水底の月【東方二次創作】
妖怪の山の麓、霧の湖にて。
昼間だけ霧が立ち込めることから名付けられたが、夜になると霧が晴れ、辺りは静まっていた。
夏の夜。欠けた月の下で、一人の少女が水辺に立っていた。
肩までの黒髪を後ろで結い、腰巻だけを身に着けている。草の上にむしろを敷いて、脱いだ服を畳んでそこに置いていた。
少女は胸の前に桶を抱え、ふわりと地面を離れた。
中空を漂うように進み、湖の深いところまで来ると、足から静かに入水する。桶を水面に浮かべ、呼吸を整えると、頭を下にして湖へ潜っていった。足をしならせて底のほうへ向かう。
人影のない夜の湖に潜っているのは、月のお姫様、蓬莱山輝夜であった。
ここ最近、一人で湖を訪ねては潜り、貝を拾って桶に入れていた。潜水器材の広まっていない幻想郷では、昼の湖で釣り糸をたれる者はいても、底まで潜るような者は滅多にない。淡水の真珠貝が群生し、光沢のある石が手つかずのまま沈んでいた。
月の姫が湖に潜ることになった所以は、少し前にさかのぼる。
*
従者の永琳が、永遠亭の改修にお金を使い込んだため、財政が厳しくなったのだ。
手術室とエックス線診療室を新たに設け、無影灯や電気メス、放射線を遮蔽する壁などを整えたら、かなりの額になったという。輝夜は説明を後から聞かされたが、何に使うものなのかよく判らなかった。
妹紅と遊んでいたら装束の裾が焦げたから、新しいものを仕立ててほしい。
永琳にそう頼んだところ、金が無いと言って断られた。診療所の改修で出費がかさみ、装束や調度品を設える余裕はないのだという。
どうにも納得のいかない話であった。医療の発展は素晴らしいことだが、不老不死の姫には、電気メスもエックス線も無用である。手術室を設けたから装束を買えない、というのは話が違うように思う。
帳簿のことは従者に任せきりで、その時々で欲しいものをねだり、自分では銭を触ったこともない。帳簿を見せてもらっても読み方が判らない。財政への無頓着さが招いた事態ともいえる。
食べ物に困るほどではないが、それ以上の贅沢はできない。今あるものを工夫して使うか、遊びたいなら自分で働いて稼いできなさい──と永琳は言っていた。
てゐに相談していくつかの案を出してもらい、湖に潜って貝を採ることになった。てゐの書棚に古い絵巻があって、腰巻をつけて水に潜る女の絵があったのだ。絵巻は外の世界の物だったが、霧の湖の底では真珠貝が採れるらしい、と教えて貰った。
しぶしぶ始めた仕事は、意外と性に合っていた。
月の民は息が長く続くらしく、何度か試すうちに底まで行けるようになって、貝を吟味する余裕も出てきた。永い人生の中で、自分が素潜りに向いていることを知ったのは収穫であった。
水に潜ってしまえば、他人に指図されたり頭を下げたりせずに済む。珍品の「魔法瓶」にお茶を注いで持ち歩き、陸に上がってから飲むのも楽しみのひとつである。
湖に何度か通った後、永琳に頼んで、肩の辺りで髪を切ってもらった。
腰までの髪は、水中で広がって手足にまとわりつき、陸に上がってからも乾きが悪い。鋏を入れてもらうと首周りが軽くなり、洗うときもずいぶん楽になった。永琳は切り落とした髪を集めて「筆が作れそうね」と言い出したので、そちらは任せることにした。
*
朝方に屋敷に戻ってきた輝夜は、桶の中身をてゐに預けた。湯浴みを済ませて朝餉をとり、私室に戻ってうたた寝をする。
目を覚ますと、枕元の小さな台に、つるりとした白い石が載っていた。従者に頼んで調度品を集めるのも悪くはないが、自分の手で拾い上げたものには、また別の愛着が湧く。
やがて身を起こし、筆を執って一通の手紙を書いた。
ここしばらく妹紅と顔を合わせていない。久しぶりに誘ってみようと思ったのだ。
水遊びをするのは初めてだろう。
────
藤原妹紅は、昼下がりの竹林で竹を伐っていた。小径にせり出した竹を伐り、患者や来客が通りやすいようにするのも、道案内の仕事の一環である。
ここ最近、永遠亭の姫の姿を見かけない。夜の縁側に腰掛けて月を眺めており、そこから殺し合いをするのが通例だったが、訪ねていっても姿の見えないことが多かった。兎や従者を捕まえて訊くほどでもなく、居ないときはおとなしく帰っていた。
伐った竹を束ねて、手拭いで首筋を拭いていると、屋敷のほうから玉兎のうどんげが歩いてきた。ちょうど姫のことを訊いておこう、と思ったとき、向こうが先に口を開いた。
「……お仕事お疲れ様です。姫からの便りがあって」
兎が差し出した文を受け取って、その場で封を切る。兎は用件を済ませて踵を返し、妹紅は小径に立ったまま文を読んだ。
──水が怖くないなら、湖で遊びましょう。
湖は静かで良いところだ。明日の夜に待っている、という趣旨だった。
──湖。
最近姿を見ないと思っていたら、水遊びか。
湖は永遠亭から離れているし、用事もないので、久しく訪ねていなかった。水が怖くないなら、という一文が妙に癪にさわる。火の術を使うから、水は苦手だとでも思っているのか。
