無能と追放された令嬢、前世は凄腕デバッガー。偽聖女からの呪いという「バグ」を解除し、辺境で魔導具という名の「パッチ」を作っていたら『本物の聖女』と呼ばれました
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思考に常に分厚い靄がかかっていた。水圧のかかる深い水底にいるように、手足も、感情さえも重たい。わたくし、フィオナ・アーレンスは、ただそこに「在る」だけの存在。公爵嫡男であるオズワルド様の隣に立つためだけに整えられた、地味で、無能な、精巧なだけの人形。
それが、今夜までのわたくしだった。
「フィオナ・アーレンス。貴様との婚約を、本日この場をもって破棄する!」
夜会の喧騒が、シン、と静まり返る。弦楽四重奏の優雅な調べが止み、シャンデリアの蝋がパチリと爆ぜる音だけがやけに大きく響いた。オズワルド様の高らかで、軽蔑に満ちた声だけが、わたくしの鼓膜を打つ。
ああ、やはり。そう思うだけで、何の感情も湧いてこない。重たい思考が、ただ「事実」としてそれを受け入れた。悲しいとか、悔しいとか、そういう複雑な感情の処理が、わたくしの頭脳では実行されない。
「オズワルド様、お待ちください!」
鈴の鳴るような、しかし計算され尽くした庇護欲をそそる声が響く。この国が誇る聖女、ミレイユ様。純白のドレスと、慈愛に満ちた──とされている──微笑み。彼女がオズワルド様の腕にそっと手を添えるだけで、周囲の貴族たちから溜息が漏れる。彼女がそこにいるだけで、空気が浄化されるかのようだ。
「フィオナ様も、きっと深く反省なさっています。……無能であることは、いえ、その、努力が足りないことは罪ではありませんわ」
オズワルド様は、その言葉にうっとりと頷く。
「ミレイユ、君はどこまで優しいんだ。だがダメだ。お前のような清らかで有能な聖女こそが、俺の隣にふさわしい。こんな……こんな地味で無能な人形ではなく!」
ああ、そうですね。わたくしはただ、俯く。それが「人形」としての正しい作法だから。わたくしに反論は許されない。
ミレイユ様がオズワルド様の腕からそっと離れ、わたくしの元へ歩み寄る。優雅な所作でドレスの裾をつまみ、わたくしの手を取った。その指先が、氷のように冷たい。
「フィオナ様、お可哀想に……」
その慈愛に満ちた瞳が、わたくしだけを映す。
《ああ、やっと。やっとこの無能な女を排除できるわ。オズワルド様も、伯爵家の後ろ盾も、これで全部ワタクシのもの》
……え?
いま、何か。ミレイユ様の唇は「お可哀想に」と動いている。けれど、頭の中に直接響いたのは、まったく別の、歓喜と悪意に満ちた声。
「大丈夫ですわ、フィオナ様。わたくしが、あなたの心を慰めて差し上げます」
ミレイユ様がわたくしの手を握る手に、ぐっ、と力がこもった。その指先から、何か黒く、冷たいモヤのようなものが流れ込んでくる。
その瞬間。
ピシ、と。世界が、割れた。頭を鈍器で殴られたような、強烈な衝撃。違う。これは……記憶の強制的な再起動だ。
『――プロジェクト炎上、三徹目。バグが……どこだ? 仕様書の不備か、コーディングミスか。いや、この挙動は……まさか、悪意……?』
ノイズまみれだった視界が、一気にクリアになる。靄のかかっていた思考が、まるで冷水を浴びせられたように高速で回転を始めた。日本の、過酷な納期と理不尽な仕様変更に追われるシステムエンジニアとしての記憶。それが、わたくし――フィオナ・アーレンスの前世。
そうか、わたくし、異世界転生してたのか。そして、今この瞬間まで、婚約破棄の衝撃と聖女の悪意という二重のきっかけによって、前世の記憶が覚醒した、と。
二重の衝撃に、わたくしの世界は完全に「再構築」された。視界の端に、半透明のウィンドウが明滅している。
ミレイユ様が、わたくしを慰めるフリをして、あの黒いモヤ――悪意を流し込もうとしているのが、視える。
