表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/13

15年前の亡霊

【登場人物】

前田通康 主人公。40代の男性。15年前の贈収賄事件で逮捕、罪を被って服役。

真由美 前田の元妻。

翔太 前田と真由美との間に生まれた子供。

川崎義道 15年前に前田が勤めていた川崎建設の当時の社長。

上永秀直 名古屋市役所の課長。15年前の贈収賄事件のキーマンで事件時に転落死。

富沢豊愛知県議 提灯禿げの63歳、目がぎょろり、猪首の見るからに助平爺、実業家。

ゆり 富沢の愛人。贈収賄事件のあった当時は28歳のキャバ嬢。

山岡勝邦 15年前の贈収賄事件と関係している愛知県知事。

内藤秀隆 15年前の贈収賄事件と関係している衆院議員。愛知県選出。

高塚平治 15年前の贈収賄事件と関係している参院議員。愛知県選出。

牧田慎二 前田の知人。新宿・歌舞伎町の片隅で探偵業を営む。

鬼頭亮市 15年前、斎藤連合で若頭をしていた人物。

浅野圭一 15年前の斎藤連合の20代の組員。

猿渡淳史 15年前の斎藤連合の20代の組員。

佐々木冬馬 15年前の斎藤連合の20代の組員。

斎藤一馬 15年前の斎藤連合の会長。

本田与志雄 15年前の富沢の第一秘書。


 依頼をしてから、わずか10日余り――。

 牧田から届いた調査報告書は、封筒一つ分に収まっていたが、そこには十五年の時を経た人々の現在が、無機質な活字とカラー写真によって克明に記されていた。

 報告書を手にしたとき、前田の指はわずかに震えていた。

 ページを捲るごとに胸の奥で何かがざわめいたが、彼はその感情を一切表に出さなかった。

 報告書の最後には、ひとりの名が太字で記されていた。

――鬼頭亮市。15年前、贈収賄事件の当事者のひとりであり、斎藤連合の若頭だった男だ。

 報告書によれば、鬼頭は5年前に引退し、今は表向き建設会社に籍を置く堅気の身。だが、その素性を知る者たちの間では、いまだに鬼頭の兄貴と呼ばれ、敬意と畏怖の入り混じった存在として見られているという。

