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癌、ステージ4、余命半年

【登場人物】

前田通康 主人公。40代の男性。15年前の贈収賄事件で逮捕、罪を被って服役。

真由美 前田の元妻。

翔太 前田と真由美との間に生まれた子供。

川崎義道 15年前に前田が勤めていた川崎建設の当時の社長。

上永秀直 名古屋市役所の課長。15年前の贈収賄事件のキーマンで事件時に転落死。

富沢豊愛知県議 提灯禿げの63歳、目がぎょろり、猪首の見るからに助平爺、実業家。

ゆり 富沢の愛人。贈収賄事件のあった当時は28歳のキャバ嬢。

山岡勝邦 15年前の贈収賄事件と関係している愛知県知事。

内藤秀隆 15年前の贈収賄事件と関係している衆院議員。愛知県選出。

高塚平治 15年前の贈収賄事件と関係している参院議員。愛知県選出。

牧田慎二 前田の知人。新宿・歌舞伎町の片隅で探偵業を営む。

 前田は、ここ暫く、原因のわからぬ倦怠感に悩まされていた。

 朝起きると、身体が鉛のように重く、頭の芯がぼんやりと霞んでいる。

 食欲もない。夜も眠れない。

 もともと体の強い方ではなかったが、そんな前田にしても、これはおかしいと感じるようになっていた。

 近所の個人内科を訪ねたのは、ある曇った午後だった。

 年老いた医師は聴診器を胸に当てながら、眉をひそめた。

「これは、専門医の診察を受けた方がよいでしょう」

 そう言って、東京医科大学病院への紹介状を手渡した。

 数日後、大病院で精密検査を受け、前田は静かに告知を受けた。

 癌だった。

 しかも、すでにステージ4。転移も進んでおり、余命は半年――。

 医師の口調は冷静で、抑揚がなかった。

 だが、前田には、その言葉が頭の中で水滴のように何度も反響した。

 半年、という言葉が、目の奥で赤い光のように点滅していた。

 予想外ではなかった。

 だが、やはり――それは、静かな衝撃だった。

 ホスピスへの入院を決意したのは、それから間もなくだった。

 延命治療には意味がないと医師に言われ、本人もその道を選ばなかった。

 死を拒まず、逃げず、ただ穏やかに迎える場所として、緩和ケア病棟の静かな一室に身を置くことにした。

 そこから、前田はふと、人生の帳尻をつけることに意識を向け始めた。

 まず浮かんだのは、田所の顔だった。

 東京に出て来た直後、仕事も住まいもなく、行き場を失っていた自分に手を差し伸べてくれた男。

 口は悪いが、面倒見がよく、誰よりも前田の過去を詮索せず、必要以上に距離も置かず、近すぎもせず、絶妙な距離で接してくれた。

 ――何か、返したい。

 その思いが胸に浮かび、前田は田所に尋ねた。

「俺に、何かできることはありませんか」

 田所は少し躊躇いながらも、「そうだな……」と呟いた。

「実は、家のリフォームをしたいと思っててさ。古くなってて、雨漏りもあるし、でも金がなくて後回しにしてたんだ」

 前田は、すぐに資金援助を申し出た。

 田所は何度も遠慮したが、最終的には深く頭を下げて受け取った。

 田所さんには世話になった、と言おうとした前田の言葉を、田所は手で制して、「恩なんて、返さなくていい。だが、ありがとうな」とだけ言った。

 前田は、心が少し温かくなるのを感じた。

 その後も、彼は少しずつやり残したことに手を伸ばしていった。

 長年の憧れだった、ミシュランガイド掲載の鮨処『喜楽』で寿司を味わった。

 職人が握るその一貫一貫が、どこか人生の縮図のように思えた。

 艶やかなマグロ、炙りの香ばしさ、シャリの温もり。

 食とは、ただの栄養ではなく、記憶と感情の結晶だ――そう思った。

 さらに、三国志が好きだった若き日の夢を叶えるため、中国への旅にも出た。

 長坂坡、五丈原、赤壁――劉備、関羽、諸葛亮の魂が息づく場所を一人歩きながら、かつて持っていたロマンの残り火に、そっと手をかざした。

 死を目前にして、彼は不思議なほど、世界が美しく見えることに気づいた。

 秋の空、濡れた石畳、異国の屋台から立ち上る湯気。

 生の最後の数ページを、前田は確かに味わっていた。

 一つ、また一つ。

 消していく【しておきたいこと】のリスト。

 それが空欄に近づくにつれ、前田の心には、最後の一つだけが、重く残った。

 15年前の過去との決着。

 息子のこと。真由美のこと。

 あの街に置いてきた、自分自身の影と、嘘と、赦し。

 名古屋という名を目にするだけで、胸がざわついた。

 あの街の土を踏むだけで、関係者達に波紋を投げかけるかもしれない。

 多くの関係者達の人生を、死を前にした独りよがりの感情で揺るがせていいのか。

 前田は、何度も自問した。

 悩み、逡巡し、日々は静かに過ぎた。

 カーテン越しに射し込む光が、少しずつ季節の変わり目を告げていく。

 自宅の居間のカレンダーを何気なく見た時、そこには「10月31日」という数字があった。