同時に、わたくしの視界は、ありとあらゆる「情報」で埋め尽くされた。
オズワルド様の頭上。
《状態:魅了(思考停止) / 実行者:ミレイユ》
《詳細:聖女への盲信。理性的判断の著しい低下。対象の要求を最優先する》
寄り添うミレイユ様の頭上。
《状態:偽善(悪意増幅) / 実行者:ミレイユ》
《詳細:他者への悪意を聖力に偽装変換。精神操作系アビリティの濫用》
そして、何よりも。わたくし自身の、頭上。
《状態:無能化(魔力・思考抑制) / 実行者:ミレイユ》
《詳細:長期間にわたる聖力(悪意)による呪。対象のポテンシャルを著しく低下させる。思考速度に常時90%の負荷》
――なるほど。すべて、理解した。わたくしが「地味で無能な人形」だった理由。それは、この聖女様とやらの仕業だったわけだ。長年にわたる、悪質な呪いの常駐。
「フィオナ様? どうか、なさいま……」
《あら、ショックで壊れた?好都合だわ。これで完全に心を掌握できる》
わたくしは、ゆっくりと顔を上げた。そして、胸元に付けていたブローチに、そっと触れる。これは、わたくしが「無能」時代に、なぜか無性に作りたくなって、前世の知識の断片だけで無意識に作っていたお守り。今ならわかる。これは、魔力回路のノイズを除去するための「デバフ解除」の試作魔導具だ。物理的な「対呪」の装置。
カチリ、と。ブローチに、覚醒したばかりの、しかし本来の莫大な魔力を流し込む。視界の隅で、小さな文字が明滅した。
『デバッグモード、起動』
わたくしの頭上に表示されていた《状態:無能化》の文字列に、赤い×印がつく。
『――解除完了』
フ、と。全身を縛り付けていた重い枷が外れる。分厚い水底から一気に引き上げられ、初めて本当の呼吸をしたかのように、清浄な魔力が全身を駆け巡る。思考はどこまでもクリアだ。前世の、三徹目の朝より、ずっと。
「フィオナ……?」
わたくしの変化に、オズワルド様が眉をひそめる。空気が変わった、とでも言いたげだ。
「ミレイユ様」
わたくしは、掴まれていた手を振り払わず、逆にその冷たい手を強く掴み返した。冷静沈着な、前世の、冷たい声で。
「なんですの、急に……」
ミレイユ様の顔から、完璧な慈愛の笑みが、わずかに強張る。
「聖女様。わたくしへの《無能化》の呪い、長年のご運用、ご苦労様です」
「なっ、なにを……!?」
ついに、完璧な仮面が音を立てて割れた。
《こいつ、なぜ!? 呪いは完璧だったはず! なぜ喋れているの!?》
わたくしは、ミレイユ様の手を放し、今度はオズワルド様に向き直った。
「ついでに、オズワルド様。あなたのバグ……いえ、《魅了》のデバフも、今ここで解除いたしましょうか?」
「な、何を言っているんだ! フィオナ! 貴様、聖女様への侮辱を……!」
《状態:魅了(思考停止)》は健在らしい。エラーを吐きながら、まだ正常に動いているつもりでいる。哀れなことだ。
「証拠は?」
ミレイユ様が、かろうじて平静を装って反論する。声が震えているが。
「わたくしが、あなたに呪いを? 聖女であるこのわたくしが? そのような証拠がどこにありますの?」
《そうよ、証拠なんてない! この場で証拠など出せるはずが!》
わたくしは、フ、と息を吐いた。
「証拠は不要です。わたくしのこの能力が、あなたの悪意を『視認』していますので」
「……っ!?」
「ですが、ご安心を。オズワルド様は《魅了》状態で、あなたの言葉しか信じない仕様になっています。わたくしが何を言おうと、わたくしを断罪なさるでしょう」
その言葉通り、オズワルド様が剣の柄に手をかけた。
「フィオナ・アーレンス! 聖女ミレイユ様への不敬、極まった! もはや貴様を王都に置いておくことはできん! 今すぐ追放だ!」
「承知いたしました」
わたくしは、今までの人形のようなそれではなく、完璧な淑女の礼を一つしてみせた。背筋は、鋼のように真っ直ぐに。
