責められないな……
【登場人物】
前田通康 主人公。40代の男性。15年前の贈収賄事件で逮捕、罪を被って服役。
真由美 前田の元妻。
翔太 前田と真由美との間に生まれた子供。
川崎義道 15年前に前田が勤めていた川崎建設の当時の社長。
上永秀直 名古屋市役所の課長。15年前の贈収賄事件のキーマンで事件時に転落死。
富沢豊愛知県議 提灯禿げの63歳、目がぎょろり、猪首の見るからに助平爺、実業家。
ゆり 富沢の愛人。贈収賄事件のあった当時は28歳のキャバ嬢。
山岡勝邦 15年前の贈収賄事件と関係している愛知県知事。
内藤秀隆 15年前の贈収賄事件と関係している衆院議員。愛知県選出。
高塚平治 15年前の贈収賄事件と関係している参院議員。愛知県選出。
牧田慎二 前田の知人。新宿・歌舞伎町の片隅で探偵業を営む。
鬼頭亮市 15年前、斎藤連合で若頭をしていた人物。
浅野圭一 15年前の斎藤連合の20代の組員。上永秀直課長転落殺人の実行犯。
猿渡淳史 15年前の斎藤連合の20代の組員。上永秀直課長転落殺人の実行犯。
佐々木冬馬 15年前の斎藤連合の20代の組員。上永秀直課長転落殺人の実行犯。
斎藤一馬 15年前、3人の組員に上永殺害を指示した斎藤連合の会長。
本田与志雄 15年前の富沢の第一秘書。斎藤連合の会長に上永の口封じを依頼。
丹羽吉高 愛知県警警視。小牧警察署の副署長。15年前の本田の情報提供者。贈収賄事件時は県警本部捜査二課の警部だった。
前田は赤塚神明社を後にすると、真昼の陽射しの下、ゆっくりとした足取りでJR大曽根駅へと向かった。急ぐ必要はなかった。むしろ、少しでもこの静かな時間に身を委ねて、心を整理したかった。
三十分ほどの道のりを歩きながら、彼の胸中では先ほどの川崎との対峙が何度も繰り返されていた。無様に崩れ落ちた老いぼれの姿。卑小な本性が露呈したあの瞬間――。それは勝利ではなかった。達成感でもない。ただ、虚しい確認だった。
人はあれほどまでに堕ちるのか。いや、最初からそこにあった“中身のない器”が、時を経てようやく剥き出しになっただけか。そう思うと、怒りよりも虚脱が勝った。
やがて大曽根駅に着き、無言のまま電車に乗り込んだ。春日井駅までは十数分。車内のざわめきの中に身を溶かしながら、前田は窓の外を見つめていた。過去の風景が、ガラスの向こうに淡く重なる。
春日井駅に降り立ち、タクシー乗り場に向かうと、すぐに一台の車が空いた。手を上げて乗り込み、行き先を「県営吉根住宅」と伝える。運転手が軽く頷き、メーターがカチリと音を立てた。
タクシーは国道15号線を滑るように走り、やがて東名高速の高架を潜る。そのまま志多見西小学校東交差点を右折し、名古屋市道吉根4号線1号へと入る。道は徐々に住宅街の趣を帯び、やがて目指す団地が視界に現れた。
県営吉根住宅。名ばかりの「住宅」で、実態は古びたコンクリートの集合体――昭和の名残を色濃く残した団地だった。どの棟も外壁はくすみ、ベランダには洗濯物が無造作に吊るされ、鉄製の手すりは風雨に晒され錆びていた。
かつて、前田と人生を共に歩むと誓った女――真由美が、今はここに住んでいる。
探偵の調査報告書には、彼女の転落の軌跡が詳細に記されていた。
離婚後、真由美はかつての不倫相手と意気揚々と同棲生活に入った。だが、その関係はわずか二年足らずで崩壊した。捨てられた理由も明確ではなかったが、おそらく新しい女ができたのだろう。
失意の中、彼女は名古屋市内のスナックに勤め始めた。しかし、接客業に向いている性格ではなかった。酒の席では客に愛想を振りまき、男の甘い言葉に微笑み返す必要があるが、真由美はそういう“芝居”が苦手だった。
加えて、過度の飲酒が災いして肝臓を壊し、結局店を辞める羽目になった。
次に関係を持ったのは、スナックの常連だった年下の男。見た目は優しげで、言葉も柔らかかったが、実際には真由美の金をあてにするヒモのような男だった。貢がされ、借金を重ね、気づけば首が回らなくなっていた。そして最後には、その男にも捨てられた。
借金は雪だるま式に膨らみ、ついには自己破産。
資産も、信用も、友人も、何もかもを失った末に、ようやく辿り着いたのが、この県営住宅だった。
今では、近所のホームセンターでフルタイムのパートをしているらしい。
それでも生活は苦しく、調査報告書には「赤貧生活」と記されていた。
