15年前の贈収賄事件
【登場人物】
前田通康 主人公。40代の男性。15年前、川崎建設に勤めていた。
真由美 前田の妻。
川崎義道 15年前に前田が勤めていた川崎建設の当時の社長。
上永秀直 名古屋市役所の課長。
富沢豊 愛知県議。
ゆり 富沢の愛人。キャバ嬢。
山岡勝邦 15年前の愛知県知事。
内藤秀隆 15年前の愛知県選出。
高塚平治 15年前の参院議員。
前田通康は、年齢のわりに皺の少ない顔立ちをしていた。細身の体に仕立ての良いグレーのジャケットを羽織り、髪の毛にはきちんと整髪料を塗っている。だがその目は、夜の街に慣れた者特有の光と陰とを湛えていた。
彼が暮らすのは、歌舞伎町の奥まった場所にある高層マンションの一室。昼間でも薄暗い廊下を抜け、エレベーターを上がった先にあるその部屋には、白いレザーのソファと大型テレビ、そして無機質なガラステーブルが置かれていた。外から聞こえてくる喧騒は厚い窓ガラスに遮られ、ここではまるで別世界の音に思えるほど静かだった。
カレンダーの数字に目を留めた前田は、ソファにもたれながら、ふと小さく息をついた。
(あれからもう、15年になるのか)
カレンダーには「10月31日」と記されていた。その日付に彼の視線が吸い寄せられたのは、偶然ではなかった。それは、かつての自分の運命を大きく変えた、忘れがたい日だった。
15年前の今日。彼は名古屋市中警察署の取調室にいた。冷たい蛍光灯の下で、鬼のような取調官からの激しい追及を受けながら、現実を受け入れきれずにいた。
――贈賄容疑。
当時の前田はまだ、夜の世界とは無縁だった。名古屋市内に本社を構える川崎建設という中堅の建設会社に勤め、営業部の一員として日々取引先を飛び回っていた。社内では「真面目で融通がきく男」と評され、上司からの信頼も厚かった。
だが、ある日、社長室に呼ばれた。上司ではない、川崎義道社長本人からの直々の呼び出し。そこで命じられたのは、行政との円滑な交渉のための金の受け渡しだった。相手は名古屋市役所の課長――上永秀直。そしてもう一人が、県議会の有力者である富沢豊だった。
「これは仕事の一部だ。お前もわかってるだろ?」
社長はそう言った。拒む理由はなかった。いや、拒める空気ではなかった。渡された封筒をスーツの内ポケットに入れ、無表情を装いながら市庁舎へ向かった。
だが、ことはそれだけで終わらなかった。富沢には、ある問題が燻っていた。夜の街でゆりという源氏名で知られるキャバクラ嬢との関係だった。
ゆりは派手な顔立ちに、濃すぎるほどのアイラインとアイシャドウ。赤黒い口紅が常に唇に塗られていて、髪は光を弾くような金色に染められていた。耳元には大きすぎるフープピアス、手首にはシャネルのブレスレット、そして指にはカルティエのリング。足元はルブタン、バッグはエルメス。これでもかと高級ブランドをこれ見よがしにまとい、堂々と夜の街を歩くその姿は、悪目立ちしていた。
だが、誰も彼女に近づこうとはしなかった。いや、できなかった。
ゆりの性格は、悪評を超えて「災厄」とも言える代物だった。気に入らないことがあればすぐ怒鳴り、他のホステスを陰で貶め、ボーイたちにも高圧的な態度を取る。すれ違いざまに誰かの足を踏もうが平気な顔をして通り過ぎ、気に食わない客には平気で水をぶっかけて出禁にさせる。
美貌は確かだったが、その性格の悪さがあまりにも強烈で、店の中でも「関わるな」が暗黙の了解となっていた。
だが、男の心を弄ぶ術を心得ていて、キャバ嬢としては超一流だった。
富沢が溺れていたのはそんな女だった。
一方の富沢は、63歳、提灯禿げの頭に、ぎょろりとした目、そして首が妙に太く、まるで猪を思わせる女に縁遠い風貌。夜の店では、金さえ出せば女が言うことを聞くと信じて疑わない、典型的な古いタイプの男だった。
政治家でありながら、実業家としていくつかの会社を手掛けていたが、いずれも怪しい噂が絶えなかった。
前田の耳にも、富沢の会社が資金繰りに困っているという話は、ちらほらと届いていた。特にここ数年は、複数の下請けに対する未払いが続き、実態のない事業に金を注ぎ込んでいるという疑念すらあった。
それでも富沢は、女遊びをやめなかった。いや、それしか楽しみがなかったのかもしれない。
前田は、そんな富沢がゆりにかなりの額を貢いでいたと見ていた。実際、ゆりが身につけていた高級品の数々は、彼女の収入からして不自然なほどだったし、彼女が暮らす高級マンションも、富沢が買い与えたものだという噂が業界内に流れていた。
だが、そんな関係も永遠ではなかった。
問題は、別れ際だった。富沢は、ゆりに手切れ金として金を渡そうとした。だが、それはゆりの期待を大きく裏切る額だったのだろう。