「オズワルド様。バグまみれのシステムの隣で、デバッグもできずに朽ち果てる未来など、こちらからお断りさせていただきます」
わたくしは踵を返す。もう、この欠陥だらけの場所に用はない。わたくしが毅然と歩き出すと、集まっていた貴族たちがモーゼの海のように割れた。彼らの頭上には《困惑》《恐怖》《好奇心》の文字が浮かんでいる。高い天井に響くのは、わたくしのヒールの音だけ。わたくしは一度も振り返らず、夜会の会場を後にした。
◇ ◇ ◇
追放が決まり、わたくしは荷物をまとめる……必要もなかった。実家であるアーレンス伯爵家は、オズワルド様――公爵家と、何より「聖女への不敬」を恐れ、即刻わたくしを勘当した。身一つで王都の門をくぐることになった。まあ、いい。あのブローチさえあれば、なんとかなる。このクリアな思考と、本来の魔力さえあれば。
冷たい夜風が、パーティーで火照った──と錯覚していた──頬を撫でる。
「おい。そこの『呪い祓い』」
王都の門を抜けようとした、その時。背後から、低く、不機嫌そうな声に呼び止められた。振り返ると、そこに立っていたのは、夜会にも同席していた一人の男性。黒髪に、鋭い銀の瞳。夜会の正装ではなく、実用本位の軍服を着こなしている。確か……
「辺境伯、ダリウス・グリューネヴァルト様」
「ほう。俺のことがわかるか。人形の割には、記憶力は人間並らしい」
無礼な物言い。だが、わたくしは彼の頭上を見た。《魅了》のデバフはない。彼は、あの狂った空間で唯一「正常」だった人物だ。
「お前の『解呪能力』に興味がある」
ダリウス様は、月明かりの下、単刀直入に言った。
「あの聖女の胡散臭さには気づいていたが、まさか『呪い』とはな。お前、面白いものが見えるらしい」
「……何が目的ですか?」
わたくしは警戒を解かない。この人もまた、別の「バグ」を抱えているかもしれない。
「これはスカウトだ。俺の領地に来い。見ての通り、俺は『人払い』の呪いでもかかっているらしくてな。誰も寄り付かん」
わたくしは、ダリウス様をまじまじと見つめた。彼の頭上には、確かに厄介なデバフが常駐している。
《状態:忌避(他者からの悪感情誘発) / 実行者:ミレイユ》
《詳細:対象の言動を高圧的・威圧的に誤認させる。周囲の微弱な悪意を増幅し、対象に集中させる。社会的隔離を目的とする》
「……呪い、かかっていますね。聖女様謹製の、非常に悪質な常駐型デバフです」
「……やはりか」
ダリウス様は、忌々しそうに舌打ちした。
「どうだ。俺の領地で、その能力を試してみんか。報酬は出す。お前が『無能』でないことを、すでに俺は自分の目で確認した」
実力主義。合理的。そして、聖女のバグが効かない稀有な体質。わたくしは分析する。この申し出は、現時点での最適解だ。王都という名のバグの巣窟に留まる理由はない。
「交渉成立です。辺境伯様。ただし、わたくしの『デバッグ』、高くつきますよ」
「望むところだ。報酬に見合うだけの働きを期待している」
◇ ◇ ◇
ダリウス様の領地――グリューネヴァルト辺境領は、想像を絶する荒廃ぶりだった。王都から馬車で揺られること数日。道中はほとんど無言だった。ダリウス様は報告書を読みふけり、わたくしは窓の外を流れる景色に浮かぶ《デバフ》の濃度を測定していた。
領地に入った瞬間、わたくしは頭痛を覚えた。空気がよどみ、乾いた風が埃と……微かな腐臭を運んでくる。
「……ひどいバグ」
領地全体が、広範囲のデバフに侵されている。
《状態:瘴気(土地弱体化のデバフ) / 実行者:不明》
《詳細:土地の魔力循環に致命的なバグ発生。生産性の著しい低下、住民への継続的スリップダメージ》
聖女ミレイユが、王都の魔力循環を管理する傍ら、この辺境のデバフを放置、あるいは故意に発生させた結果だろう。この世界に合わせた言い方をするならば「呪いを押し付けていた」と言ったところか。王都の「正常」は、辺境の「異常」という犠牲の上に成り立っていた。