火曜日は、真由美の定休日。出勤していない日だ。
だから、ここを訪ねれば――彼女には会える可能性が高い。だが、問題はそこではない。
(……会ってくれるか、どうかだ)
それが前田の胸を静かに叩いていた。
長年会っていない。いや、会おうとしなかったのは前田自身だ。だがそれでも、あの時、あの別れの瞬間、前田の中にあったのは確かに信頼だった。
『会社が面倒を見る』――川崎の言葉を、二人で信じた。未来があると、思っていた。
それが今や、川崎はあのざまだ。
そして、真由美は――この団地に。
タクシーが団地の入口に滑り込み、停車した。運転手が「着きました」と言ってメーターを止める。前田は無言で財布から紙幣を出し、支払いを済ませた。
車を降りた瞬間、どこか埃っぽい空気が鼻をかすめた。ベランダ越しに干された洗濯物が風に揺れ、子供の遊ぶ声がどこかからかすかに聞こえてきた。
前田はゆっくりと歩を進める。
この先にあるのは、過去との再会か、あるいは拒絶か――それは、扉を叩くまでわからない。
ただ一つ言えるのは、今の前田にとって、この訪問は復讐が目的ではない。
それは――確認だった。
あの日の決断は、本当に間違っていたのか。
そして、彼女は今、何を思って生きているのか。
そして過去の清算……。
前田の足音が、古びたコンクリートに響く。
その歩みは、静かで、しかし確実に、過去と向き合うものだった。
一階の玄関先。前田は呼吸を整えるように、ドアの前に立ち尽くしていた。無数の記憶が頭をよぎる――家族だった頃の何気ない朝の風景、夕食を囲んだ団欒の時間、そして、あの別れの日。
チャイムを鳴らしてから数秒後、扉の向こうから女性の声が響いた。
「どちら様ですか?」
低く、少しかすれたその声には、歳月と疲労が刻まれていた。しかし、前田にはわかっていた。――間違いなく、真由美の声だった。
「前田だ」
名乗った瞬間、空気が変わった。まるで周囲の音が一斉に消えたような、重苦しい静けさが訪れる。風の音すら、遠ざかったように感じられた。
数拍の沈黙の後、ドアがわずかにきしみを立てて開いた。
隙間から、真由美が前田の姿をじっと見つめていた。言葉はなく、動きもなかった。まるで、亡霊に出くわしたかのように、彼女の瞳は硬直していた。
無理もない。逮捕以来、一度も会っていないのだ。面会すら拒絶されたあの15年――最後に目を交わしたのは、警察官に腕を掴まれ、連行される直前、自宅の玄関でだった。
――その男が、今、目の前にいる。
真由美はきっと、自分が責められるのではないかと恐れていた。後悔しているにせよ、それを言葉にする勇気も、謝罪するだけの気力も、長年の生活にすり減らされていたに違いない。
前田は、その沈黙が放つ不気味な気配を敏感に察していた。気まずい、などという甘い感情ではない。沈黙が生むのは、圧倒的な不安と緊張だった。
だが、それでも前田は言葉を選ばなかった。思いだけを率直にぶつけた。
「ちょっと話がしたくなって来た」
静かだが、確かな声だった。恨みも怒りも含まず、ただ、15年の時を超えて届くべき、感情の核だけがそこにあった。
真由美のまぶたがわずかに揺れた。戸惑いの色が残ってはいたが、やがて扉がゆっくりと開ききった。
「……とにかく、上がって」
無表情のまま、前田を中へ通した。
玄関から廊下を抜け、居間に通された前田の目に映ったのは、かつての面影をほとんど感じさせない生活の痕跡だった。
テーブルが一つ。古びたソファ。薄いカーテン越しに差し込む光が、色褪せたカーペットの模様をぼんやりと浮かび上がらせていた。
壁には何も飾られていなかった。写真立ても絵画も、家族の記憶を連想させるような物は何一つ見当たらなかった。
“生活感がない”とは違った。”生活の疲れ”が沈殿している部屋だった。
真由美は部屋着のままだった。明らかに長年着古したと思われるユニクロのスウェットは、袖口がほつれ、布地は所々で薄くなっていた。彼女の肌は乾燥しきっており、手の甲には小さなひび割れが見えた。
夫婦だった頃、真由美は身だしなみに人一倍気を遣っていた。派手ではないが、いつも清潔感にあふれ、年齢よりも若々しい印象を与えていた。だが今、目の前にいるのは、疲れ切った女だった。
顔立ちは確かに同じだ。だが、目の奥に宿っていた活気や芯の強さは、今や影すらなかった。
前田は何も言わず、テーブルの前に腰を下ろした。真由美も向かいに座る。
