんなの……決まっている。
……いや、諦めるのはまだ早い。何せここは天下の神屠学園。治癒系超能力者は、なにも美唯ちゃんだけではないんだ。数は少ないだろうけれど、数が少ないだけに、その名は知れているはずだ。
良人の手術を引き継いでくれる治癒系超能力者を見つけ出し、今日中に説得すればいい。
……無理に決まってるだろう。これは通常の手術ではなく、超長時間異能力を使役しなければならない手術なのだ。そんな無茶苦茶な手術、誰が引き受けてくれよう。
そもそも引き受けたとしても無理だ。医能力者の術式は、個人個人で大きく異なってくる。既に美唯ちゃん特有の術式が使われているところに、途中から他の術式で代わりを果たすことは出来ない。ここまで手術が進んでしまっているのだから、もう美唯ちゃんがやり通すしか手術は成功しない。良人は助からない。
でも、だから、その美唯ちゃんがあの状態なのだからどうしようもない。
八方塞。
ただ、良人が死ぬのを待つことしか出来ない。
バタッ、
!
仮眠室から大きな物音が聞こえてくる。
すぐに扉を開けると、そこには倒れている美唯ちゃん。
駆け寄る。
身体を起こす。
「大丈夫!? しっかりっ!」
「……ぅ……ん……。だいじょう、ぶ……私が、……なんとか、する」
虚ろな瞳で、うわ言のように言う。
見ると、先ほどまであれだけ血色が良かったのに、顔を真っ赤にして大量の汗をかいている。
額を手で触れて見ると、かなり熱い。四十度はある高熱だ。
大丈夫なはずがない。
「……葉姉? 今、何時? ……私、兄貴のところに、……行かなくちゃ……治さなくちゃ……」
「そんな身体で何言ってるのよ。もういいから。……もういいから休んでて」
「だめだよ……それはだめ……このままだと、兄貴が……」
「その前にあなたが死ぬわ!」
「……」
美唯ちゃんの身体を抱きかかえ、ベットに戻そうとする。
「……どいて」
けれど、その一言と同時に、私の身体は動かなくなる。
「っな!?」
右に左に傾げながらも、立ち上がる美唯ちゃん。
その場に倒れ、美唯ちゃんを見上げることしか出来ない私。
「ごめん葉姉。……少し、そこでじっとしてて……」
そこでようやく悟る。美唯ちゃんの『念末念糸』によって、動きを封じられたのだと。念糸をつかったのか、念末を使ったのかはわからないけれど。侮っていた。治癒系といっても超能力者は超能力者だ。人間の一人や二人戦闘不能にすることなんか赤子の手を捻るよりも容易い。
美唯ちゃんは、震える手でポケットから薬の入ったビンを取り出し、それを目一杯口内に含む。
ぎゅっと目を瞑り。
しばらくし、真っ赤だった顔色はみるみる変色していき、今度は土気色になる。だけれどさっきよりはまともに歩けるようになっていた。
「……待ってて。私がなんとかするから」
言って、そのまま出て行ってしまう。
やがて、私の意識は薄らいでいく。
悔しさと惨めさで気がおかしくなってしまいそうになる。
だけれど、手術が続行されることによって、もしかしたら良人が助かるかもしれないと、一縷の希望が見えたのもまた事実で。それが美唯ちゃんを犠牲にすることで成り立っている、屈折した希望であることはわかっていながらも、それでもその希望を見出してしまった自分が、あまりにも情けなくて。
結局、美唯ちゃんよりも良人を優先してしまった自分の気持ちが、醜くて、情けなくて。
……。
…………。
……………………。
◆◇◆◇