「これが、俺の領地の現実だ」
ダリウス様が苦々しく言う。領民たちは、家々からわたくしたちを遠巻きに眺めている。誰もが痩せ、生気がない。彼らの頭上にも《瘴気》のデバフが点滅していた。そして、彼らは領主であるダリウス様に、恐怖と敵意の目を向けていた。《忌避》デバフのせいだ。
「問題ありません。原因がわかれば、修正は可能です」
わたくしの「デバッガー」としての仕事が始まった。
まず取り掛かったのは、土地の魔力循環のデバッグ。
「瘴気は、魔力の流れが滞る『バグ』によって発生しています。ここに魔力の中継器を設置し、あちらには汚染された魔力を浄化するフィルターを配置します」
前世のシステム工学の知識――効率的なリソース配分、ボトルネックの特定、冗長性の確保――それらと、この世界の魔術の知識を融合させる。
ダリウス様が集めた職人たちは、最初は皆、わたくしに懐疑的だった。
「お嬢様が、図面を? 魔術はわかっても、鉄のことは……」
わたくしは、言葉ではなく、実機で示した。工房に籠もり、彼らの目の前で、前世の記憶にある精密機器の設計図と魔術回路を組み合わせた「浄化フィルター」の試作機を組み上げた。
「……フィオナ様。こいつは……どういう仕組みだ?」
一番頑固だった職人頭が、わたくしの手元を食い入るように見つめている。
「魔力を無駄なく変換する機構です。従来のように『祈る』のではなく、物理的に『濾過』します。ここの循環効率をあと15%上げたいのですが」
「15%……? 一割強だと!? 無茶を……いや、待てよ。この構造なら、こっちの弁を……」
わたくしは不眠不休──前世を思い出す──で魔導具の設計図を描き、職人たちと議論し、開発に没頭した。やがて、最初の大型浄化魔導具が起動する。ゴゴゴ、と地響きを立てて魔導具が動き出すと、よどんでいた空気が、目に見えて澄んでいく。荒れ地に、数年ぶりに緑の若芽が顔を出した。領民たちの頬に、わずかに血の気が戻る。彼らにかかっていた微弱な瘴気のデバフも、土地の浄化と共に解除されていったのだ。
「フィオナ様……! まるで、本物の聖女様だ!」
いつしか、領民たちはわたくしを「辺境の聖女」と呼ぶようになっていた。本物の聖女が聞いたら、卒倒しそうだ。わたくしは聖女ではなく、技術者なのだが。
◇ ◇ ◇
領地のデバッグが一段落した頃、わたくしはダリウス様自身の「バグ」修正に取り掛かった。彼の《忌避》デバフは、領地統治の最大の障害だったからだ。
「辺境伯様。あなたに常駐しているデバフ、かなり厄介な代物ですね。解除用の専用魔導具を作成しました」
わたくしが差し出したのは、銀細工のシンプルなペンダント。彼の魔力に同調するよう、特別に調整したものだ。
ダリウス様は、執務室で山積みの書類から顔を上げ、無言でそれを受け取った。
「……これが、俺の呪いを」
「正確には、呪いを『無効化』します。聖女様の悪意を中和し、辺境伯様本来の『仕様』が周囲に正しく伝達されるようになります」
彼は、わたくしの説明を黙って聞いていたが、ペンダントを身につけると、ふと、視線を窓の外に向けた。
「……フィオナ」
「はい」
「お前は、俺のことを『冷酷』で『恐ろしい』と決めつけなかった、最初の人間だ」
「わたくしはデバッガーですので。バグと仕様は明確に切り分けて認識します」
そう。彼が「俺様拗らせ」系と誤解されていたのは、すべてあの《忌避》デバフのせい。本来の彼は、実直で、領民思いで、ただ少し不器用なだけの、誠実な男だった。
ペンダントを身につけたダリウス様の変化は、劇的だった。《忌避》のデバフが解除され、彼の言葉や行動が、領民に誤解なく伝わるようになった。厳格な態度の裏にある深い配慮。冷たい言葉の裏にある確かな実力主義。領地の統治は瞬く間に安定し、ダリウス様への信頼は、以前とは比べ物にならないほど強固なものになった。