「上等だ」
そう呟いて、手紙を折って懐に突っ込んだ。
*
次の晩、妹紅は足を伸ばして湖に向かった。
岸辺に敷かれたむしろの上に、ひとり座っている影があった。重ねた装束の上を脱いで、水面を眺めていたが、こちらの足音に気づいて振り返った。
「来たのね」
「ああ」
返す声がざらついた。
月の光を受けて、肌がやけに白い。腰まであったはずの髪は、肩のあたりで揃えてあった。姫の柔らかい笑みに、嫌な予感がした。これ以上関わるとろくなことにならない。
「今日は、何を──」
「水遊びをしましょう。底まで潜って真珠を採るの」
また妙なことを始めたな、と返す。
「貴方もどうかしら。煤を落とすのにちょうど良いわよ」
そう言って立ち上がり、するりと衣を脱いで、腰巻だけの姿になった。妹紅は顔をしかめて足元に目を落とす。何のつもりだ、と思った。
姫は気にする様子もなく、髪を後ろで結いながら、こちらに声をかけた。
「そのまま入るつもり?」
「……あ?」
「濡れたら重いわよ。乾きも悪いし」
嫌な予感は加速して、引き返せと告げていたが。
今まで何度もやってきたように、妹紅はそれをねじ伏せた。昼間に誰かを連れて竹林を歩くときは、少しでも嫌な予感がすれば迂回するのだけど、今は夜で二人きり。引き返すぐらいなら、初めから来ていない。
上衣を脱いでもんぺを下ろすと、夜の空気が肌に触れた。寒くはないのに身震いする。
輝夜は水辺の石に腰掛けてばた足をしていた。腰まで水に浸かり、やがて姿を消す。
自分もその後を追っていく。手のひらですくった水は澄んでいたが、湖は暗くて底が見えない。息を吸ってから身を沈めた。
目をつぶって口から泡を吐いていると、しばらくして息が苦しくなった。足先が一度砂を蹴って、なんとか顔を上げて息継ぎをする。手で口元を拭っていると、輝夜が横から「初めてにしてはやるじゃない」と云った。
「貝を採ってくるわ」
輝夜が桶を抱えて離れていき、貝を採って戻ってくるまで、水に出入りして体を慣らした。一旦陸に上がると、髪が水を吸って重く、背中に張り付いて煩わしい。浸かっているときのほうが楽だった。
戻ってきた輝夜は、どっちが長く潜れるか勝負をしようといった。
「貝の場所は私の方が知っているから、不公平でしょう。潜る時間を競うのはどうかしら」
「乗った」
二人は目配せをして、一緒に水に潜った。
*
妹紅は心の中で、数を数えていた。
手で口を押さえたまま薄目を開けると、斜め下のほうに輝夜の腕が見えた。
再び目をつぶる。数が増えていくにつれて、胸と喉を内から圧されるような感じが強まっていく。五つ数えて、また一からに戻す。あいつはまだ潜っているらしい、と頭の片隅で思った。あいつに負けるのは嫌だ。
五まで数えて、また一からに戻って。
いつのまにか、水面を目指して水をかいていた。光のあるほうに向かう。
上がる寸前で、足首に何かが触れた。水草かと思った瞬間、足首を掴まれて底へと引きずられた。
口の端から泡がこぼれて、上へと向かって消えた。数は頭から飛んで、残っていた空気が逃げていく。
姿勢が崩れたところで、肩に重みが乗った。輝夜がこちらの肩を掴んで、後ろから被さっている。表情は見えないが、笑っているような気がした。
──ふざけるな、と思う。
腹の底が震え出して、体が弓なりに反った。腕を振っても掴めるものがなく、水をかくだけだった。肘で突いてやろうとしても、水の重みで腕が思うように動かない。
息を吐き切ってしまうと、喉の奥まで水が流れ込んだ。吸っても水しか入らず、吐こうとしても何も出てこない。水中は暗いのに、視界が白くほどけていった。
*
目が覚めたときには、むしろに横たわっていた。手足は濡れているのに、体の芯には埋火のような熱があった。湖の底で、自分は一度死んだのかもしれない。
傍らに輝夜が坐っていて、こちらを覗き込んでいる。体には大判の西洋手拭が掛けてあった。
「気がついた?」
人工呼吸をしてあげたの、と姫は云った。
ぼんやりしていた頭に血が巡る。跳ね起きて掴みかかろうとして──妹紅はそのまま手を下ろした。寝返りを打ってそっぽを向き、西洋手拭を胸元まで引き上げる。腰巻だけで掴み合いをするのはみっともない。
黙って体を拭いていると、湖向こうの館で、時計塔の鐘が鳴った。
────
姫が集めた真珠は、てゐの伝手で買い手がつき、装束を仕立て直すことができた。
秋が深まった頃、鴉天狗を通して、河童が書状を送りつけてきた。湖底の資源を保全するため、今後真珠貝を採る際は事前に許可を取ること。許可がない場合は密猟とみなし、しかるべき対応を取らせてもらう。収益の一部は河童が徴収し、環境保全と公益に充てる──とあった。
「都合の良いこと言ってるねえ」
てゐは渋い顔をしていたが、姫は「もういいわ」と呑気に答えていた。秋の水は冷たいし、装束も揃っている。今さら根回しをしてまで潜る気にはなれない、と。
髪はいつの間にか、また腰まで伸びていた。
新しい装束に香を焚き、遊惰な日々を送っている。