 どこかの記憶に引き寄せられるように、前田の胸がかすかに疼いた。

 自分が逮捕され、人生が暗転した始まりの日……。

 その数字を見た時、前田はようやく、重い腰を上げる決心をした。

 前田は、ひとつ息を吐いて、窓の外を見つめた。

 秋の空は高く、どこまでも澄んでいた。

 前田は、名古屋を離れてから、過去を封じるようにして生きてきた。

 電話帳の連絡先をすべて消去し、年賀状も受け取らぬよう転送を止め、誰とも連絡を絶った。

 あの街で関わったすべての人間と、縁を切ったつもりだった。いや――縁を切ることしか、あの時の彼にはできなかったのだ。

 地元の人間と完全に関係を断っていた前田にとって、今、名古屋で誰がどこで何をしているのかなど、知る術もなかった。

 だから、頼ったのが、知り合いであり、新宿・歌舞伎町の片隅で探偵業を営む牧田慎二だった。

 牧田の事務所は、雑居ビルの五階にひっそりと存在していた。

 看板もなく、呼び鈴も壊れていた。ドアには『牧田探偵事務所』とプラスチックのプレートが雑に貼ってあるだけだ。

 中に入ると、タバコの匂いが染みついた部屋で、牧田はスウェット姿のまま、ソファに足を投げ出していた。

 その顔を見た瞬間、前田は思った。

――相変わらず、やばい顔してるな。

 頬はげっそりと削げ、目の奥には落ち着きのない光がちらついている。

 皮膚は黄ばんでおり、まるで長年の不摂生がそのまま形になったようだった。

 牧田は若い頃から裏社会と縁があり、情報屋まがいのことをしながら、表向きは探偵業を営んでいた。

 警察とは敵対しつつも必要な時は癒着し、反社とは距離を置きつつも時には協力する――境界線の曖昧な世界に生きる、いわゆるごろつきだった。

 前田が調査の依頼を切り出すと、牧田は目を細めて、じっと見つめ返してきた。

「まさか復讐の下調べとかじゃないですよね?」

 そう言って、口元だけで笑った。

「そういうの、違法なんで」

 前田は、乾いた笑いを漏らした。

(どの口が言ってんだか)

 この男ほど、違法なことを日常にしている人間も珍しい。

 薬物の噂も絶えず、実際、その神経質な挙動と瞳の焦点の合わなさからして、完全にシロとは思えない。

「違うから安心しろ」と前田は短く答えた。

 事実、復讐するつもりなど毛頭なかった。ただやり残したことを片付けておきたいだけだ。

 やったからといって、何が変わるわけでもないことはわかっている。

 それでも――死ぬ前に、心残りをなくしておきたかった。

 しかし牧田は、目を細めたまま信用せず、「前田さんのお願いだったらやらなくもないですが」と、目をそらしながらぼそりと言った。

 その態度が、前田の癪に障った。

 まるで自分が今にも爆発しそうな爆弾か何かのような扱いだった。

 だが、怒る気にもなれなかった。

 むしろ、そんな胡散臭くも義理堅い男に頼れる状況であったことに、どこか安堵すら感じていた。

 牧田が調査を始めるのを見届けると、前田はもう一つ、未練がましい気持ちを処理しようとした。

 15年前に絶縁した両親に、一度だけ連絡してみようと考えたのだ。

 彼の実家は、当時まだ固定電話しか使っていなかった。

 まだ固定電話を使っていて、あれから番号が変わっていなければ、繋がる可能性があった。

 迷った末、携帯を手に取り、番号を打ち込んだ。

 プルル、プルル――

 数コールののち、懐かしい声が受話器の向こうから聞こえた。

 母親だった。

『……もしもし?』

「……母さん、俺だ。前田だ」

 その瞬間、受話器の向こうに重い沈黙が走った。

 やがて、氷のような声音が返ってきた。

『……あんたのことは、もう子どもだと思っていない。私たちには関係のない人間だ。今さら、どんな理由があっても無理。あんたとまだ繋がってるなんて、周囲から思われたら迷惑なの。二度と連絡してくるな』

 そして、通信は一方的に切れた。

 前田は、携帯を見つめながら、しばらく動けなかった。

 冷たくされたことには、驚きはなかった。

 どこかで予想していた結末だった。

 自分が逮捕されたことで、両親がどれほど肩身の狭い思いをして生きてきたのか――風の噂で、少しだけ耳にしていた。

 息子の不祥事は、親の人格までをも疑われるものだ。

 年老いた両親が、それに耐えきれず、地元で孤立していったことは、容易に想像できた。

 彼らは今も、前田が育ったあの地域で暮らしている。

 自分がそこに顔を出すだけで、近所に再び波風を立ててしまうだろう。

 ――会いに行くべきではない。

 前田は、そっと携帯を閉じ、窓の外に目を向けた。

 秋が深まりつつあるマンションの周囲で、わずかに紅葉が始まった樹々が風に揺れていた。

 カサカサと落ち葉の音が、遠くで微かに聞こえた気がした。

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