ごめんなさい、私は天使。
昼休みの喧騒で、教室も廊下も賑やかな校舎の中。
天田具良は一人、静かに階段を上っていた。
向かう先は屋上だが、特にはっきりとした目的や用事があったわけではない。屋上へ出られるドアが開いている確信もなかったけれど、閉まっていた場合は、階段の途中あるいは踊り場あたりで過ごそうと考えていた。
具良は彫りが深い顔立ちで、鼻も高いイケメンだ。小中高と学校やクラスが変わるたびに、新しく出来た知り合いの間で「西洋人の血が入っているのでは?」と噂される。彼本人が正直に「うちの一族は昔から日本の山奥暮らしで、異人との交わりはなかった」と告げても、なかなか信じてもらえないほどだった。
学業の成績は中くらいだが、運動神経は抜群で、色々な部活の助っ人に駆り出されるくらい。特に陸上競技のジャンプ系では驚異的な結果を出してしまい、陸上部の顧問から「ぜひ正式に入部してくれ」と頼まれてもいた。
そんな具良は女性人気も高く、同級生や後輩が勝手にファンクラブを作ってキャーキャー騒いだり、中には「付き合ってください」と告白してくる女子もいたり。
しかし具良にしてみれば、自分に相応しくないような女性からいくらモテたとしても、ただ鬱陶しいだけ。
だから時々こうして、無性に一人で過ごしたくなるのだった。
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屋上へと通じるドアは施錠されておらず、重そうに見える鉄の扉は、全く音を立てることなくスーッと開いた。
薄暗かった屋内の階段部分から、一気に視界が開ける。コンクリートが剥き出しの屋上に、開放的な青空が広がっていた。
ここの屋上には、ゴチャゴチャした器具などは設置されていない。ただ端にある手すりが視界に入るだけ……かと思いきや、それだけではなかった。
その手すりに、一人の少女がもたれかかっていたのだ。
「……!」
目を丸くしながら、ハッと息を呑む具良。
彼女は制服姿であり、場所も高校の屋上だ。おそらく具良同様、ここの生徒なのだろう。
後ろ向きなので顔は見えず、個人を特定するには不十分だが……。
その後ろ姿には、驚くべき特徴があった。
少女の背中には、大きな白い翼が生えていたのだ。
「ようやく見つけた! これこそ僕に相応しい女性だ!」
歓喜の叫びは、心の中で呟いたつもりだった。
しかし喜びのあまり、実際に口から出てしまう。
それを耳にした少女が、ようやく具良の存在に気づいたらしい。
「えっ、誰!?」
戸惑いの声を上げながら、少女が振り返る。
本当に慌てていたとみえて、背中の翼が手すりに当たり、バサバサと痛そうな音を立てるほどだった。
向き合った二人は、ここでお互いの顔を認識する。
「あっ、天田くん……?」
「園川さん……? 園川さんじゃないか!」
白い翼の少女は、天田具良も知っている人物。同じ教室で毎日一緒に授業を受ける、クラスメートの一人だった。
――――――――――――
「……」
相手の呼びかけに対して、口をつぐむ園川翼音。
背中の翼も急いで閉じると、今さら手遅れなのは理解しつつも、両手で顔を隠しながら走り出す。
立ちすくむ具良の横を駆け抜けて、開いたままの扉へ飛び込み、階段を駆け降りようとするが……。
「待ってくれ、園川さん!」
背中に投げかけられた声。
翼音は一瞬、反射的に足を止めてしまう。
気配でそれがわかったのだろうか。具良は言葉を続けていた。
「今は気が動転してるみたいだから……。今じゃなくて放課後! 今日の放課後、またこの屋上に来てくれないかな? 大事な話があるんだ!」
翼音にしてみれば、具良は、知られてはならぬ秘密を知られてしまった相手だ。
言い広めたりされたら厄介だし、ここは相手の言葉に従うしかないだろう。
そもそも正体を見られたのは、完全に自分のミスなのだ。誰もいないと思って、誰も来ないと思って、リラックスして翼を広げていたのも軽率ならば、屋上に誰か上がってきたと気づかなかったのも迂闊……。
自分に対する反省の意味も込めて、翼音は振り返らないまま、小さな声で返事する。
「……わかった。今日の放課後ね」
そして再び、走り出すのだった。
――――――――――――
「待っていたよ、園川さん」
放課後の屋上で向き合う二人。
昼間とは立ち位置が逆だった。
先に来ていた具良が手すりを背もたれにして、翼音が屋上に出たばかりのところで立つ格好だ。
「園川さん、僕と付き合ってくれ! 末永く将来を前提として!」
「えっ!? いきなり何を……」
突然の告白に翼音は驚き、それ以上言葉が出てこなかった。
同じクラスなので、翼音も具良の評判は知っている。翼音の親しい友だちの中にも、彼のファンクラブのメンバーがいるくらいだった。
だから当然、具良がいくら女の子から告白されても断り続けている件だって、きちんと承知していた。
そんな彼が、なぜ自分に対して……?
翼音の頭に浮かぶ疑問。それは具良にとっても想定済みだったらしく、彼女が口に出して尋ねる必要はなかった。
「これを見てくれ、園川さん!」
毅然とした声で具良が宣言すると同時に、彼の体が白い霧に包まれる。
ただし、それは一瞬の出来事に過ぎなかった。すぐに霧は晴れたが、その一瞬の間に具良の姿は変わり……。
ちょうど昼休みの翼音みたいに、彼の背中からは、大きな翼が生えていた。
――――――――――――
しかし全く同じではなく、翼音とは異なる点もあった。
具良の場合、服装にも大きな変化が生じていたのだ。
学生服から、独特の和装へ。さらに、特徴的なアイテムを手にしていた。
「ああ、そういうことなのね……」
翼音の口から、ふうっと溜息が漏れる。
彼が正体を曝け出したおかげで、事情を察することが出来たのだ。
一般的に、人間に紛れて暮らす人外の者たちは、子供の頃から親に言い含められている。「恋愛相手は人間でなく、同じく人間界に潜む同種族にしなさい」と。
余計な血は交えずに種を存続させるためには当然の理であり、翼音の両親も「強制ではないけれど」と前置きしながら、それを望んでいた。
おそらく天田具良も同じなのだろう。だから彼の言い分も、頭では理解できるのだが……。
残念ながら、彼は酷い勘違いをしていた。それだけは訂正しておかねばならない。
だから気持ちを引き締めて、ひとつ大きく深呼吸してから……。
「ごめんなさい、私は天使なの。あなたとは違うから……。本当に、ごめんなさい」
園川翼音は、深々と頭を下げた。
ヤツデの葉みたいな団扇を持つ、天狗姿の具良に対して。
(「ごめんなさい、私は天使。」完)