茶色い紙袋から前田が取り出したなごやんは、懐かしさの中に少しだけの寂しさを含んで、テーブルの上に並べられた。ぽってりと丸く、優しい甘みを思わせるその菓子は、15年前の静かな午後、夫婦で一緒に食べたあの時間を、微かに思い起こさせるようだった。
前田はもう一つの手土産であるドリップバックのコーヒーを差し出した。真由美はそれを無言で受け取り、ゆっくりと立ち上がって台所へ向かった。湯を沸かす音と、コーヒーがぽたぽたと滴り落ちる音だけが、静まり返った室内に響いた。
戻ってきた真由美は、何も言わずに前田の前に湯気の立つコーヒーを置いた。
空気は重たく、言葉を挟めば砕けてしまいそうな静寂が、しばし続いた。
「……来ると思わなかった」
ようやく口を開いた真由美の声には、驚きとも喜びともつかぬ感情が入り混じっていた。
それは、自分でもどう処理していいかわからない想いが、そのまま言葉になったような、不器用な言い方だった。
「俺も、来るつもりはなかった」
前田は淡々と応じた。その声に恨みの色はなく、かといって優しさがあるわけでもない。ただ、過去と決着をつけるために、ここに来たのだという静かな決意が滲んでいた。
二人の間には、まだ多くの言葉が必要だった。
だがそれは、今すぐ吐き出されるべきものではない。
かつての夫と、かつての妻――十五年の沈黙を破る最初の言葉は、あまりにも静かで、あまりにも重かった。
前田は意を決して、正座のまま、数歩分後ろへ下がり、静かに両手をついて頭を下げた。深く、深く、床に額を擦りつけるような土下座だった。
空気が、ぴんと張りつめた。
沈黙が、部屋を支配した。
時間が止まったかのように、真由美は何も言わなかった。前田は動かない。ただ静かに、ひたすら頭を下げ続けた。何か言葉が返されるまで、自分が土下座をやめることはないと、前田は心に決めていた。
「……今更……」
どれくらい時間が経ったのか、わからない。時計の針の音すら耳に入らなかったその沈黙の中で、真由美がぽつりと囁いた。前田はそっと頭を上げた。真由美の顔は、まるで能面のようだった。感情が見えず、表情は凍りついたままだった。
次の瞬間、その表情が突然爆発した。
「あんたのせいで私の人生滅茶苦茶よ!!」
鋭く、激しい声が部屋を裂いた。怒りと憎しみと、どうにもならなかった哀しみが、怒声となって吐き出された。前田は何も言わなかった。どんな言葉も、この叫びの前には無力だったからだ。
そして、再び静けさが戻る。
真由美は、ぽつりぽつりと語り始めた。まるで自分の記憶の奥底に沈んでいた過去の出来事を、一本ずつ引き上げるように、静かに、淡々と。
「いきなり家に警察がやって来て……いきなりあんたが逮捕されて……テレビであんたの映像が流れて、名前が読み上げられて……翌朝の中日新聞に、あんたの記事が出て……」
その声に抑揚はなく、怒りでもなく、悲しみでもない。まるで壊れてしまった人形が、記録された音声を流すように、過去の惨劇を並べていった。
「私が周囲からなんて言われたか知ってる? あなた本当に何も知らなかったの? 本当は知ってたんじゃないのって。白い目で見られて。お前も犯罪者だって罵られて……」
前田は拳を固く握った。言い訳はしなかった。してはならないと分かっていた。あの時、自分が何を守り、何を捨てたのか。その代償が今、目の前の真由美の人生だった。
「家に『犯罪者は出て行け』ってスプレーで落書きされて、石を投げられてガラスを割られて……嫌がらせの電話が、昼も夜もひっきりなしにかかってきて……」
語る真由美の顔に感情はなかった。ただ、その一言一言が、前田の胸を締めつけた。謝罪が足りないと、全身が叫んでいた。
前田は再び深く頭を下げた。言葉は一つしかなかった。
「……本当に、すまない……」
床に額を押しつけるその姿は、まるで贖罪の象徴のように、冷たいフローリングに沈んでいた。
「謝れば……済むと思ってるの?」
真由美の声は、先ほどとは違う冷たさを帯びていた。氷のように、感情のない響きだった。前田は反論しなかった。ただ沈黙のまま、許しを乞うこともなく、静かに罰を受けていた。
「帰って……帰って頂戴!!」
その言葉が突き刺さった。拒絶、拒否、絶縁の三重奏のように響いた。
前田は、黙って立ち上がった。何も言わず、振り返りもせず、真由美の家を出た。廊下を歩く足音が、しばし部屋に残ったが、それもやがて消えた。