 報告書を読み終えた前田は、迷いなく携帯を取り出し、鬼頭に電話をかけた。

 電話口の向こうで応答した声は、低く、どこかざらついていた。

『前田? どこの前田だ?』

 この反応は当然だった。二人に面識はない。前田は自分が誰なのか教えた。

『……おお、あの時の前田か。まさか、あんたから連絡来るとはな』

 その言葉には、驚きの感情が含まれていた。

 前田は、新幹線の到着時間を告げた。

「会って話がしたい」とだけ言い残し、電話を切った。

 そして翌日――。

 前田は、東海道新幹線ののぞみに乗って、名古屋へ向かった。

 シートに身を沈め、車窓の風景をぼんやりと眺めながら、ゆっくりと流れていく時間に身を委ねる。

 静岡を過ぎ、浜名湖がちらりと見え、やがて車内アナウンスが名古屋の到着を告げたとき、前田は思った。

 ――帰ってきてしまったな。

 新幹線を降り、名古屋駅の新幹線ホームに足を踏み入れた瞬間、懐かしさと緊張がないまぜになった感覚が胸を満たした。

 ここに立つのは新幹線で上京して以来で、そもそも頻繁に新幹線を使うような生活をしていたわけでもない。

 それでも、身体の奥深くに、風景が染みついていた。

 駅のホームを吹き抜ける秋の風に、醤油と鰹節の、どこか懐かしい匂いが混じっていた。きしめんの匂いだ。

 それに気づいたとき、初めて、地元に戻ってきたのだ、と実感が湧いた。

 けれど、その感傷に浸っている時間は、長くはなかった。

 ホームの端で前田が立ち止まったその時、不意に背後から声をかけられた。

「……前田さんか」

 その声に、前田はゆっくりと振り向いた。

 五十代前半とおぼしき男が、ホームの柱の陰に立っていた。

 灰色の背広を着込み、角ばった肩がやや前に傾いている。

 髪は短く刈られたスポーツ刈り。顔には深い皺と、内に秘めた凶暴性が浮かんでいた。

 まさしく、報告書の写真にあった鬼頭亮市その人だった。

「鬼頭さんだな」

 対面してすぐ、前田が確認の言葉を投げかけると、鬼頭はほんの僅かに顎を引き、応じた。

「用件はなんだ?」

 鬼頭の声は低く、喉の奥で燻るようだった。

 前田は、サングラスを外さなかった。

 こんな場所で知り合いに見られでもしたら、面倒なことになる。

 それに、鬼頭の目に、15年前の罪の亡霊のように映るのはごめんだった。

 鬼頭は、かつて裏社会を牛耳っていた男の独特の空気を、いまもまとっていた。

 5年前に引退したとはいえ、そのわずかな月日では、積み重ねた修羅場が消えるはずもない。

 彼の所作一つひとつに、相手の動きを一手先で読むような鋭さが残っていた。

「15年前にニュースの映像で顔を見た事がある程度だが、あんた、今は堅気じゃないな」

 鬼頭が吐き捨てるように言った。

「この15年、散々泥水を啜ってきたんでね」

 前田が軽く返すと、鬼頭の眉が一瞬だけ動いた。

「仕返しにでも来たのか?」

 鬼頭の視線が鋭くなる。

 ホームには観光客らしいグループの笑い声が響いていたが、ふたりの間には別世界のような張り詰めた空気が流れていた。

「昔の話を、少しだけさせてくれ」

 前田の声は穏やかだったが、腹の底に隠された何かが、言葉の端に滲んでいた。

 鬼頭は煙草を取り出したが、ホームでは吸えないことに気づくと、苛立たしげにそれをしまい、低くうなずいた。

「じゃあ場所を変えるか。……15年前の亡霊と、少しだけ話をしてやるよ」

 ふたりは改札口へ向かって歩き出した。

 その背中を、夕暮れの西日が長く照らしていた。


 改札を抜け、駅ビルの喧騒を背にしてからも、鬼頭は終始無言だった。

 その背中は、かつての武闘派若頭の威圧感をいまだに滲む。反面、時折見せる咳払いや足取りの重さに、5年という歳月が彼から何かを確実に奪っていることも窺えた。

 駅近くの小さな喫茶店に入ると、鬼頭は角の席を選び、壁を背にして腰を下ろした。まるで何かあった時に背後から襲われないようにという習慣が、いまだに染みついているのだろう。前田も向かいの椅子に静かに座った。