そして、ダリウス様自身も、変わり始めた。彼は、自分の世界の「バグ」を修正してくれたわたくしに、急速に惹かれていった……らしい。らしい、というのは、彼の行動が非常にわかりにくかったからだ。
ある日は、わたくしの魔導具工房に、最高級の魔鉱石が黙って山積みにされていた。以前、高嶺の花の素材だと、軽く話題になったことはあるが……
(……資材の横流し? いや、彼のステータスは《正常》ね)
わたくしが問い詰めると、彼は「余った」とだけ言って執務室に戻っていった。わたくしの視界には《状態:動揺(贈り物の隠蔽 / 理由:工房の拡張許可を出しそびれたため》と表示されていたが。
またある日は、わたくしが職人たちと取る食堂の食事だけ、やたらと豪華になっていた。
(……厨房の不具合かしら? わたくしだけ、違う食事が割り当てられているみたい)
周囲の職人たちが「フィオナ様、愛されてんなぁ」「旦那様、わかりやすすぎだぜ」とニヤニヤしている。ダリウス様本人は、食堂の隅で顔を赤くしながら──わたくしの視界では《状態:羞恥》──すごい速さで食事をかき込んでいた。
(……これが、彼の『愛』という行動なのだろうか)
前世の記憶は、この手のバグには対応できない。非常に不可解な挙動だ。そして、なぜか……わたくしの胸が騒がしい。これも未知のバグなのだろうか。頭上には、何も表示されていないが。いや……なにかが浮かんできた。
《状態:戸惑い》
◇ ◇ ◇
そんな辺境での順調なデバッグ作業が続いていた頃。王都では、深刻な「システムダウン」が発生していた。
皮肉なことに、その原因はわたくしにあった。わたくしが「無能な人形」だった頃、無意識──前世の知識の断片──で、王都の結界のメンテナンスをしていたのだ。王都の魔力循環には、設計上の古い「バグ」があった。わたくしはそれを修正するため、自室にこっそりと魔導具を設置し、密かに管理していた。それが、わたくしの「見えない仕事」だった。
わたくしが追放されたことで、その魔導具は放置され、必要なメンテナンスもされず、ついには機能を停止した。あるいは、実家の使用人がガラクタと勘違いして廃棄したのかもしれない。どっちにしろ、次に起こることは変わらない。
結果、聖女ミレイユの「聖力」が枯渇した……ように見えた。彼女の聖力などというものは、最初から存在しなかったのだ。彼女は、わたくしが修正と増幅していた王都の清浄な魔力を、横流しして自分の力として使っていただけに過ぎない。メッキが剥がれた王都には瘴気が漏れ出し、あのオズワルド様にかかっていた《魅了》のデバフも、供給元の魔力が絶たれたことで、徐々に解け始めていた。
嵐の夜だった。辺境の領主の館に、場違いな金切り声が響いた。
「フィオナ──ッ!!」
デバッグが完了し、緑を取り戻した中庭に、オズワルド様と、憔悴しきったミレイユが立っていた。二人ともずぶ濡れだ。
「フィオナ! 君がいなければ王都が……!」
《魅了》が解けたオズワルド様の頭上には、代わりに《後悔》と《混乱》のステータスが激しく点滅している。遅すぎるアラートだ。
「王都の魔術師たちが、君が管理していた結界魔導具の魔力残滓を追跡し、ここを突き止めたのだ! 君の『見えない仕事』に、俺は……私は、気づかなかった! 戻ってきてくれ、フィオナ! 王都を救えるのは君だけだ! 頼む、私と結婚してくれ、今度こそ君を……!」
「お断りします」
わたくしは即答した。
「わたくしはすでに王都から追放された身。現在の管轄は、このグリューネヴァルト辺境領です」
「なっ……! 君は、王都を見捨てるのか!」
「見捨てたのは、王都の方でしょう。有能なデバッガーを、バグの戯言一つで追放したのは、あなたですよ、オズワルド様」