玄関のドアが閉まり、再び室内は静寂に包まれた。
真由美は、前田が去った後もしばらく動かなかった。コーヒーの香りが、どこか遠くへと消えていった。そして、テーブルの上のなごやんだけが、まだ何も知らないかのように、ぽつりと置かれていた。
団地から追い出された前田は、行く当てもなく、ふらふらと外を歩いていた。
これでいい——そう思った瞬間、前田の胸の中に、何とも言えない空虚さが広がった。
15年という歳月は、ただの時間の流れではない。擦り切れ、崩れ落ち、そしてようやく平らになった砂地のように、そこにはもう、昔の形をとどめるものなど何もなかった。すでに風化し、朽ち果てていた関係に、今さら水を注いで蘇らせようとするのは、あまりに傲慢なことだ——そう、前田は感じていた。
詳細を話して詫びたところで、それは単なる言い訳にしかならないだろう。あのとき、あの瞬間、真由美に相談するべきだったのだ。少なくとも、あの家族を構成する一員として、罪を共にするか、断ち切るか、その選択を彼女と共にすべきだった。
それをしなかった。
ただひとりで会社の指示に従い、見て見ぬふりをし、そして結局は自分の手で、不正に加担してしまった。上永課長が殺されたときでさえ、動揺しながらも、川崎から『全ての責任を被れ』と告げられたその言葉に、反発する気力すらなかった。ただ従った。それが、前田という男の、弱さであり、愚かさであり、業だった。
そうである以上、今さら弁明しても、何も意味はない。真由美の怒りや憎しみを受け止め、自分を恨ませること——それだけが、自分にできる唯一の償いなのだと思った。
前田は、もう一つの苦い記憶を思い出した。真由美の不倫。そして息子との別れ。
自分が逮捕されたあと、真由美が不倫相手と一緒になるために、息子を厄介者のように扱い、結果的に捨てたことは、父親として決して許すことはできなかった。どんな理由があろうと、親として越えてはならない一線がある。だが、今となっては、それすらも責める資格は、前田にはないのだ。
なぜなら——家庭が壊れた根本は、自分の罪にあるからだ。前田が不正に手を染めなければ、逮捕されなければ、真由美の不倫が発覚することもなかったかもしれない。夫として、父として、家族の一員として、在るべき場所に在り続けることができたのなら、家族は存続していたのかもしれない。
もし、前田が法を犯さなかったら。もし、あのとき踏みとどまっていたら。——たらればの連鎖は、心の中に何重にも広がっていく。
たとえ、真由美の不倫が先に始まっていたとしても、途中でやめていたらどうだったか。あるいは、そもそも始まっていなければ。そんな仮定の世界では、前田の罪の影響はなかったことになり、責任の所在もまた別の場所に移る。
だが、それはあくまで”たられば“でしかない。現実は、前田がすべてを台無しにしたのだ。
(家庭をぶち壊したのは、他ならぬ俺自身なんだ……)
心の中で、前田はもう一度そう呟いた。
だからこそ、真由美が、いずれ自分の不倫や息子に対する過ちを悔やみ、反省する日が来たとしても——それは真由美自身の問題であり、前田が関与すべきものではない。それは彼女が、彼女自身の人生と向き合い、何をどう償うかを選ぶべき問題であって、自分が許す、許さないといった話ではないのだ。
だが、もしも——そう、ほんのわずかでも、真由美が”前田は自分の不倫に気づいていない“と思っているならば。その前提が彼女の悔恨を後押しするようなときが来るならば——。
そのとき、自分はどうすればいいのか。
前田はそこまで想像をめぐらせた。すでに日は傾き始め、冬の名古屋の空気は鋭さを増していた。吐く息が白くなるたびに、かつての家族の記憶が、煙のように形を変えて空へと消えていった。
(真実を、話すべきだろうか)
それが彼の心に浮かんだ問いだった。
もし真由美が、かつての過ちを悔い、どうしても謝罪したいと願うようになったなら——そのときには、初めてすべてを話し、そして、何か一つでも赦し合える瞬間があるのかもしれない。
だが、それは今日ではない。今日ではなかった。
そのためには——何か、準備が必要だ。
どんな言葉で、どんな形で真実を伝えるのか。それを考えるためには、時間も場所も必要だった。
東京に戻ってからだ——前田は、心にそう決めた。
彼の靴音だけが、夕暮れの歩道に響いていた。季節は冬。誰かの怒りと涙を乗せた風が、頬を切るように吹きすぎていった。