 店内は時間帯のせいか空いており、BGMのピアノジャズがかすかに耳に残るだけだった。

 前田は水のグラスに指をかけながら、少しだけ息を整えた。そして、まっすぐ鬼頭の目を見て、核心を突いた。

「15年前の真相を知りたい。上永課長をやったのは誰だ?」

 鬼頭の眉がわずかに動いた。沈黙が数秒、空気を濃くした。

 それは驚きではなく、むしろ“来るべき問いが来た”という予感に対する反応だった。

「……それを聞くために、わざわざ名古屋まで戻ってきたってわけか」

 前田は頷き、グラスの水を一口含んだ。

 実は、この問いをぶつけるのは初めてではなかった。

 3年前、前田はすでに、真実のほとんどを手にしていた。

 きっかけは、牧田に自らの素性を明かし、調査を依頼したあの夜だった。

『前田さん、正気ですか? 政治家と暴力団が関わった贈収賄事件で、しかも“自殺を装った転落死”の真相を探るなんて、俺が消されますよ』

 牧田は、まるで火の玉を素手で掴むような表情でそう言い放った。

 彼の言葉はもっともだった。何の後ろ盾もない、歌舞伎町の探偵が手を出すには、あまりにも危険すぎる案件だった。

 だが、前田は引かなかった。

『頼む。俺には、あれの真相を知る義務があるんだ』

 その訴えに、牧田はしばらく腕を組み、口をへの字に曲げたまま沈黙していた。

 そしてふと何かに気づいたように顔を上げ、言った。

『……古い知り合いに、名古屋で探偵業やってる奴がいます。半分ヤクザみたいなもんだけど、筋は悪くない。そいつに頼んでますよ』

 ――結果、その“半ヤクザ探偵”は、極めて有能だった。

 彼が集めた情報によれば、上永課長を突き落としたのは、当時斎藤連合に属していた三人の若い組員、浅野圭一、猿渡淳史、佐々木冬馬。

 しかも、その犯行の直接的な指示は、斎藤連合会長・斎藤一馬から出されたものだった。

 依頼主は――

 富沢議員の第一秘書、本田与志雄。

 上永が警察に喋ることを恐れて、口封じのために殺害を指示した、ということだった。

 だが、関係者三名はすでにこの世にいなかった。

 浅野は覚醒剤の常用により精神を病み、自ら命を絶った。

 猿渡は、夜中のラーメン店で酔った客と揉め、ナイフで刺され死亡。

 佐々木は、高速道路で高級車を暴走させ、事故死。

 まるで何かに取り憑かれたように、三人はそれぞれ別々に死を迎えていた。

 前田は、報告書に記されたそれらの情報を疑っていたわけではなかった。

 だが、机上の資料ではなく、あの事件の空気を吸っていた当事者の口から真相を確かめたい――そう思ったのだ。

「確認の為に聞いているだけで、真相は知っている」

 前田のその一言は、乾いた空気を切り裂くように、テーブルの上に落ちた。

 鬼頭は、その声音にふと眉を動かし、僅かに身を乗り出してきた。

 疑念と警戒、そしてわずかな焦燥が、その眼差しに滲んでいた。

「……あんた、本当に真相を知っているのか?」

 低く押し殺した声。

 それは前田が“かまをかけている”のではないかという、直感的な防御反応だった。

 前田は、静かに鬼頭の目を見返した。

 すでに腹は決まっていた。かつて一線を越えた人間と、心の探り合いをする余裕など、彼にはもうなかった。

「犯人は浅野圭一、猿渡淳史、佐々木冬馬の三名。指示を出したのは斎藤会長。口封じを依頼したのは、富沢の第一秘書、本田与志雄」

 淡々と、だが力強く、前田は語った。

 一つひとつの名前が宙に放たれるたび、鬼頭の顔の筋肉が徐々に硬直していく。

 そしてついに口元が引き攣るように止まり、目は薄く見開かれていた。

 数秒の沈黙が流れた。

「……何故知りたい?」

 ようやく発せられた言葉には、戸惑いと困惑、そしてわずかな恐れがにじんでいた。

 鬼頭は未だ、前田の“目的”を掴みかねていたのだ。

 それは当然だった。名古屋という街を、15年越しに訪れ、過去の墓を掘り返そうとする理由など、常人には想像し難い。

 だが、前田にしてみれば、胸にしまってきた思いを語る必要など微塵もなかった。

 余命を宣告された身体。崩れかけた時間の中で、最後にどうしても決着をつけておきたかった。

 だがそれは、あくまで自分の問題。

 目の前の元ヤクザに語る義理はなかった。

「もう死んでるんだから、復讐のしようなんてないだろう」

 乾いた声で、前田は肩を竦めるように言った。

 それを聞いた鬼頭は、一瞬ぽかんとし、それからふっ、と息を吐くように笑った。

「それもそうだな」

 まるで張り詰めていた縄が緩んだかのように、鬼頭の顔に微かな安堵の色が浮かんだ。

 表情に陰りは残るものの、それはかつての血気盛んな若頭ではなく、過去に囚われた一人の老いた男のそれだった。

 そして――鬼頭は語り始めた。

 かつて斎藤連合の幹部として、いかに会長の意を汲み、部下を動かし、暴力の世界に身を投じてきたか。

 上永課長が命を落としたあの夜、どこで誰が何をしていたか。

 佐々木が高速を暴走するようになったきっかけ。

 猿渡が暴力に依存するようになった経緯。

 浅野が覚醒剤に堕ち、誰にも見向きもされず死んでいった寂しい末路。

 そして、斎藤会長が“口封じの仕事”を“事務的”に捌く姿――その全てを、鬼頭はあくまで淡々と語った。

 それは懺悔でもなければ、自己弁護でもなかった。

 ただの事実の羅列。しかしその語り口からは、15年間、彼の内に沈殿してきた重さが滲み出ていた。

 前田は一言も発さず、じっと聞いていた。

 まるで、静かに祈るかのように。

 やがて鬼頭が語り終えると、前田は椅子から立ち上がった。

 パンツのポケットから財布を取り出し、中から千円札を一枚、静かに取り出して、テーブルに置いた。

「聞きたかったのは、それだけなんだ。……失礼するよ。ありがとう」

 短く、しかし深く礼をして、前田は踵を返した。

 喫茶店の扉が開き、街のざわめきと冷たい風が一瞬吹き込んだ。

 鬼頭はその背を、黙って見送った。

 その背中が完全に視界から消える寸前、彼はようやく口を開いた。

「……何が目的か知らないが、あまり滅茶はするんじゃないぞ」

 その声には、不思議な余裕があった。

 肩の力が抜け、表情にもやっと人間らしいものが戻っていた。

 ――つまり、鬼頭は恐れていたのだ。

 前田がかつての“報い”を果たしに来たのではないかと。

 復讐、あるいは内部告発、もしくは何か別の形の破壊。

 だが、前田はただ真実を確かめに来ただけだった。

 それが彼にとって救いだったのかもしれない。

 静かな店内に再び、ピアノの旋律が流れ始める。

 鬼頭はふっと目を閉じ、背もたれに身を預けた。

 テーブルの上には、前田が置いていった千円札が、音も立てずに揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