わたくしの冷たい言葉に、オズワルド様が絶句する。その隣で、ミレイユが震える唇でわたくしを睨みつけた。
「……お前、お前のせいだ! お前さえいなければ、ワタクシの聖女としての地位は完璧だったのに!」
聖女の力が使えなくなり、彼女の頭上からは《偽善》の表示も消えている。もはや、ただの悪意の塊だ。
「よくもワタクシの計画を! お前さえ、お前さえいなくなれば!」
ミレイユが、最後の力を振り絞って叫ぶ。彼女の黒い魔力が、わたくしに向かって放たれた。最後の悪あがきともいうべきのデバフ。わたくしの視界が赤く点滅する。
《警告:致命的エラーの実行》
その呪いがわたくしに届くことはなかった。わたくしの前に、ダリウス様が立ちはだかった。彼が身につけたペンダントが起動し、ミレイユの悪意を中和しようと激しく光を放つ。
「無駄よ!」
ミレイユの呪いがペンダントの防御を上回り、銀細工にピシリ、とヒビが入る。
《警告:防壁破損。機能低下》
ダリウス様がわたくしを庇いながらも、呪いの余波に膝をつく。
「終わりよ、お前さえいなければ!」
ミレイユが勝利を確信し、最後の力を振り絞ろうとした、その時。
「……ミレイユ様」
わたくしは、ダリウス様の背後から冷静に声をかけた。
「その呪い、ずいぶんと古い仕様ですね。わたくしが王都を出てから、更新していなかったので?」
わたくしは懐から、もう一つの魔導具――円盤状の、複雑な回路が刻まれた「デバッグ・ツール」を取り出し、起動した。
「な、なに、それ……!?」
「わたくしが辺境で開発した、対デバフ用『強制隔離』ツールです。あなたのその時代遅れの攻撃は、すでに解析済みです」
わたくしが魔導具をかざすと、ミレイユが放った黒い呪いが空中で動きを止め、わたくしのツールに吸収されていく。
「そんな、馬鹿な! ワタクシの最強の呪いが!」
「ええ、最強でしたね――わたくしが『無能』だった頃は」
わたくしはツールの出力を最大にした。
《エラーの強制終了を実行します》
閃光が走り、吸収された呪いは無害な魔力の光となって霧散した。すべての力を使い果たし、自身のバグを無力化されたミレイユは、その場に崩れ落ちた。
「そん、な……ワタクシは、聖女、なのに……」
彼女の偽善は、こうして完全に御破算となった。
「我らの聖女様を渡さない!」
「王都に返すものか!」
ダリウス様の後ろには、いつの間にか領民たちや職人たちが集まり、わたくしを守るように立っていた。皆、鍬やハンマーなど、ありあわせの武器を手にしている。
(……少し、遅かったようですね。でも、ありがとうございます)
わたくしは、守ろうとしてくれた彼らと、庇ってくれたダリウス様に、小さく頷いた。
オズワルド様は、すべてを失った。偽の聖女に騙され、真の貢献者を自ら手放した。彼が雨の中で泥に膝をつき、後悔の念に苛まれ、崩壊する王都の復旧に追われることになるのは、わたくしの知ったことではない。
ミレイユは捕縛され、王都に送還された……もっとも、瘴気まみれの王都で、彼女がどう裁かれるのかも、わたくしの興味の対象外だった。
◇ ◇ ◇
わたくしは、ダリウス様と共に、緑を取り戻した辺境の丘に立っていた。嵐は去り、澄んだ風が吹いている。
「フィオナ」
彼が、わたくしの名を呼ぶ。
「お前がいれば、俺の世界の呪いがすべて消えていくと証明された。報酬では測れない働きぶりだ……俺の人生を、お前に預けたい」
不器用な、彼らしい求婚だった。わたくしは、前世では決して縁のなかった感情が、胸に灯るのを感じた。わたくしの視界の隅に、新しいステータスがそっと表示される。
《状態:幸福(New!)》
「承知いたしました、ダリウス様」
わたくしは、精一杯の笑顔──のつもり──で応じた。
「デバッグだけでなく、新しい機能も、随時実装していきましょう」
わたくしたち二人の新しい人生が、今、始まった。