ゆりはそれを「侮辱」と受け取った。そして、その怒りが、やがて破滅をもたらす引き金となった。
――手帳を盗んだのだ。
富沢がある晩、ゆりのマンションに泊まったときのことだった。彼はスーツケースを部屋の隅に置いたまま、バスルームに消えた。その隙を、ゆりは逃さなかった。
彼女はスーツケースのダイヤルロックを慎重に操作し、蓋を開け、中にあった黒革の手帳を取り出した。そこには、贈収賄に関する詳細な記録が残されていた。
前田の名こそ伏せられていたものの、日時、場所、金額、さらには一部の役人の名前まで記されていた。金に糸目をつけない性格と反比例するように、富沢は妙に几帳面な性格をしていた。証拠としては、致命的なほど完璧だった。
数日後、ゆりはそれを持って、警察署を訪れた。
最初は取り合われなかったが、手帳の内容を見た担当者の顔色が一変したという。
彼女は、泣き真似などしなかった。ただ「私も脅されていた」と語り、感情を込めることなく、まるで台詞のように情報を語った。だが、表情の裏にある復讐の炎は、明らかだった。
だが、ゆりは――美貌と悪意に満ちたその女は、決定的に愚かだった。
確かにゆりは自分の復讐を果たしたのかもしれない。だが、彼女が突き刺したその刃は、あまりにも無防備だった。
彼女は、自分が踏み込んだ領域の深さも、そこに棲む獣たちの恐ろしさも、何ひとつ知らなかったのだ。
前田が勤めていた川崎建設――表向きは公共事業に強い中堅企業。だが、裏では多くの政治家に金をばらまくことで、絶えず入札の利権を得ていた。
贈賄先は富沢一人ではなかった。むしろ、富沢などは枝葉」過ぎなかった。
金の流れの本流には、山岡勝邦――愛知県知事。政界の重鎮であり、土地開発とインフラ整備を盾に利権を吸い上げる怪物のような存在。そしてその背後には、衆議院の内藤秀隆、参議院の高塚平治といった、国政にまで及ぶ大物たちの影があった。
ゆりが差し出した手帳の内容には、表向きの個人名しか記載されていなかった。それが彼女の浅はかさだった。
だが、手帳の存在そのものが問題だった。それは、この金の流れが表沙汰になる可能性があるという事実を意味した。
その瞬間、何かが静かに動き始めた。
やがて警察の捜査が始まり、まず名古屋市役所の上永課長が、屋上から飛び降り自殺した。
新聞では”心労による自殺”と報じられたが、それを信じる馬鹿はいない。
自殺に見せかけた他殺で、後日、上永の遺族には莫大な金が支払われ、税金のかからない裏金だった、その出どころは……富沢だった――これが事件発生当時に界隈を流れていた噂だった。
そして、上永が自殺した当日の早朝。
前田は、いつものように通勤のため、最寄りの駅のホームに立っていた。
始発に近い静けさの中、誰かの気配がすぐ耳元に忍び寄った。
『上永みたいになりたくなかったら……黙っとけ』
耳元で、男の声が低く呟いた。
前田は反射的に振り向いたが、そこにいたのはユニクロのジャケットを着た男の背中。何の変哲もない通勤客のような姿で、男は改札に向かって歩き去っていった。
だがその背中からは、ただならぬ「気配」が滲み出ていた。
これは、警告――いや、脅迫だった。
そのまま会社に出社すると、すぐに社長室に呼び出された。
前田がドアを閉めると、社長の川崎義道は口早にこう切り出した。
『……前田。うちの件以外は、一切喋るな。わかってるな?』
前田が何か答える前に、社長は続けた。
『全部、お前が勝手にやったことにしろ。独断で、誰にも相談せずやったって、そう言え。心配すんな、家族のことは俺が責任持つ。……安心してくれ』
その口調には、妙な柔らかさがあった。まるで親が子をなだめるような――だがその奥には、鋭利な刃が潜んでいた。
前田は黙ったまま、社長の目を見つめていた。だが、その時感じたのは、得体の知れない吐き気だった。
そして、社長はにやりと笑った。
『……指示に従わなければ、どうなるか。わかってるだろう?』
その笑みは、人の命など、紙切れほどにも思っていない者のそれだった。
前田の脳裏をよぎったのは、朝のホームでの囁き、そして、上永が落とされたという話だった。
家族の顔が思い浮かんだ
――逆らえば、巻き添えになる。
だから前田は、黙って頷いた。
そして警察に逮捕されたとき、自分が管理職としての権限を使って、全て独断で行ったと供述した。
上永と富沢以外のことは、徹底して「知らぬ」「存ぜぬ」で通した。
社長や、政治家たちの名前が出ることは一度もなかった。
そうして、前田は裁判で3年の実刑判決を受けた。
刑務所の中で、時間だけが過ぎていった。
彼の沈黙は、あらゆる意味で「正解」だった。
だが、失ったものもあった。
前田は、全てを背負った。罪と、恐怖と、裏切りと、孤独を。